第3話 売れ残りの灯りが選んだ客
初めての客を、私たちは少々熱心に見つめすぎたらしい。差押えまであと九十八日という数字が、四人の視線をひとところへ集めていた。
仕事着の女性は扉から半歩入ったところで身を固くし、外へ戻りかけた。私とマルタだけならともかく、ニナは銅板を握り、ボルクは結び直した呼び鈴の紐を持ったままである。待ち構えていたというより、捕獲を企んでいる一団に見えなくもない。
「申し訳ありません。まだ、開店前でしたか」
「いいえ。たった今、開店したところです」
「いつお決めになったのです?」と、マルタが私にだけ聞こえる声で言った。
「扉が開きましたから」
女性が不安そうに目を巡らせたので、私は帳場から離れた。昨日まで王宮にいた服装のままでは、薄暗い売場でさぞ場違いに映るだろう。青い飾り紐こそ外しているものの、濃紺の外出着は働くための服ではなく、裾には朝の泥が跳ねていた。
「灯りをお探しですか」
「はい。あの札に、試せるとあったので」
女性の名はハンナといった。三十歳を幾つか過ぎたくらいで、右手の中指と薬指に革の指貫をはめている。布包みを抱く腕にも、糸屑が絡んでいた。
「どちらでお使いになりますか」
値段から尋ねられると思っていたのだろう。ハンナは一度、唇を閉じた。
「家の作業机です。仕立屋から持ち帰った仕事を、日が落ちてから縫います」
「一晩に、どのくらいの時間を?」
「ふだんは四時間ほどです。今週は注文が重なっているので、六時間は必要になります」
「お部屋全体を照らしたいのですか。それとも、手元だけ?」
「針先さえ見えれば構いません。娘がすぐ隣で眠るものですから、明るすぎると何度も起きてしまって」
言いながら、ハンナは布包みを解いた。夜の湖を思わせる濃紺の薄布が、冷たい朝の光を吸い込んでいる。縁へ縫われた銀の蔓草はまだ途中で、針目は息を潜めるように細かかった。
「公爵家のお嬢様の夜会服です。熱を当てると青が褪せますし、銀糸も色が変わるので、失敗はできません」
布を持つ指に、無意識なのだろう、力が入った。針子にとっては一枚の布ではなく、期限と信用と、来月の暮らしまで抱えた仕事である。
「今までの灯りも拝見できますか」
包みの底から出てきたのは、金色に磨かれた筒形の灯りだった。《王冠百貨商会》の紋が大きく刻まれ、見るからに高価そうだ。台座へハンナが指を置いた途端、白い光が一度だけ激しく弾け、細い手首が跳ねた。灯りはすぐ暗くなったが、彼女の指はなお震えている。
「一度つけると、こうなります。一時間ほど休めば、もう一度だけ。商会では、私の魔力が足りないのだと言われました」
「返品は頼まれましたか」
「点灯済みの品は受け取れないそうです。もっと上等な強光灯なら長く保つかもしれない、とも」
マルタがわずかに眉を上げた。何かを言う代わりに、金色の灯りを安全布で包んでハンナから遠ざける。
「三品、比べてみましょう。ただ、七階の試用広間は使えませんので、今ここでできる範囲になります」
「先に予算をお伝えした方がよいでしょうか」
「予算の中で選ぶのは、合う品が見つかってからでも遅くありません。何も合わなければ、今日はお売りしません」
客に品を売らない可能性を口にするたび、店主になったという実感が少しずつ遠ざかる。けれどハンナの肩は、目に見えて下がった。
ニナが帳場の横へ厚い鉄板を置き、足元には水桶、ハンナの袖には防炎布を掛けた。客へ試してもらうには心許ない備えだが、何もせず点灯するよりはよい。私は品名、時刻、布の種類を書き込める用紙を作り、マルタが売場から一つ目の灯りを運んできた。
《陽輪灯》は、王都の家庭で最もよく売れている品だという。乳白色の丸い笠は昼の太陽を小さく模したようで、窓辺に置くだけなら、これから明るい時間が始まりそうに見えた。
「触れたら、長く押さずに離してください」
ニナの声に頷き、ハンナが台座へ指を置く。
光が噴き上がった。
眩しさに瞼を閉じた時には、ニナが鉄の蓋をかぶせていた。白い光が縁から二度こぼれ、それきり消える。客の袖を覆っていた防炎布に異常はないものの、あの明るさでは、隣の寝台どころか向かいの家まで起こしかねない。
