第11話 店主のいない売場
開店前の一階に響く金槌の音は、差押えまであと四十九日となった朝を、どの時計より忙しく刻んでいた。
子どもの膝ほどの高さしかない陳列台は、廃棄箱の板をボルクが削り直したものだ。蜜蝋を塗られた木肌は、もとの荷箱よりずいぶん愛想よく見える。角には生成りの布が巻かれ、その下へ薄く綿まで詰めてあった。
「そこへ《組み星盤》を置くなら、窓辺へ寄せた方がよく光るわ」
言いながら陳列台へ手を掛けると、反対側からニナに押さえられた。
「午後になると、窓の光で星が点いたか分からなくなります。ここで試しました」
「午前は綺麗でしょうけれど」
「午前だけ綺麗でも、午後のお客様が困ります」
ニナの鼻先には、板を磨いた白い粉が残っていた。拭いてあげたい気持ちと、台をあと半歩だけ動かしたい気持ちが同時に湧き、私はどちらの手も背中へ回した。
今日の子ども向け実演売場は、彼女が考えたものだった。
青い手形は自由に触れてよい品、黄色い星は店員と一緒に試す品。赤い布の掛かった棚は見るだけ。保護者票には代金を払う人と実際に使う子どもの名を分けて書き、迷子札は外から名前が読めないよう二つ折りにする。入場は六人ずつで、子どもが手元の札を黒へ返したら、大人が続けたがってもそこで終える。
九枚に及ぶ計画書を読んだ私は、昨夜、赤いインクを使った。直したのは二箇所だけだ。区画内を一度に六人までとすること。異常が出たときは、私を探すより先にすべてを止めること。
商品の順番にも札の文言にも、口を挟さなかった。挟まずにいることが、これほど忙しいとは思わなかった。
「店主さん、本当に地下へ行くんですか」
胸へ責任者札を留めながら、ニナが訊いた。
「灰札在庫の返送箱を作る約束でしょう。今日を逃すと荷馬車が一週間来ません」
「心配じゃありません?」
「心配よ。ですから、あなたが呼ばなくても上がってきたら叱ってちょうだい」
ニナは大きな目を二度瞬かせ、それから、笑いを飲み込むように唇を結んだ。
「分かりました。しっかり叱ります」
少しばかり生意気になったらしい。喜ばしい成長だと認めるには、胸のあたりがむずむずした。
最初の六人は、扉が開く前から親に手を引かれて待っていた。
四階の子ども用品売場は、いまも事故閉鎖中である。薄暗い階段の上に、色褪せた風船の飾りだけが取り残されていた。だから今日は、低危険度と認められた品を一階へ下ろし、赤い紐で囲った一角だけを小さな四階にする。
ニナは商品の名を一つも言わず、子どもたちの前へしゃがんだ。
「買わなくても大丈夫です。触りたくなくなったら、その札を黒い方へ返してください。理由は言わなくて構いません」
小さな手へ、表に金色の星、裏に黒い丸を描いた札が渡っていく。
いちばん幼い女の子は、受け取った途端に黒い丸を表にした。母親が慌てて星へ戻そうとするより早く、ニナが区画の外へ椅子を出す。
「この子は人見知りなだけなの。せっかく予約したのですから、兄と一緒に入れてくださいな」
「ここから見ていただけます。入りたくなったら、次の組のあとでもう一度お呼びします」
「買うかどうかは、親が決めることでしょう」
ニナの頬が強張った。けれど椅子から手を離さない。
「お代を払う品を決めるのは、お母様です。触るかどうかは、お嬢さんにも決めていただきます」
細い声だったが、母親が眉を寄せても消えなかった。
女の子は区画の外へ置かれた椅子に腰掛け、黒い札を胸へ抱いた。兄が《組み星盤》へ木の星をはめるのを、黙って見つめている。
正しい場所なら、盤の奥に乳白色の光がともる。違えば、何も起こらない。昔の学習具のように赤く光って失敗を告げたり、耳障りな警告音を鳴らしたりはしない。
兄は北の星を二度間違えた。三度目も同じ窪みへ入れようとしたとき、椅子の女の子が、黒い札を握ったまま別の木片を指さした。
