第15話 差押えの朝
執行人が帳場へ置いた七枚の封印札は、まだ糊の匂いがした。
一階から七階まで、一枚ずつ。正午までに猶予条件が認められなければ、扉と階段へ貼るのだという。灯りを落とした夜市の天幕が窓の外で濡れ、売上袋と返品票は机の上に積み上がっていた。店中に祭りのあとの甘い匂いが残っているのに、誰一人、椅子へ腰掛ける暇もない。
百日目は、こちらの片づけを待たずに始まった。
「合いました」
マルタが掠れた声で言い、夜市の帳簿へ最後の線を引いた。眠気を払うためにきつく結い直した髪から、何本か白いものがこぼれている。
私は売上の合計より先に、現金箱の底へ残った額を確かめた。
金貨八十四枚。
始まりの日には十二枚しかなかった。それを思えば増えている。けれど、この百日で受け取った金貨は千五百九十枚で、売れた品を作った人、店で働いた人、過去に支払いを待たせた人へ渡したあと、手元に残ったのが八十四枚なのだ。
「王宮の残金も、入っています」
マルタが入金証書を差し出した。
予約だけでまだ渡していない品の手付金は、売上から外す。昨夜受け付けた来月の修理代にも別の紐を掛けた。数えれば数えるほど大きくなる帳簿なら、どれほど気が楽だっただろう。提出できる形へ整えるには、使えない金を一枚ずつ剥がしていかなければならない。
八十四枚を並べ終えるころ、窓の外の空が白み始めた。
債権者審査は、昨夜まで子どもが星を並べていた一階の試用台で行われた。
第一抵当権者、仕入先、設備修繕の債権者、従業員賃金の代表。監査局からは副局長と独立技師が来ている。アルノルトは灰色の監査服を着て、最大債権者側の代理席へ座っていた。
濃緑の上着も、昨夜買った旅行灯も見えない。二十七番の客が書いた試用票は店の帳簿にあり、今日の彼の手元にあるのは、監査記録だけだった。
「差押えを猶予するための条件は三つです」
執行人が令状を開いた。
「延滞金貨六百枚の完済。直近三十日間の営業黒字。営業区画に対する安全監査の合格。順に確認します」
私は四つの受領証を差し出した。
内訳は、第一抵当の延滞元利が金貨四百二十枚、魔力炉と警備費が百二十枚、マルタ、ニナ、ボルクへ支払われていなかった給金が二十四枚、建物税と手数料が三十六枚だった。
「合わせて、金貨六百枚です」
賃金代表が三人の受領欄を指で追う。紙は薄いのに、未払いと書かれていたころよりずっと重たそうに見えた。
「当期分の給金は?」
「常勤三人へ金貨四十三枚。実演の臨時雇用と催事賃金に二十一枚。すべて支払い済みです」
「店主の報酬が見当たらない」
設備債権者が頁をめくった。指先には、長年染みついた油の色がある。
「初めから支給契約を結んでおりません」
「無給分を、あなたから店への貸付として後日請求するつもりは」
「ございません」
この百日に値段をつけたなら、いくらになるのだろう。そんな考えが浮かんだことはある。けれど今になって、誰にも頼まれていない献身を債権へ仕立てれば、店はまた、名誉や感謝で人を働かせる場所へ戻ってしまう。
執行人は一つ目の欄へ確認印を押した。
二つ目は、直近三十日の帳簿だった。
「売上は金貨七百二十枚。原価と直接費が三百六十枚で、粗利は三百六十枚。営業費四十七枚を引き、営業利益は三百十三枚です」
夜明けの光が、帳簿の細い罫線を銀色に照らしていた。美しい数字ではない。夜市の売上を数え終えたばかりのマルタの指にはインクが染み、返された《朝守り布》の銀貨は、まだ別箱に入っている。
仕入先の代表が、返品引当の頁で手を止めた。
「この金貨十七枚は、《朝守り布》の回収分も含むのか。回収は終わり、改良品も試験を通ったと聞いている。使わなかった引当を利益へ戻せば、数字はさらによくなるでしょう」
「戻しません」
「審査を通すために、一度戻すだけでも構わない」
「昨夜お売りした品の返品期限は、今日から七日後です。王宮の三十灯にも、同じ期限があります」
百日間に実際支払った返品・保証費と、これから返すかもしれない分を分けて示した。封を解かなかった金は、儲け損ねた利益ではない。そう説明しかけて、私はやめた。
代わりに、昨夜テレーゼから受け取った返品票を差し出す。
「こちらは、検査に合格した改良品です。温度は基準内でしたが、別の方が使ったあと、古い火傷痕へ痛みが出ました。返金は昨夜済ませました。次も起きないとは申し上げられません」
紙には、温度計に出なかった痛みと、返した銀貨十五枚が記されている。代表は何も言わず、引当の欄から指を離した。
営業利益三百十三枚から、当期利息十八枚を払っても、現金余剰は二百九十五枚。厳しい方の数字を使っても、三十日は黒字だった。
二つ目の印が乾く前に、三つ目の書類が開かれた。
