第4話 在庫は財産ではありません
初売上の銀貨は、差押えまであと九十七日となった朝、帳場の上で三つの封筒に分けられていた。
六枚は《ヨナス工房》へ、一枚は絞り板に使った銅板の材料代として修理箱へ。残った五枚だけが店の粗利である。小箱そのものには、昨日までの金貨九枚と売上の銀貨十二枚が入っているため、一見すると少し豊かになったように見える。
けれど、指で触れてよい金は、金貨九枚と銀貨五枚しかなかった。
「箱にある金を、すべて使えると思わないでください」
マルタはそう言うと、仕入れ代の封筒を私から最も遠い引き出しへしまった。私が横領すると疑っているというより、店主になったばかりの令嬢が数字を取り違える瞬間を待っている顔である。
「承知しています。ですから、在庫についても同じように考えます」
「在庫を引き出しへ入れるのは無理でございますよ」
「千八百十二点もありますからね」
私は昨日、二階の贈答品売場から見つけてきた五色の細いリボンを、一階の床へ並べた。青、黄、白、灰、黒。どれも昔は包装用だったらしく、白だけが黄ばみ、黒には銀糸の星が織り込まれている。
「青は、今のままで販売できる品。黄色は修理すれば売れるもの。白は壊れてはいないけれど、どんな方に合うのか試さなければ分からない品。灰色は仕入先へ返品か条件変更を交渉するもの。黒は廃棄です」
最後のリボンを拾ったボルクが、太い眉を上げた。
「捨てる物にまで、綺麗な紐を結ぶのか」
「理由を書いた札も付けます。黙って捨てれば、まだ売れそうだと思った誰かが、夜中に拾い直すでしょう」
「書けば、捨てた分だけ資産が減ります」
マルタは抱えていた古い在庫帳を、どさりと帳場へ置いた。
「歴代の管理人は、この目録を担保に融資を受けています。帳簿上は、店に残る最大の財産です」
「では、本当に財産なのか、一つずつ見せていただきます」
言うのは容易だった。是正期限まで三日。千八百十二点を四人で確認するなら、一人一日百五十一点になる。ところが、長く眠らされた魔法道具は、箱を開けて数えれば済むほど従順ではなかった。
最初の棚を終えないうちに、一人の青年が来店した。
薄紫の紙へ包まれた《安眠香炉》を指し、婚約者への贈り物にしたいという。青い硝子には月と銀の雲が刻まれ、値札は金貨十八枚。店にある自由な現金のほぼ二倍だった。
「お相手の方は、同じ香りを試されたことがありますか」
「贈り物ですよ。先に見せたら、驚かせられないでしょう」
「眠りを誘う品は、合わない方には頭痛や吐き気が出ます。今は試用区画を閉じていますから、ご本人に確かめていただくことができません」
青年の機嫌が目に見えて曇った。
「向かいの《王冠》では、贈答用に包んでくれます」
「こちらでも包装はできます。ただ、目を覚ましたまま美しい箱を眺める贈り物になってしまうかもしれません。三日後でしたら、お二人で試せるよう取り置きいたします」
「婚約者を店へ連れてきて、値段まで見せろと?」
青い硝子が冷たい光を返す。これが売れれば、三人の次の給金を払える。相手が体調を崩さなければよいだけだと考えるには、金貨十八枚は充分すぎるほど魅力的だった。
それでも、私は香炉を包まなかった。
青年は侮辱されたように背を向け、《王冠なら客を追い返したりしない》と言い残して出ていく。呼び鈴の一つきりの音がやけに寂しく響いたあと、マルタは何も言わず、香炉を元の棚へ戻した。
私は白いリボンを結び、札へ『本人による香りと魔力の試用が必要』と書いた。
「青ではないのですか」
「品は壊れていませんが、誰にでも売れる状態ではありません」
「三人分の給金も、壊れてはいないうちに必要です」
「はい。ですから急ぎましょう」
マルタは小さく鼻を鳴らし、次の箱を開けた。
三階から運び出した自動攪拌匙は、箱の蓋を上げた途端、隣にいた匙の柄を叩き始めた。銀の柄同士が甲高い音を立てて争い、ボルクが毛布ごと抱え込んでようやく静かになる。停止印の摩耗した七本は黄色、印そのものが欠けた二本は黒。ニナは使えるものと交換できる部品を分けながら、指先を黒い油で汚していった。
