第14話 百日目の夜市
百日目の前夜、私たちは、まだ日の高いうちから《星灯り魔法百貨店》の前へ小さな雨を降らせていた。
灰色の空がまだ雨を堪えているうちから、石畳には銀の糸のような水が落ちていた。ロッテ傘工房が渡した樋へ水を流し、その下へ《雨花傘》を差し入れるたび、灰色だった傘布に赤や藍の花が咲く。雫は隣の客へ跳ねず、細い水路を伝って桶へ戻った。
「もう少し強く降らせられる?」
私が訊くと、ロッテは樋の栓をひねった。
「土砂降りにもできますよ。けど、ご婦人の靴を台無しにしたら、傘より先に私が返品されます」
赤い花の下で、子どもたちが声を上げて笑った。
差押えまで、あと一日。
明朝には店がなくなるかもしれないというのに、店先には六つの天幕が並び、焼き菓子と蜜蝋と、削ったばかりの木の匂いが混じっていた。華やかな催しというより、狭い仕込み場を無理に街路へ広げたような騒がしさである。ボルクが木箱を抱えて通るたび、誰かが椅子を退け、ニナの紐へ靴を引っ掛けた職人が叱られていた。
ヨナス工房の天幕では、ハンナが濃紺の布へ銀糸を通している。《宵待ち灯》の淡い光は彼女の指先だけを照らし、針が動くたび、夜を縫い合わせるような細い煌めきが走った。
「見本だからと、ゆっくり縫わなくていいのよ」
「これが注文仕事の速さです。糸を通し損ねたら、その回数も札へ書いてください」
こちらを見もしない。初めて店へ来た日、彼女は働くための灯りを探し、売れ残りの《宵待ち灯》を三つも試した。今夜は使い手として、新しい客へ針先の見え方を教えている。帳場には臨時賃金の袋を用意した。感謝だけを包んで渡せるほど、私も厚顔ではなくなった。
エルゼ織房の台には、改良した《朝守り布》が少量だけ置かれていた。
四十八人全員へ停止の知らせが届くまで、販売は再開しなかった。返金を選んだ者、普通毛布を借りた者、改良品を待った者、説明を聞いても使い続けた者。そのすべてを記録し、十度の洗濯、十通りの折り方、六時間の連続使用を、それぞれ十枚で試した。縮みを逃がす織りへ変え、家族で共用するときは一人ずつ試す。
青い販売札へ戻れたのは、今夜の十二枚だけだった。
「売れると思う?」とエルゼが訊いた。
「分からないわ」
「店主なら、もう少し景気のよいことを言いなさいよ」
「今夜、試してくださる方へ頼みましょう」
エルゼは不満そうに鼻を鳴らしたが、布を高く積み上げようとはしなかった。
クラウス木工の低い台には《組み星盤》があり、子どもたちが床へ膝をついて星を探していた。正しい窪みにはまった時だけ、木肌の奥へ乳白色の光が宿る。間違った木片は沈黙したまま、次の手を待つ。
残る二つの灯具工房は、濡れた手でも二秒以内に止まる灯りと、複数人が交代で使っても明るさの変わりにくい卓上灯を持ち込んだ。最初の工房巡りで落とした職人の天幕は、ここにない。直す条件を持ち帰り、再試験へ通った六工房だけが、今夜の星印を掲げていた。
一階では、夜市とは別に六つの流れが走っていた。
予約品の受け取りは窓側、試用札は中央。返品は帳場の左で、修理は右。天幕の売上は一刻ごとにボルクが封袋へ移し、予約金や返品引当と混ざらないよう、紐の色を変える。もし本物の雨が降れば、客を青い線から店内へ入れ、濡れた傘だけは水路側へ抜く。
その奥には、王宮へ納める三十灯の木箱が、工房ごとに十二、十、八と分けて積まれていた。紐には試用者番号を結び、箱の内側には製作者名、使う人の魔力の流し方、停止方法、返品期限を記した票を入れてある。
第六の鐘が鳴ると、王冠を描いた三台の荷馬車が夜市の入口へ乗りつけた。車輪が止まった途端、見物客が左右へ割れる。調達官は裾の長い礼装で急ぎ足に店へ入り、帳場の向こうにいた私を見つけた。
「ベルク代表、予定どおり三十灯を受領します。王太子殿下とセシリア様も検収へ立ち会われますので、すぐにご同行を」
