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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第89話 街に灯りが戻る日

 避難用の机を畳むと、その下から、危機の前に受け付けた予約札が箱いっぱいに現れた。


 贈答用の灯りを選ぶ約束、冬外套に合わせる道具、鍋の調整、仕事具の修理。暖流弁が止まった三日間、客の方から「いま頼むことではない」と引き下がり、待ってくれていたものばかりだった。


 三地区の給水が最低線へ戻っても、全面復旧は終わっていない。修理番号は千を越えた先まで続き、公費の代金は九十日後である。それでも救援だけを店の仕事にすれば、待っていた日常はいつまでも扉の外へ置かれる。


「一階の半分を、修理返却と通常受付へ戻します」


 残り半分には事故品の回収と復旧窓口を置く。いっせいに元どおりにはせず、異なる用事の客が同じ列へ迷い込まないよう、床の線を引き直した。


 二階では寝床を畳み、借りた毛布を集める。貸出番号と洗浄、破れ、店有か公費品かを確かめたものだけが、再び棚へ戻る。衣装鏡を覆っていた白布を外すと、避難中についた細い傷が端へ残っていた。


「新しい鏡へ替えますか」


 店員が尋ねる。


「衣装を傷つける欠けは直してください。映すことに問題がなければ、磨いて残しましょう」


 避難所だった日を消すためだけに、使える鏡を捨てる気にはなれなかった。磨かれた傷は完全には消えず、最初の通常客の青い外套を、細い銀線とともに映した。


 三階の大鍋は共同炊事場へ返し、実演台を洗った。寄付された食材、公費で買ったもの、店の調理実演用を帳簿で分け、余りを店の商品へ紛れ込ませない。期限の近い品は、行政の受領印を得て共同炊事へ移す。


 空いた台へ、古い保温鍋を抱いた女性が来た。


「皆さんがお忙しいのに、家の夕食のことで申し訳なくて」


「待ってくださった日も、受付票へ残します」


 本人だけでなく、夫と夜に使う娘にも蓋を開け、止めてもらう。共同炊事で大勢の湯を守った場所に、ひとつの家の煮込みの香りが戻った。危機より小さな仕事なのに、その湯気を見た時、私は初めて店へ帰ってきたように思った。


 正面には、小さな冬市を開いた。祝賀の旗は掲げず、修理品を返し、不要になった貸出品を受け取り、通常客がいつもの条件で灯りや保温具を試すための市である。被災した人だからすべて無料、通常客だからその分高く、という値段にはしない。公費補償、保証、普通の売買を札の色で分けた。


 避難所から敷物暖房具を借りていた女性は、家族で使い慣れたので、このまま買いたいという。


「返却や継続貸出、再調整も選べます。買い取る場合も、避難所で使った品を新品の価格にはしません」


 布を洗い、接触部と破れを確かめ、家族がもう一度起動と停止を試す。途中で交換した部品と使用歴を見せ、中古品としての値札へ替えた。彼女が納得して署名してから、貸出札が売上札になる。


 その隣では、暖流弁の戻った家の男性が足温板を返した。


「もう必要ありません。次の人へ回してください」


 善意の寄付として受けず、店有貸出品の返却として処理する。通常の摩耗は契約どおり店が負い、返却済みの印を渡した。売上は増えず、次に貸せる品が戻る。冬市には、硬貨が鳴らない受け渡しの方が多い時間さえあった。


 戻らない品もある。避難中に住所を移した人、壊して返せない人、公費支給と貸出を取り違えた人。すぐ盗難と決めつけず、それでも「街を救った店だから差し上げた」と帳簿から消しもしない。買い取り、分割での返却、公費補償、故意の破損がなかったかを、元の契約へ戻って確かめる。


「街を暖めた留め具を、婚約祝いに贈りたいのです」


 金色の包み紙を持った若い男性が、冬市の中央へ来た。彼の視線の先には、共通留め具の最初の販売品が置かれている。


「お相手は、どの効果核と操作部をお使いですか」


「分かりません。でも、これが王都を救ったのでしょう?」


 私は手のひらへ、小さな穴と爪だけの金属板を載せた。留め具そのものは熱も水も生まず、合わない器具へ無理につければ停止位置をずらしてしまう。


 本人と後日試す券、魔力を使わない保温布、使っている品の型を相手に尋ねてから選ぶ方法を示すと、男性は保温布を手に取った。包む予定の弁当箱を借り、薄いもの、厚いもの、雨を弾くものを試す。厚い布は鞄へ入らず、雨用は結び目が固く、相手の片手では解きにくいという。薄い布なら、箱を包み、片手でほどけた。


「英雄の品ではありませんね」


「昼食を冷まさない品です」


 男性は笑って、それを買った。金の包み紙は、薄い布にもよく似合った。


 その次の客は、何も買わなかった。避難中に敷物暖房具を気に入ったが、家では夜勤の家族も交替して使う。皆が揃って試せる日がまだ決まらないという。


「今日はやめておきます。次の休みに、家族で来ます」


「取り置きもなさいませんか」


「はい。いま誰かに買われても、それは仕方がないです」


 彼女は試用票だけを畳み、冬市を離れた。救援の店で今すぐ買わなければ、という熱が、客自身の手で静かに下ろされた。


 共通留め具の売場には、王冠の効果核、星灯りの交換接触部、ヨナス工房の大きな停止つまみを並べた。対応する核、必要な薄板、零位置、長時間交替試験、外し方を同じ表示で示す。その仕様は《王冠百貨商会》の売場にも置かれ、同じ留め具を、両店がそれぞれの接客で売っていた。


