第132話 公開社債の七日間
「この鍋を買った者には、利息を少し足してもらえるのかい」
開店して間もない申込卓で、年配の男性が保温鍋の蓋を叩いた。よく使い込まれた縁は銀色に擦れ、持ち手には自分で巻いたらしい革紐がある。品を大切にしてくれた人だったからこそ、私は首を横へ振った。
「同じです。この店でたくさん買ってくださった方も、今日初めて入った方も、利息も返済条件も変わりません」
「では、昔からの客だけ先に修理してもらえる?」
「それもありません。社債を買った方の品が、返品や修理の列を越えることはありません」
男性は眉を上げ、やがて鍋を抱え直した。
「何も得をしないんだな」
「利息と、約束した時期に返す元本があります。そのほかの得を付けたら、商品を必要とする方と、お金を貸せる方の扱いが混ざります」
「ずいぶん愛想のない募集だ」
そう言いながら、彼は申込書を一枚持ち帰った。署名はしなかった。
公開社債の七日間は、景気のよい鐘ではなく、その小さな問いから始まった。
本店の七階と、認定店の受付には同じ資料を置いた。利息、返済の順、遅れる可能性、店が立ちゆかなくなった場合に戻らない金があること。どの町で読んでも言葉を替えず、顔を知っている客へだけ柔らかな説明を添えることもしない。限定品の予約も、修理順の優待も、店主との会食も付けなかった。
代わりに差し出したのは、四年間の帳簿だった。
初めて黒字になった日の数字も、返品が予想を越えた月も、回収のために棚を閉じた日も、国外で直せなかった品も、辺境支店が赤字を抱えた時期もある。原料が届かず、売れば売るほど代替輸送の負担が増えた記録。職人へ支払う金を削らず、そのため店の利益が薄くなった記録。華やかな新聞記事の切り抜きは壁へ貼らず、その記事が出た週の返金票を隣に置いた。
「ここまで見せる必要がありますか」
新しく受付へ入った係が、回収記録の束を抱えて尋ねた。
「良いところだけを読んで貸した金は、返すときになって悪いところを知るでしょう。七日間だけ隠せても、返済の日までは隠せないわ」
帳簿を開く指は、平静には動かなかった。四年前、何も持たずにこの店へ入り、灯りが消えかけた売場で一枚目の請求書をめくった夜を思い出す。あの頃の私は、悪い数字を見せれば人は離れると思っていた。いまも怖さは変わらない。ただ、怖いから伏せた数字で人の老後や暮らしを支える方が、もっと恐ろしかった。
昼を過ぎるころ、閲覧台の前は人の体温で暖かくなった。紙を傷めないよう火鉢を離してあるため、窓辺には冷気が溜まっている。手袋を外した商人が、指へ息を吹きかけながら原料不足の頁をめくった。
「ここでは売上が伸びているのに、手元の金が減っている」
「注文に応じるため、遠い土地から代替材料を運びました。売れた分より、輸送と再試験の負担が先に出ています」
「売れれば儲かる店ではない、と?」
「どの品をどう売っても、とは言えません」
彼は表紙へ戻り、社債の利息と見比べた。
「この利息では、その危険を引き受けるには低い」
「そう判断される方がいることも、条件に含めて考えました」
「店主なら、もう少し安心させるものだろう」
「安心できる材料が帳簿にあるなら、お見せします。私の顔を信じてとは申しません」
商人は申込書へ触れずに帰った。冷たい風が扉から吹き込み、閲覧台の頁をぱらぱらと戻した。後ろに並んでいた若い母親が、不安そうに私を見上げる。
「あの人の言うとおり、危ないのでしょうか」
「あの方には、条件に見合わない危険でした。あなたにも同じかは、私には決められません。今月使うお金なら、貸さないでください。迷うなら今日は持ち帰って」
彼女は胸元の巾着へ手を当て、長いあいだ立っていた。それから申込書を畳まず、閲覧台へ戻した。
「子どもの靴を先に買います」
「そうしてください」
笑って見送ったあと、私は机の縁を強く握った。正しい返事をしたという安堵より、一件を失った焦りの方が先に来る。その醜さを誰にも見せずに済んだことへ、さらに安堵してしまう。善い店主の顔と、成立させたい借り手の胸は、私の中で少しも綺麗に一つにはならなかった。
夕刻には、仕立てのよい外套を着た男が、別室で説明を受けたいと申し出た。申込額を聞いた係が思わず私を見るほどの客だった。
「ここでは人に聞かれる」と男は言った。「同じ条件で構わない。だが、店主から直接、今後どの商品を伸ばすか聞きたい」
「公開した資料以上の見通しは、個別にはお話しできません」
「助言くらいは?」
「その助言を受けた方だけが先に判断できます。お申し込みなら、こちらの卓で承ります」
男は外套の襟を直し、返事をせずに去った。用意していた別室の椅子は結局使わず、翌朝には閲覧台へ戻した。
申込卓の隣では、いつもの修理受付が続いていた。
片手鍋を抱えた女性が社債資料へちらりと目をやったものの、先に黄札を取った。蓋の熱留めが偏るという。担当者が湯を注ぎ、温度線を一緒に見るあいだ、私は申込書を勧めずに待った。
「借り入れが成立しなければ、この修理もできなくなりますか」
女性が不安そうに尋ねる。
「今日お預かりした修理は、今ある契約と準備金で扱います。買っていただく理由にはしません」
「でも、お店には続いてほしいの」
「そのお気持ちと、貸してよいお金かどうかは、別に考えてください」