「納入担当は、マルタとニナです」
マルタは受領書と請求書を革箱へ入れ、すでに外套を着ていた。ニナの胸元には、彼女が行える調整と、資格がないため触れてはならない修理を並べた札がある。
調達官は二人を見たあと、聞き違えを疑うように私へ視線を戻した。
「王宮で調整の変更が出た場合、代表者の判断が必要でしょう」
「二人へ委任しています。先週お渡しした担当者票にも、そう記したはずです」
「殿下が、あなたから説明を受けたいと」
胸の奥で、古い習慣が目を覚ました。殿下が待っている。ならば予定を組み直し、自分が行かなければならない。三十灯が王宮の高い天井にともる瞬間を、見届けたい気持ちも確かにあった。私の名で作った品を殿下へ見せる機会など、以前にはなかったのだから。
真鍮の星が続けて鳴った。
入ってきた女性の左腕に、淡く引き攣れた火傷痕が見えた。テレーゼ・ノルン。六年前、この店で売った《小春暖炉》に焼かれ、事故返品の品を抱えて最初に私を訪ねてきた人だった。
今夜、彼女が抱えていたのは銀色の布である。
「これを、返したいんです」
再販売を始めた《朝守り布》だった。購入は五日前。返品期限の内側にある。
調達官は扉の外の荷馬車を振り返った。
「返品なら、ほかの店員にもできるのでは?」
「ええ、できます」
私はマルタへ革箱を渡した。
「だからこそ、王宮もお二人で足ります。検収欄は一つずつ確認して。ニナ、資格外の調整を求められたら、持ち帰りなさい」
「はい」
「残金の期限は七日以内ですよ」
マルタが念を押すように言った。
「今夜くださるなら?」
「喜んで頂戴してきて」
彼女は口元だけで笑い、一箱目を抱えた。三台の荷馬車が王宮へ走り出す。金の王冠が夕闇に溶けていくのを見送るあいだ、寂しさに似たものが一度だけ胸を掠めた。
けれど、テレーゼの腕には、私たちの店が残した傷がある。
私は彼女と夫、それにエルゼを試用台へ案内した。
「昨夜、夫へ一度貸したんです。それから私が腕へ載せたら、古い傷だけ針で刺されるように痛くて」
「熱かったのですか」
「分かりません。怖くなって、すぐ外したから」
布を冷まし、初めにテレーゼが魔力を流す。銀糸は淡く光り、人肌の温かさで止まった。次に夫が触れると、光が一段強くなる。表面温度は基準の範囲に収まっていたが、もう一度テレーゼが左腕を載せた瞬間、彼女の指がびくりと縮んだ。
「熱い、というより……細い針が、傷の内側をなぞるみたい」
温度計の針は動かない。
私は返品票へ、火傷痕あり、別の使用者が先に起動、温度は基準内、痛みあり、と書いた。購入時の票に、夫も使うとはない。それでも毛布を家族へ一度貸すことを、不適切な使い方とは呼べなかった。
「銀貨十五枚を、全額お返しいたします。別の商品をお選びいただかなくても構いません」
返した硬貨を前に、テレーゼは困ったように目を伏せた。
「私、また返品するために来た人みたいですね」
「返品できるとご存じだから、来てくださったのでしょう」
慰めにもならない言葉だったかもしれない。それでも彼女は硬貨を受け取り、左腕を右手で包んだ。
「今度は、火が出る前に返せたのね」
微笑みはなかった。私はその言葉へ、よかったですね、と明るく答えることができなかった。
エルゼは布を裏返し、銀糸の寄りを確かめた。
「織りに異常はないわ」
「ええ。少なくとも今は見つかりません」
「それでも、また札を増やすの?」
「火傷痕がある方と、家族で使う場合の試し方を増やしたいわ」
「私の布は、札で羽毛布団みたいに膨らみそうね」
不機嫌な声のまま、エルゼは新しい票に『使用者一』『使用者二』『古傷の有無』と書いた。夜市の売上は一枚減り、代わりに、次から訊かなければならないことが三つ増えた。
陽が落ちると、六つの天幕へ灯りが入った。