「こちらはやめましょう」
私が品を脇へ移すと、ハンナは驚いて私を見た。
「でも、いちばん人気の品では?」
「広い部屋を明るくする方には、とてもよい品なのでしょう。ハンナさんがお使いになる机は、広い舞踏室ではありませんから」
二つ目の《冬守り灯》は、保温石へ溜めた魔力をゆっくり使う長時間灯だった。蜂蜜色の光が穏やかにともり、ハンナの手も震えない。先ほどの《陽輪灯》より、ずっとよく見える。
私は危うく、これならと口にしかけた。
けれどハンナは笑わず、濃紺の布から銀糸を一本抜いて光の下へ置いた。糸を指で返し、窓から射す光と見比べる。銀色だったものが、灯りの下では薄い金に見えた。
「夜にこれを銀だと思って縫ったら、朝になって違う糸が混じっていたと分かります」
さらに半刻ほど点灯を続けると、布の表面がぬるくなった。ニナが保温石からの距離を測り、小さく首を振る。
「六時間なら、染めが変わるかもしれません」
「では、こちらも戻してください」
ハンナは安堵するでも落胆するでもなく、二つの灯りが売場へ戻されるのを見ていた。品に断られることへ慣れてしまった人の顔だった。
三つ目を箱から出す。
青みを帯びた黒い金属には、細い枝のような透かし模様が刻まれていた。《宵待ち灯》という名には美しい響きがあるのに、箱の赤い不良品印が、その上へ無遠慮に押されている。
「これは、魔力のごく弱い方のために作られた灯りです。力を押し込まず、台座へ指を載せたまま、細く流してみてください」
「弱い方のため……」
疑うように繰り返してから、ハンナはそっと触れた。
しばらく、何も起こらなかった。静けさに耐えかねたようにマルタが帳簿へ目を落とす。その時、透かし模様の奥へ、針の先ほどの光が宿った。
光は急がず、夜明け前の星がひとつずつ輪郭を得るように広がった。壁も天井も照らさない。ただ机へ細い星色の帯を落とし、濃紺の布と銀の針だけを、暗がりからすくい上げる。
ハンナが糸を取った。針穴へ近づけ、何度も狙い直すことなく通してみせる。
「お手は?」
「震えていません」
「布の色はいかがです」
銀糸を光の内外へ動かしていた彼女の頬に、ようやく笑みが浮かんだ。
「朝の窓辺と同じです」
ニナは灯りの横へしゃがみ、机へ落ちる光の幅を指で測った。
「これでは少し広いですね。針仕事なら、絞り板を一枚足した方が目が疲れません。作業机の横幅は、どのくらいですか」
両腕で長さを示してもらうと、彼女は七階へ駆け上がった。ほどなくして薄い銅板と鋏を持って戻り、光を遮らない位置をハンナに確かめながら切れ目を入れていく。十五分後、内側へ嵌めた絞り板は、光の帯を指三本ほどの幅に整えた。
ハンナは椅子を右へ寄せ、左へ戻し、持参した針箱を端へ置いた。誰も急かさずにいると、最後には自分の仕事と同じ速さで、銀の蔓草を三針だけ縫った。
「これなら、六時間働いても娘を起こさずに済みます」
最初に入ってきた時より、よく通る声だった。
「本体が銀貨十枚、絞り板の調整料が銀貨二枚です」
私は返品票と、代金の内訳を書いた紙を並べた。
「七日以内であれば、本体は使用後でも返品できます。その場合、銀貨十枚をお返しします。調整料はすでにニナが作業していますので戻せません。光に乱れがあれば、最初の再調整は無料で承ります」
「本当に、使ったあとでもよいのですか」
「眠っている娘さんの隣で試さなければ、今の結果が正しいかは分かりません」
ハンナは財布を開いた。磨かれた銀貨も、黒ずんだ銀貨も混じっている。四日分ほどの給金に当たると知っていれば、こちらの胸にもずしりと重い。彼女は一枚ずつ数え、十二枚を帳場へ置いた。
私は《ヨナス工房》へ払う六枚を封筒へ移し、絞り板の銅板に使った銀貨一枚は修理箱へ入れた。帳場に残した五枚が、店にとって初めての粗利だった。
「十二枚払っても、店には五枚しか残らないのですね」
「ええ。売れた額と、使える額を取り違えると、店は帳簿の中だけで豊かになります」
返品票には、ハンナの魔力の強さ、使用場所、四時間から六時間という長さ、娘が同室で眠ること、熱に弱い濃紺布と銀糸を記した。《陽輪灯》は起動時の光と負担、《冬守り灯》は色と発熱のため不適合。《宵待ち灯》には、絞り板の寸法も添える。
