第148話 花嫁に売れない品
「公爵夫人向け」と金文字で記された札を、ノーラは私の前から先に下げた。
「まだ触れてもいないわ」
「この札が、もう用途を決めてしまっていますから」
婚姻登録を翌日に控え、私とアルノルトは新居の寝台脇へ置く灯りを探しに来ていた。披露の席を飾る品でも、花嫁の衣装を美しく照らす品でもない。片方が先に眠り、もう片方が本を読みたい夜、同じ部屋で使えるものが欲しかった。
ノーラは金文字の札を裏返した。商品そのものは、淡い象牙色の台座に真珠層を重ねた美しい寝台灯で、薄金の光を使用者へ追わせる高い機能を持っている。
「札なしの通常候補としてなら、試せます。お支払いはどなたが?」
「共同生活費からです」
「実際に使う方は?」
「二人とも」
用途票の使用者欄へ、私たちの名が別々に書かれた。『花嫁』と一語でまとめなかったことに、ほっとする。
「読むのは、どちらですか」
「その日によります」とアルノルトが答えた。「私は細かな数字のある資料を長く読むことが多い」
「私は商品票や手紙。布や石の色も見ます」
「寝台の左右は決まっていますか」
「今は私が左ですが、ずっと同じとは限りません」
「最後に灯りを消すのは?」
「起きている方ね」
金文字の札には、一つも書かれていなかったことだ。称号に似合うかより、眠っている人の瞼へ光が届かないか。使わない遠隔点灯や旅行用の機能は要るのか。質問を重ねるほど、高級という言葉は薄くなり、二人の夜の輪郭だけが残った。
家庭用品売場の奥には、新居と同じ高さの寝台を置いた試用室がある。窓を覆い、夜に近い暗さへ落とすと、布の擦れる音まで大きく聞こえた。
私は左側で本を開き、アルノルトは右側の枕へ頭を乗せる。高級寝台灯を点けると、薄金の光が頁の上だけを滑った。印字の細い線も読みやすく、横を見れば彼の顔はほとんど暗がりに沈んでいる。
「眠れそう?」
「いまのままなら」
最初の印象だけなら、包んで持ち帰っただろう。ノーラは急がず、実際に読みそうな物を替えるよう促した。私は契約書から、色見本の付いた商品票へ移る。
視線が布へ落ちた途端、灯りも追って動き、天井へ柔らかな反射が走った。
「目を閉じても、光が動くのが分かります」
アルノルトが片腕で目元を覆った。
「追従を遅くできます」
ノーラが設定輪を弱める。今度は私が頁をめくっても、光が少し遅れてついて来た。色を見るには不安定で、視界の端に金の波が残る。
私が寝返りを打つと、灯りは顔の位置を読もうとして揺れた。アルノルトが水差しへ手を伸ばせば、起き上がった腕を読書する人と取り違え、彼の影を私の本へ落とす。
「使用者を一人に定めれば、整いますか」
「整います」とノーラは答えた。「ただし、もう一人が水を取ったり、灯りを消したりするたび、追従が乱れます。二人用に調整することもできますが、寝返りと読書の動きを記録してからです」
「明日に間に合うよう、急いでもらうことは?」
アルノルトが問い、ノーラの肩がほんの少し固くなった。
「婚姻日を理由に、ほかの調整を後へ回すことはできません。見積りも、試した後です」
「では、今日持ち帰れる品ではないわね」
「はい」
ノーラは用途票の不適合欄へ、共同寝室では光の追従が過剰になると記した。声は平静だったが、筆を持つ指に力が入っている。創業者へ、明日の花嫁へ、店で最も高い灯りを売らない。その一行を書くのは、通常客を断るより怖いだろう。
別の店員が、婚礼用の包装箱を抱えて近づいて来た。
「調整前でも、記念品としてお贈りしてはどうでしょう。公爵夫人向けの品が、最もふさわしい方へ渡ったと――」
「贈りません」
ノーラが私を見る前に答えた。
