第149話 店主不在の大売出し
私が署名したのは婚姻登録簿であって、七つの認定店と王都本店、合わせて八つの店の開店許可ではなかった。
それでも、八店は私を待たず扉を開けた。
朝、新居を出る前に、携帯通信票を封筒へ入れた。糊を塗り、自分で封を押す。生命に関わる警報だけは別の赤い石へ届くようになっているが、その石は窓辺で朝の光を透かしたまま、何の色も返していなかった。
「もう一度、封を確かめますか」
アルノルトに尋ねられ、私は鞄の中へ通信票を収めた。
「確かめたら、開けたくなります」
「では、そのままに」
創業者へ不要な連絡をしない試験は、この日が結びだった。店では同時大売出しが始まる。婚礼の記念値引きも、公爵夫人の署名入り商品もない。通常価格と通常の返品条件で比較実演を行い、修理と灯芯回収も進める。売上だけを華やかに見せる日ではなく、店がいちばん手間のかかる約束まで人前で守れるか試す日だ。
どの階を開け、誰を休ませ、返品用の現金をどこへ回すかは、マルタが総支配人として決める。地方の各店では、その土地の責任者が決める。昨日までに分かっているのは、そこまでだった。
役所への道は、星灯りの前を通らない方を選んだ。少し遠い。晴れた空の下、石畳には店へ向かう人の足音が混じり、角を曲がれば飾り窓が見えるはずだと思うたび、首筋がそちらへ引かれた。
「見に行きたいですか」
「様子を見るだけなら」
「列が偏っていても、声を掛けない?」
「……人を動かしたくなるでしょうね」
「なら、見ない方がよい」
彼の言い方はやさしくても、慰めではなかった。見ないことまで、今日の私が引き受けた仕事だった。
婚姻登録所は、星灯りの七階にある催事区画よりずっと狭い。華やかな灯りも長い絨毯もなく、白い壁の前に、役人の机と証人の椅子が置かれていた。
私の衣装も、王太子妃になるはずだったころ夢見たものとは違う。刺繍は控えめで、歩きやすい裾を選んだ。それでも襟元には、アルノルトが贈ってくれた淡い色の石がひとつ光っている。店の商号も、公爵家の紋章も刻まれていない、私個人への贈り物だった。
机の上には婚姻登録簿と、昨日までに読み終えた別財産契約が並ぶ。契約官は祝いの言葉を述べる前に、発効する条項をもう一度読み上げた。
星灯りの持分と商号は、公爵家へ移らない。店の通常債務はアルノルトの債務へ変わらず、彼の爵位財産も店の運転資金にならない。私はベルク名義の任期つき代表を続けるが、婚姻によって任期は延びない。彼は共同経営者にも保証人にもならず、監査の忌避は婚姻後も続く。
「変更を望む箇所はありますか」
「ありません」
私が答え、アルノルトも同じように答えた。
署名欄へ、エステル・ベルクと書く。婚姻前に使ってきた名を、婚姻後も私の名として使う。横へ彼の署名が加わり、役人の印が二人の間へ押された。同じ印をもって、昨日署名した別財産契約も発効した。
鐘も拍手もなかった。乾きかけたインクの匂いと、紙を押さえる彼の指。それだけで、私たちは夫婦になった。
アルノルトはすぐ立ち上がらず、登録簿を閉じる役人の手を二人で見送った。表紙が重なると、私たちの名は見えなくなる。それでも机の下で探るように触れた彼の手が、昨日までと同じ温度なのに、もう帰り道を別々に選ぶ恋人の手ではないことが、ゆっくり胸へ染みてきた。
「何か、言うべきなのでしょうか」
「監査報告なら結びの文があるでしょうけれど」
「婚姻登録は初めてです」
「私もよ」
互いに分からず笑い、証人たちもつられて笑った。完璧な挨拶を用意しないまま夫婦になれたことが、私には何より新しかった。
「商号の変更届はありますか」
定めどおりの問いへ、私は首を横へ振る。
「ありません」
「店の代表名義は?」
「エステル・ベルクのままです」
「公爵家財産への編入届は?」
「ありません」
提出しない書類にも確認印が付いた。何も変えなかったことが、何となく済まされず、手続として残る。
役所を出ると、アルノルトが私へ手を差し出した。もう何度も繋いだ手なのに、今日だけは触れる前に息を整えたくなった。
「エステル」
「はい」
「今後も、そう呼んでよいですか」
「契約に書き忘れましたね」
「更新しますか」
あまりに真面目な顔で言うので、私は笑いながら彼の手を取った。
「それは今、口頭で許します」
彼の掌が私の指を包む。喜びは胸の中で音もなく膨らんだ。誰かの隣に立つために選ばれたのではない。店を差し出した褒賞でもない。別々の名と財産を持つ二人が、同じ家へ帰ることを選んだのだ。
家族だけの食卓は、役所から近い小さな部屋に設けられていた。店員を婚礼係として呼ばず、料理も飾りも通常の代金で頼んである。焼いたパンの香り、温かなスープ、家族が持ち寄った花。広間を埋めるには足りないものばかりが、目の届く卓の上で美しく見えた。
席に着いたところで、鞄の中の封筒が気になった。音はしない。音がしないからといって、返品が来ていないとは限らない。比較台で客が待ち、貸出品が不足し、ノーラが説明に詰まり、マルタが売場を閉めて怒鳴られているかもしれない。
「気になりますか」
アルノルトは私の皿へスープをよそいながら、通信票ではなく顔を見て尋ねた。
「とても」
「私の職務経路から調べることも、公爵家の使者を出すこともしません」
「お願いします」
「君が開けてほしいと言っても?」
封筒の角を指で探りかけ、私は手を卓へ戻した。
「そのときは、止めてください」