彼女は修理票だけを受け取って帰った。社債を申し込まなかった人の背中を見送りながら、胸の奥に小さな焦りが走る。成立に必要な不足額を知っていれば、声を掛けたくなる。修理後の鍋をずっと使いたいという言葉に、店を救う署名を重ねたくなる。
私は申込書の束へ伸びかけた手を引き、代わりに修理品の預り棚を閉めた。
辺境店からは、買うという返事より先に質問が届いた。
冬に資金が要るとき途中で換金できるのか。別の町へ移った場合はどうなるのか。持ち主が亡くなったとき、家族は何を受け継ぐのか。店側が返済を早めたいとき、勝手に打ち切れるのか。
ベルタと公証人がひとつずつ答え、同じ回答を全店へ掲示した。質問した本人は、その回答を読んで申し込まなかった。冬に手元へ戻せない金を、雪の深い土地で貸す余裕はないという。
「悪い知らせを全店へ回しますか」
「ええ。申し込まなかった理由ほど、次の人に必要です」
断った人の名は出さず、途中換金できないことを太い字で加えた。その日の申込みは、掲示を出す前より鈍った。
夕方、アルノルトへ書きかけた手紙を前に、私はしばらく筆を動かせなかった。彼は既に買収案件から忌避し、委任状も受けていない。社債に金を入れないことも、名義を借りた誰かを使わないことも決まっている。それでも、ただ眠れないと書くことまで禁じられたわけではなかった。
『帳簿を見せるたび、店が剥がれていくようで、眠れません』
それだけ送った。
返事は夜半に届いた。
『私も眠れていません。助言も資金も送りません。ただ、あなたが隠さず置いた帳簿を、明日の人が読むことを願っています』
紙から温もりが出るはずはないのに、指先で折り目をなぞると呼吸が少し深くなった。助けると言われたかったのではない。助けないまま側にいることの難しさを、彼も引き受けている。その事実だけを胸へしまい、私は翌朝も同じ申込卓へ座った。
返品品を抱えた夫婦が来た。以前に買った暖流弁が家の配管へ合わず、全額を返したことがある。夫は四年間の返品帳をめくり、妻は貸付条件を声に出して確かめた。
「私たちが返した分も、損として載っている」
「載せています」
「返品した客が貸すのは、おかしいかしら」
妻の問いに、夫が先に笑った。
「合わない物を引き取ってくれたから、次の客は合うかどうか聞けるようになったんだろう。何でも良かったと言う方がおかしい」
二人は同じ家計からではなく、それぞれが自分で決められる小口を申し込んだ。私は礼を言ったが、次に来た客へその話を美談として語らなかった。彼らの決断は、ほかの誰かが貸す義務にはならない。
何も買ったことのない若者も現れた。長いあいだ用途札と返品規則を読んでいたが、店員に声を掛けられるといつも「見ているだけです」と帰る人だった。
「商品は高くて、まだ買えません。でも帳簿は読めます」
彼は売上より、休業と臨時賃金の頁を念入りに見た。
「冬の復旧で店を閉めた時間にも、給金を出したのですか」
「出しました。そのため利益は減っています」
「なら、その減った利益も含めて貸します。品を買ったお礼ではありません」
小さな申込額を恥じるように、彼は紙の端を指で隠した。私は隠された部分を覗かず、条件を理解した印だけを確かめた。
暮らしのために貯めた金をすべて持って来た老婦人には、申込みを止めた。店を残したいと何度言われても、食費と家賃を削った金を受け取ることはできない。彼女は怒り、申込書を卓へ返して帰った。
その後ろ姿が見えなくなるまで、私は追わなかった。成立が遠のく音がした気がした。
けれど翌日、老婦人は小さな巾着ひとつで戻った。
「これは、なくても冬を越せる分だよ。昨日、孫と一緒に計算した。今度は受け取るだろうね」
「条件をもう一度、初めから読みます」
「まったく、頑固な娘だ」
「よく言われます」
彼女は最後まで聞き、しっかりした字で署名した。
申込みが増えるにつれ、別の疑いも膨らんだ。名簿の中にヴァイスベルク家の使用人が紛れていないか。王家の資金が商人の名を借りて入っていないか。王冠が買収を成立させるため、逆に社債を支えて恩を作っていないか。
外部監査人だけが資金の出所を確認し、売場へは必要以上の名を出さなかった。投資した人を見世物にせず、誰の代理でもないことだけを証明する。私は確認対象からアルノルトの名を外さなかった。恋しい人だから調べなくてよい、とはできない。彼の名が関わっていないという報告を受け取ったとき、安心と寂しさが胸の中で触れ合った。
七日間の終わりが近づくころには、申込帳の紙の白さは見えなくなっていた。太い字、震える字、帳場慣れした流れる字。王冠で修理を受けた人も、星灯りへ返品した人も、品物を一度も買わなかった人もいる。誰かひとりの大きな救済ではなく、千件の小口の選択が、薄い紙を重い束へ変えていた。
それでも、足りなかった。
締切を控えた夜、ベルタが合計欄へ定規を当て、何度目かの照合を終える。申込卓の周りには、紙をめくる音さえなかった。
「残りは?」
尋ねた声が、自分のものではないように聞こえた。
「一口です」
店を買えるほどの大口ではない。けれど、その一口が欠ければ条件を満たさず、集まった千件を成立へ運べない。
玄関の鐘が鳴った。
入って来た使者は顔を隠してはいなかったが、申込人の名を告げず、封をした書状だけを卓へ置いた。中には、不足分をすべて埋めるという申込書がある。
添えられた条件を読んだ瞬間、四年間の帳簿より深い場所を開けと求められていることが分かった。
客一人ずつの相性記録へ通じる鍵が、代金だった。




