第18話 専売契約は誰のもの
灯りの代わりに黒塗りの箱が届いたのは、第百十日のことだった。
蓋に描かれた金の王冠は、薄暗い工房でもいささかも翳らない。中には《王冠百貨商会》からの契約書と、まだ五十台どころか一台も売っていない品へ支払うには、あまりに立派な前金証書が収められていた。
契約の対象は、低出力用の三種灯芯、交換式の絞り板と調整輪、製法、商品名、今後の改良権、販売権。ヨナス工房は《王冠》の指定工房となり、ニナとルチアには専属技術者として今より高い給金を出す。店が集めた用途記録は、客の名を外して提出し、今後作られる似た品も商会の資産に含めるという。
「向こうなら、十二日で五百台でも揃えるでしょうね」
ルチアは前金証書をつまみ上げ、紙の厚さを確かめるように曲げた。
「灯芯の工賃も、今より上だ」
ヨナスの声に浮ついたところはなかった。昨日突きつけられた工数表を思えば、大量の部品と人員を持つ《王冠》の申し出は理に適っている。王都中へ同じ品を届けられる力は、小さな工房を訪ねて回ったところで、私たちには手に入らない。
「お返事を決める前に、これを一台、分けてみましょう」
私は試作品を机の中央へ置いた。契約書だけを会議室へ持ち込めば、金色の前金と難しい文言に、まだ頼りない灯りが呑み込まれてしまいそうだった。
ヨナスが反射笠を持ち上げ、内部から三本の灯芯を外した。
細光、柔光、広光。張り方も、魔力を受け取る速さも異なる。それぞれを白布の上へ置き、自分の名を書いた札を添える。
「芯の巻きと熱の逃がし方は、うちの仕事です。元になる《宵待ち灯》の核も」
「灯芯に不具合があった場合は、どこまで負担できますか」
「交換品の製作と、その検査費。ただし、売場で指定と違う張りに変えたものまで、工房のせいにはされたくない」
私は契約紙へ境界を書き、彼の前へ戻した。ヨナスは一字ずつ読み、張力の記録がなければ判定できないと追記する。
次にニナが調整輪を外した。輪の内側には五本の細い溝があり、その下から穴の形を変えた銅の絞り板が現れる。最初の《宵待ち灯》へ、針仕事用の板を一枚差したのが始まりだった。いまでは、照らす幅と向きを変える六枚が揃っている。
「わたしが考えたのは、ここです。でも灯核は作れませんし、内部の大修理にも署名できません」
「それも商品箱へ書きましょう」
「見習いと書いたら、発明者ではなくなりませんか」
「見習いという身分で、この溝を考えたのでしょう?」
ニナは輪へ触れ、溝を一段動かした。細く机へ落ちていた光が左右へ開き、契約書の端まで乳白色に染める。
一台売れるたびに支払う職務発明の歩合と、修理資格の講習費、受験料を店が負担する条項を作った。給金とは別の金であり、資格を得るまで大修理は任せない。どちらも同じ行に記すと、彼女は何度も読み返してから自分の札を置いた。
ルチアは灯核に手を触れず、停止爪の前へ検査票を広げた。
「これは、私の発明ではないわ。でも、連続起動、停止、転倒、表面温度をどう試すかは私が決める。合格しないものへ署名を求められたら、販売そのものを止めます」
「私が売ると言っても?」
「店主の命令で傷が消えるなら従うわよ」
乾いた声に、ニナが視線を落とした。三年前の事故で、新聞へ最も大きく名を載せられたのはルチアだった。
彼女には独立した検査署名欄を作り、三十日の契約中、私の許可がなくても不合格と停止を記せるようにした。事故が起きた時、最後に署名した資格者だけを探せないよう、試験条件へヨナス、ニナ、店の確認印も置く。
マルタは、分解された部品の傍らへ三枚の用途票を並べた。ハンナの裁縫、ボルクの夜警、郵便所の夜間事務。名前を伏せても、働く場所や家族についての記述をそのまま渡せば、誰の票かを辿れることがある。