細い指の先にあった星をはめると、夜明け前の空のような光が盤の上へひらいた。
女の子はしばらくそれを見ていた。それから自分で札を返し、金の星を表にして椅子を降りた。
私は地下へ向かう階段の途中で、その一部始終を見てしまった。
ニナはこちらへ目を向けない。声を掛けられなかったことにほっとし、ほんの少し寂しくもなりながら、私は地下へ降りた。
二回目の組が入って間もなく、天井から甲高い声が降ってきた。
『あさ。ほし。七。あさ、ほし、なな、あさほしなな――』
《読み上げ羽根ペン》である。書いた文字を小さな声で読み返してくれる学習具で、一人ずつ試したときには何の問題もなかった。三人の子どもが同時に使うと、三本の羽根が互いの声を拾い、読み上げる速さを競うように声を重ね始めたのだ。
一人の少年が耳を塞ぎ、椅子からずり落ちた。
私は返送箱から立ち上がった。頭上の床板を見つめたまま、階段へ一歩踏み出す。
呼び出し鈴は鳴らなかった。
代わりに、ニナの声が聞こえた。
「みなさん、手を離してください。読み上げ羽根ペンの棚を閉めます」
羽根の声が一斉に途切れた。泣き声はしなかったが、棚板へ赤い布を広げる音だけは、地下にいても妙にはっきり分かった。
あの棚は予約だけで金貨四枚ほど売れる見込みだった。文字はどれも正しく読み上げており、怪我をした者もいない。人数を一人ずつに減らせば、今日だけは続けられたかもしれない。
そんな算段が浮かぶうちに、階段から足を戻した。手の中の釘を返送箱へ打ち込むと、少し曲がった。
昼前に一階へ戻ると、赤い布の上へニナの手書き札が載っていた。
『複数で使うと、声が混ざります。集団での試用を中止しました』
「個別なら売るつもりだったの?」
「今日は売りません。一人で使った方が、学校へ持っていって困るかもしれませんから。先生と試す日を作ってからにします」
「そう」
「再開しろとは言わないんですね」
「訊かれていませんもの」
ニナは札の端を押さえたまま、ふっと息を吐いた。平気な顔をしていたつもりらしいが、指先は白くなるほど力が入っていた。
「怖かった?」
「怖かったです。男の子が耳を塞いだときも、売上が減ると思ったときも。両方、同じくらい」
「それでいいわ。売上が惜しくなくなる必要はないもの」
私なら、そこまで素直に言えただろうか。赤い布の皺を伸ばす彼女の横顔を見ていると、自分の胸の内にある惜しさまで、少しだけ居場所を与えられた気がした。
午後は《朝守り布》を試す親子が続いた。
学校の冷たい椅子で膝が痛むという少年は、初めに強い温熱膝掛けを選んだ。五分もしないうちに耳まで赤くなり、自分で黒い札を返す。普通の毛布は軽かったが、立ち上がるたび床へ滑った。
最後に出した《朝守り布》は、銀糸を織り込んだ薄い布だった。膝へ載せただけでは、何も起こらない。
「温かくないよ」
「先に、両手でここを包んでみてください」
ニナが布端を指す。少年の手の中で銀糸が淡く目覚め、離したあとも掌の温度を抱くように光を残した。膝へ載せると、春先の日向に座ったくらいの温かさが、ゆっくりと布全体へ広がる。
「走ったあとには?」
「熱いと思ったら、自分で外せますか」
少年は三度、膝へ載せては畳んだ。母親は強い膝掛けの方へ未練のある目を向けていたが、最後に《朝守り布》を抱えたのは少年だった。
銀貨十五枚。最長六時間、寝具には使わないこと。七日以内なら、温かすぎるという理由でも返品を受ける。
同じ試用が繰り返され、夕方までに十六枚がそれぞれの家へ向かった。
日が傾いたころ、入口でさざ波のような囁きが起きた。
灰色の監査外套ではなく、深い森を思わせる緑の上着。銀章も従者の列もなく、アルノルトは二十一番の番号札を手にしていた。隣には、淡い栗色の髪を二本に編んだ少女がいる。