 市が始まる前、マクシムが王冠側の表示板を自分で運んできた。星灯りの板と床へ並べると、文字の大きさも注意を置く順番も違っていた。王冠の板は対応する標準核が先にあり、こちらは使用者の交替条件から始まる。


「同じ安全表示、と聞いていたのですが」


 私が指摘すると、彼は不満そうに両方を見比べた。


「必要な項目は同じだ。並びまで揃えれば、店員が自分のところの客へ説明しにくい」


「零位置と残留灯の確認が、こちらでは途中に埋もれています」


「そちらは対応核の型が小さすぎる。古い王冠核を持つ客が、自分も使えると誤解する」


 互いの板へ赤い印を入れ、残留灯と対応核だけは最上段へ並べ直した。それ以外の順序と語り方は、それぞれの店に残す。共通とは、同じ板を複写することではなく、違う入口から来た客が、同じ危険を見落とさないことだった。


 開市の鐘が鳴ると、一人の客が王冠の卓で効果核を選び、その箱を抱えたままこちらへ来た。王冠の係も追ってきて、箱の封を切らずに型番を読み、ヨナスの接触部へ測り型を当てる。取り付けはできても、使う人の手袋では停止つまみが浅いと分かり、ヨナスが大きなつまみへ替えた。


 代金は王冠の核と、小工房の接触部へ別々に支払われる。どちらか一方が完成品すべての名を取るのではない。二枚の受領票を重ねた客は、少し面倒だと笑いながら、それでも片方の店だけで直せなくなるよりよいと言った。


 王冠は豊富な標準核から、短い時間で組み合わせを出せる。星灯りでは使う人の手を聞き、実物で交替を試す。小工房は、古い品を持ち込んだ客へ現物を合わせる。


「共通なら、どこで買っても同じですか」


「取り付けられる境界は同じです。誰に合うか、どこで修理を受けるか、値段はそれぞれです」


 王冠の棚で買った効果核へ、ヨナスの接触部を選んだ客もいた。低出力の本人、強い入力の夫、冬手袋の手が順に触れ、起動、維持、交替、完全停止を行う。裏の残留灯まで消えたのを確かめ、二枚の受領票を渡した。


「王冠で核を買って、こちらで接触部を買うのは失礼では?」


「どちらにも代金を払うなら、失礼ではありません」


 客は笑った。一つの生活具へ、競合二社と小工房の名が残った。


 共通留め具は、もう星灯りだけが売れる規格ではない。その独占を開いた代わりに、どちらかの店が閉じていても、客は交換部品を探せる。それを惜しく思わないと言えば嘘になる。けれど王冠の売場で同じ小さな留め具が売れるのを見ても、胸に残ったのは悔しさだけではなかった。


 危機のあいだに離れた客の記録も残す。予約を取り消して王冠で買った人、返金だけを受けて非魔法の毛布を選んだ人、復旧後も星灯りへ戻らない人。救援の評判で、いずれ戻るはずだと将来の売上へ足さない。通常営業はまだ、危機前の姿を取り戻していなかった。


 夕方になると、貸出品を返す金属音と、通常客が蓋を試す音が一階で重なった。値段を比べる声、買わずに帰る靴音、修理が終わる日を尋ねる声。街じゅうの暖流弁が直った音ではない。それでも、自分の品を返し、自分の暮らしへ合うものを選び直せる音が、少しずつ百貨店へ戻っていた。


 閉店後、アルノルトと七階の窓辺で会った。


 事故報告の打ち合わせではない。まず互いの勤務票を出し、規定の休息を取った時刻を見せる。


「休みましたか」


「はい。あなたも?」


「取りました」


 顔を見れば分かるとは言わない。疲れている人ほど、大丈夫な顔を作れることを知ってしまった。二人の署名を確かめて紙を閉じたあと、急に何を話せばよいか分からなくなった。


 危機の最中にも、アルノルトの姿は何度か見た。徴発札を持つ監査局長として、事故報告から私の失敗を削らない人として。名前を呼ぶことも、手を伸ばすこともできない距離だった。


 近くで見ると、彼の袖口には乾いた墨が残り、指の節には紙で切った細い傷があった。私がそこへ目を留めると、アルノルトも私の掌を見た。留め具を握り続けた赤みは薄くなっているが、爪の間にはまだ金属粉が残っている。


「怪我は」


 同じ時に口を開き、二人とも止まった。


「大したものではありません」


 また声が重なる。危機のあいだなら、その答えを疑って勤務票へ戻しただろう。いまは互いの手を取りたいと思いながら、どちらも先に触れられなかった。仕事の規則がなくなると、私はこんなにも不器用になるらしい。


 私は一歩近づいた。


「会いたかった」


 敬称も、整った説明もつけられなかった。口にした途端、胸の奥に溜めていた三日ぶんの冷たさがほどける。


「私も、会いたかった」


 アルノルトの腕が背へ回り、私は彼の外套を掴んだ。額を胸元へ寄せると、鼓動が閉店鐘より遅く聞こえる。最初の口づけの時のように、逃げる時間を測る必要はなかった。


 抱擁は短かった。未払いの公費も、事故の責任も、帰ってこない客も残っている。それらを消すためではなく、無事だった彼の体温を、ただ少しだけ確かめるように離れた。


 そこへマルタが、王都行政の封書を持ってきた。中には、磨いた金板へ大きく刻まれた見本がある。


『王国救済店』


 三地区を救った功績として、星灯りへ称号を贈りたいという。裏には公開事故報告の草案も貼られていたが、市が試用を省くよう命じたことも、店員が二十時間を越えて働いたことも書かれていなかった。


 金文字だけが、冬の灯りを受けて眩しく輝いていた。


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