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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第5話 試せます、返せます、直せます

 差押えまで、あと九十五日。


 三日という時間は、王宮では短いとも思わなかった。


 式典の花が届かなければ別の温室を当たり、招待客が増えれば席次を詰め直す。絨毯の染みを一刻で隠したことさえある。けれど、金貨二枚と銀貨十二枚で、古い鉄枠と継ぎ合わせの防炎布を安全な試用区画へ変えようとすると、三日は驚くほど薄かった。


 七階から下ろした鉄枠を一階の帳場脇へ四角く組み、割れのない防護硝子を二面に嵌める。残りの二面へ張った防炎布は色が揃わず、深緑と褐色が大きな継ぎの跡を見せていた。床には、客が逃げるための赤い線、次の人が待つ青い線、停止した道具を置く黄色い線が走っている。


「百貨店の売場というより、仕立屋の余り布入れですね」


 マルタが深緑の布の端を摘まんだ。


「安全が、美しい店だけに許されるものでなくて幸いでした」


「その台詞は、王宮でもお使いになって?」


「王宮の継ぎ布は、花で隠します」


 花を買う金はないので、ここでは縫い目も留め具も露わなままである。ボルクは七階と一階を十七往復し、古い硝子を一枚ずつ運んだ。ニナは鉄枠の足元へしゃがみ込み、使える隅金を選んでいる。その背後の柱には、自分で書いた資格表示が掛かっていた。


『交換可能――絞り板、外装留め具、低危険度の出力輪』


『交換不可――魔力核、圧力部、温熱器具の内部』


「見習い、とここまで大きく書かなくても、できることを読めば分かると思うんです」


 墨が乾いてから三度目の訴えだった。


「分からない方が一人でもいるなら、書く必要があります」


「親方がいた頃は、名前だけでよかったのに」


「親方と同じことを頼まれて、断るたびに失望されるよりはよいでしょう」


 ニナは不服そうに筆を取り、『見習い』の下へ小さく線を引き足した。消すのではなく目立たせるあたりが、彼女なりの意地らしい。


 午後の鐘を待たず、アルノルトは再監査に来た。


 灰色の外套は前回と変わらず、襟に埃一つ付いていない。私たち四人は朝から鉄錆と煤にまみれていたので、その端正さが少し腹立たしかった。彼は挨拶を済ませると囲いへ入らず、まず正面扉から赤い退避線までを歩いて測り、硝子の留め具を一つずつ引いた。


「試用者が驚いて、こちらへ倒れた場合は?」


「青線の内側へは一人しか入れません。店員が左側から支えます」


 私が答えると、アルノルトは防炎布の端からこちらを見た。


「試用者が左利きでも?」


 ニナが資格表示の裏に、右側から支える場合の立ち位置を書き足す。彼はそれを見届けても頷かず、今度は布の裾へ指を滑らせた。


「床との隙間は、結界師が塞いだと聞いています」


「確認します」


 黒い小箱から、試験用の魔石が取り出された。青い硝子玉ほどの石をアルノルトが台へ置き、細い金具で弾く。赤い火花が四方へ散り、三つは硝子と布に触れて消えた。


 残る一つが、鉄枠の下をくぐった。


 ボルクが踏み消そうと足を上げるより早く、アルノルトの手が動いた。黒い蓋が床へ伏せられ、その下で火花が小さな音を立てて死ぬ。磨かれた靴の爪先から、ほんの指一本ほどの場所だった。