「ヴァイスベルク公爵閣下ではありませんか」
先客の男性が席を譲ろうとした。
「今日は私用です。どうぞ、そのまま」
彼が掲げた番号を見て、マルタは顔色一つ変えずに二十番を呼んだ。
少女は姪のクララと名乗った。夜、一人で眠るための灯りが欲しいらしい。
「暗いのが怖いの?」とニナが訊く。
「真っ暗も嫌。でも、壁で影が動く方がもっと嫌」
アルノルトの視線が、天井へ星を投げる新しい投影灯へ移った。子ども向けの中ではいちばん華やかで、値段も高い。けれどクララは、壁に誰かがいるようで嫌だと首を振った。
「でしたら、あれはやめましょう」
ニナは高価な品を惜しまず戻し、《夜守り灯》、熱の少ない白色灯、《宵待ち灯》を並べた。
寝返りの動きを拾う《夜守り灯》は、クララの肩が動くたび眩しく光った。白色灯は影を作らない代わりに、目を閉じても瞼の裏が白い。《宵待ち灯》は、彼女が触れた途端、頼りない明滅を一つ残して消えた。
「流す魔力が強すぎる」
アルノルトが短く言うと、クララの口元がきゅっと結ばれた。
ニナは灯りに触れず、彼女の手元を覗き込んだ。
「クララさんは、夜、寝室の扉を静かに閉めるとき、どうします?」
「こう」
少女が指先だけで見えない扉を引く。その仕草のまま触れてみると、今度の光は掌ほどに丸く広がり、寝台に見立てた布だけを柔らかく照らした。クララはその横で目を閉じ、また開き、壁の影まで念入りに確かめた。
「これなら眠れそう」
「七日使ってみて、眠れなければお返しください」
代金は銀貨十二枚だった。
アルノルトは公爵家の口座を使わず、内ポケットから自分の財布を出した。飾り気のない焦茶の革が、ひどく彼らしく見える。購入者欄にはアルノルト・ヴァイスベルク、使用者欄にはクララ・ヴァイスベルクと記した。
「監査官のおうちでも、返品していいの?」
「公爵家でも同じです」
ニナが答えると、彼は私を見ず、彼女へ礼を言った。
胸の内に落ちた小さな喜びは、誇らしさに似ていた。けれど、私が育てた、と思った途端に違う気もして、名前を付けずにおくことにした。
「この売場は、あなたが承認したのですか」
帰り際、アルノルトが私へ訊いた。
「人数と、異常時の停止だけです。棚の順番も、羽根ペンを閉めたのもニナが決めました」
「停止すれば、店の損失になる」
「ええ。金貨四枚ほど」
「あなたの判断として報告しますか」
店の責任なら私が負う。そう答えかけて、やめた。ニナが守った売場まで、私の手柄に似た形へ整えてしまいたくなかった。
「損失の責任は私にあります。停止を判断した者は、ニナと書いてください」
アルノルトは手帳を開き、彼女の名を記した。
「次の監査で、本人に理由を聞きます」
クララに袖を引かれ、彼は客の顔へ戻らないまま扉を出ていった。小さな《宵待ち灯》を、壊れ物を持つ手で抱えているのが、窓硝子越しに見えた。
実演日の売上は、金貨二十七枚と銀貨八枚。粗利は金貨八枚と銀貨九枚だった。
読み上げ羽根ペンを閉めた分、予定より金貨四枚ほど少ない。事故はなく、返品の予約が一件。何も買わずに帰った家族は九組。日報には、黒札を出した子どもの数も、棚を閉めた時刻も、怖いと言った理由も書かれていた。
「次も任せてよい?」
責任者欄へ署名を終えたニナは、すぐには頷かなかった。
「読み上げ羽根ペンを学校で試して、やり方を直してからにします」
頼もしさより先に、安堵した。失敗した棚へ赤い布を掛けた者が、それを忘れずに次の売場を作ろうとしている。
翌朝、監査局から定期抽出検査の一覧が届いた。八日後、最近売上の伸びた品を、使用後の状態まで調べるという。
一番上に記されていたのは、昨日、もっとも多く売れた銀糸の布だった。
エルゼ織房製《朝守り布》。新品、貸出見本、家庭での使用品を抜取検査。




