第150話 星灯りの帰り道
「君が代わりに選んでくれ」と言いかけて、アルノルトは保温杯を返品卓へ置き直した。
「朝と夜、二人で使いたい品です。まず、私の使い方から説明します」
婚姻登録の翌週、閉店鐘を過ぎた《星灯り魔法百貨店》の一階で、私たちは最後の客になっていた。
アルノルトが自分の収入で買った家庭用の保温杯は、彼が使うあいだはよく働いた。右手で持てば淡い橙色の線が安定し、飲み終えるまで温度を保つ。ところが私が同じ杯を受け取ると、接触部の光が途切れて茶が冷め、彼へ返した途端、失った熱を取り戻そうと強く温め始めた。安全輪は止めてくれたが、二人が食卓で持ち替える品としては落ち着かない。
故障なのか、使い方との不適合なのか。結論を持って来たのではなく、分からないまま返しに来た。
閉店作業をしていたマルタが、通常の返品票を一枚出した。
「購入した方は?」
「アルノルト・ヴァイスベルクです」
「代金を払った方も?」
「私です」
「使った方は?」
「私と、エステル・ベルク」
公爵と公爵夫人ではなく、杯へ触れた二人の名が並ぶ。
「用途を、もう少し詳しくお願いします」
アルノルトは私を見ず、自分の言葉を探した。
「朝の茶と、夜に飲むものへ使います。二人が同じ食卓で持ち替える。私は右手で持ち、飲み終えるまでの時間は短いので、長い保温は要りません。毎日洗いますから、外す部品は少ない方がよい。ただし、手軽にするため安全停止を省くことは望みません」
「好む温度は?」
彼は湯気を思い浮かべるように少し考え、熱すぎず、口を付けたときすぐ飲める温度を説明した。
次にマルタが私を見る。
「私は右でも持ちますが、朝は左手が多いです。熱い縁が苦手で、彼よりゆっくり飲みます。夜は短い時間だけ。同じ杯を交互に使いたいけれど、持つ位置を毎回探すのは避けたいわ。洗うとき、小さな部品を外し続けるのも」
以前の私なら、彼が望む答えまで自分で整えて話しただろう。夜会の席順も、政策案の反論も、王太子が最も美しく見える言葉を先に選んできた。いまは、夫の用途を代弁せず、妻である私の不都合も、慎ましさに包んで隠さない。
マルタは領収書と製造番号を照合し、杯から魔力を抜いた。焦げも歪みもなく、安全輪の停止記録も残っている。
「通常の返品として受けられます。元の杯を調整して試すことも、別の型と比べることもできますが、試用は明日の営業時間です」
「いま、少しだけ見てもらうことは?」
アルノルトが壁の時計へ目をやった。奥では店員が覆い布を掛け、返金箱を閉じている。
「閉店後です」
私は彼より先に言った。
「私たちが遅く来たのだから、明日にしましょう」
公爵の返品だから店員を残すことも、代表である私が残業を命じることもない。翌日の通常試用枠を予約し、杯はほかの返品品と同じ預り棚へ入った。私たちは手ぶらで店を出て、保温杯のない食卓へ戻った。
翌朝、開店してから予約票を持って行くと、家庭用品の試用台にはノーラがいた。私たちへ椅子を勧め、候補を出す前に、昨日の用途票を二人それぞれへ読み返す。
「違っているところはありますか」
「ありません」
「私も」
「では、三品を順に試します。全部が合わなければ、別々の杯、魔法を使わない品、改良を待つこと、何も買わないことも選べます」
「始める前から、買わない話をするのね」
「最後にだけ出すと、店の都合で諦めさせるように聞こえますから」
ノーラはもう、答えを確かめるため私の顔を見なかった。
最初に戻ってきたのは、昨日返品した杯だった。接触部のばねを広げ、左右どちらで持っても指が触れやすいよう調整してある。新しい商品へ替える前に、手元のものを直して用途へ戻せるか試す。
アルノルトが茶を注ぎ、右手で持った。橙色の保温線は滑らかに杯を巡る。置いて、持ち直しても消えない。
