第16話 売れない発明
第百一日の朝、正面扉には差押え札を剥がした跡が、薄い朱色となって残っていた。
ボルクが油を含ませた布で磨いてくれたのだが、春の光が斜めに射すと、四角い糊の跡だけが浮かぶ。消してしまうには惜しい気もして、そのままでよいと伝えた。昨夜まで店を閉ざしかけていた紙は、いまや手のひらほどの色むらに過ぎない。
それでも、一階では昨日までと変わらず、マルタが開店札を返し、ニナが試用台の防護布を張り直している。返品の呼び鈴が鳴れば誰かが帳場へ走り、修理品を運ぶ昇降籠は朝から不機嫌な音を立てた。五年分の借金は、朝になっても一枚たりとも夢へ消えてはいなかった。
変わったものを探すなら、頭上に二つ灯った《七連星灯》と、営業を許された二階だった。けれど、階段を上った客が見るのは、布を掛けた陳列台と曇った姿見、それに商品名を外された空の棚ばかりである。一階から品を分ければ、しばらくは賑わっているように見せられる。そう提案したマルタは、誰が両方の階を受け持つのか私が尋ねると、もう棚へ手を掛けようとはしなかった。
私は階段口へ『二階は準備中です。試作品の販売はしていません』と掲げ、空の衣料棚のあいだへ大机を置いた。
机を覆ったのは商品ではなく、《宵待ち灯》にまつわる紙だった。売れた時の票、七日以内に返された票、絞り板を替えた記録、三品を試した末に何も買わなかった客の言葉。束ねて階段を上がると、灯りの箱より重く感じられた。
「『暗い』は、こちらへまとめますか」
ニナが一枚を摘み上げる。彼女の前には『暗い』『熱い』『ちらつく』『範囲が狭い』と書いた四枚の札が用意されていた。
「その方は、何をなさっている時に暗かったの?」
「新聞を広げて……端の文字が沈む、とあります」
「では、読書の束へ。片手で読む本とは分けましょう」
ほかにも、寝台の子どもまで明るくして起こしてしまった票、鍵穴には届くのに足元が見えなかった票、赤い糸と紫の糸を取り違えそうになった票がある。同じ『暗い』の一語に閉じ込められていた不満を、裁縫、子守、夜警、読書、帳場仕事へ移していくうち、空の棚の上に、まだ形のない幾つもの夜が並び始めた。
ヨナス・オルロフは三本の灯芯を、それぞれの束の前へ置いた。青白く細い光を落とすもの、乳白色の柔らかな光を広げるもの、机の端まで琥珀色に染めるもの。ニナは最初の客だったハンナの灯りへ付けた銅板をもとに、穴の大きさが異なる絞り板を重ねている。
「三本とも一台へ入れれば、客が好きなものを選べるんじゃないか」
ヨナスが灯芯を指で弾くと、銀色の細い線が低く鳴った。
「重くなります。それに、使わない灯芯まで買ってもらうことになるわ」
ニナがすぐに答える。
「なら、使うものだけ後から入れ替える。問題は、何を最初に試すかだな」
私は『試作《星雫灯》』と書かれた製作票を引き寄せたものの、値段の欄にはまだ線を引かなかった。二階を覗いた客が、あれはいつ買えるのかと訊いてくるたび、胸のどこかが浮き立つ。期待されるのは気分がよい。その気分のよさを値札へ変えるには、欠けているものが多すぎた。
第三の鐘が鳴るころ、昇降籠が二階を通り過ぎ、七階で重い音を立てて止まった。
ヨナスが運び込んだ木箱には、二十八個の灯核が詰められていた。欠けた陶器の台座、流行遅れになった真鍮の枠、最大光量の検査で点かなかった《宵待ち灯》。王都の道具店や修理場を回り、砕かれる前に集めてきたという。
「新品の半分ほどで買えます。外側が古いだけなら、核はまだ使える」
