第141話 総支配人を選ぶ客席
返金窓口の皿へ硬貨が落ちるたび、乾いた音が客席まで届いた。
そのすぐそばでは、修理期限を過ぎた《星雫灯》が、持ち主の膝に抱かれている。乳白色の覆いには朝の光が溜まっていたけれど、灯芯は冷えたままだ。総支配人を選ぶ日に一階へ用意したのは、花を飾った演説台ではなく、いつもより少し居心地の悪い、ごく普通の営業だった。
候補者には一日ずつ、開店から閉店までの責任を預けた。どの階を開け、誰を休ませ、返金窓口へどれだけ人を回し、遅れた修理をどの順で職人へ渡すか。その日に来た客と届いた品を見て決めてもらうため、朝に封を切るまで予定は知らせない。
「損を出したら、候補者が弁償するのですか」
最初に責任を預かる人が、封筒の縁を指で撫でながら訊いた。
「店が負います。けれど、何のために出した損かは残します」
「売上をいちばん伸ばした者が選ばれるわけでもない?」
「ええ。それだけなら、客席で選ぶ必要はありませんから」
私は答えをそこまでにした。今までなら、返品担当を減らさないで、閉じる階を恐れないで、と続けていたはずだ。舌の先に浮いた言葉を飲み込み、候補者が封を切るのを見守った。
初めの一日は、すべての階が開いた。買収の騒ぎを越えた店に、活気を取り戻したかったのだという。吹き抜けには実演灯の光が幾重にも流れ、階段を上る客の衣装まで華やいで見えた。
けれど昼前には、返金窓口の列が入口近くまで伸びた。婚礼祝いに香り灯を贈られた女性が、箱を胸に抱いたまま、何度も浅い息をしている。
「香りが強くて、家では蓋も開けられません。贈り主に知られず返せますか」
返品係は贈答交換票を探したが、販売を手伝うため人を減らされており、照合に手が回らなかった。二階から応援を下ろせば、今度は衣服売場の試用説明が止まる。開いている扉の向こうで客が待ち、候補者の額へ薄い汗が滲んだ。
やがて四階に休業札が掛かった。そこで実演を待っていた客には、今日の予約を別日に移すか、ほかの階だけを見るか、何も買わず帰るかが伝えられた。遅い判断だったし、四階の販売機会も失われた。それでも、最初の決定を守るために列を見ないふりはしなかった。
二階から戻った店員が贈答票を照合し、女性には、香りが合わなかったことを贈り主へ知らせず精算できる道がようやく渡された。現金を受け取った彼女は、胸へ押しつけていた箱を台へ置き、深く息を吸った。候補者は安堵した顔をしかけたものの、閉めた四階から降りてきた客に呼び止められる。
「予約を移すのなら、次も同じ人に説明してもらえますか。今日は体の具合を最初から話したのです」
閉鎖すれば、人を動かすだけで済むわけではない。途中まで受けた説明を誰へ渡し、客が何をもう一度話さずに済むようにするかまで要る。候補者は四階の受付票を返金窓口の空いた店員へ繋ぎ、次の担当を客本人に確かめてもらった。列を短くするために閉じた階から、新しい約束が閉店後へ残った。
私は観察票へ、閉鎖の時刻と、香り灯の女性が返金まで待った時間を書いた。誤りを直したことも、直すまで客を待たせたことも、同じ紙から消さなかった。
別の日に責任を預かった候補者は、修理の遅れを何より重く見た。職人を七階の作業台へ集め、期限を越えた灯りの接触輪や灯芯を次々と開かせる。冷えていた品に淡い光が戻るたび、持ち主の頬が緩み、修理票の山は目に見えて低くなった。
そのころ一階では、試した三候補がどれも合わない客を、ノーラが前にしていた。強い灯は刺繍糸の艶を白く飛ばし、柔らかな灯は濃色の縫い目を沈ませ、修理調整済みの旧型は長く手を添えると指先が痺れる。売らないことは決められても、調整職人は全員が期限遅れの作業へ回され、次の道をその場で示せない。
「後日の相談をご予約できます」
「誰に、どの灯りを見てもらえるの?」
客に訊き返され、ノーラは帳面を繰った。候補者は修理の順番を守ろうとして、説明できる販売員まで七階へ上げてしまっていた。
私の指は、試用台の縁でひそかに固くなった。答えられる。職人の空く刻も、別の修理台の名も知っている。それでも口を挟めば、候補者が残した穴を私の記憶で塞ぐだけだ。
「今日は決めずに帰ります」
客が席を立ったあと、ノーラは予約票を渡せなかった手を、しばらく膝へ置いていた。候補者は売上を失い、客が次へ進めなかった事実を、自分の営業記録へ書き込んだ。修理を急いだ選択まで間違いだったことにはしない。ただ、そのために取り落とした説明は残った。
客席の壁際には、匿名観察票を入れる細い箱が置かれていた。店員、職人、地方の店を預かる人、小口の持分を持つ人が、名前の好みではなく、その日に見た仕事を書く。
どの品を止め、どんな悪い知らせを先に読み、客へ何を選び返したのか。翌日へ持ち越した損まで、ひと続きの筆跡で残してもらう。
観察した場所が違えば、同じ一日も違う色を帯びる。職人は無理な期限を約束されなかったかを見て、店員は休憩を削られていないかを書く。地方代表は王都の都合が押しつけられなかったか、小口出資者は今日の見栄えのために損が先へ送られていないかを確かめた。希望した客にも票を渡し、受けた説明と、選べなかったものを書いてもらった。
「腹が立った、と書いてもよいの?」
返金を待った老婦人が、羽根ペンを持ったまま訊いた。
「もちろんです。できれば、何を待ち、その間に何が分からなかったかも」
「怒りまで細かく書かなくてはいけないのね」
「書きたくないことは、空欄で構いません」