「温度は?」
「ちょうどよい。昨日より接触も安定しています」
彼から受け取り、私は左手で持つ。親指を意識して接触部へ置けば、光は点いた。けれどいつもの位置へ戻すと弱くなり、杯を傾けるうちに消えてしまう。
「少し強く握ってください」
言われたとおりにすれば点く。指へ力を込めたまま茶を飲み、卓へ置く。短い試用でも、手の内側が疲れていた。
「使えなくはないわ」
その言葉を、今度は自分で止めた。
「毎朝、強く握って使いたいとは思いません」
杯をアルノルトへ返すと、私が持っている間に冷めた温度を読み、強い再加熱が始まった。縁が熱を帯びる前に安全輪が働く。
「私一人なら合います」
彼は灯りの消えた杯を見て言った。
「しかし、二人で持ち替える用途へは戻せない」
ノーラが一品目の不適合理由を書いた。故障ではない。直してもなお、求めた共同使用に合わないという記録だった。
次は、飾りのない標準型だった。持ち手が広く、接触部も平均的な位置にある。私が左手で持っても光は途切れず、茶はゆるやかに温かさを保った。
「これは持ちやすいわ」
アルノルトへ渡した瞬間、橙色の線が濃くなった。彼の魔力は標準の調整より強く、杯が目標より高い温度へ近づこうとする。停止輪を弱い側へ回せば下がるが、置いてから持ち直すたび、設定を確かめなければならない。
「毎回、先に弱くすれば使えます」
ノーラが操作を示した。
「忘れたら?」
「安全輪が止めます。ただし、飲みやすい温度より上がる場合があります」
アルノルトは何度か持ち直し、そのたび輪へ指を掛けた。難しい手順ではない。監査書類の細かな違いを見逃さない彼なら、間違えず使えるだろう。
「私なら覚えられます」
「覚えられるかではなく、朝と夜にそう使いたいか、ですね」
私が尋ねると、彼は苦笑した。
「君に言われるとは思いませんでした」
「私も、昨日ノーラに言われましたから」
彼はもう一度、温度を下げる輪へ触れた。
「使いたくはありません。眠い夜に忘れないことを、安全の前提へ入れたくない」
標準型は私には合い、彼には合わなかった。二品目にも、共同使用では不適合と記された。
最後の杯は、使用者ごとに接触部を替える型だった。本体は同じで、私の魔力へ合わせた接触片と、アルノルトの魔力へ合わせた接触片を、使う人が替える。
私は自分の片を付け、左手で試した。強く握らなくても保温線が点き、縁も熱くならない。アルノルトが彼の片へ替えると、短い時間に合う穏やかな熱で止まった。
「二人とも、安全に使えています」
ノーラはそう記したあと、合格票へは進まなかった。
「洗うところまで試してください」
茶を空け、接触片を外し、本体と別に洗う。濡れた部品を乾かし、誰のものか見分けて戻す。寝不足の朝、色の似た小片を取り違えたら、使う前に交換し直す必要がある。失くせば、片方は保温機能を使えない。
「性能は合うけれど、毎日の手軽さには合わないわ」
「私もそう思います」
アルノルトが濡れた指先で、小さな接触片を布へ置いた。
「部品を替えることが、二人で一つを使うより面倒になっています」
三品目にも不適合の理由が残った。どれも危険な商品ではなく、別の人や別の暮らしなら役立つ。けれど私たちが一つの家へ住んだからといって、一つの魔法道具が二人へ同じように応えるとは限らなかった。
「それぞれに合う杯を別々に買うなら、今日お渡しできます」
ノーラが、机を片づけずに次の道を示す。
「魔法を使わない厚手の杯なら、温度は早く下がりますが、持ち替えても反応は変わりません。共同用の接触部が改良されるまで待つことも、今日は何も買わないこともできます」
「特別に作らせることは?」
アルノルトが私ではなくノーラへ尋ねた。
