第143話 呼んではいけない人
最初に届いた回収通知には、代表という肩書がなかった。
薄い封筒の宛名は、ただのエステル・ベルク。中の紙には、手元にある《星雫灯》が使用停止の対象だと記され、底面の製造番号を確かめるよう促していた。
食卓から灯りを持ち上げ、冷たい真鍮の底を返す。彫られた番号を指先で追い、紙のものと重ねたとき、胸の内側まで小さく揺れた。昨夜もこの光の下で、アルノルトと婚姻契約の余白を読んでいた。
「該当していますか」
「ええ」
私は灯りを点けず、停止輪が閉じていることを確かめた。
ヨナス工房の申告によれば、灯芯を撚る工程に揺れがあり、一定の出力で細かなちらつきが出るおそれがある。対象は一ロットと製造番号で区切られていた。違うロットまで棚から下ろさず、ヨナスの工房で作られたほかの品を、名の汚れごと捨てることもしない。
通知には、工程を申告したヨナスの名が記されていた。彼が作った品だから名を伏せるのでも、名が出たから悪人にするのでもない。灯芯交換の費用と止めた売上をどう負うか、申告と工程管理の責任をどう分けるかは、七店の手順にもう載っている。
「店へ持っていきましょう」
アルノルトが外箱を出した。
「あなたも?」
「二人で使う貸出灯なら、二人で試さなければ選べません。公爵家の倉庫から出させるつもりはありませんよ」
彼の言葉に、私はわずかに肩の力を抜いた。自宅の灯りくらい、裏口から替えられる立場になった。それをしないと毎回確かめることは、愛情のない面倒ではなく、これから暮らす家の癖になるのかもしれなかった。
《星灯り》の一階では、対象棚に赤い札が掛かり、該当しない灯りは番号を照合しながら売場へ残されていた。すべてを下ろせば説明は短くて済む。けれど仕事に灯りを要する客から、安全な品まで奪うことになる。店員たちは一台ずつ底を返し、灯芯の印と受入記録を重ねていた。
「同じ《星雫灯》なら、こちらも危ないのでは?」
対象外の品を持った男性が、入口で足を止めている。
「今回申告された製造番号には当たりません。ただ、実際にちらつくなら別の故障として調べられます。ここで点灯しますか」
店員が試用台へ置き、男性自身の手で灯した。乳色の光は揺れず、停止輪も滑らかに閉じる。男性はすぐ持ち帰らず、修理予約の要否まで聞いてから、使い続ける方を選んだ。
回収窓口には、夜番で帳面を書く人、贈り物として灯りを受け取った女性、小さな子を連れた父親が順に待っていた。私は最後尾の札を取り、箱を膝へ載せた。店を作った者が列にいれば、前の人が譲ろうとするかもしれないと思ったが、皆、自分の灯りの方を見ている。いま欲しいのは店主への礼ではなく、今夜を照らす安全な品だった。
窓口脇の公開盤では、各地の停止状況だけが光っていた。対象棚を閉じた時刻、交換用灯芯の不足、貸出品を追加で求める店。使用者の名や用途は映らない。辺境の店からは、雪道のため現物回収を急がず、まず伝送鏡で停止を確かめるという事後票が届き、港の店は、船へ持ち込まれた品を購入票だけで追わず、船会社を仲介して現在の使用者へ通知していた。
どの店にも同じ箱を送りつける指示はない。灯芯の交換手順と検査記録は共通でも、貸出品の種類や運ぶ道は、それぞれの町が選んでいた。共通部品を求める欄にマルタの受領印が付き、王都の棚から出せる分だけが梱包台へ回る。その光景を眺めていると、役に立ちたいという思いが、胸の中で行き場をなくした。
夜番の人は灯芯交換を望んだものの、検査が閉店までに終わらない可能性を聞き、代替貸出を試した。強い標準灯は紙を白く飛ばし、旧型は細い文字を沈ませる。机へ留める作業灯だけが筆記姿勢に合ったが、職場の机に挟めるか分からない。