彼が最初の一個へ手を伸ばしたので、私は箱の底に挟まれていた札を先に取り出した。
「こちらは、どなたから買うのですか」
「北区の道具屋です。もう廃棄品として引き取ったと」
「元の持ち主が、廃棄を任せた署名は?」
ヨナスは眉を寄せ、札を裏返した。何もない。
二十八枚を確かめると、三枚は返品理由が『不良』とあるだけで、二枚には所有権が移った証拠がなかった。点くかどうかを試すだけ、と言いかけたニナが自分で口をつぐむ。もし点いてしまえば、私たちは他人の品を勝手に分解したことになる。
五個を箱へ戻し、残る二十三個にも値を付けなかった。合格した時に買い取る条件で預かり、どの店から来たのか、返品か下取りか、どのくらい使われたのかを記した札を、一個ずつ灯核へ結びつける。
「赤い紐が返品、青が下取り、白が廃棄品でどうでしょう」
ニナの提案に、ヨナスが首を横へ振った。
「紐だけ残って札が落ちたら、理由が分からなくなる」
「なら、紐と番号の両方を。番号を削らないと開けられない位置へ打ちます」
二人が相談しながら、灯核の外装へ小さな札穴を作っていく。私は照会状を五通書き、ボルクへ渡した。彼は宛先を確かめると、集荷便が出る時刻に間に合わせるため、昼食も待たずに階下へ降りていった。
ニナが工具巻きを開く。
「外装と接触板なら、わたしの資格で外せます。残留魔力も抜けます。でも、灯核の亀裂と停止機構への署名は……」
視線が十二台の修理卓を巡った。百日目の審査を越えたとはいえ、七階で大修理へ署名できる者は一人もいない。
旧い人員台帳の最後に、三年前の日付で退職した修理師の住所が残っていた。
そこにあった名は、ルチア・フェルナー。三十一歳の有資格修理師だった。
「試作品が割れた事故の時、検査署名をした方ですね」
新聞綴りを見つけたマルタが、紙の端を伸ばしながら言った。怪我人はいなかったが、見出しにはルチアの名があり、商品を売った店と設計した職人の名は、記事の末尾へ小さく記されているだけだった。
「母の店にいた方なら、声を掛ければ戻ってくださるでしょうか」
口にしてから、自分の声に混じった甘えへ気づいた。
母を知る人。昔の仲間。この店が苦しい時には助けてくれるはずの人。王宮にいた頃、私もそんな言葉で、断りにくい依頼を幾つも包んだ。美しい包装は、中身のない報酬を少しも重くしてくれない。
便箋へ書きかけた『母も喜ぶと思います』を二本線で消し、契約書から作り直した。
期間は三十日。前金として金貨三枚を払い、一個ごとの検査署名料は別にする。事故保険は店が負担し、資格外、契約外、記録の足りない作業を断っても違約にはしない。最終日に検査が終わっていなくても、署名を急がせない。ニナは助手ではなく、交換式絞り板と接触部の担当者として同じ紙へ名を置いた。
使いを出した翌日の午後、ルチアは契約書を持って自分の足で現れた。
灰茶色の髪を短く束ね、使い込まれた革の工具巻きを脇に抱えている。二階の空棚にも、一階から上がってくる客の声にも目をやらず、まっすぐ七階へ来ると、契約書を修理卓へ広げた。赤い線が三本引かれている。
「昔の帳簿を捨てていなかったのね」
「住所を使わせていただきました」
「昔の縁は、使わなかった。そこは読みました」
指先が、最初の赤線を叩く。
「検査で割れた灯核を、誰が負担するのか書いていない。見習いが境界を越えた時に、私が作業全体を止められるとも書いていない。それから、三十日目に未完なら残金を払わないとも読めるわ」
「三つとも直します」
「あなたの店に不利になりますよ」
「そのために、今お聞きしています」