「通常の改良依頼として受け、職人が費用と順番を示します。公爵家の特注として先へ進めることはできません」
「では命じません。いま欲しいのは、特別な杯ではなく、朝に考えず使える一つです」
売場の奥にある試作品を、私は知っていた。接触輪を別の形へ変えれば近づくかもしれない職人も思い浮かぶ。二人の新しい朝に似合う一品へ仕立てたら、きっと美しい――そんな誘惑が、甘い灯りのように胸へ差した。
けれど、まだ試していない品を正解と呼ぶことはできない。続きを始めるなら、明日、職人と試用台を囲めばよい。今夜の私たちは何も買わない不便ごと持ち帰り、同じ戸口まで歩いていける。
「今日は、何も買いません」
私は三枚の不適合票を見ながら言った。
「私も同じ選択です」
アルノルトが答える。
「珍しく、同じ答えね」
「理由は違います。私は操作を増やしたくない。君は、握り方と洗浄の手間が合わない」
「同じにしなくていいのよ」
「ええ。同じ家へ帰ることだけで十分です」
元の杯は通常返品として受理され、アルノルトは確認した額の返金を受け取った。調整に使った部品と三品の整備は、決められた試用費として店の帳簿へ入る。公爵だから返金を増やさず、店主の夫だから売上を残すため返品を取り消しもしない。
「売上は戻りました」
ノーラが返金箱を閉めながら言った。
「ええ」
「試すための時間も、整備も掛かりました」
「ええ」
「それでも、また必要になったら来てください」
最初の返品票を受け取ったころ、その言葉を言うのは怖かった。返された代金はそのまま損に見え、買わなかった人は失った客に見えた。いまも返金は利益を減らし、試用には人の時間がかかる。それでも、合わなかった理由を持ってまた来られる場所を残すことが、この店の売ってきた約束だった。
三枚の不適合票は捨てられず、用途記録へ収められた。次に夫婦で共用したい人が来ても、同じ答えをそのまま渡すためではない。利き手、好む温度、持ち替える回数、洗う手間を忘れず聞くための記録になる。
私たちが席を立つころ、別の店員が朝の客を迎えていた。手にしているのは、私が書いた推薦表ではなく、まっさらな用途票だった。
「何にお使いですか」
その声を聞きながら、アルノルトと店の扉を出た。
通信盤の向こうでは、七認定店の開店鐘が順に鳴っている。事故を知らせる鋭い音ではなく、それぞれの町で今日の客を迎える音だった。私は足を止めず、どの店から先に鳴ったかも確かめなかった。鐘は背中へ届いたが、私を呼び戻さない。
朝の街には、焼きたてのパンと濡れた石畳の匂いがあった。七連星灯はもう消えかけ、薄い硝子だけが空の色を映している。馬車を呼ぶ距離ではないと言うと、アルノルトも歩く方を選んだ。
「寒くありませんか」
「少し。でも歩きたいわ」
差し出された手を取り、同じ速さになるまで歩幅を合わせる。
歩くうち、空いた腰へ外套の裾が軽く触れた。初めて店へ向かった朝には、七本の鍵が両手へ食い込み、閉じた階の暗さまで腕に吊り下げているようだった。今、その鍵は共有金庫にあり、私の手は彼の掌の中にある。
角を曲がると、二人の家の窓が見えた。保温杯のない食卓も、灯りのない寝台脇も、窓の向こうで朝の淡い光に馴染んでいる。アルノルトの指が少し滑り、握り直した拍子に、互いの歩幅がまたずれた。笑って立ち止まり、今度は私が半歩だけゆっくり歩き出すと、彼も何も言わず同じ速さへ戻った。
背後でもう一度、店の鐘が鳴った。次の客へ扉が開いた音を聞きながら、私は振り返らず、アルノルトと歩いて家へ帰った。
お読みいただきありがとうございます。
以下作品もよろしければお手に取りください。
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