「机の縁は、これくらいです」
両手で示された厚みを店員が測り、留め具の範囲と照らす。本人が点灯と停止を繰り返し、今夜だけ借りると決めた。回収対象だからと、空いている貸出品をそのまま押しつけない。
贈答品を持つ女性は、箱へ結ばれた細いリボンを外さないまま訊いた。
「返したことが、贈った人へ分かりますか」
「対象ロットの安全連絡は必要です。でも、何に使っていたか、どの選択をしたかは、同意なく伝えません」
「返金してほしいと言ったことも?」
「購入代金の契約は贈り主と確認します。理由を限定した仲介もできます。灯芯の交換と代替貸出なら、贈答の事情を知らせず進められます」
女性は新しい灯芯を待つ道を選び、借りる灯りは自分で試した。贈り物であることが、使っている人を回収からこぼす理由にはならない。同時に、回収を口実に贈った事情まで店が覗くこともなかった。
子ども連れの父親が持ってきた灯りは、寝台の脇で使っていたという。子どもは赤い停止札を怖がり、父の外套へ顔を隠している。
「爆発するの?」
「いま消したままなら大丈夫です。灯芯を替えて、もう一度確かめます」
ノーラは子どもの目の高さまで腰を落とした。強い安全灯を試すと眩しさに顔を背け、淡い携帯灯は停止つまみが小さすぎて、眠い指ではうまく回せない。父親はすぐ借りられる品を望んだが、ノーラは空いている品から選ばせず、本人が止められるかを繰り返し試した。
結局、今夜は廊下の灯りを使い、対象品は交換へ預けることになった。貸出は選ばない。子どもは不満そうだったが、帰り際には、自分で停止札を箱へ結んだ。商品を渡さなくても、窓口で返せる安心がある。その小さな手を見て、私はまた、口を出さずにいられた。
やがてノーラが私の順番札を呼んだ。私の顔を認めた瞬間だけ、睫毛が揺れたが、奥にある机へ案内しようとはしなかった。
「通知と、灯りの底を確認します」
「お願いします」
彼女は番号を声に出して重ね、対象印を押した。
「使用を止めたまま、現品をお預かりできます。灯芯交換、返金、交換までの代替貸出からお選びください」
「交換をお願いします。貸出も必要です」
「どこで、何に使いますか」
「家の食卓で、朝と夜に。書類も読みます。二人で使う予定です」
アルノルトも座る位置と利き手を話した。ノーラは三つの候補を出し、私たちにそれぞれ操作させた。ひとつは私の手元をきれいに照らすが、向かい側からではつまみが小さい。次は彼に合っても、私の紙へ光が反射する。両側から回せる灯りは、明るさを落としても二人の文字が読めた。
「こちらを借ります」
「返却の予定と、通常の破損条件をご確認ください。回収に伴う貸出ですが、扱いによる損傷まで免除されるものではありません」
ノーラは、代表用の印ではなく通常の受領票を私へ差し出した。
「公爵家で壊した場合も?」
私があえて尋ねると、彼女は一度もアルノルトの方を見ずに頷いた。
「同じ条件です」
「承知しました」
アルノルトが静かに答えた。褒めるような声音を混ぜなかったので、ノーラも採点された店員の顔をせず、返却窓口を説明して次の客を呼んだ。
その奥に、対象品の一覧があった。七店から届く販売票、修理票、贈答の仲介票、他店への転送記録が、細い帯になって並んでいる。手を伸ばせば届く距離で、まだ埋まっていない欄の白さが見えた。
指が動いたのは、考えるより早かった。
「客の票だけ、お持ちください」
マルタの手が一覧の上へ重なり、紙を伏せた。
「進み具合を確かめるだけよ」
「代表宛の営業報告欄は閉じています。生命警報は出ていません」