「この記録は、誰の権利になりますか」
「原票はお客様のものです。店が使えるのは、ご本人が許した範囲から、三件以上をまとめた用途と調整の傾向だけにします」
「《王冠》へ譲る匿名記録には?」
「個票は一枚も入れません」
マルタは原票を鍵棚へ戻し、複数の票から抜いた光の幅、色、時間、発熱だけを別紙へ移した。《星灯り》の名札は部品の横ではなく、その記録棚と試用台のあいだへ置かれる。
店が持つのは、王都で一年間販売する権利と、比較試用の手順、返品窓口、修理部品を保つ責任。一年を過ぎれば、ヨナスは別の町へ灯芯を卸せる。ニナやヨナスの工程を使って他店が改良する場合は、それぞれへ改良料を支払う。製造権まで永久に譲らせる文言は外した。
「一年は、短くありませんか」
マルタが契約書を光へ透かした。
「五年の債務を返すには、永久でも短いでしょうね。それでも、いま困っている店が、職人の残りの人生まで先に売ることはできません」
口にしたあと、少し綺麗に言いすぎた気がして、私は一台の値札を裏返した。現実の数字は、もう少し愛想がない。
灯核と筐体に銀貨十二枚。灯芯、調整輪、反射笠で十枚。組み立てと耐久試験、販売時の試用に八枚を要し、包装と三十日保証、将来の回収費として四枚を残す。原価は合わせて銀貨三十四枚になった。
売価は四十八枚。店に残る十四枚を、誰の収入とも決めず余らせておけば、最初の失敗で奪い合うことになる。
「灯芯が切れたなら、工房で交換品を作る。輪の溝が合わなければ、ニナの工程へ戻す。検査時と異なる熱が出れば、ルチアが販売を止める。店が違う用途を勧めた時は、《星灯り》が再調整と回収の便を払います」
マルタが十四枚の数字を見つめた。
「一度、遠方から回収したら消えますね」
「その時のための四枚を価格から抜けば、回収すらできなくなります」
原因が判明する前には、四者の一つへ無理に請求せず、店が先に客へ返金する。そのあと工程票を開き、製作、調整、検査、販売のどこで起きたかを確かめる。事故の通知費まで、契約へ書き込んだ。
初回は五十台で止める。五十一台目へ着手する前に、製作へ掛かった時間、返品率、交換部品の残数を見直し、四者が改めて印を押すことにした。
《王冠》の契約書へ最初に返事をしたのは、ヨナスだった。
「指定工房になれば、今よりよい工賃が出る。けれど、契約外の灯芯を作る時は許可が要るそうです」
「それは似た商品の流出を防ぐためでしょうね」
「娘のために別の光を作る時まで、似ているかどうかを向こうが決める」
彼は移籍欄へ『辞退』と書いた。
ニナは、自分の名が技術者ではなく『付随人員一名』とある箇所を指先で叩いた。
「給金は、今よりずっと多いです。でも、わたしの溝が誰の名前で売られるか書いてありません。辞退します」
ルチアは前金証書より、事故時の条項を長く読んだ。
「五百台を作れるところなら、五百台を止める署名が要る。ここには、工場長の許可を受けて停止を申請するとしかないわ」
彼女の辞退は、紙の余白へ小さく収まった。
共同開発案には、一人が《王冠》と契約しても違約としない旨を入れてある。三人がこちらを見た時、自分と同じ返事を求めたくなるのを、私はインク壺へ視線を落としてやり過ごした。
「《星灯り》としても、永久譲渡をお断りします」
四枚の返答を並べると、同じ『辞退』でも筆跡はまるで違った。ヨナスの文字には煤の指跡が付き、ニナは一度書き損じて横へ小さく書き直し、ルチアの線は刃物のように細い。私の文字だけが王宮で教えられた形に整いすぎて見えた。
午後、アルノルトが定例の安全記録を確認するため七階へ来た。
共同開発契約と試験予定表を渡すと、彼は四人の署名から読み始めた。私は何も言わず待つつもりだったのに、頁をめくる黒い手袋の音が静かな試験場へ響くうち、どうしても口が動いた。