控えを受け取ったハンナは、灯りを布包みの中央へ置いた。
「同じ工房の針子にも、話してよいでしょうか」
「ぜひ。ただし、今夜使ってからお話しください。返品にいらした時には、その理由も隠さず」
微笑んだ彼女が出ていくと、真鍮の星が一つ鳴った。ボルクは窓辺へ移した《宵待ち灯》を正面から見えるように据え、ニナは余った銅板でもう一枚の絞り板を切り始める。マルタの羽根ペンが、売上欄へ銀貨十二枚、粗利欄へ銀貨五枚と記した。
私は古い呼び鈴を鳴らした。音は欠けていたが、吹き抜けを上り、暗い七階へ届いていく。
「その試用は、どの区画登録に基づいて行われましたか」
聞き覚えのない男の声が、余韻を断ち切った。
扉のそばに、灰色の外套を着た男が立っている。雪の粒が残る肩から、黒い手袋を外したばかりの指先まで、余計な乱れがなかった。胸元に示された銀の記章には、王冠を囲む三本の定規が刻まれている。
「アルノルト・ヴァイスベルクです。王立魔法道具監査局長として、営業状況を確認に参りました」
昨日、赤い差押予定通知で見た名である。書面より若く、書面と同じくらい愛想がなかった。
「債権者団の監査責任者でもいらっしゃいますね」
「はい。利害を伏せるべきではありませんので、先に申し上げます」
アルノルトは私へ挨拶以上の言葉を掛けず、鉄板と水桶、防炎布の位置を見た。手袋をした人差し指で、床から試用台までの距離を測る。
「安全を考えた跡はあります。しかし、この一階は登録された試用区画ではありません。防護結界がなく、事故時の退避線もない。調整を担当されたのは、どなたですか」
「わたしです」
ニナが銅板を握ったまま進み出た。
「見習い資格で許された、絞り板の交換しかしていません」
「その説明を、客も読むことができましたか」
彼女の目が、空の壁へ動く。
「資格の範囲を守っていても、表示がなければ客には判断できません」
彼は書類鞄から一枚の用紙を取り出した。三か所へ印を付け、是正命令として私の前へ置く。初売上を祝う言葉などは、最後まで出てこなかった。
「営業停止ですか」
マルタの問いに、アルノルトは首を横へ振った。
「選べる方法は三つあります。試用をやめ、通常販売だけを続ける。監査局の公開試験場を時間単位で借りる。または、一階へ仮設の防護区画を設け、三日後に再監査を受ける」
第一の案なら、新しい費用は要らない。危険も少なく、今ある品へ値札を戻せばよい。そして、客が使うまで合うか分からない灯りを、昨日と同じ方法で売ることになる。
「仮設防護区画を作ります」
「期限は三日です。必要基準は別紙にあります。材料と施工者は、そちらで手配してください」
私が最も高い道を選んでも、アルノルトは褒めなかった。止めようともしない。許可を得るための条件だけを、読める字で残した。
彼は帳場に綴じる前の返品票へ目を留めた。手に取って用途欄を読み、裏の調整寸法まで確かめる。
「この形式で、三日分の記録を残してください」
「監査のために必要ですか」
「試用を続けるなら、事故がなかったという結果だけでは足りません。何を、どの条件で試して起きなかったのかが要ります」
紙を返す指先が、私の手へ触れそうになって離れた。その間合いが慎重すぎて、まるで私まで監査対象の商品になった気がする。腹を立てるべきなのに、なぜか少しだけ可笑しかった。
アルノルトは手袋をはめ直し、扉の前でこちらを振り返った。
「百日後、基準を満たさなければ、この店は差し押さえます。ですが、基準を満たした店を潰す権限も私にはありません」
灰色の外套が冬の通りへ消えるまで、誰も口を開かなかった。
「最初の日から、監査局長を敵へ回す店主は初めて見ました」
ようやくマルタが息を吐く。
「私も、最初の日から退職届を出す売場主任は初めてです」
「元、売場主任です」
「では、七日目にもう一度伺います」
彼女は返事をせず、是正命令を帳簿へ挟める大きさに折った。
初売上を記した頁の隣に、三日後を期限とする最初の是正命令が収まった。乾ききらない銀貨五枚の文字へ、紙の影が落ちていた。