「遅れている店に、助言くらいならできるでしょう」
口にした途端、その言葉の形が自分でも分かった。助言のあとで違う道を選べる人が、どれほどいるだろう。店を作り、失敗をいくつも知っている私から届けば、命令の印がなくても、紙の上を重く塞ぐ。
受付の若い店員が、私とマルタを見比べた。私は伸ばした手を引き、借りた灯りの箱へ置いた。
「分かりました。私は客の控えだけ持ち帰ります」
「灯芯交換が終われば、通常の連絡先へお知らせします」
マルタは代表ではなく、持ち主へそう言った。
その足で、婚礼に伴う休暇へ入った。婚姻契約の確認、新しい住居へ運ぶ私物、役所へ持っていく書類。店を覗かずに過ごせるほど暇ではないのに、胸のどこかでは、あの白い欄が埋まったかを何度も数えようとした。
仕立て屋から届いた衣装の裾を確かめていても、針の銀色が灯芯の撚りに見える。役所へ出す紙に現住所を書けば、個票を開かず現使用者へ辿り着く方法が気に掛かった。店へ一言だけ尋ねる口実なら、いくらでも見つかった。
私は通信符を手に取り、裏返し、引き出しのいちばん奥へ置いた。生命警報が鳴れば、休暇中でも届く。それが鳴っていない今、心配だという理由を緊急へ仕立ててはいけない。
「難しい顔をしています」
アルノルトが、持っていた生活費の分担票から目を上げた。
「店へ連絡したいの」
「しますか」
止められると思っていたので、その問いにかえって困った。
「しません。あなたに禁じられたからではなく、しないと決めたので」
「では、その決定を邪魔しないよう、茶を淹れます」
彼は褒めもせず、通信符を預かろうともしなかった。自分で引き出しを閉めた指に、しばらく冷たい金具の感触が残った。
新居の食卓へ貸出灯を置くと、光はまだよそよそしく、何も入っていない棚を薄く照らした。私は自分の衣類と本を納め、店の契約書を運び込まない。アルノルトの職務資料も、こちら側の机にはなかった。
「とても空いていますね」
「合うものが見つかるまでは、このままでいいと思います」
「見つからなければ?」
「買わずに暮らしてみます」
彼が笑い、私もようやく息を吐いた。貸出灯を二人で点け、弱め、消し、もう一度灯す。ちらつきはなく、つまみはどちらの手からも届いた。使えたことだけを受領票へ記す。店全体の回収がうまくいっているかとは、結びつけない。
アルノルトは進捗を尋ねなかった。私も、彼の知る公的な経路から結果を覗こうとはしなかった。
規定の集計が届いた先は、総支配人と各店である。七店は対象の一ロットだけを止め、現品回収、灯芯交換、返金、本人が試した代替貸出を続けた。購入した人だけでなく、贈答や転売の先にいる現在の使用者まで辿りながら、同意のない個票を開かなかった。
一つの店で、選択が届いた先は八割まで進み、そこで止まった。
それは代表宛の報告としてではなく、使用者へ知らせる公開状況に載った。危険が止まっていない可能性のある品が残る以上、誰でも見られる掲示を伏せるわけにはいかない。私は新居近くの掲示板で足を止め、未到達の分類へ目を走らせた。
知っている古道具商の顔が浮かんだ。贈答票の古い書式なら、どの棚にあるかも覚えている。すぐに書ける助言が、喉元まで上がった。
けれど次に同じことが起きた日に、その商人が店を畳んでいたら、私の記憶は何も残さない。濡れた紙を持って市場を歩き、誰でも使える道を作る人が、いま別にいるのだと信じるしかなかった。
私のもとに一覧は来ない。後に公表された未到達の分類には、転売、贈答、別の店へ持ち込まれた修理品とだけあった。購入票に記された人の、その先へ渡った灯りである。
残りの二割を探しに出たのは、私ではなかった。