ルチアの目が初めて契約書から上がった。美しいというより鋭い目だった。長く黙ったあと、隣で背筋を伸ばしているニナへ顎を向ける。
「見習いさん。あなたは何を触るの」
「外装と接触部、絞り板です。灯核には触りません」
「見習いは皆、最初にそう言うのよ。私が止めたら、あなたの名は製作票から消える?」
「失敗の欄にも、わたしの名を残します」
ニナは一度も私を見なかった。その答えに、ルチアは赤線の横へ新しい文言を書き込み、最後まで読んでから署名した。
前金三枚を渡し、自由に使える現金は八十四枚から八十一枚になった。二階の開店予定表には、少なくとも一か月の延期を入れる。営業許可を取った翌日に準備中と掲げるのは、あまり格好のよいものではない。昼までに空棚を覗いて帰った三人の客も、来店票へそのまま記した。
検査は、灯りを点けるより前に始まった。
四日目までに、照会していた五個の所有元も確かめられた。二十八個には出所と返品理由の札が揃ったが、販売可能な在庫としての価値はまだ零である。
ボルクが番号と来歴を読み上げ、私が受入票へ書く。ニナは筒へ灯核を入れて残った魔力を抜き、測定針が零へ戻るまで指を触れない。ルチアの許可が出てから外装と接触板だけを外し、螺子を白い布へ順番に並べた。
灯核そのものは、ルチアが拡大鏡で見る。髪より細い亀裂を探し、停止爪をわざと半端な位置から押した。止まる保証のないものは起動せず、検査箱へ移す。
「新品なら、ここまで調べなくてもよいのでしょうか」
私が尋ねると、彼女は拡大鏡を動かしたまま答えた。
「新品は、まだ壊れ方を見せていないだけ。古い品は、以前の壊れ方が分かれば調べる場所が増える。それだけよ」
ニナの交換式絞り板は、裏返しても溝へ嵌まってしまうものがあった。自分ならそんな付け方をしない、と彼女が言うと、ルチアは、夜中に借りた同僚も同じように扱うと思うの、と訊き返した。逆向きには入らない溝を次の板へ付けることになり、その日の試作品だけを削り直すのはやめた。
ようやく一台を組めたのは、四日目の夕方だった。
ヨナスが細光の灯芯を張り、ニナが最も穴の小さい絞り板を差し込む。ルチアは停止機構を三度確かめ、私は試用票に時刻と構成を書いた。
最初に触れたのは私だった。微かな魔力を流すと、青白い光が星形に開き、その輪郭を保てないまま震え始める。机の数字が二重に見え、十を数える前にルチアが止めた。
ニナでは白くともったものの、呼吸するように明暗を繰り返した。調整輪を一段戻しても揺れは収まらず、細かな作業には使えない。
ルチアが二枚の失敗票を重ね、階下へ声を掛けた。
「もう一人、手の空いている人を。今度は魔力の弱い人がいいわ」
荷箱を運んできたボルクが、自分の胸を指した。
「俺か? 湯沸かし石さえ、朝までぬるいままにするぞ」
「その手を貸してください」
老人は仕事用の手袋を外し、ごく細く魔力を流した。
灯芯の先に生まれた青白い光は、丸く広がらず、雫のように机へ落ちた。番号札の数字と、鍵の細い刻みだけを静かに浮かせる。十分ごとにルチアが温度片を当てても色は変わらず、三十分を過ぎても光は揺れなかった。
ヨナスは灯芯の張りを測り、ニナはボルクが指を置いた角度を写す。私は先ほどの二枚を下へ隠さず、三人分の票を順に並べた。
ルチアが、机へ落ちた小さな星を眺める。その横顔に喜びらしいものが浮かんだのは束の間で、すぐに五十枚近く集まり始めた問い合わせ票へ目を移した。
「三人目でしか点かない品を、どうやって五十人へ売るの」