「宣伝にもなります。店主への創業者割引で帳簿を通せば」
「創業者割引はありません。婚礼の贈答品として店の資産を出すなら、持分側の手続が要ります。それより、この二人には合っていません」
店員は困った顔で、私へ助けを求めた。私は高級灯の真珠色の台座へ触れた。滑らかで、寝台脇に置けばきっと華やぐ。翌日の記事に写真が載れば、店にも客が来るだろう。
けれど、合わない品を幸福の証として受け取れば、返すときには店の顔まで傷つけるような気持ちになる。贈り物という名は、返品の扉を重くする。
「包装は戻してください。宣伝のための無償提供も受けません」
箱が畳まれる音を聞き、ノーラの指が僅かに緩んだ。
試用室の入口で見ていた女性が、金文字の札を指さした。
「公爵夫人になる方に合わないなら、良くない灯りなの?」
「いいえ」
ノーラは高級灯を棚へ隠さず、追従する光を女性にも見せた。
「一人で長く読書する方や、光の位置を細かく調整したい方には候補になります。ただ、称号が同じでも、使い方は同じではありません。何にお使いになりますか」
女性は寝たきりの母へ贈る灯りを探しているという。手元の本だけでなく、薬を取るときも光が追ってほしいらしい。ノーラはその場で売らず、母本人と試せる日を尋ねた。
私たちの不適合は、商品の不合格にも、次の客へ売る口実にもならなかった。
次に試したのは、飾りの少ない標準寝台灯だった。光の方向は固定され、輪を回せば明るさだけが変わる。複雑な追従がないぶん手入れは易しく、寝台の片側を覆う遮光板も付けられる。
私が細かな文字を読める強さへ上げると、アルノルトの側まで白くなった。
「これは眠れますか」
「眠れなくはありません」
「我慢できるか、ではなく、合うかを教えてください」
ノーラの言葉に、彼は一度目を開けた。試用室の薄明かりの中で、私と視線が合う。
「合いません。瞼の裏が明るい」
簡易遮光板を付けると、光は私の側へ絞られた。しかし頁をめくる腕が板の縁へ当たり、角度を上げれば彼の枕へ細い光が漏れる。
「寝台を広いものへ替えれば、使えます」
ノーラが可能な案として示す。
「灯りに合わせて、寝台を買い直す?」
アルノルトが私へ尋ねた。
「そこまでは望んでいません」
「私もです」
彼が眠れる暗さまで下げる。大きな文字なら読めても、契約書の細かな線は影へ沈んだ。
「私は、これでも読めるわ」
口にした瞬間、ノーラの眉が寄った。
「毎晩、目を細めて?」
「慣れれば」
「明日結婚する方が眠れるように、エステル様が合わない灯りを受け取るのですか」
問いは鋭かった。私は本へ落とした目を上げる。かつてなら、相手が望むものを先に察し、自分が慣れればよいと微笑むのが、良い婚約者だった。
隣から、アルノルトの手が伸びた。私の本を閉じるのではなく、ただ指先で頁の端に触れる。
「私の睡眠のために、君の目を悪くする灯りは要りません」
「でも、一晩くらいなら」
「一晩を我慢できることと、これからの夜へ合うことは違います」
自分が店で何度も客へ返した言葉を、二人から返されてしまった。
「……合いません」
そう認めると、肩から力が抜けた。標準灯の結果も、同じ用途票へ書き加えられた。
白い紙の上へ並んだ二つの不適合理由を見ていると、遠い妃教育の部屋がふいに蘇った。未来の王の睡眠を妨げず、妃が夜も公文書を読める寝台灯。その選定では、先に休む人も、読む人も、最初から決められていた。灯りが合わなければ、妃が目を慣らし、音を立てず姿勢を変える。私はそれを気遣いと呼び、上手に出来るほど良い妻へ近づくのだと思っていた。