「この条件なら検査へ通る、と先に言っていただくことはできますか」
「できません」
迷う時間さえない返事だった。
「申請前の品へ局長が合格を約束すれば、担当官は品ではなく私の言葉を検査することになります」
「では、今の時点で違反している箇所だけでも」
「私的な添削も行いません」
アルノルトは鞄から、薄い冊子を取り出した。『組替え式低危険灯具・公開試験項目』。監査局の受付で、身分にかかわらず誰でも受け取れる資料だという。受領簿まで添えられている。
連続点灯、停止回数、表面温度、転倒、交換部品の誤装着。最後の一項が私たちの予定表にない。
「こちらをくださるのは、便宜ではありませんか」
「明日の受付でも同じ冊子を渡します。疑いがあるなら、そちらで受け取ってください」
「疑っているわけでは……」
言いかけて、自分が何を期待していたのか分からなくなった。百日目を越えたのだから一度くらい、よくできていると言ってほしかったのかもしれない。彼の言葉に頼らず審査を通したことを嬉しいと思ったはずなのに、灰色の外套を見れば、また特別な一言を探してしまう。
私は冊子の番号を控え、受領欄へ署名した。紙を受け取る時、手袋越しの指が触れそうになり、アルノルトの方が先に手を引いた。書類を汚さないための動きだろう。そう決めてしまうと、少しだけ腹が立つ。
「正式に申請します。どなたが担当でも、この項目を通るように」
「申請を受けた後は、担当官が必要な追加試験を決めます」
「ええ。そこまで愛想のないお返事で結構です」
彼はほんのわずかに目を細めた。笑ったのか、不適切な発言として覚えられたのか、最後まで判別できなかった。
夕方から、問い合わせをくれた五十人へ、予約条件を一人ずつ説明した。
価格は銀貨四十八枚。その半分の二十四枚を予約金として預かる。完成品が足りなければ全額を返し、検査に落ちた品は渡さない。試して用途に合わなければ、購入をやめてもよい。製造は五十番までで止め、順番は金を払った速さではなく、最初の問い合わせを受けた順とした。
「今日払えば、必ず一台もらえるのですか」
一番目の女性が封筒を持ったまま訊いた。
「いいえ。お渡しできなければ、そのままお返しします」
「それなら、何のために先に払うのでしょう」
「材料と、作る方の工賃へ使います。店だけで借りず、皆様にも製作の負担を分けていただくためです。ただし、お渡しするまでは皆様のお金で、店の売上にはなりません」
女性はしばらく考え、二十四枚の銀貨を封筒へ移した。封をする前に、三度数え直している。
来店できない人へは、使者が同じ文面を読み上げ、署名を受けた。急いで払えば先へ進めるとは伝えない。断った人が出た時だけ、五十一番目へ声を掛ける予定だったが、五十人全員が条件を受けた。
銀貨二十四枚を納めた封筒が五十。合わせて金貨六十枚である。
現金箱には入れず、二つの鍵がなければ開かない預り金箱へ収めた。帳簿にも同額の債務を立て、開発費、製作費、返品に備える金を別々の封筒へ分ける。手元の硬貨が増えても、自由に使える額は一枚も増えなかった。
ニナが商品箱に結んでいた紙の試作札を外し、青黒い台座へ刻印を入れた。
《星雫灯》。ヨナスがその名を白紙の製作票へ置いたのは、第百日目の夜だった。まだ一度も灯っていなかった名へ、第百四日の夕方、ボルクの手から机へ落ちた青白い光が、遅れて姿を与えた。その名の下へ、ヨナス・オルロフ、ニナ、ルチア・フェルナー、《星灯り魔法百貨店》と同じ大きさで刻まれていく。
灯りはまだ一台しかない。壁には五十人分の予約票が並び、いずれも十二日後の日付を希望していた。
マルタが最後の票を留めると、古い時計の振り子を動かした。十二日分の目盛りを書いた紙が、その下でかすかに揺れ始めた。