監査の対象は、一階の通常販売、仮設の試用区画、低危険度品の修理受付だった。避難路、停止札、製造番号、事故と返品の記録までを確かめた結果、安全等級はBとなった。
合格書には、監査局副局長と独立技師の署名があった。
アルノルトは局長である一方、最大債権者の代理でもある。この店へ一人で合格を与えることも、存続に賛成するよう債権者を説くこともできない。
「提出記録に欠落はありません」
彼は審査員へ向けて言った。
「販売停止中の商品、返品事故、連絡の届かなかった購入者も含まれています。私は記録の完全性のみを保証します」
「営業を継続させるべきだとは言わないのか」
第一抵当権者の代表が訊く。
「それは債権者委員会の判断です」
「店主が自ら売れ筋を止めたことは、安全性を示す材料になるでしょう」
「停止した品に欠陥がなかったことにはなりません。隠さなかったという記録は、すでにそこにあります」
アルノルトは一度も私を見なかった。
不思議なことに、その横顔を見ていると心が静まった。助けを求めても、彼は審査を甘くしないだろう。けれど、こちらに不利だからと記録を削らず、見栄えが悪いからと意味を足すこともしない。私が百日かけて積み上げたものは、彼の好意に寄りかからず、書類の中で自分の足で立っていた。
副局長の合格印が三つ目の欄へ落ちた。まだ濡れた朱色を見ても、残る債務の重さは少しも軽く感じられない。私は百日分の帳簿を債権者へ向け、売上の頁を開いた。
「売上は金貨千五百九十枚。売上原価と直接費が七百八十枚で、粗利は八百十枚。営業費百三十八枚、当期利息六十枚を支払い、返済原資は六百十二枚です」
一つの催しで得た額ではなかった。その内訳は、検査を済ませた旧在庫が六百枚、職人から預かった委託品が五百枚、修理と調整が二百四十枚、新しい小型の定番品が二百枚、試用会と場所貸しと講習が五十枚である。
始まりの日、千八百十二点という数だけを見れば、棚には宝の山があるようだった。その山を五色の札へ分け、捨て、返し、直し、持ち主を探した。空いた場所へ、翌週にも届く品を少しずつ置いた。その百日の結果が千五百九十枚であり、現金箱に残った八十四枚だった。
「合わない」
設備債権者が計算板を弾いた。
「その利益なら、手元の現金はもっと多いはずだ」
「原価七百八十枚のうち、旧在庫の原価二百二十枚は、以前の経営者が支出したものです。当期の現金からもう一度引けば、同じ品へ二度払うことになります」
現金の流れを記した一枚を横へ置いた。
開始時の十二枚に百日内の売上千五百九十枚を加え、当期の仕入れ、委託精算、材料代に五百六十枚、営業費と利息に百九十八枚、延滞の解消に六百枚、取引を再開するため先に返した旧仕入債務に百六十枚を支出した。
「残りは八十四枚です」
マルタが現金箱を開いた。金貨は帳簿と同じ数だけ並んでいる。
「その八十四枚も返済へ回せば、残債を減らせる」
「お断りします」
自分でも驚くほど、声が硬く響いた。
審査員の視線が集まり、眠気で重かったはずの頭が冴える。
「七日以内の返品、次の給金、仕入れ、回収に使う運転資金です。今日の残債を美しく見せるために箱を空にすれば、明日からまた、客と働く人に待ってもらうことになります」
マルタの手が、現金箱の蓋へ静かに添えられた。ニナは唇を結び、ボルクは四十七箱の所有者台帳を胸へ抱えている。始まりの日、十二枚しかない箱から三人へ七日分の給金を先払いした。あの朝へ、店を戻すつもりはなかった。
在庫評価も、夜市の価格で上げなかった。
旧帳簿では千八百十二点を金貨千七百四十六枚と見積もっていたが、棚卸し後の評価は三百九十八枚。委託品は職人の所有なので店の資産から外し、まだ直していない黄札も、試す相手のない白札も、昨日売れた値段では数えない。
その代わり、六工房との継続契約を出した。
ロッテ傘工房、ヨナス工房、エルゼ織房、クラウス木工、再試験を通った二つの灯具工房。毎週の精算日、次に納める数、返品を誰が先に負担するか、修理を引き受ける者の名が、それぞれの紙にある。
夜市の名残で荒れた店内を、審査員たちは見回した。棚のところどころは空いている。けれど、来週そこへ品を運ぶ人の署名は揃っていた。
審査員たちは、協議のため別室へ移った。
執行人だけが一階に残り、七枚の封印札を見張っている。正午まであと一刻。誰も口をきかず、昨夜の天幕を畳む音だけが店先から聞こえた。
ニナは何度も二階への階段を見上げていた。
「あの札、貼られたら剥がせないんですか」
「剥がせますよ。建物を買った人が」
ボルクが答え、ニナは睨んだ。
「そういうことを訊いたんじゃありません」
「分かってるから答えたんだ」
いつもの言い合いに、マルタが笑いかけて失敗した。私は七枚の赤を見つめたまま、どちらを宥めることもできなかった。