結局、その寝室で灯りを点ける日は来なかった。それでも、自分の不都合を小さく折り畳む癖だけは残ったのだろう。
「何を考えているのですか」
アルノルトが、閉じた本の上に置いた私の手を見た。
「以前なら、この程度は慣れます、と言ったと思って」
「私も以前なら、使えるという答えを合格にしたでしょう」
監査では、危険線を越えなければ適合と判じられる品もある。けれど二人の寝室で毎晩使うものを、最低線だけで選ぶ必要はない。
「あなたは、私が読めない灯りの隣で眠りたい?」
「いいえ。君も、私が眠れない灯りの下で読みたいとは思わないでしょう」
「ええ」
二人とも相手のために我慢できるからこそ、どちらが我慢するかを競わない。その答えを聞いてから、用途票に残る白い余白は、空いた寝台脇と同じように穏やかに見えた。
ノーラは、別々の小さな灯りを置くこと、どちらかを調整して後日もう一度試すこと、非魔法の覆い灯を探すこと、今日は何も買わないことを示した。どれかを正解として勧めず、私たちが一つを共用したい理由も聞く。
「値段を抑えたいからではありません」とアルノルトが答えた。「寝台脇の道具を増やさず、どちらが起きていても同じ手順で使いたい」
「でしたら別々の灯りは、いまの用途から外れます。調整を待つか、別の仕組みを探すか、何も置かないまま登録の日を迎えるかです」
売場の奥には、私だけが知っている試作品がある。可動する遮光板へ職人が手を入れれば、二人の寝台へ近づくかもしれない。喉元まで品名が出かかった。
けれど、それはまだノーラが客へ渡せる商品ではない。私が隠し球を出せば、彼女が二品を売らなかった判断は、創業者が用意した正解へ至るための前座になる。
生命の危険はない。今夜、寝台灯を買わなければ、読書を食卓で終えてから眠ればよい。空白を一晩残す不便は、誰かの手順を越える理由ではなかった。
「今日は何も買いません」
私が言うと、アルノルトも頷いた。
「私も。調整を待つかは、暮らしてから考えます」
会計へ運ばれる品はなく、机には二品の不適合理由を書き込んだ用途票だけが残った。ノーラは、調整を頼む場合の窓口と再試用の手順を一つずつ説明した。
会計係が試用室を覗き、売上票のない盆を見て足を止めた。
「高級灯も標準灯も、お取り置きなしでよろしいですか」
「はい。婚姻後に気が変われば、改めて通常の試用をお願いします」
ノーラは高級灯から花嫁向けの札を外し、一般の試用棚へ戻した。標準灯の遮光板も緩みがないか確かめ、次の客が最初から試せる状態へ整える。私たちへ売れなかった品を、婚礼の失敗として裏へ隠さなかった。
試用に費やした時間も整備も、店には負担として残る。その負担を私の祝いへ付け替えず、通常の不売記録へ入れるところまで見届けてから、私は用途票の控えへ受領印を押した。
「説明は足りましたか」
「ええ」
「何も売れなかったことに、ご不満は?」
「ありません。新居の台は空いたままだけれど」
「寂しくありませんか」
「合わない幸福の印で埋める方が、ずっと寂しいわ」
ノーラはようやく笑った。私は彼女を褒めず、不売の正解へ点も付けなかった。買わない客として用途票の控えを受け取り、それを鞄へしまった。
店を出ると、入口に翌日の大売出しを告げる札が掛かっていた。婚礼祝いの値引きではなく、通常の価格と返品条件で、実演も修理も、灯芯回収の続きも行う営業日だ。
「明日、売場を見に来ますか」
見送りに出たノーラが、おそるおそる尋ねた。
「行かないわ。私たちは役所へ行きます」
「本当に?」
「本当に」
翌朝、私たちが婚姻登録所へ向かうのと同じころ、七つの認定店と王都本店は花嫁の許可を待たず、開店札を返すことになっていた。




