第2話 灯りの消えた魔法百貨店
差押えまで、あと九十九日。
翌朝、私は七本の鍵を外套の内側へ入れ、《星灯り魔法百貨店》へ向かった。
王都中央大通りは、夜明けを過ぎたばかりだというのに華やいでいる。《王冠百貨商会》の大窓には金色の魔法灯がともり、硝子の向こうを銀の小鳥が飛び交っていた。嘴に吊るした新作の旅行鞄が羽ばたくたび、虹色の火花が零れる。道行く婦人が足を止め、その横で子どもが白い息を弾ませて笑った。
一本裏の通りへ折れると、冬の朝は急に色を失った。
母の店は、向かいの建物へ長い影を落として立っていた。七階建ての輪郭には昔と変わらぬ威厳が残っているのに、正面の硝子は色褪せた布で塞がれ、石段には昨日の雪が誰にも踏まれないまま積もっている。看板を飾る七芒星は二つの角を欠き、残った五つにも煤がこびりついていた。
記憶の中の店は、いつ訪れても蜜蝋と香木の匂いがした。だから錠前に四本目の鍵を差し込み、肩で押し開けた扉の隙間から、冷えた埃と古い油の匂いが流れ出した時には、覚悟していたはずの胸が痛んだ。
頭上で真鍮の星が揺れる。客を迎えるたび七つの音を降らせた呼び鈴は紐を切られ、乾いた金属音さえ鳴らさなかった。
「どなたです」
暗がりから投げられた声には、歓迎より警戒があった。
「エステル・ベルクです。昨日付で、この店の所有権を引き継ぎました」
火打ち石が二度空振りし、三度目に火が移る。小さな蝋燭の輪の中に、三人の顔が現れた。
帳場に立つ灰色の髪の女性は、黒い服の襟まで隙なく留め、片手に帳簿、もう片方に白い封筒を持っていた。修理台のそばには、私とそう年の変わらなそうな娘がいる。革の前掛けに金属粉を付け、欠けた魔石を磨いていた。最後の一人は、裏口へ続く廊下から出てきた大柄な老人で、鉄棒を杖のように構えている。
「元一階売場主任のマルタでございます」
灰色の髪の女性は一礼し、封筒を帳場へ置いた。
「こちらは退職届です。新しい店主がお見えになったら、直接お渡ししようと思っておりました」
「ずいぶん手回しがよろしいのですね」
「二か月も給金が出なければ、手回しの悪い者でも身の振り方を考えます」
非難というより、私が事情を知って来たのか試しているらしい。王宮では幾度も向けられた眼差しだが、ここでは誰の不興を恐れる必要もなかった。
「おっしゃるとおりです。未払いのまま働けとは申しません。けれど、そのお返事をする前に、店を見せていただけますか」
「見れば、お返事が変わるかもしれませんよ」
「では、なおさら先に見なくては」
前掛けの娘が、磨いていた魔石を布へ包んだ。
「ニナです。修理工房の見習いをしていました。親方は先月、上等な工具を全部持って出ていきましたけど、これは店の預かり品なので置いていけなくて」
言い終わる前に、彼女は掌の包みを庇うように握り直した。残っていたのは店への忠義より、直し終えていない何かのためなのだろう。
「俺はボルク。倉庫番と夜警だ。奥方――あんたのお母上には、最後まで建物だけは空にするなと言われてた」
「私は奥方ではありません」
「知ってるよ。だから店主と呼ぶのは、上まで見てからにする」
ボルクは鉄棒を壁へ戻し、昇降籠の扉に貼られた『停止中』の紙を顎で示した。
「階段だ。七階までな」
一階は生活灯具と暖房具の売場だった。棚は歯が抜けたように空き、残された箱にも薄く灰色の埃が積もっている。帳場の端に、幼い私が包装用の小刀で付けた三本の傷を見つけたが、指を伸ばすのはやめた。マルタが持つ蝋燭は一本きりで、昔に触れている余裕など、今の店にはない。
吹き抜けを囲む階段は、二階へ上がったところでぎしりと鳴った。衣料と贈答品の売場には、季節を調える外套が人台に掛かったまま凍りついている。『夏物半額』と書かれた札の下で、雪の結晶が白い襟飾りのように連なっていた。
「魔力炉を止められた晩に、こうなりました」
マルタが蝋燭を掲げた。
「基本料を三か月滞納しています。建物へ通す最低限の魔力すらありません」
「解凍したら売れますか」
「裏地まで縮んでいなければ。確かめる費用を払えるなら、ですが」
三階では、自動攪拌匙が壺の底を規則正しく叩いていた。暗闇の中で、こつ、こつ、と誰もいない台所の時を刻んでいる。ボルクが柄を掴むと匙は一度だけ抵抗し、拗ねた子どものように動きを止めた。
