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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第1話 慰謝料は借金付きの七階建て

「君は、セシリアを王太子妃へ押し上げるための当て馬だった」


 窓の外では、朝から降り続いた雪が王宮の中庭を白く埋めていた。


 そう告げたレオポルド殿下の声に、怒りも気まずさも滲んではいない。冬季救済品の配布式で祝辞を述べられた時と同じ、広い会場の隅々までよく届く、穏やかで端正な声だった。


 執務机の中央には、つい先ほど私が提出した報告書が置かれている。毛布二千四百枚、保存食八百箱、暖房用の魔石百二十個。寄付者の名簿、配布所ごとの必要数、雪で荷馬車が遅れた場合の迂回路まで、昨夜のうちに確認して綴じたものだ。


 本日の式典で、それらを民へ手渡したのはセシリア様だった。


 淡い金髪に雪を散らし、泣いている子どもと目の高さを合わせるため、刺繍の施された外套の裾が汚れるのも構わず膝を折っていた。老婦人の肩へ自ら毛布を掛けた時には、見物人のあいだから感嘆の吐息が広がった。明日の新聞はきっと、慈悲深く美しい未来の王太子妃を讃えるだろう。


 式が終わったあと、セシリア様は一度だけ私のそばへ来た。何か言おうと唇を開き、けれど結局、伏せた目のまま深く頭を下げて去っていった。大役を果たした疲れのためだろうと、その時の私は思っていた。


 式の手順を書いた者の名など、どこにも載らない。


「……当て馬、とおっしゃいましたか」


「不快な言い方だとは分かっている。だが、言葉を濁す方が、かえって君を侮辱すると思った」


 殿下は長い指を机の上で組み直された。伏せた睫毛の影まで静かで、私を傷つけることを楽しんでいるようには見えない。それだけに、聞き間違いだったと思い込む余地もなかった。


「三年前のセシリアは、人前に出ることをひどく恐れていた。王太子妃になる決心もつかず、私の求婚を受け入れようとしなかった。そこで、すでに妃教育を終えていた君と私が婚約すれば、彼女も自分の望みから目を逸らせなくなる――父上たちは、そう考えた」


「王家がお決めになったことなのですね」


「私も同意した。君なら務めを完璧に果たすと知っていたからだ」


 そこで殿下は言葉を切り、初めて私から目を逸らされた。


「私はセシリアを愛している。今日の彼女を見て、もう王太子妃として立てると確信した。君との婚約を続けたまま、この気持ちを隠すことが誠実だとは思えない」


 三年七か月は、殿下の口にかかれば、驚くほど行儀よく数行に収まった。


 思い出したのは、婚約して間もない夏の夜会だった。最初の曲を踊り終えた時、胸元の青い飾り紐が緩んでいることに殿下が気づき、人目を避けて留め金を直してくださった。近くにいた侍女へ任せてもよかったはずなのに、殿下は御自分の指で青い絹を整え、「君が隣にいてくれれば、公務で道を誤らずに済む」とおっしゃった。


 私が望んだのは、恋物語のような熱情より、長い歳月のうちに育つ穏やかな愛情だった。政略で始まった婚約にも、信頼を重ねる時間はある。あの晩からずっと、その言葉を小さな約束のように胸へしまっていた。


 それから十二の夜会で殿下の隣に立ち、式辞を二十七本書き、王家の慈善事業を整えた。セシリア様からよく見える場所で踊ったあと、二曲目の前には必ず席を外した。私が不備を直した式典の中央で彼女が微笑むのを見ても、それが未来の王太子妃を支える務めだと信じて疑わなかった。殿下の隣にいるその妃が、私ではないとも知らずに。


「セシリア様は、この計画をご存じでしたか」


 殿下の視線が、ほんのわずかに報告書へ落ちた。私の筆跡を見ていらしたのか、答えを選んでいらしたのかは分からない。


「初めは知らなかった。半年前に、すべて話した」


「では、今日の式典も」


「君の役目が終わる日になることは知っていた。彼女は君に申し訳ないと言っている。私も同じだ。エステル、君がこの三年間にしてくれたことには、心から感謝している」


 おそらく、一つとして嘘はない。曇りなく磨かれた銀器のような謝罪に、自分の顔だけが歪んで映る気がして、私は膝の上へ目を落とした。右の人差し指には、今朝、報告書の頁で切った小さな傷があり、重ねた手の内側で遅れて熱を持ち始めていた。


