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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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12/20

第12話 売れる品を棚から下ろす

「次の《朝守り布》は、いつ入りますか」


 開店前だというのに、扉の硝子へ鼻先を寄せた女性が訊いた。先週一枚買い、今度は夜明け前から市場へ立つ夫に持たせたいのだという。


「申し訳ございません。本日はお売りできません」


 内鍵を開けずに答えると、女性の顔から期待がしぼんだ。理由を書いた告知を入口へ掲げるまで待ってもらい、私は一階の中央に残った空の棚を見た。


 そこには昨日まで、銀糸の布が二枚並んでいた。


 二十日で売れた数は四十八枚。一枚につき銀貨十五枚、売上は金貨三十六枚になった。うちエルゼ織房へ支払ったのが金貨二十六枚と銀貨八枚で、店の粗利は金貨九枚と銀貨十二枚。《雨花傘》のように天候へ左右されず、同じ曜日に品が届き、売れた番号をマルタが読み上げれば、翌週には職人へ代金を渡せる。


 差押えまで、あと四十日。最後の三十日に営業黒字を出すためには、こういう棚が一つでも多く要る。


 だから私は、今朝、その二枚を自分で下ろした。



 異常が見つかったのは、定期監査へ出す品を揃えていたときだった。


 新品、店の貸出見本、家庭で使われた品を三枚。買った客に事情を話して持参してもらった布には、それぞれ二回、五回、八回と洗濯回数が記されている。


 朝の試験室には、湯気と濡れた毛織物の匂いがこもっていた。五つの瓶へ同じ釜から湯を汲み、布を同じ幅へ畳み、木板の重さまで揃える。ニナが温度を読み、マルタが時刻を書き留めた。私は客の名と使用回数を伏せ、布へ番号だけを結んだ。


 どれが古いか知っていれば、指は勝手に不具合を探してしまう。王宮で寄付品の検収をしたころ、正しい答えを期待されるほど、品物の方がそれらしく見えてくる怖さを何度も味わった。


