第88話 公的調達の代金
「発注書は、いま出せます。お支払いは九十日後です」
市の調達官が置いた紙には、王都三地区へ回す交換部、臨時の修理人、辺境から運ぶ留め具、避難所で使う貸出品が記されていた。注文としては大きい。金額だけを帳簿へ写せば、危機によって百貨店が潤ったようにさえ見えるだろう。
けれど、一階の見積台の向こうでは、ヨナスが材料店から届いた請求票を握って待っている。今夜削る留め板は、九十日先の硬貨では買えない。夜を明かして働く人へ、未来の日付を賃金として渡すこともできなかった。
「王都を救う事業です」
調達官は声をやわらげた。
「名誉と今後の優先発注もあります。一部は協力価格としていただけないでしょうか」
「名誉を、どの金箱へ入れればよいのですか」
私が尋ねると、彼は答えず、見積書へ目を落とした。
共通留め具の材料と逃がし溝の再加工、臨時賃金、辺境便の夜間輸送、貸出品の破損と整備、徴発された店有在庫への補償、避難者を代替先へ移した費用。さらに三時間の全面休業、通常売場を閉じた間に失った仕事、九十日をつなぐ融資の利息と手数料を、それぞれ別の行へ戻してある。
「三時間、何も作らなかった分まで、市が払うのですか」
調達官の指が休業欄で止まる。
「休まなければ、病院用と住宅用を逆に出荷するところでした」
私はニナが止めた二つの箱の記録を添えた。
「休息は、部品を削るのと同じ工程ではありません。それでも、事故を防ぐために必要でした」
「通常営業の損まで、公費で認めるのは難しい」
「すべて認めるかは審査してください。ただ、避難に使った床も、延期した予約も、閉めた時間も、最初から存在しなかった費用にはしません」
請求した行がそのまま通るとは思っていない。それでも先に消してしまえば、次の危機で休業を決める人は、自分の店と店員だけにその値段を負わせることになる。
隣の台へ、マクシムが王冠の供給票を置いた。安定した効果核と標準操作部、中央倉庫から設置区までの大量配送。利幅は外してあっても、材料、検品、梱包、運賃は残る。
「原価で出すと言った。無償で渡すとは言っていない」
「王冠ほどの商会なら、耐えられるでしょう」
「資金の大きさで代金を消せば、その次は小さな工房にも同じ顔をする」
低い声に、王冠の技師たちが黙って背筋を伸ばした。王冠の効果核と供給力がなければ、七十二時間の最低線には届かない。その事実を、競合だから値切る理由へ変えるつもりはなかった。原価供給分にも通常の受領印と支払証書を出す。
小工房へ前もって渡す分も、ひとまとめにはしない。ヨナスの測り型、各工房が削る留め板、指で零位置を読める触覚印、試験で使えなくなった部材。完成したものだけを検収し、まだ作っていない品を売上には数えない。けれど材料を買う前の金は要る。職人へ九十日待てと言えば、暖流弁より先に工房が止まる。
王冠、小工房、星灯り、辺境の地域便。それぞれへ、いつ何を支払うかを別の票へ分けた。功績を一枚にまとめる時ほど、支払先の名前は薄くなりやすい。
マルタが一階の金庫を開ける。通常客への返金、臨時の賃金、避難所の食材、搬送費が先に出ていき、公費の発注書はまだ一枚の紙のままだ。辺境支店が営業寄与黒字になったからといって、本店の硬貨が尽きなくなったわけではない。
私は大きな表を二枚、客からも見える一階へ掛けた。一方には、仕事を終えて請求できる代金。もう一方には、今日、実際に金庫へある金。完成して検収された部品は前者へ加わるが、右側の硬貨は増えない。反対に材料を受け取るたび、職人へ賃金を渡すたび、金庫だけが軽くなる。
「黒字なのに、お金がないのですか」
避難所から片づけを手伝いに来ていた女性が、二枚を見比べた。
「代金を受け取る権利はあります。使える硬貨になるのが、九十日後なのです」
「市が払うなら、待てばよいのでは?」
「材料店も、職人の食事も待ってはくれません」
二枚のあいだにある九十日を、誰かが金で繋がなければならない。その値段が利息だった。
市の者が、七階で事故報告を書いていたアルノルトへ視線を向ける。
「公爵家から一時的に借りることはできませんか。あるいは監査局長の保証で、王家の緊急金を先に――」
「使いません」
答えたのは私だった。アルノルトも書類から顔を上げる。
「私の保証は付けません」
私たちが恋人であることをまだ公にしていないからこそ、彼が保証すれば、ただの便宜に見えにくいかもしれない。けれど彼の名で今日だけ穴を埋めれば、次に同じ仕事を受ける店は、その公爵を持たない。私は彼の好意を、銀行が換金できない担保にしたくなかった。
一階の空いた受付へ、銀行の公開窓口を設けた。奥の応接室で特別な条件を受けず、通りから見える台の上に、市の発注書、検収を終えた公費債権、九十日後の支払期日、店の返済計画を並べる。
「未完成の部品は、担保にはできません」
銀行員が見積書へ線を引く。
「納めて検収された分だけで構いません」
「通常営業が戻らなければ、返済できる力は弱くなります」
「閉鎖で失った分も、帳簿へ出しています」
「公費が九十日を越えて遅れた場合、銀行への追加利息は店が負います」
