第13話 王宮にも前金を
婚約を解消した日に外した青い飾り紐は、もう私の胸元にはない。
それでも王宮の北回廊へ足を踏み入れると、露台から吹き込む風に首筋が寒くなった。知らず知らず鎖骨のあたりへ指をやり、何もないことへ気づいて手を下ろす。
差押えまで、あと二十八日。
十二日前に届いた二百灯の注文書は、帳場の端で白々しいほど綺麗なままだった。王室割引、全品を納めてから七十二日後の支払い、前金なし。受けられないと返事をしたところ、今日は調達室へ出向くよう命じられたのである。
王宮へ向かう支度をしていると、灰色の監査外套を着たアルノルトが、薄い書類を一通持って現れた。
「王宮営繕局から監査局へ、《星灯り》が調整する二百灯を固定装飾として一括検収できないか、照会がありました」
「固定装飾? 招待客が席で使う手元灯のはずです」
「照会の添付書にも、そうあります。固定式としての検収は認めませんでした」
彼は写しを帳場へ置いた。文面には、持ち運びを前提としない品なら使用者ごとの検査を省ける、という営繕局の見解が記され、その下へ監査局の不承認印が押されていた。
「これは、注文を断るための材料でしょうか」
「あなたの店の名を使った照会なので、開示したものです」
「受けるべきだとお考えですか」
「監査局が決めることではありません」
「では、断るべきだとも?」
「同じです」
実に愛想のない答えだった。けれど、こちらの望む方向へ肩を押されないことに、私は知らないうちに安堵していたらしい。写しを注文書と同じ革鞄へ収めると、指先から少しだけ力が抜けた。
「店で決めてまいります」
「決めた過程を、記録に残してください」
アルノルトはそれだけ言い、私が王宮用の外套を着終えるより先に店を出た。
調達室の長机には、十個の魔法灯が整然と並んでいた。どれも《王冠百貨商会》の規格品で、硝子の厚みも、魔石も、停止輪も同じである。部品が広く流通し、どの土地の修理師でも扱える。悪い品ではないし、むしろ大量に揃えるなら、この国でいちばん真っ当な選択だろう。
ただし、婚礼に集まるのは、規格に合わせて魔力を流してくれる客ばかりではなかった。
年配の女官が一台目へ触れる。明かりは細く三度またたき、溜息のように消えた。北方守備隊の騎士が同じ灯りを握ると、今度は硝子の内側が白く燃え上がり、停止輪が甲高い音を立てる。若い小姓の手では、見本どおりの柔らかな光が二十を数えても揺らがなかった。
「また、私の流し方が悪いのでしょうか」
女官が指を袖へ隠した。その仕草には、今日まで何度も道具の側から不出来を言い渡されてきた人の諦めがあった。
「夜道でいつもの灯りを持つときのように、もう一度だけ触れていただけますか」
言葉ではなく、手の動きを見せてもらう。彼女は指の腹をそっと硝子へ添え、細い糸を引くように魔力を流した。光は今度、五つ数えるあいだ続いたあと、やはり消えた。
騎士には普段の手袋を着けてもらった。素手より明かりは穏やかになったものの、十を数える前に輪が熱を持つ。小姓は何度試しても問題がなかった。
「弊会の品に、欠陥があるとの判定でしょうか」
立ち会っていた《王冠》の技師が、抑えた声で訊いた。四角い顎に緊張が見える。
「いいえ。こちらの方には正しく働いています」
私は小姓を示し、三枚の試用票を技師へ渡した。
「残るお二人には、このまま渡せないという記録です。灯りを不良品にしても、使える方の事実まで消えてしまいますから」
技師はしばらく票を読み、やがて自分の印を押した。少しだけ肩の位置が下がる。
「故障ではないことは、こちらも分かっているのです」
調達官は疲れた目で十個の灯りを見渡した。
「全数、納入検査には合格している。だが、来賓席で消えたり熱くなったりしては困る。《星灯り》ならば、使う方に合わせて調整できると聞きました」
長机の向こうに、レオポルド殿下とセシリア様が座っていた。