 新品は、湯が冷めるのに合わせて穏やかに熱を返した。二回洗った布も変わらない。貸出見本と五回洗浄の布にも、目立つ偏りはなかった。


 三時間目、五番の温度計だけが赤い線を越えた。


「熱っ」


 ニナが手を引いた。布全体は、頬へ当てれば心地よいほどの温かさである。ところが折り目をなぞる銀糸の一本だけが、触れ続けられないほど熱を帯びていた。


 布を広げると温度は下がった。別のところで折り直し、もう一度魔力を通す。しばらくして、新しい折り目が同じように熱くなった。


「八回洗ったものです」


 伏せた票をめくったニナが、唇を噛んだ。


 火は出ていない。火傷の報告もない。広げて使えば、熱が一箇所へ集まることもないらしい。監査局へ二回洗浄の布を提出しても、家庭で使った品には違いなかった。


 私がその考えを口にするより先に、マルタが帳場から戻ってきた。指のあいだに、小さく折った紙を挟んでいる。


「三日前に、端だけ熱くなると言ったお客様がいました」


「返品票にはありませんでしたね」


「寒い家だから、むしろ温かい方がよいとおっしゃったんです。怪我もない。それで私は、好みの記録へ入れました」


 紙には、椅子へ敷くため二つ折りにしている、と記されていた。マルタの筆跡はいつもより小さく、末尾だけが震えている。


「旧店では、苦情をすべて事故へ入れたら叱られました。商品が売れなくなる、職人への支払いも給金も止まると。今回も、一人だけならと――」


 言い終える前に、彼女は紙を試験台へ置いた。


「同じことを、しかけました」


 私は、自分ならもっと早く気づいたとは言えなかった。好み欄に一枚紛れた紙を、昨日まで私も見落としていた。


「このお客様へ、最初に連絡しましょう。分類を発熱報告へ移し、元の記録も残してください」


「私の名で訂正します」


「ええ。私の確認印も付けます」


 マルタは深く頭を下げなかった。ただ鼻から息を吐き、帳場へ戻って赤いインクを出した。その背中がいつもより小さく見えたのは、彼女のせいだけではない。



 開店時刻には、棚を赤い布で覆った。


『《朝守り布》は、使用後の発熱が確認されたため、販売と使用を停止します』


 貸出見本と在庫を隔離箱へ入れ、四十八人分の購入票を机いっぱいに広げる。住所の記載がある客は三十一人。残る十七人は名と交換番号しか分からなかった。


「日常品だから、住所までは聞かなかったんです」


 ニナが番号票を繰りながら言った。


「安い布を一枚買うたび、住まいを知らせたくない方もいるわ。今後すべて聞けばよい、とはしないでおきましょう」


 住所の分かる家には使いを出した。ほかは学校、市場、商人組合、洗濯店へ番号を掲示してもらう。個人名を晒さず、番号だけで自分の品だと確かめられるようにした。


 客へ示す道は三つ。銀貨十五枚を全額返す。原因が判明するまで普通の毛布を無償で貸す。代金を店へ預けたまま、改良品との交換を待つ。


 全員が返金を選べば金貨三十六枚になる。この布で得た粗利の、四倍近い額だった。売上はすでに週ごとにエルゼへ渡しているため、原因が誰にあるか決まるまでは、店の現金から先に客へ返さなければならない。


 別箱へ金貨三十六枚を移したとき、硬貨の重なりが、やけに冷たい音を立てた。今月返すはずの古い仕入債務が、その分だけ遠のく。


 赤い布をめくる者はいなかった。


 最初に戻ってきたのは、実演日に息子と布を選んだ母親だった。少年は銀色の布を自分で抱え、母親は濡れた外套も脱がないまま帳場へ詰め寄った。


「この子は毎日使っていたんですよ。危ないと分かっていて売ったのですか」


「いいえ。今日まで分かっておりませんでした」


「知らなければ売ってもいいの?」


 少年がこちらを見上げた。実演の日、《朝守り布》を膝から三度外し、自分の手で選んだ子だ。あの日の説明を思い返すたび、喉の奥が狭くなる。


「よくありません。ですから、今日から使うのをやめていただくために、お呼びしました」


 彼は布を丁寧に畳み、隔離箱へ置いた。代わりの毛布を膝へ掛けると、魔法の光がないことを寂しそうに見つめる。


「これは光らないんだね」


「ええ。銀糸がありませんから、折っても同じ温かさです」


 母親は返金ではなく貸出を選んだ。怒りが収まったわけではない。毛布と受領票を受け取ると、私へ礼も言わず息子の手を引いた。それでよかった。


 別の老人は、広げて使えば平気だろうと布を返さなかった。品を奪う権利は私たちにないため、発熱の可能性と使用停止を告げた紙を読み上げ、聞いたという署名だけをもらう。


「自分の膝だ。熱けりゃ退けるさ」


「どうか眠るときには、おそばへ置かないでください」


「分かった、分かった」


 軽い返事とともに、銀色の布は店外へ消えた。返品を受けると掲げても、客は店の望むとおりには動いてくれない。その背を追うこともできず、私は番号の横へ『使用停止を拒否、説明済み』と書いた。



 昼過ぎ、エルゼが織りかけの糸を腕へ巻いたまま駆け込んできた。頬には冬の赤みが残り、呼吸が整わないうちから隔離箱の蓋を開ける。


「六時間試験は七日もやったわ。記録だって、あなたが全部見たでしょう」


「新品を平らに掛けた試験は、すべて基準内でした」


「なら使い方よ。折り畳んで椅子に敷く品じゃない」


 ニナが八回洗った布の端をほどいた。銀糸そのものは切れていない。洗ううちに縮んだ毛糸へ押され、折り目へ寄っている。そこへ魔力が流れると、細い箇所だけ熱を抱くらしかった。