正午の鐘が鳴る少し前、別室の扉が開いた。
第一抵当権者の代表が、五枚の契約書を持って戻ってくる。
「債権者委員会の決定を読み上げます。残債は金貨四千四十枚。返済期間は五年、通常利息を適用する。初回は店の取得日から第百八十日に営業利益、安全記録、未払賃金、返品引当を再審査し、以後は六か月ごとに行う。各期利益の一部を返済へ充てるものとします。土地、建物、商標への担保は継続します」
「債務の免除は?」
「ありません」
「承知しました」
金貨四千八百枚から、延滞六百枚と旧仕入債務百六十枚を払った。残る四千四十枚は、決して軽くない。五年という年月を思えば、掌に載せられない重さだった。
けれど正午に一度で奪われる借金が、明日から少しずつ返せる借金へ変わった。
私は五通の契約を読み、すべてへ署名した。最後の一画を終えたとき、執行人が封印札を箱へ戻す。
正面扉の差押予定通知は、ボルクが自分で外した。糊が強く、紙の端が途中で破れる。彼は舌打ちしながら残りを布でこすり、扉に残った朱色を何度も拭った。
「第百八十日に、また来ます」
マルタが三通の紙を帳場へ置いた。
三人の雇用を六か月更新する契約書だった。給金は現行のまま。ニナには週一日の有給研修日と資格試験料の積立があり、合格までは資格外の修理を任せない。ボルクには倉庫と夜回り、それに持ち主の分からない四十七箱を照会し続ける仕事が残った。
「条件を変えたいところはありますか」
「店主の睡眠時間を、契約へ入れたいですね」
マルタの答えに、ニナが勢いよく頷いた。
「それは店主ではなく、本人へ交渉してちょうだい」
「いちばん話の通じない相手ですよ」
三人が笑った。私も笑おうとしたところで、目の奥が熱くなり、帳簿を直すふりをして俯いた。
午後、王宮の使者が、先行三十灯の使用票を添えた仕様照会兼公開入札予告を届けた。
そこにある残りの灯数は、発注数ではなく上限百七十灯。先行試用の結果をもとに、王室割引を前提としない通常価格で見積もること、実際に使う本人が試すこと、記録した用途で合わなければ七日以内に再調整か返品を選べることが、正式な仕様条件として記されていた。《星灯り》は一括受注者ではなく、資格審査を経て公開入札へ進む候補の一つである。
「王室割引の欄は?」
マルタが紙を透かしてまで探した。
「初めからありません」
「見えない文字で書いてあるのかと」
使者が困った顔をしたので、私は笑いを堪えながら候補通知の受領欄へ日付を入れた。受注印の欄も、前金証書もない。
帳簿には一枚の金貨も増えなかった。それでも、王宮を返品のできる客にした先行三十灯の記録が、残る百七十灯を先に約束する命令を、条件を問い直せる公開入札へ変えたのだった。
夕方、ボルクが地下の中央魔力炉を開いた。
低い唸りが床板を震わせ、吹き抜けをゆっくり昇っていく。一階の避難路、試用区画、返品窓口、六工房の棚。ニナが確認札を読み、マルタが一つずつ印を付けた。
一階の入口からは仮営業の札が外れ、代わりに全面営業許可が掛かっていた。
私は七本のうち、最初の鍵を回した。
高い天井に吊られた《七連星灯》へ、乳白色の光が走った。最初の日、窓辺に一つだけ灯した明かりとは違う。床に引かれた赤、青、黄の線も、返品窓口の傷も、売れて空いた棚も、隅々まで同じ光の下へ浮かび上がる。
二階には、まだほとんど商品がない。けれど避難路と試着区画の検査は通り、低危険度の衣料と贈答品なら営業してよいと許可が出た。温熱品と香り物は、品ごとの検査を終えるまで運べない。
二階再開許可を階段口へ掛け、二つ目の鍵を差し込むと、長く暗闇に沈んでいた天井へ二つ目の星がともった。
誰もいない売場に、淡い光が降り積もる。布を掛けた陳列台も、曇った姿見も、空であることまで美しく見えて、胸が痛んだ。
七つの星のうち、灯ったのは二つだけで、残る五つは今夜も暗いままだった。
マルタたちが階下へ戻ったあと、私は空の二階へ最初の荷物を運んだ。
商品ではない。《宵待ち灯》を買った人、返品した人、三つとも買わずに帰った人の試用票である。ハンナの針先、クララの寝台、両手で新聞を広げたかった老人。欲しい光の幅と色、続く時間、硝子の内側に残った熱。
ヨナスが三種類の灯芯を机へ置いた。太さも、魔力を受ける速さも異なる。隣でニナが、穴の大きさを変えられる差し替え式の絞り板を重ねていった。
「全部を一つへ固定したら、また合わない人が出ます」
ニナの指先で、三枚の板が小さく鳴った。
「では、選んでもらえる形にしましょう」
ヨナスは白紙の製作票へ《星雫灯》と書き、その前に小さく『試作』を付けた。
二階へ商品が並ぶのは、まだ先になる。
今夜、二つ目の星の下にあるのは、売れた灯りより、返された灯りと、選ばれなかった灯りの記録の方が多かった。