婚約解消の日以来、殿下と同じ机を囲むのは初めてである。式典なら何度も、殿下の右斜め後ろに立った。報告書を差し出し、次の予定を囁き、求められる前に正しい頁を開く。その距離を身体が覚えていて、向かい側の席にいることが妙に落ち着かない。
殿下の手元には、四冊の来賓名簿があった。貴族、外国使節、軍人、王宮職員。私が三年間整え続けた名簿は、今ではそれぞれ別の担当官の名で綴じられている。
「二百個を一括でお作りすることはできません」
私が言うと、殿下の指が注文書の縁で止まった。
「数が足りないのか」
「数だけなら、工房を増やせば形にはなるでしょう。ただ、二百人がどう使うかも確かめず、すべて調整済みとは書けません」
「全員を店へ呼ぶわけにはいかない」
声音は穏やかだったが、その奥に、私なら解決策を用意しているはずだという慣れが聞こえた。以前の私なら、その期待に応えることを誇りにしていた。
「三会場へ、試験用の三十灯を納めます。主祝宴場に十二、舞踏会場に十、控えの間に八。招待客を肩書ではなく、魔力の流し方と用途で分け、各層から試用する方を出してください」
三十枚の票を広げる。細く長く流す人、短く強く流す人。卓上に置く、手に持つ、交代で使う。強い光や熱を避けなければならない人。
「その結果を確認してから、残り百七十灯の仕様と納期をお見積もりします」
「婚礼に間に合わない可能性がある」
調達官が日付へ指を置いた。
「合わない二百灯を当日並べるより、三十灯で先に間違える時間をいただきたいのです」
革鞄から見積書を出した。元の条件どおり第九十九日に納め、第百七十一日まで支払いを待てば、帳簿の受注欄だけはさぞ華やかになるだろう。けれど、王璽を削っても魔石にはならず、名誉を煮ても職人の夕食にはならない。
「三十灯は通常価格です。各工房が製作する分の半額を、契約時に前金で。残額は納入後七日以内にお願いいたします。記録した用途で合わなかった品は、七日以内なら再調整か返品をお選びいただけます」
「王室への割引は?」
「ございません」
調達官の羽根ペンが紙の上で固まった。
「王室行事へ品を納めた名誉は、職人にも帰するでしょう。工房名も公表できます」
「製作者の名を記すのは当然のことです。それを代金から引けば、名を載せてもらうために職人が王宮へ払ったことになります」
つい語気が強くなり、私は息を整えた。机の下では、右の人差し指を親指が押さえている。婚約解消書の頁で切った傷など、とっくに消えたというのに、あの日からこの癖だけが残った。
「七十二日後払いを受けるなら、材料と工賃を三工房と当店が立て替えます。店には、その貸付を行う余力がありません」
「王宮が払わないと疑うのか」
殿下の眉間に、ごく浅い線が入った。
「お支払いいただけることと、いついただけるかは別でございます。職人の空腹は、王家への信頼だけでは七十二日も待ってくれません」
部屋が静まった。言い過ぎたかもしれないと思ったとき、調達官が別の書状を取り出した。
「ベルク伯爵家からも、意見が届いています。婚約解消について王家へ詫び、祝意を示すため、可能なら無償で協力するのが望ましい、と」
遠縁の現当主の筆跡だった。私を引き取る気はないが、ベルクの名が王宮でどう見えるかは気になるらしい。
「その書状に、支払いを引き受ける方の署名はございますか」
「いや。あくまで一族としての助言です」
「でしたら、見積書には綴じられません」
便箋を返す際、指先がわずかに震えた。殿下は気づいただろうか。以前ならば、婚約者の家から届いた言葉として、私が先に丸く収めていた。いまの私は、その手間にも値段があったのだと知っている。
「君は王宮の行事をよく知っている」
殿下が静かに言った。
「三十灯では足りないことも、誰より分かっているはずだ」
「はい」
その一言だけで、夏の夜会も雪の日の配布式も、胸の内へいっせいに戻ってきた。殿下の隣で間違えないよう、足りない人手を自分の時間で埋めた夜。私が用意した灯りの下で、セシリア様が民へ微笑んだ朝。