「織りの張り、洗濯、畳んだ使い方が重なったようです」


「うちだけが悪いって言いたいの?」


「店も、家庭で洗って折る試験を求めませんでした」


 契約書を開き、客への返金は原因確定より先に店が行うこと、費用分担は有資格の織り検査師を交えて決めることを伝えた。


 エルゼは、赤布の下に残った空白を見つめた。毎週二十枚を納められるようになってから、彼女の爪には前より色艶が戻っていた。その手が、今日は腕へ巻いた糸を何度もきつく握り直している。


「札へ『折るな』と足せば、今日の二枚は売れるでしょう。この契約で、ようやく冬を越せると思ったのよ」


「昨日までに買った方は、その札を持っていません。それに、折らない毛布を売るのは難しいわ」


「止めたことが知れたら、直したって誰も買わない」


「その怖さまで、こちらで引き受けるとは言えません」


 言葉を選んだつもりが、冷たく響いた。彼女の眼差しが硬くなる。


「原因を調べる工賃はお支払いします。ただ、改良品を必ず仕入れる約束はできません」


「また、あなたが選ぶのね」


「はい」


 エルゼは笑った。薄い刃のような笑みだった。


「直っても、あなたの店へ卸すかどうかは、私が選ぶわ」


「それが契約です」


 扉が閉まると、冷たい風が赤い布を揺らした。一番よく売れた品だけでなく、その品を作る人の信頼まで、棚から落ちていくようだった。


 ニナはほどいた銀糸を戻そうとしたが、途中で手を止めた。


「ここから先は、織りの資格が要ります」


「検査師を頼みましょう。善意で直して、次の原因を作らないで」


 自分に言い聞かせるような声になった。



 午後の監査へ、五枚すべてを提出した。


 アルノルトは新品から順に、同じ手順で試した。窓の外が夕暮れの色へ変わるころ、八回洗った布の温度計が赤線を越える。


「同一ロットは販売停止。四十八人全員へ使用停止を通知。再開には、十回洗浄、異なる折り方、六時間連続使用を、それぞれ十枚で行った記録が必要です」


 判定に情けの入る隙はなかった。


「一階全体の安全監査は、どうなりますか」


「この品の隔離と連絡が終わるまでは改善期限付きです。再販売しなくても、棚から外し続ければ条件を満たせる。ほかの日常品まで止める根拠はありません」


 彼はマルタの最初の好み分類と、訂正後の発熱報告を並べて読んだ。


「不利な記録を消さなかったことも記載します。だからといって、布を合格にはできません」


「承知しています」


「監査局は、温度と販売できる範囲を決めます。四十八人が返金と貸出のどちらを選ぶかまで、こちらで命じることはできない」


「そこは店の仕事です」


 同じ布の前に立ち、彼は数字を見て、私はそれを膝へ掛けている人を思った。立つ場所は違うのに、どちらかが手を離せば布は床へ落ちる。そんな考えが浮かび、ひどく仕事らしくないので口にはしなかった。


 閉店までに二十九人へ連絡が届き、十二枚を回収した。返金は七人、普通毛布の貸出は五人。怪我の報告は、いまのところ一件もない。


 隔離箱へ重なった銀の布は、灯りを落とすと雪のように青ざめて見えた。


 明日から、二十日で金貨九枚と銀貨十二枚を生んだ棚がなくなる。最後の三十日の営業黒字を数え始めるまで、あと十日だった。


 その日の夕刻、王宮の朱印を押した使者が来た。


 差し出された注文書には、王室婚礼に用いる魔法灯二百個とある。納入日は第九十九日。代金は全品納入後、七十二日払い――つまり第百七十一日。王室規定による値引きを適用し、前金の欄は空白だった。


 店にある《宵待ち灯》は、見本を含めても九台しかない。


 赤布を掛けたばかりの棚の前で、私は王璽の鮮やかな朱を眺めた。


 王宮は、あと三十九日で二百個を揃えろという。そして代金は、店が差し押さえられるかどうか決まってから、さらに七十一日待たせるつもりらしかった。


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