四階の木馬は、片方の車輪を失って横倒しになっていた。青い蝋筆で腹へ子どもの名が書かれ、その傍らには修理代受領済みの札が落ちている。
「父親が何度も取りに来ました」
ニナが先に屈み、木馬を抱き起こした。
「親方がいなくなってからは、わたしが直すと言っても信じてもらえなくて。最後には、もう要らないと」
「車輪は作れますか」
「作れます。大きな魔力核に触る修理じゃありませんから。でも、勝手に別の木を使ったらいけないと思って」
語尾は強いのに、木馬の鬣を払う指はひどく慎重だった。
「預かり品の持ち主と、受けた注文をすべて探してください。直せる範囲と、今は直せない範囲も分けて」
「店を続けるおつもりですか」
「まだ五階も見ていません」
専門道具の売場には、縫い目を揃える定規、炉の火から目を守る眼鏡、刃の減りを知らせる砥石が、薄闇の中で使い手を待っていた。六階の旅用品売場では、方角を示す羅針盤が一斉に違う方向を向いている。建物の魔力が絶えたせいで品まで眠りかけているのだと、ニナが針を一つずつ伏せていった。
七階へ着く頃には、蝋燭が指二本分ほどに短くなっていた。
円形の試用広間を取り巻く壁には、十二台の修理卓が並んでいる。まともに工具が残っているのは窓辺の一台だけ。中央の試用台には焦げ跡と刃傷が走り、天井いっぱいに埋め込まれた星の魔法灯は、深い水の底に沈んだ宝石のように暗かった。
雲間から射した朝の光が、正面の壁を淡く撫でる。そこに、母の手で書かれた言葉があった。
『道具を選ぶ前に、使う人を知ること』
十二年を経た筆跡は掠れていたが、少し右上がりになる癖まで覚えている。幼い私が売場で品を欲しがるたび、母は屈んで用途を尋ねた。綺麗だから、では通してくれず、私は子どもなりに懸命な理由を考えたものだった。
胸の奥へ忍び込んだ懐かしさは、甘いばかりではなかった。母が亡くなったあと、この店へ来なかったのは私だ。父に禁じられ、妃教育が始まり、いつしか仕方のないことにした。朽ちた十二台の修理卓は、その年月を少しも割り引いてくれない。
「小さな調整なら、わたしにもできます」
ニナの声が、がらんとした天井へ上がった。
「絞り板や外装の留め具を替えるくらいなら。魔力核や温熱部に触る大修理は、有資格者でないと駄目です」
「では、できることを大きく書いてください。できないことは、それと同じ大きさで」
彼女は妙な顔をしたが、頷いた。
「見終わりました」
振り返ると、マルタの蝋燭は消えかけている。その向こうに、六階分の暗い手すりが幾重にも重なっていた。
「一階へ戻りましょう。今度は、数字を見せてください」
三冊の帳簿を開くと、暗がりより始末が悪かった。
総債務は金貨四千八百枚。そのうち、百日後までに納めなければならない延滞金が六百枚。直近三十日の営業黒字と、安全監査への合格も揃わなければ、建物は差し押さえられる。
「六百枚を残りの日数で割れば、一日およそ六枚です」
マルタが細い指で数字を押さえた。
「それでは、三人の給金も灯りも出ません」
私は余白へ、建物税、最低限の魔力使用料、仕入れ、修理費を書き足していった。返品や事故のための金も、ないからといって要らなくなるわけではない。ひとまず一日平均、金貨八枚の粗利が必要になる。
「昨日の売上は?」
「ございません。一昨日も、その前の日も。六日前に空箱が売れて、銀貨二枚入りました」
「見事ですね。数字を丸める必要さえありません」
笑った者はいなかった。私も、笑わせるつもりで言ったのではない。
昨日受け取った小箱を帳場へ置く。金貨十二枚は、冬の薄日を受けても、頼もしい輝きを見せてはくれなかった。そこから三枚を取り、封筒へ一枚ずつ入れる。
「今日から七日分の給金を先にお支払いします。未払いの二か月分は、店の債務として別に残します」
三人とも、差し出した封筒を取らなかった。
「七日のあとは、どうなさるおつもりです」
マルタの声は、先ほどより低かった。
「七日後の帳簿と雇用条件を見て、皆さんが決めてください。私が店主になったからという理由で、ここに残る義務はありません」
「忠誠を誓わせないんですか」
ニナの問いには、少しだけ棘があった。貴族の令嬢が口にする美談を待ち構えているらしい。
「金貨一枚で買える忠誠なら、次に金貨二枚出した人へ移ってしまうでしょう。七日間、きちんと働いていただければ十分です」