喉まで上がった苦いものを飲み込む。
「足りないからこそ、残る百七十灯を安全に作れる試験が必要です。殿下」
かつてなら、呼びかけたあとに何か柔らかな言葉を添えただろう。今日は続きが見つからなかった。
セシリア様が、四冊の名簿を自分の側へ引き寄せた。
「試す三十人は、私が集めます」
殿下が彼女を見る。
「女官、警備兵、使節の随員、年配の親族にもお願いします。華やかな席へ出る方だけを選ばないよう、担当官にも候補を出してもらいます」
「セシリア、君がそこまでしなくても」
「私たちの婚礼ですもの。灯りを使ってくださる方へ、試す時間をお願いするのは、私たちの仕事でしょう」
彼女の手もまた、名簿の上で強く組まれていた。私と目が合うと、あの日と同じように何かを言いかけ、今度は逸らさなかった。
「前金をお支払いすれば、三十灯を作っていただけますか」
「はい。ほかのお客様と同じように」
「もし合わなければ、王宮でも返品を?」
「もちろんお受けします」
セシリア様は見積書を端から読み、調達責任者の欄へ署名した。続いて殿下が羽根ペンを取る。その横顔には不満とも安堵ともつかないものが浮かんだが、私にはもう、それを解きほぐす役目はなかった。
彼女の署名は、思っていたより大きく、最後の一画だけが右へ跳ねていた。冬の配布式で老人へ毛布を掛けた手も、いまは薄くインクで汚れている。かつてなら、その染みを見つけた私が先回りして吸取紙を差し出しただろう。今は調達官が気づくまで、黙って見ていた。
調達官が王室用の特例契約書を出しかける。
「通常の発注書を使ってください」
止めたのはセシリア様だった。
「《星灯り》だけの特例にしたら、次の担当者が支払い条件まで特別だったことにしてしまうかもしれません」
新しい発注書には、注文者、使用責任者、納入日、検収期限、返品先が、それぞれ別の欄にある。王璽一つだった注文に、人の名前が増えていった。
翌朝、王宮財務部から前金証書が届いた。
マルタは金額を二度確認し、売上帳ではなく『三十灯・納入前預り金』の頁を開いた。
「このまま延滞へ回せたら、ずいぶん楽ですけれどね」
「灯りを納めるまでは、王宮のお金よ」
「存じています。言ってみただけです」
声に名残惜しさがありすぎて、私も少し笑った。
前金は、工房への着手金、外装と輸送箱の材料費、作り直しと返品に備える封金へ分けた。ヨナス工房と、再試験を通った二つの灯具工房には、それぞれ作れる数を申告してもらう。
「どうせ残りも注文される。先に百個分の核を作った方が安いですよ」
職人の一人が言った。
「余った七十個を、婚礼の記念にあなたが引き取ってくださる?」
「いや、それは困る」
「私も困ります」
三十個だけの製作票を出した。均等に十個ずつではなく、得意な出力と検査できる日数に応じて、十二、十、八と分ける。王宮の三会場へ納める数も同じだった。
午後には、三十人分の試用予定が届いた。店へ渡す控えは身分欄が折って隠され、用途、持ち方、連続使用時間だけが読める。セシリア様の指示だという。
ニナが票を出力別に分け、ボルクは木箱の内側へ柔らかな布を張った。私は工房ごとの製作数と検品日を黒板へ書き込む。
「納入は、百日目の前夜ですね」
マルタが帳場の予定表を持ってきた。その日にはすでに、一階と店先を使った夜市が大きく囲まれている。
王宮の荷馬車が来るのは第六の鐘。夜市の開場も、同じ第六の鐘だった。
「店主は二人に増えませんよ」
「残念ね。片方を王宮へ置いてこられたら便利なのに」
冗談へ返事はなく、マルタは『王宮同行』の空欄を指先で叩いた。
私はそこへ自分の名を書きかけた。けれど、夜市の責任者欄にも同じ名があり、二つの文字が重なって見えた。
王宮を、前金を払う一人の客にはできた。
その客が来るたび、店主まで差し出すつもりはなかった。