「店の命令としてではなく、夫として?」
「ええ。妻が自分で決めた休日を破ろうとしている、と教えて」
赤い警報石は光っていない。生命の危険でなければ、通常営業の失敗は、婚姻の食卓から私を呼び戻す理由にならない。
乾杯の言葉は、店の成功ではなく、私たちがこれから作る暮らしへ向けられた。私は挨拶の中で売上を語らず、アルノルトも公正な監査の話をしなかった。明日も互いに仕事へ行き、帰る時刻が違う日は食事をどうするか。寝台灯がまだないので、夜の読書は食卓で終えること。そんな話に家族が笑った。
七本の鍵を取り戻した祝いにと、家の鍵をかたどった小さな飾りを差し出されたときだけ、私は一瞬ためらった。
「本物は、もう共有金庫にあります」
「これは店の鍵ではないわ。二人が帰る家の飾りよ」
商号も七つ角の星も刻まれていない。ただの小さな鍵だった。誰のための何の贈り物かを確かめれば、何もかも拒まなくてよい。
「ありがとう。これはいただきます」
アルノルトと一緒に包みを開け、新居の玄関へ掛ける場所を相談した。
食事が終わり、閉店鐘の時刻を過ぎるまで、封筒の糊は乾いたままだった。私は店へ駆け戻らず、あらかじめ決めていた受領所へ向かった。既に王都本店と七認定店、八店分の規定報告が揃い、途中で判断を求める票は一枚もない。
封を開く前に、マルタが私の衣装を見て、わずかに目を細めた。
「ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとう。店は?」
「その順番で尋ねると思いました」
「今日は許して」
「報告は定刻ですから、許します」
私は受領印だけを用意した。途中の判断へ同意する印ではなく、終わった記録を、決めた時刻に受け取ったと示す印だ。
後から読んだ報告には、私の知らない一日があった。
王都本店では、マルタが全階を飾りのために開けず、人を比較実演、返品、修理、回収へ回していた。婚姻祝いに何か買いたいという客にも、ノーラはまず実際に使う人と場所を尋ねた。並べた候補がすべて合わなければ、祝う日だから一つは持ち帰ってとは言わず、買わない票を返した。
通常価格への不満も記録されていた。今日くらい値引きしてほしいという声へ、婚礼の気分を返品基金の現金と交換せず、決めた比較実演を行った。既に買った品を戻す人も、贈答品を修理へ出す人も、新しく買う人と同じ入口から入り、それぞれの順番で扱われた。
灯芯一ロットの回収作業も続いていた。交換、返金、代替貸出を止めず、大売出しの売上に都合のよい棚だけを開けなかった。返却期限を過ぎた貸出灯が戻れば、遅延料を取って済ませず、次に待つ客へ別の候補を試してもらう。店員の休みを潰して列を短くすることもしなかった。
地方の店は、王都と同じ品を並べてはいない。強い風の畑では重い農業灯が選ばれ、湿気の多い土地では地元職人の外装が試された。王都の標準品が合えばそれを売り、土地の品が合わなければ地元だからと押さない。品揃えも値札も違っていたが、試して、返して、直せること、安全をその場で止めること、個人の記録を勝手に使わないことは変わらなかった。
収支の頁を開く。実演に使った品の整備、返品した現金、修理材料、灯芯回収の運賃、貸出品の手入れ、独立監査、地域職人への支払い。華やかな売上の外側へ追いやらず、すべて差し引いてある。
八店は黒字で閉じていた。
ただし、すべての店が同じように儲けたわけではない。返品が一時に重なった店も、回収へ人を回して新規販売を止めた店もある。網全体の結果で、各地の苦しさを塗りつぶさず、翌日へ残した不足も記されていた。
返品基金は維持され、重大事故はゼロ。報告はすべて期限内で、創業者へ送られた不要な連絡もゼロだった。
文字を追ううち、喜びが込み上げ、それと同じくらい寂しさも湧いた。私がいなくても困らなかった、と胸を張るだけの綺麗な感情にはならない。私に尋ねず決めた失敗があり、私の知らない客が帰り、私を待たず閉店した。
「おめでとうございます」
マルタがもう一度言う。
「今度は、どちらを?」
「店が、あなたなしで一日を終えたことを」
「結婚より先に祝うの?」
「先ほどは婚姻を先に申し上げました。総支配人としては、こちらも大事です」
笑いながら、目の奥が熱くなった。
黒字は私個人の婚礼祝いにはならない。返品基金、教育、独立監査、地域の持分、公開社債の返済、次の営業へ分かれる。私は報告へ受領印を押し、今日の判断を後から直す書込みはしなかった。
「明日、提案したいことがあるの」
「代表として、明日お持ちください」
「今夜少しだけ――」
「今夜は家へ帰ってください」
新しい総支配人に売場から追い出され、私は外套を着た。アルノルトが入口で待っている。
夜道の分かれ目で振り返ると、一方には星灯りの七階が見え、もう一方には、窓辺へまだ寝台灯を置いていない家がある。
「店へ帰りますか」
アルノルトが尋ねた。
閉店した棚を一度見たい気持ちは残っていた。鍵が共有金庫へ戻ったか、返品箱が閉じているか、自分の目で確かめれば安心できる。
「いいえ」
彼の手を取り、店とは違う道へ足を向けた。
「家へ帰ります」
店へ帰ることと、家へ帰ることを、私は初めて別の方向として口にした。
その翌週、アルノルトは閉店後の一階へ、家庭用の保温杯を持って来た。
「通常の返品をしたい」
二人の家で最初に、二人には使えなかった品だった。