老婦人はしばらく紙を睨み、やがて、椅子を勧められなかった、と大きな字で記した。候補者が閉鎖や修理順ばかり見ていれば、待っている人の膝までは帳面に出ない。その一行は、どの売上記録よりも早く客席の椅子を増やした。
私にも一枚だけ渡された。代表持分があるからと、ほかの票を消す指名権には変えない。欄外へ事情を書き足したくなるたび、紙の狭さが私の手を止めた。
マルタの番が来ると、彼女は朝の帳面を開き、売上見込みの頁を伏せた。
「先に苦情を読みます」
返金用の現金が薄くなり始めた階、期限を過ぎた修理、前日に貸出条件を説明し損ねた票。針仕事用の比較区画は、調整先まで示す札がまだ揃っていない。
「二階と六階は、説明できる者が戻るまで閉めます。比較区画も開けません」
「売場に立てる人数なら足ります」
「立っているだけでは、営業になりません」
マルタの声は、昔と変わらず静かだった。私が店を譲られた日に、七日分の給金を先に受け取ってくれた人は、今では私の顔を見ずに休業札を出す。窓の灯りがいくつか消えると、吹き抜けは少し寂しくなったが、一階の返金窓口には手が戻った。
香り灯を抱えた別の客には、贈り主へ体質を知らせず契約を解く道と、無香の外輪へ替える道が示された。客は無香型を試し、光は気に入ったものの、外装の重さに首を振った。
「では、品は選びません。贈答の精算だけお願いします」
売上は立たなかった。その直後、会計係が返金箱の中を見せ、補充が必要だと告げた。
「新しい高額仕入れを保留します。共同基金には、今日返した理由と補充後の見通しを添えてください」
「大売出し用の飾り灯が遅れます」
「飾り灯がなくても、返金はできます」
その答えに、会計係は苦い顔をした。共同基金を使えば別の店の現金も縛る。マルタは気軽な善意にせず、今日失う販売と、ほかの店へ負わせる待ち時間まで票に残した。
修理台では、古い順だけで品を並べなかった。毎夜の仕事に欠かせない灯り、代替を借りられている灯り、危険があって動かせない品、装飾用で待てる品を、持ち主と話して組み替えていく。
「期限を過ぎたのは、こちらの失敗です。今日すべて直るとは申し上げられません。待てない方には返金、別の修理先、貸出をお出しします」
責める声もあった。順番を譲れない人も、代替を嫌う人もいた。マルタは不機嫌な顔を隠すために約束を増やさず、閉店後へ残る品へ、持ち主が選んだ次の道を結びつけた。
途中、休憩から戻ろうとした店員が、列の長さを見て早めに持ち場へ入ろうとした。マルタは時計を確かめ、その肩を食堂の方へ押し戻す。
「まだ休みが残っています」
「でも、待っている方が」
「休みを削って隠した不足は、明日も不足のままです。戻る刻を客へ伝えてください。その間に選べる窓口は、こちらで案内します」
客を待たせる時間が生まれ、票にはその損も付いた。働く人を無理に立たせれば見かけ上は消せる待ち時間を、マルタは消さなかった。
ノーラが三候補をすべて退けた客を前にすると、マルタは半歩離れた。
「また説明を落としたら、どうしましょう」
「あなたの言葉で、昨日足りなかったところまで話しなさい。営業の責任は私が持ちます」
ノーラは不適合の理由を一つずつ伝え、調整、再試用、別の店、何も買わないまま帰る道を示した。客は調整後の予約だけを持って立ち、マルタは横から別の商品を差し出さなかった。
候補者の期間が終わっても、誰の一日にも、すべてを救った記録はなかった。全階を開いて返品を待たせた人、修理を進めて新しい相談を翌日へ送った人、客へ返すものを守るため、開けられる売場まで閉じたマルタ。それぞれに支持する票が入り、反対する票にも理由があった。
投票箱を開けたのは、私ではなく公証係だった。私の票には、マルタが読んだ悪い知らせと、閉鎖によって失った販売の両方を書いた。長く隣にいたから選ぶのなら、後継ではなく恩義を相続させることになる。
「任期つき総支配人は、マルタに決まりました」
満場の拍手ではなかった。別の候補を支持した人も、腕を組んだまま結果を聞いている。だから任期があり、次に選び直す道がある。
選ばれなかった人たちの営業記録も、負けた案として倉庫へ追いやらなかった。全階を開ける判断が必要になる日も、修理を最優先すべき朝も来る。観察票に残った少数の理由を、次の任期まで同じ場所へ保管することになった。マルタが誤ったとき、彼女とは違う道が、誰かの記憶だけでなく紙から取り出せるようにするためだった。
「おめでとう、マルタ」
「ありがとうございます、代表」
店主ではなく、いま私が預かっている役目で呼ばれた。その響きに安堵したのか、寂しかったのか、胸の奥で動いたものへ、すぐには名をつけられなかった。
マルタが最初に机へ出したのは、制服の案でも、自分の給金でもない。共通憲章の写しに赤い線を引き、私の前へ滑らせた。
「この条項を削る提案をします」
囲まれていたのは、重大な事態に代表が全認定店へ単独で指示できるという一文だった。
「発煙事故が起きても?」
「生命に危険があれば、誰でも止められなければなりません。代表を待つ仕組みでは遅いでしょう」
「全店の回収には、ひとつの命令が要ることもあります」
「停止と、在庫の移動と、返金と、職人の切り替えを、ひとつの『重大』へ入れないでください」
昨日まで私の判断を守ってきた人が、総支配人として最初に削ろうとしたものは、私の力だった。
私は赤い線を隠さず、翌日の議題へ載せた。