 殿下が銀の呼び鈴を鳴らすと、控えていた侍従が黒革の書類挟みを運んできた。


「エステル・ベルク嬢。王家の承認のもと、君との婚約解消を申し入れる。急いで返事をする必要はない。一か月の猶予と再交渉の権利を認め、その間の住まいと俸給も、これまでどおり保証しよう」


 差し出された書面は二通。婚約解消書と、猶予期間についての確認書だった。


 私は椅子へ座り直し、解消書を一行目から読んだ。王家が婚約解消の責任を負うこと、私の品位や能力に瑕疵はないこと、相応の慰謝料を支払うこと。セシリア様との婚約は、私への支払いが確定してから公表することまで、文言に曖昧なところはない。


 私の三年間を除けば、実に不備のない書類だった。


「羽根ペンをお借りできますか」


「エステル。今日決めなくても、君が不利になることはない」


「一か月後に、殿下のお心が変わる可能性はございますか」


 答えの代わりに、暖炉の薪が小さく爆ぜた。


「それでしたら、猶予は結構です」


 侍従から羽根ペンを受け取り、署名欄へ置く。エステル、と最初の一画を書いたところで指先が震え、黒い雫が羊皮紙へ落ちた。ほんの小さな染みだったが、王家の書庫で何十年も保管される紙に、自分の動揺だけが残るのは嫌だった。


「恐れ入ります。新しい用紙をいただけますか」


 侍従が意外そうに目を上げる。


「効力には差し支えございませんが」


「ええ。私が差し支えます」


 新しい解消書が用意されるまでに、呼吸を整えた。傷のある指を親指で支え、今度はゆっくりと名を記す。最後の文字まで書き終えてから、王家の朱印の隣へベルク家の印を押した。


 胸元に結んでいた青い飾り紐も外さなければならない。それは王太子の婚約者にだけ許された色で、三年七か月のあいだ、どの衣装にも同じ青を添えてきた。留め金が裏地へ食い込み、思うように外れない。手を貸そうと一歩進み出た侍従を目で制し、爪を傷めながら引くと、細い絹糸が一本切れた。


 ほどけた紐を解消書の横へ置く。青に隠れていた鎖骨のあたりへ、冬の空気がひやりと触れた。


「本日付で、お受けいたします」


 三年七か月の終わりにしては、羽根ペンの擦れる音も、糸の切れる音も、あまりにささやかだった。



 隣の小会議室には、王家の財務官が待っていた。


 短く整えた白髪がよく似合う女性で、その前には三つの箱と、一束の書類が並べられている。漆塗りの箱には終身年金の証書、深緑の天鵞絨箱には宝石一式、象牙色の箱には王都郊外の屋敷の権利書。最後の一つだけは箱にも入れられず、くたびれた革紐で括られていた。


「慰謝料として、こちらから一案をお選びいただけます。第四案は事業資産一件。《星灯り魔法百貨店》の建物、営業権、残存在庫、および付帯する債務です」


 革紐の下から覗く表紙に、七つの角を持つ星の印があった。


 母が包装紙にも領収書にも押していた、少し不格好な星である。均整の取れた七芒星へ直すよう何度勧められても、「揃いすぎた星なんて、夜空にないでしょう」と笑って、最後まで変えなかった。


「母の店は、まだ残っていたのですか」


「建物は残っています。営業している、と申し上げるのは難しい状態ですが」


 財務官は同情で声を曇らせることなく、書類に記された条件を読み上げた。母の死後に管理人が三度替わり、現在営業できるのは七階のうち一階だけ。中央魔力炉は止まり、従業員への未払い給金もある。総債務は金貨四千八百枚。


 最後の数字を聞いた途端、隣の宝石箱が急に愛想よく見えてきた。


 財務官は、赤い縁取りのある一枚を私の前へ滑らせた。最下段には、百日後の日付とともに「差押執行」と記されている。そこへ至るまでに延滞金六百枚を納め、直近三十日間を営業黒字にし、王立魔法道具監査局の安全監査へ合格すること。一つでも欠ければ、建物は売却される。


「在庫と仕入れ口座は、どの程度残っていますか」


 財務官の指が頁を繰る。


「在庫目録上は千八百十二点。ただし、販売できる状態かどうかは確認されていません。旧仕入れ口座は十二。修理工房と倉庫は建物に付属します」


「営業免許は失効していないのですね」


「差押えの日までは。残っている従業員は三名です」


 渡された帳簿は、ほかの書類より薄かった。直近ひと月の売上欄にあるのは、修理二件と倉庫の端材を売った一件だけ。一方、支出欄には建物税、最低限の警備費、停止中の魔力炉にかかる基本料が几帳面に並んでいる。客が来なくても、七階建ての建物は毎日少しずつ金を食べていた。