「不合格です」


 その一言で、徹夜に近かった三日の疲れが急に肩へ戻ってきた。ニナが唇を開き、結界師の施工証明は正しいと言いかける。私は彼女を止めずに、時計を見た。


 アルノルトも同じ時計を確かめている。


「期限までは、あと二時間十一分あります。二度目の検査を受けるなら、午後の鐘の前に申請してください」


「修正する箇所を、教えてはいただけませんか」


「火花が抜けた箇所は、お見せしました。材料と施工方法を決めるのは、監査局ではありません」


 いっそ意地が悪ければ、腹を立てる方へ力を使えたのに、彼は冷たいほど正しかった。


 私たちは七階へ駆け上がった。息を切らして修理卓の下まで探り、古い木箱から幅の合う隅金を外す。ボルクが鉄枠を持ち上げ、ニナが隅金を床へ打ち込んで魔力を通すと、金属の縁から薄い膜が伸びた。針を押し込んでも通らないことを四辺すべてで確かめ、私は二度目の申請へ署名した。


 再び弾かれた試験石は、四つの火花を散らした。


 今度は一つも外へ出なかった。防炎布の内側で赤い光が瞬き、霜が解けるように消えていく。


 アルノルトは合格欄へ印を押した。


「低危険度品の試用販売を許可します。温熱品、圧力器具、刃物については、品ごとに停止の手順を掲示してください。再開日はいつにしますか」


「七日目に」


 問い返すように、彼の眉がわずかに動いた。


「明日から営業できますが」


「囲いが火を止めることは分かりました。中にいる私たちが何をするかは、まだ一度も試していません」


 彼は何も言わず、許可証の再開日へ第七日と記した。乾きかけた印の朱色が、白い紙の上でひどく鮮やかだった。



 第六日、店は一つも売らなかった。


 正面扉には『安全訓練のため休業』と掲げた。わざわざ覗きに来た人の何人かは呆れた顔で帰り、一人は開いたばかりなのにもう休むのかと笑った。笑い声が硝子越しに聞こえるたび、金貨八枚という一日の目標が頭に浮かんだが、札を裏返すことはしなかった。


 ニナが最初の客役になり、説明の途中で突然《宵待ち灯》へ手を伸ばす。マルタは右側へ倒れたふりをし、ボルクは水桶を取りに行ったまま青線を塞いだ。私は停止札と客の腕を同時に掴もうとして、どちらも取り落とした。


 四人とも一つの事故へ駆け寄り、逃げ道だけが空になる。


「火より、わたしたちの方が危ないですね」


 床へ寝転んだマルタを見下ろし、ニナが言った。


「その評価には同意いたします。ただ、そろそろ起こしてくださる? 床が冷えます」


 二度目からは、停止する者、客を退かせる者、周囲へ声を掛ける者、水や防炎布を取る者に分かれた。役は固定しない。誰かが休み、誰かが先に怪我をしても、残った者で動かなければならないからだ。


 ボルクが客役をした三度目には、彼はわざと聞こえないふりをした。マルタが声を張り上げるほど穏やかに微笑むので、肩を二度叩く停止合図を決める。次にはニナが火傷したふりをしながら、大丈夫だと何度も言い張った。私は患部を確かめず本人の言葉を信じて失敗し、マルタは貴族令嬢へ命令するのを躊躇して時間を失った。


「今は店主です。危険な場所に立っていたら、引きずってでも退かせてください」


「あとから不敬を訴えられても困ります」


「その時は私が証言します」


「訴えるご本人の証言は、あまり頼りになりませんね」


 四度目には、皆が少し早く動けた。午後には果実水をわざとこぼし、滑る床での誘導も試す。訓練を終えた時、赤い線の一部は靴底に擦られて薄くなり、私の肘には青い痣ができていた。帳簿の売上欄へゼロと書き、冷たい布を肘に当てていると、停止の合図で肩を叩いたボルクの手の重さが蘇った。出口とは逆へ逃げたニナをどう回り込んだかも、目を閉じればまだ足の裏に残っている。