二階の季節調整外套は、凍った布を急に温めないよう一階へ吊るした。昼を過ぎる頃には氷が透き通った雫となって裾から落ち、その下へ置いた桶に冬の光が揺れた。けれど裏地は縮み、婦人用の袖が子どもの腕ほどになっている。元の形へ戻せない七着には、黒いリボンを結んだ。
「見た目はまだ立派です」
売場に長くいたマルタほど、捨てる時には迷うらしい。襟の刺繍を掌で伸ばし、値札を裏返した。
「だからこそ、着せてから脱げなくなれば危険です」
「分かっております」
返事は硬かったが、最後の一着へ黒を結んだのは彼女だった。
四階では、片輪の木馬が赤い札の下で待っていた。ニナが昨夜のうちに、古い荷車から削り出した車輪を仮留めしている。青でも黄色でもないのかとボルクが尋ねたので、私は修理代まで受け取った顧客の預かり品だと説明した。
「売場の商品へ混ぜれば、店は同じ木馬で二度代金を取ることになります」
「でも、もう要らないと言われました」
ニナが唇を噛む。
「それは、直らないと思われたからでしょう。持ち主を探し、直したあとで、もう一度選んでもらいましょう。受け取らないと言われた時に、初めて次を考えます」
彼女は頷き、仮留めした車輪を回した。小さな木馬が一歩にも満たない距離を進み、埃の上へ細い跡を残す。その音だけは、昨日より少し店らしかった。
二日目、七階の奥に封じられていた星空投影灯を調べた。
金の蔓を絡ませた黒い台座と、水晶を磨いた半球の投影部。起動すれば舞踏場の天井へ季節の星座を映し、楽曲の盛り上がりに合わせて流星まで降らせるという。旧帳簿の価額は、一基で金貨百二十枚だった。
埃を拭うと、水晶の内側に微かな銀河が閉じ込められているように見える。王宮の祝宴に置かれていれば、誰もが息を呑んだだろう。私も幼い頃、母にねだって一度だけ動かしてもらい、真夏の天井へ冬の星が咲くのを見た覚えがあった。
「これ一つ売れれば、延滞金の五分の一ですな」
ボルクが期待を込めて水晶を覗き込む。
「最後に動かしたのはいつですか」
「六年前の記録がございます」
マルタが点検簿を開いた。
「起動には中央魔力炉と、資格を持つ術者が二人。製作工房は?」
「三年前に廃業しております」
「止まらなくなった時に直せる方は」
誰も答えなかった。
こんなに美しいものへ白いリボンを結ぶのは、腐った木箱を捨てるより難しかった。値を失うのが惜しいのか、母と見た星空を品物として認めたくないのか、自分でも分からない。私は結び目を二度作り、ほどけないことを確かめた。
『安全、修理責任ともに不明。販売禁止』
札を水晶の下へ置く。灯りの消えた半球は、私の顔を小さく歪めて映した。
高級品庫には同じような品がいくつもあった。金貨数十枚の値札を付け、動かす魔力も、直す職人も、買い手へ見せる手段もない。それらだけで、旧帳簿の在庫価額の七割を占めていた。金貨千枚を超える評価を訂正する欄は空白のままで、頁の端には管理人の交代印だけが三つ重なっていた。
地下倉庫から見つかった百本の傘には、すべて白を結んだ。
灰色の傘布に雨粒の刺繍がある《雨花傘》は、室内で開いても何も起こらない。前の売場長は、濡らせば新品でなくなると言って、試すことを禁じていたらしい。
「傘を濡らすな、ですか」
「俺に言われても困るがね。濡れた品は売れないと、ずいぶん叱られた」
「雨の日まで、白のままにしておきましょう」
その隣には、小型の《小春暖炉・旧三型》の販売控えがあった。同じ製造番号の十二台が六年前に売れている。返品記録はないが、見本品の停止輪は油が変色していたため、触れずに販売禁止とした。
ひびの入った蓄熱石が四十三個も出てきた時、ニナは長いこと黙っていた。
「外殻を替えれば、使えるものもあると思います」
「ひびの深さは測れますか」
「今ある道具では無理です。有資格者がいれば――」
言いかけた声が弱くなる。一個銀貨八枚、全部で金貨十七枚と銀貨四枚。その額を失いたくないのは私も同じだった。
「今は黒へ置きましょう。測れるようになった時に再判定するなら、廃棄を保留した理由と期限を書いてください」
「黒なのに、もう一度見ていいんですか」
「今日の私たちに直せないことと、永久に直らないことまで同じにはできません。ただし、誰かが棚へ戻せないよう封をします」