 最後の頁では、三人分の給金が二本の赤線で囲まれている。未払い、二か月。


 私は数字を手元の紙へ書き写し、もう一度、表紙の星へ目を落とした。


 母に連れられて店へ通ったのは、十歳までだった。磨き上げた木の床には蜜蝋の甘い匂いがあり、七階まで続く吹き抜けには、星形の魔法灯がゆっくりと浮かんでいた。幼い私は、きらびやかな陳列棚を端から端まで欲しがって、そのたびに母から同じことを尋ねられたものだ。


「どこで、誰が使うの。いちばん困っていることは、なあに」


 客にも職人にも、母はまずそう尋ねた。答えを聞いているあいだの横顔や、長い睫毛に灯りが宿る様子まで覚えているのに、その声を思い出そうとすると、胸の奥に十二年分の埃が舞うようだった。


「ベルク嬢」


 財務官の静かな声で、私は帳簿へ意識を戻した。


「建物だけを受け取り、債務を王家へ残すことはできません。店を選べば、金貨四千八百枚の借金もあなたの名へ移ります。年金との併給もありません」


「承知しています」


「思い出で選ぶには、大きすぎる額です」


 今度は書面ではなく、私の目を見て言ってくれた。


 もっともな忠告だった。終身年金なら明日の食事に困らず、宝石は身一つで持って逃げられる。郊外の屋敷を選べば、王宮から離れた静かな場所で、傷ついた令嬢として上品に余生を送れるだろう。どれを選んでも、世間は王家の誠意を称え、私は賢明な選択をしたと慰められる。


 けれど、目を閉じて浮かんだのは、安らかな郊外の庭ではなかった。解消書の横へ置いてきた青い紐と、この帳簿で二本の赤線に囲まれた三人分の給金だった。


 王宮では、笑って隣に立つ以外にも多くを覚えた。予算を組み、荷馬車を手配し、相手が王族でも期日と署名を求める仕事を、私は三年七か月も続けてきた。成果は別の女性の名の下へ積み上げられたけれど、その技術は今も私の手に残っている。


 母も、吹き抜けに浮かんでいた星も、もうあの店にはいないだろう。それでも帳簿の向こうには、給金を待つ三人と、明日開けられる扉が残っている。


「母の店でなければ、私はこの書類を手に取らなかったでしょう」


 正直にそう言うと、財務官は黙って続きを待った。


「ですが、思い出だけで決めるつもりもありません。店と在庫、営業権、倉庫、修理工房、仕入れ口座――そして債務も、すべて私の名へ移してください」


「百日後に差し押さえられれば、建物を失ったあとも債務だけが残る可能性があります」


「はい」


「失敗すれば、ほかの三案を選び直すことはできません」


「それでも構いません。少なくとも今度は、私が働いた結果を、私の名前で受け取れます」


 財務官はしばらく私を見つめたのち、ようやく羽根ペンを差し出した。


 羽根ペンを握るあいだ、傷は脈に合わせて痛み続けた。それでも署名は、最後の一画まで途切れなかった。



 すべての手続きを終えると、財務官は机の下から小さな金庫箱を取り出した。中には金貨が十二枚。これが、いまの《星灯り魔法百貨店》にある現金のすべてだという。


 続いて差し出された鉄の鍵輪には、形の異なる七本の鍵が通されていた。かつては金色だったらしい星の飾りも、いまは黒ずんでいる。両手で受け取った途端、予想以上の重さに手首が沈み、鍵同士が硬い音を立てた。


 輪には、赤い紐で差押予定通知が結ばれている。


 発行者の欄に記された名は、王立魔法道具監査局長、アルノルト・ヴァイスベルク。


 聞き覚えはあった。若くしてヴァイスベルク公爵家を継いだ当主で、その監査局を預かる人物。それ以上の人柄は知らないが、通知には時候の挨拶一つなく、執行日と必要条件だけが二重線で囲まれていた。


「差押えまで、あと百日です」


 財務官が念を押した。


 手のひらへ食い込む鍵の冷たさを確かめながら、私は答えた。


「では、九十九日ありますね。明日の朝には、最初の扉を開けます」


 財務官はわずかに目を見開いたが、もう引き止めなかった。小会議室を出て長い廊下を歩くあいだ、七本の鍵は触れ合い、静かな王宮に硬い音を響かせ続けた。


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