ハンナの針先には小さな星が宿り、ロッテの傘には夜空にない色の花が次々と咲く。木の《組み星盤》を囲む子どもたちの頬が、乳白色の明かりを受けて丸く浮かんだ。実演日に最初から黒い札を出した女の子も来ていて、今日は自分で星を三つはめたあと、四つ目はやらないと首を振った。ニナは褒めて続けさせようとせず、その子の停止札を受け取った。
クララは乳母と一緒に現れ、《宵待ち灯》の七日使用票を箱へ入れた。『怖い夢を見た日は強く握って消した』と、覚えたばかりらしい文字で追記されている。買った品を褒める紙より、その一行の方をニナは長く読んでいた。
ボルクは売上袋を取り替え、ハンナは椅子の高さを自分の仕事机に合わせ、ロッテは子どもの手へ届くよう傘の留め具を下げた。返品箱がいっぱいになると、エルゼが誰に言われるでもなく新しい箱を運んでくる。
私は一階の中央に立っていたのに、一度も全体へ指図する機会を見つけられなかった。
所在なく帳場の紙を揃えていると、二十七番の札が差し出された。
「本日は私用です」
濃緑の上着を着たアルノルトが、客の列へ並んでいた。
「今度は姪御さんのものではないのですね」
「私が使います。馬車の中で記録を読むための灯りが欲しい」
「お一人で?」
「検査官が一人か二人。同乗者が眠っていることもあります」
「片手で灯りをお持ちになりますか」
「両手で紙を持てる方がいい」
三つの灯りを選んだ。《宵待ち灯》は彼が触れるとすぐ消え、二つ目は明るい代わりに手を離すと光まで離れた。三つ目は短く流した魔力を蓄え、台へ置いても文字を読む程度の光を保つ。
「お仕事の帰りで、疲れているときのつもりでもう一度」
「今が、ほぼその状態です」
真顔で返され、笑ってよいのか迷った。その迷いを見透かしたのか、彼の目元がほんのわずかに和らぐ。
二度目の光は初めより細かった。けれど、紙の文字は読める。ボルクが馬車の揺れを真似て台を動かすと、光が頁の上を滑り、アルノルトの視線が一行を追えなくなった。
「これでは駄目ですね」
「明るさは足りていますが」
「読めない灯りに、明るさだけあっても仕方がない」
ボルクが台座を固定する細い革帯を持ってきた。もう一度揺らすと、今度は光が同じ行へ留まる。
「これを」
アルノルトは三つ目の旅行灯を選び、監査局の口座ではなく、私費で払った。
「実際の馬車で使って合わなければ、七日以内にお返しください」
「次の地方監査は六日後です」
それは、明日の審査を越えた先の日付だった。
私は返却期限を書こうとして、ペン先を一瞬止めた。六日後にもこの帳場があるとは、まだ誰にも分からない。彼も気づいているはずなのに、試用票を折らずに鞄へ収めた。
「では、六日後に」
口から出た言葉に、自分の方が驚いた。
「ええ」
彼の返事は約束のようには聞こえなかった。だからこそ、胸に長く残った。
夜半を過ぎて、王宮の荷馬車が戻った。
三十灯はすべて検収済み。停止方法、席からの距離、明るさも記録され、マルタは残額の入金証書を持っていた。ニナの鞄には、婚礼当日の席を替えた場合に笠を比べたいという三件の希望が入っている。
「品が合わなかったの?」
「いいえ。席が変われば、必要な光も変わると先方からおっしゃいました。有償の再調整です」
疲れ切った顔で、ニナは得意げに鼻を上げた。王宮へ行く前より、責任者札が少し斜めになっている。
最後の客を送り、天幕を畳み始めた。現金、予約金、工房へ支払う分、返品に備える分。帳場いっぱいに封袋が積まれ、合計にはまだ手もつけていない。
やがて東の窓が、薄い真珠の色へ変わった。
百日目を告げる最初の鐘とともに正面扉が三度叩かれ、その向こうには、黒い外套の執行人が二人、封印箱と差押え令状を携えて立っていた。
「《星灯り魔法百貨店》の差押え執行に参りました」
夜市の最後の一枚を数える前に、百日目の朝が来てしまった。