ニナは少し考え、黒いリボンを自分で結んだ。札には亀裂の位置を細かく描き、再検査までの封印を押す。四十三個を数え終えるまで、彼女は一度も棚へ戻そうとはしなかった。
古い化粧香の箱を開けたボルクが、強すぎる薔薇の香りに三度くしゃみをした。封印は破れていなかったが、期限は四年前に切れている。中身を廃棄し、貴族家の紋章が入った箱だけ『空箱』と明記して青へ。自動給湯茶器は、修理に銀貨三枚かかるのに売値が一枚と見込まれ、黒になった。
片方だけ音の出ない一対の来客鈴は、ニナが黒へ置こうとしたところでマルタが止めた。
「旧顧客台帳に、耳の遠いご婦人が光で来客を知らせる品を探していた記録があります。音がなくても、片方が光れば使えるかもしれません」
「製作者へ、その使い方で安全か確認できますか」
「工房名は残っています。返事をくれるかは分かりませんが」
来客鈴には白を結んだ。品を手に取った人の顔を覚えているマルタと、内部を見られるニナ、納品箱の置き場所を知るボルクがいて、ようやく一つの色が決まる。私一人なら、とっくに青と黒ばかりの倉庫にしていただろう。
三日目の昼過ぎ、ようやく五色の山が揃った。
青、百四十六点。黄色、三百四点。白、八百六十一点。灰色、二百二十三点。黒、二百七十八点。合わせて、千八百十二点。
数そのものは、古い目録と変わらない。けれど売場へ戻す担当、必要な修理代、足りない試験、返送する工房、廃棄の理由が札に加わり、黙って積まれていた品々が、それぞれ異なる行き先を持った。
青はマルタ、黄色のうち見習い資格で扱える品はニナ、灰色の返送箱はボルクが引き受けた。白の試し方と黒の最終判断には、私が署名する。在庫表の上には四人の名を並べた。
旧帳簿の在庫価額は金貨千七百四十六枚。仕入先へ戻せる見込みと、修理や試験、廃棄に必要な費用を引き直すと、現在の評価は金貨三百九十八枚になった。
帳面の同じ頁に二つの額を書くと、千三百四十八枚の差が、深い断崖のように見えた。
「この評価減を債権者団へ出せば、担保価値が消えます」
マルタは声を抑えていたが、羽根ペンを持つ指に力が入っている。
「昨日まで金貨千七百四十六枚だったものを、御自分で三百九十八枚にするおつもりですか。百日後の審査で、確実に不利になります」
「昨日まであったのは、金貨千七百四十六枚という字です。売れない品を売れると記した帳簿を守っても、店は守れませんでした」
「公爵家の投影灯が動かせないと、わざわざ知らせる必要まで?」
「知らせずに差押えを免れたとして、あとで誰が買うのです」
評価減の書面を二通作り、一通を店へ残し、もう一通を債権者団宛ての封筒へ入れた。署名を書き終えて顔を上げると、マルタが帳簿の下から退職届を取り出している。
とうとう提出されるのだと思った。
ところが彼女は紙を裏返し、青い品百四十六点の棚番号を書き始めた。
「明日一日だけ、延ばします」
「何をでしょう」
「売れると判断した品を、実際に売場へ戻せる者が必要でしょう。数字を下げただけで満足されては困ります」
「ありがとうございます」
「お礼はまだ早うございます。一日で辞める自由を、先払いの契約には残してくださったはずです」
視線を上げない横顔には、喜ばれることへの用心深さがあった。私はそれ以上引き留めず、彼女が書いた棚番号を在庫表へ写した。
閉店後、帳場の黒板を四つに区切り、左上から現金、在庫、未払い賃金、事故責任と書いた。
仮設防護区画は、七階の鉄枠と残った防護硝子を使っても、登録結界師の日当と材料で金貨二枚と銀貨十二枚かかる。新品なら十四枚だというので安くはできたが、硝子の強度検査まで誰かの好意に頼るわけにはいかなかった。
支払い後に自由になる現金は、金貨六枚と銀貨十三枚。過去二か月の未払い賃金は金貨二十四枚のまま、これから三人へ払う給金は、七日ごとに金貨三枚ずつ増える。
床からは余計な箱が消え、棚には五色のリボンが整然と並んでいる。夕方の光に照らされた売場は、昨日よりずっと広く、美しかった。けれど、黒板へ並べた数字をもう一度足してみても、今ある現金では三人の二十一日分の給金さえ払えなかった。