 第七日の朝、まだ開店の鐘も鳴らないうちから、マルタは帳場を磨いていた。


「昨日で、延ばした一日は終わったはずですが」


「棚を売場へ変える仕事は、客が帰り、売上を数えるまで終わりません」


 退職届は今日も帳簿の下にある。それが嬉しいと口にすれば、彼女はすぐに紙を出してしまいそうだったので、私は見なかったことにした。


 三枚の札を正面扉の内側へ掛ける。


『試せます』


『七日以内なら返せます』


『合うように直せます』


 その下へ、少し迷ってから、もう一枚を足した。


『買わなくても構いません』


「商売をなさる気があるのか、疑われますよ」


「私も時々、疑っています」


 扉を開けると、真鍮の星が一つ鳴った。音が消えるより先に、ハンナから話を聞いた針子が二人入ってくる。そのあとには、窓の札を三日間眺めていたという老人と、《宵待ち灯》を見たい学生が続いた。


 通りを埋める行列には程遠い。けれど暗かった一階の床へ、濡れた靴跡が増えていく。袖を寄せた客同士の小声、箱の蓋が開く音、試用票をめくる紙の音が重なり、店の空気がゆっくり温まった。


 マルタは客の用途と予算を聞き、ニナは資格表示を指しながら調整できる範囲を説明する。ボルクは使い終えた見本を黄色い線の内側で拭き、販売する品と混ざらないよう棚へ戻した。私が一つずつ指示しなくても三人が動く様子は、不思議なほど心許なく、それ以上に頼もしかった。


 昼前、大きな銅鍋を抱えた男が入ってきた。髪から靴まで小麦粉にまみれ、扉の取っ手にも白い指跡を残す。


「パン工房のクルトだ。《煮守り鍋》を試せる店があるって聞いた。果実餡を焦がすたび、うちのかみさんに鍋より俺を先に捨てるぞと言われる」


 マルタが笑いを堪えて咳払いした。


「何を、どのくらい煮ますか」


「この鍋で八分目だ。窯も生地も見なきゃならんから、餡に張りついてはいられない」


「混ぜる手は、いつも右ですか」


「生地を抱えていれば左も使う。試す材料は持ってきたよ。失敗したら、今日の菓子パンが半分減るがね」


 クルトは琥珀色の果実煮を詰めた瓶を掲げた。金貨を払う前から、自分の商売を賭けている顔だった。


 ニナが《煮守り鍋》を三種、試用台へ置いた。高出力の新型は、工房の炉につなげば窯と魔力を奪い合うとクルト自身が退けた。二つ目は細かな火力調整ができ、右手でゆっくり木匙を動かすうちは、果実の泡を艶やかに潰していった。


「いいな。これなら窯を見ている間も――」


「普段のお仕事と同じ速さでお願いします」


 私は小麦粉の袋を台の脇へ置いた。クルトは左腕でそれを抱え、右手を速める。次には袋を持ち替え、左手で鍋を掻き回した。


 鍋底の火力石が赤く染まった。


「停止してください」


 クルトが停止輪へ手を伸ばした時、煮立った泡が一気に盛り上がり、輪を覆い隠した。


 ニナが両側に置いた停止札の一つを叩く。私はクルトの肘を掴み、赤い線の外へ引いた。マルタが蓋を滑らせ、ボルクが防炎布の裾を靴で押さえる。


 赤い果実と甘い湯気が、防護硝子へ激しく咲いた。


 客たちの悲鳴が上がる。囲いの外へは一滴も飛ばなかったが、硝子の向こうで泡がゆっくり落ちていく光景に、誰もすぐには口を開けなかった。


 私はクルトの手と腕に火傷がないことを確かめ、正面札を一枚だけ裏返した。


『温熱品の試用を一時停止します』


「俺が、速く混ぜすぎたのか」


 クルトは小麦粉の付いた額を拭った。


「いつもの使い方をしていただきました。鍋が、速い攪拌を温度不足と読み違えたようです」


「右手でゆっくり混ぜた時は平気だったぞ」


「お忙しい時に、左手でも速く混ぜられる品をお探しだったのでしょう?」


 彼は硝子へ貼りついた果実を見て、諦めたように息を吐いた。


 使った瓶半分の材料代は店が負担すると伝え、《煮守り鍋》へ販売停止札を結ぶ。試用票には、左右の手、攪拌の速さ、泡によって停止輪が隠れたことを記した。原因を確かめるまで、品は製作者への返送箱から出さない。