ボルクが太い指で封筒を取り、重さを確かめた。
「では七日間、夜中に壁を持っていかれないよう見張るとしよう」
「建物を盗める方がいらしたら、先に起こしてください。運び方を見てみたいので」
老人の口元がゆるみ、ニナも封筒を取った。最後まで残ったマルタは、受領欄に書かれた自分の名をしばらく眺めてから、退職届と一緒に帳簿の下へ差し入れた。
「七日間です。八日目のことまで約束した覚えはございません」
「承知しました。私も、八日目の給金をまだ約束できません」
裏口を叩く音がしたのは、その直後だった。
若い男が手押し車を押し込んでくる。くたびれた外套の肩には木屑が付き、載せた木箱には《ヨナス工房》の焼き印があった。その上を潰すように、赤い『不良品』の印が押されている。
「預けていた《宵待ち灯》を引き取りに来ました。十二個、全部です。閉まった店へ置いておくより、砕いて魔石を取り出した方がまだましだ」
箱の中には、青黒い金属で作られた小さな灯りが並んでいた。掌へ収まるほどの大きさで、細い透かし模様は夜の枝に似ている。マルタが一つを取り、台座へ魔力を流すと、淡い光が生まれたそばから萎んだ。
「ご覧のとおりです」
若い職人は、諦めた顔で顎を引いた。
「《王冠百貨商会》にもすべて返品されました。規定量を入れると消えてしまう。ニナが試しても同じでしょう」
ニナの指先では、三度ちらついて闇へ戻った。
「ボルクさん、触れてみてください」
「俺の魔力は、湯沸かし石にも嫌われるほどだぞ」
「ちょうどよいかもしれません」
半信半疑のまま、彼が節くれだった指を台座へ置く。透かし模様の奥に針先ほどの光が生まれ、呼吸するようにゆっくり膨らんだ。星明かりに似た青白い光は、老人の手の皺へ静かに溜まり、二十を数えても揺らがない。
ニナが息を呑んだ。若い職人は灯りへ手を伸ばしかけ、触れずに引っ込める。
「これは、誰のために作った品ですか」
私は消えるまでの時間と、三人が触れた時の違いを書き留めながら尋ねた。
「親方の娘です。生まれつき魔力が弱くて、普通の灯りだと一刻も持たなかった。わずかな力を拾って、増やしながら長く灯すようにしたんです」
「《王冠百貨商会》の試験では?」
「規定量を一度に流し、最大光量を測ります。王都で売る品なら、それが当然だと言われました」
灯りは、その試験に耐えられなかったのだろう。けれど今、暗い店の帳場を照らしている光は、弱いとも頼りないとも思えなかった。磨かれた広間には足りなくても、眠る人を起こさず針先を照らしたい夜があるかもしれない。
「十日間、十二個をここへ預けてください」
「買い取る金があるんですか」
「ありません」
あまりに率直に答えたせいか、若い職人が瞬きをした。
「売れた分だけ、一個につき銀貨六枚をお支払いします。試した方の魔力量、用途、使った時間、返された場合はその理由も記録して工房へ渡します。売れなかった分は、十日後にそのままお返しします」
「使わせて、返品も受けるおつもりですか」
マルタが、今度こそ愚かな令嬢を見つけたという顔をした。
「使ってみなければ、合うかどうか分かりません。合わない方から一度だけ代金を取るより、次も扉を開けてもらえる店にしたいのです」
職人は契約票を隅まで読み、修理の責任範囲を二度確かめた。私が『不具合』と『用途不適合』を別の欄にしたところで、ようやく羽根ペンを取る。滲みの残る彼の署名の隣へ、私も店主として名を記した。昨日とは違い、書き終えても人差し指の小さな傷は痛まなかった。
正面窓を塞いでいた布を一枚だけ外すと、冬の光が長い帯になって床へ落ちた。ニナが《宵待ち灯》を窓辺へ置き、ボルクは切れた呼び鈴の紐を結び直す。マルタが厚紙を三枚持ってきたので、私はそれぞれに言葉を書いた。
『お試しできます』
『七日以内なら返品できます』
『合うように直します』
「本当にお出しになるのですね」
「せっかく書いたものを、店の中へ隠しても仕方がありませんから」
三枚目を硝子へ貼り終えた時、外にいた人影がこちらを振り返った。
濃い茶色の仕事着を着た女性だった。腕に抱えた布包みと三枚の札を見比べ、迷いながら石段へ近づいてくる。やがて扉が細く開き、結び直された真鍮の星が、かすかな音を一つだけ落とした。
「返品できるなら、灯りを一つ、試してもいいですか」