「市へ請求はします。けれど銀行との契約を負うのは、星灯りです」
王国が払うのだから絶対だとは言わず、市の遅れを銀行へ押しつけず、銀行の利息を職人へ負わせない。利率、手数料、融資を受ける日、公費の入金予定と返済日、遅れた場合の扱いを、二枚の表の下へ掲示した。
「競合にも資金繰りが見えますよ」
銀行員が小声で言った。
「利息を公費の価格へ戻す以上、根拠を隠せません」
私は通常条件のつなぎ融資へ署名した。保証人欄にアルノルトの名も、公爵家の印もない。担保は検収済みの公費債権で、返済するのは《星灯り魔法百貨店》だった。
融資が実行されると、最初に王冠の原価供給分へ支払証書を出す。小工房には材料と臨時賃金、地域便には夜間運賃と保険、店員には追加勤務だけでなく休息中の賃金を渡した。店の取り分を先に置かず、明日の返金と貸出整備に必要な金を使途票付きで残す。
「あとで有名になるから安くしろ、と言われなかったのは初めてだ」
証書を見たヨナスが、測り型へ次の材料を載せた。
「有名になるかどうかは、私には約束できません」
「それを約束されない方が、材料屋には話しやすい」
銀行から来た硬貨は、英雄の手元へ積まれず、留め板を削る音と、夜道を走る車輪へほどけていった。
製作が再開する一方、一階の支給窓口では、急いでも本人の試用を省かない。起動する人、途中で交替する人、完全な零位置を確かめる人、機械栓で止める人が、実物へ順に触れる。
「市が買った品なら、受け取らなければなりませんか」
住宅区画の女性が尋ねた。厚い手袋の指では、逃がし溝の触覚印を読めない。
「断れます。別の停止担当を登録するか、家庭へは持ち帰らず共同給水所を使う方法もあります」
女性は持ち帰らないと決め、自分で拒否票へ署名した。支給する品は増えなくても、彼女が止められない設備を家へ置かずに済む。
別の家では、母親が起動し、夜には成人した娘が止める。二人が役割を替えても、流量を落とし、輪を零へ戻し、裏の残留灯まで消せた。それを確認して初めて支給箱を閉じる。
見積台をマルタへ任せ、私は最後の確認札を持って病院へ向かった。地下の弁室では、昼、夕刻、夜の操作者が、それぞれ違う操作部へ自分の印を付けている。適合する一人に残業させず、三人が交替しても最低流量を保てる形だった。
病棟の蛇口を看護師が開く。最初に管の冷たい息が鳴り、それから細い水が落ちた。手洗いに足りる流れで、湯気が立つほどではない。暖房管も部屋全体を春のようにする熱はなく、寝台のそばで手を凍えさせない程度だった。
「全部の病室へは、まだ届きません」
看護師が、喜ぶより先に未復旧の棟を指した。
「その札を入口へ出してください。戻った棟だけ見て患者を移せば、別の管へ負担が寄ります」
復旧時刻の隣へ、止めている区画と代替の保温棚を掲示する。病院一棟を救ったという言葉は使わず、水の届く蛇口にだけ青い糸を結んだ。
共同炊事場では、クルトが暖流弁の零位置を確かめてから、生地を入れた炉へ湯を回した。以前、危険な操作を断って解雇されかけた彼の隣には、代替担当が勤務票を持って立っている。
「今日は俺が起動できます。でも停止は、こちらに替わってもらう」
クルトが自分の名で役割を告げ、もう一人が触覚印へ手を置いた。温まった鉄板から、パンの匂いがゆっくり立ち上る。焼ける量は、待つ人すべてを満腹にするほどではない。最初の籠は病院へ、次は共同炊事で湯を待つ人へと、行先札を付けた。
「支払いの話をしている時に、パンの匂いを嗅ぐと弱くなりますね」
同行した調達官が呟いた。
「値引きしたくなりましたか」
「むしろ、払わなければならない気がしてきました」
彼は臨時賃金の行から目を逸らさず、受領票へ署名した。働く手の値段は、会議室の数字より、この場の焦げた小麦の匂いの方がよく伝わるらしい。
店へ戻る道で、まだ暖房の戻らない住宅の窓がいくつも見えた。毛布を重ね、共同給水所から水を運ぶ人がいる。病院と炊事が動いたからと、街じゅうが暖かくなったわけではなかった。私は確認札の空白を、そのまま事故盤へ持ち帰った。
七十二時間の砂が、最後の細い筋になった。
病院では、三交替の勤務で最低暖房と治療用給水が動いている。共同炊事では、クルトが自分に合う操作部を使い、パンと湯を出す。全面暖房はまだ戻らず、修理を待つ番号札も七階に残ったままだった。
最後に必要なのは、三地区の住宅給水である。交替試験を終えた区画から、幹線の最低流量を開く。
東地区では、最初に濁った水を清掃用へ分け、透明になってから生活水へ切り替えた。河岸地区の凍りかけた管は低く鳴り、やがて細い水が蛇口へ戻る。北工房地区では、高熱警報を出した系統を止めたまま、隔離した隣の給水線だけを動かした。
事故盤へ書いたのは、三地区の住宅給水、最低線復旧。全面復旧という文字は置かない。病院も共同炊事も住宅も、生きるための下限へようやく届いただけだった。
砂時計の最後の粒が落ちる。
歓声の向こうで、銀行の返済票が冬の風に揺れていた。街を救う仕事の代金はまだ金庫になく、通常売場の扉には、危機の前から待たせている客の予約札が残っている。
水を戻した店は、翌朝から、自分の日常を戻さなければならなかった。