 囲いの外にいた一人は、そのまま店を出ていった。別の女性が、不安げに《宵待ち灯》を指す。


「灯りも止めるの?」


「いいえ。灯具と低危険度品は、今までどおり試せます。止めるのは温熱品だけです」


 失敗を見ていた老人は帰らず、新聞を持って《宵待ち灯》の前へ座った。文字の一列しか照らせず、自分には細すぎると分かって買わなかったが、試用票へ『新聞を両手で広げたい』と残してくれた。


 クルトも、火の弱い旧型をもう一つ試した。焦げはしないものの、餡が煮上がるまで普段の倍かかる。


「購入なさいますか。調整を待ちますか。それとも、今日は何も買わずに帰られますか」


「買わない。昼のパンを減らす鍋なら、焦がすのと変わらん」


 彼は使い慣れた焦げ跡だらけの鍋を抱え直した。


「だが、いつもの速さで混ぜろと言った店は初めてだ。直せたら知らせてくれ。今度は、かみさんも連れてくる」


 銅鍋を抱えた背が出ていく。銀貨は置かれなかったが、赤い染みの残る硝子の向こうに、昨日までは知らなかった失敗の形があった。



 事故報告を受け取ったアルノルトは、夕方には店へ戻ってきた。


 汚れた防護硝子と停止札を確認し、訓練記録の時刻を読む。赤い線の外側に残った果実の飛沫まで探したあと、彼は囲いの内側へ入り、停止札の位置で足を止めた。


「囲いは機能しています。客の退避も規定時間内です」


 合格だと思った私の前で、彼は黄色い線を指した。


「停止札が店員側にしかありません」


「操作するのは店員です」


「最初に倒れたのが店員なら、客には止められない」


 新しい是正票が一枚増えた。温熱品は停止札を両側へ置き、客へ最初に停止方法を知らせること。左右どちらからでも退避を助けられるよう、全員で再確認すること。


「明朝、第八の鐘に見ます」


 アルノルトは違反の印を押した同じ紙へ、再検査の時刻まで書き込んだ。


「売場全体を閉める必要は?」


「ありません。灯具や低危険度品を止める理由がない」


 私は売場中の札が裏返される光景を覚悟していた。しかし、アルノルトのペンは温熱品の欄を越えなかった。閉じるべき場所だけを閉じて帰ろうとする横顔を見ていると、胸を締めていたものが、理由もなく少し緩んだ。


 受け取った是正票へ目を落としたふりをしていると、黒い手袋をはめた指が視界から離れた。


「明朝までに直します」



 初日の売上は金貨四枚と銀貨七枚、粗利は金貨一枚と銀貨九枚だった。一日金貨八枚の目標には遠く、温熱品を止めた半日の機会と、クルトへ返す材料代もある。


 閉店後の帳場には、四枚の新しい返品票と二件の修理預かり票が残った。買わなかったクルトと老人の試用票も、売れた品の記録と同じ綴りへ入れる。濡らした布で防護硝子を拭うと、果実の甘い香りだけが一階に漂い続けた。


 そこへ商人組合の使いが、天気予報を届けに来た。


 明日から天気は崩れ、五日後には今年いちばんの大雨になるという。


「屋根倉庫に、白いリボンを結んだ品がありましたな」


 ボルクが在庫表を開いた。室内では一輪も模様を咲かせず、濡らしてはならないと言われて眠っていた《雨花傘》。その数字の欄には、百本とある。


 窓の外では、まだ薄い冬日が差していた。


 私は天気予報と在庫表を重ね、雨の日にだけ開けられる売場を思い浮かべた。


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