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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第129話 七階を空にする夜

 長く置かれていた鏡を持ち上げると、棚板に四角い夜が残った。


 そこだけ埃が薄く、周りだけが灰色にくすんでいる。飾り窓の灯りが消えているせいか、見慣れた七階の試用棚は、商品を外すたびに古い素顔をさらしていった。


「鏡の裏に、工房印があります」


 ニナが綿布で埃を拭い、縁へ彫られた小さな百合を見つけた。貸与票を探すと、比較試用のため職人が持ち込んだ品で、店が買ったものではない。


「青札ね。職人委託」


「ずっとここにあったから、店の備品だと思っていました」


「思っていたものから先に、疑いましょう」


 鏡へ青い札を結び、昇降台へ載せる。白は店が所有する在庫と什器、青は職人から預かったもの、黄は客の修理預り、緑は貸出中の品、赤は完成品へ組み込まれていない修理部品。色が違えば、置き場所が隣でも値段へ入る資格は違う。


 製造番号と契約票が合わない品は、色を与えず隔離卓へ運んだ。所有者が見つかるまで、値段の欄も空けておく。今夜の私たちに分かっているのは、その品が店の棚にあったことだけだった。


 最初の箱が暗い階段を下りてから、私たちは各階の棚を順に空けていった。


 床へ並べた品は、一つずつ人の手へ戻した。灯りを点け、消し、もう一度点ける。装身具を留めて外し、衣へ引かれたときの強さを見る。蓋の開閉、熱の止まり方まで確かめるため、職人たちは客役を引き受け、その作業料を自分の名で帳面へ記した。


 茶葉を量る匙は、最初にすくった試験粉を正しく落とした。柄の目盛りも澄んだ青に光る。ところが続けて使うと、受け皿へ落ちる量がふいに増えた。


「展示のときは、いつも動いていました」


 担当者が匙を覗き込む。その声には、自分の見落としを咎められる前の硬さがあった。


「今夜、動かなかったことを記録しましょう。誰の責任かは、分解してからでいいわ」


 帳簿には良品としての価格が残っている。私はそこへ故障札を重ね、修理の見積りが出るまでは、部品と材料として確かめられる額へ落とした。明日きれいに直れば、その朝の光の下で、あらためて値段を戻せばよい。


 担当者は唇を噛んだまま、試験粉を袋へ封じた。どの茶葉で誤差が出たか、後の修理に要るからだ。故障札の赤は、匙を見限る色ではなく、壊れた場所から仕事を始めるための印になった。


 旅行用品の階では、防寒灯へ厚い手袋をしたまま触れ、点灯輪が指に従うか確かめた。折り畳み水筒へ水を満たして逆さにすると、封水陣の端から透明な雫がふくらみ、床へ落ちる前にニナが布を差し入れた。


「見た目は新品なのに」


「だから動かすのよ」


 方位針は、魔力を乱す箱のそばへ置いた途端、出口と北の間を迷うように震えた。いずれも白札の店有品だったが、棚に美しく並んでいた値段からは外した。


 辺境の強風を避ける重い灯り覆いは、傷だらけの外側で、白い炎をきちんと守った。王都では滅多に売れなくても、吹雪の土地で非常用として待つ役目がある。私は換金可能の欄を閉じ、行き先の名を大きく書き足した。


 国外の保守契約へ取り置いた灯核も、返品交換のため支店が確保した部品も、用途を記した札のまま分けた。棚卸し表へ行き先を残すたび、今夜の発行価額へ回せる数字は、静かに痩せていった。


 仕事具の階では、職人たちの手が、売場係よりも多くを見つけた。


 縫製用の魔力鋏には、糸を断ったあと、切り口のほつれを封じるところまで働いてもらう。粉塵測りは危険な濃さで警告色へ変わり、診療所向けの冷却箱は中身を凍らせず、定めた温度へ留める。針が動いた、冷気が出たという一瞬より、使う者が預ける一日を試した。


 青札の粉塵測りを手にした工房主が、自分の印へ親指を当てた。


「売れれば手数料を引いて代金を受け取る契約です。置いてから長いので、在庫帳では店の品のように並んでいますね」


「今夜は会社の値段に入れません。買収後も置くなら、そのとき改めて委託先を選んでください」


「王冠へ移すことにしても?」


「あなたの品です」


 工房主は寂しげに売場を見回したあと、青札を結び直した。私には、残ってほしいと言える理由がいくらでもあった。けれど、委託品を企業価値へ混ぜれば、彼が移る自由を値段の中へ閉じ込めてしまう。


 階段を下りるころには、粉塵と磨き油の匂いが服へ染みつき、運び手の靴音も鈍くなっていた。厨房から届いた温かな茶を皆で立ったまま飲んだ。眠気を払うための苦い葉が、舌の奥に残る。夜が深まるにつれ、箱を持つ腕より、これは誰のものかと疑い続ける頭の方が重くなった。


 子ども用品の階には、学習灯や眠り布のほか、修理中の玩具が残っていた。眠っている子どもを棚卸しへ呼ぶ代わりに、本人試用票と安全規格を机いっぱいに広げる。貸出中の学習灯は緑札の帳面から借り手と所在を確かめ、返却後の点検を終えるまで評価を留保した。棚の空白にも、今夜そこへいない持ち主の暮らしがあった。


 黄札の玩具には、持ち主の子どもの名前が丸い字で書かれていた。修理台へある間だけ店の手の中にあっても、その子の物であることは変わらない。買収価値の欄から外すと、帳簿に残る金額は減り、代わりに返す相手の名だけが鮮明になった。


 鍋と保温具の階へ降りると、試験の熱で冷えていた指がようやくほどけた。


 保温鍋へ湯気を模した白い霧を満たし、蓋を閉める。熱留め陣へ光を通すと、縁の一か所から霧が糸のように漏れた。傷一つない蓋なのに、内側の陣が途切れている。


「普通の鍋としてなら、使えます」


 マルタが取っ手を持ち、重さを確かめた。


「保温の値札は外しましょう。機能がないと明記した上で、鍋として試してもらうなら売れます」


 その隣の盆は、縁に擦り傷があるものの、熱を均一に保っていた。新品の札を外し、傷の位置を絵へ写す。試用済みの盆としてなら、湯気は端まで穏やかに広がり、温度線も約束どおりの色を返した。見栄えより先に、その働きを値段へ載せた。


 夜更けに、修理品を受け取りに来た客があった。棚卸しの箱で一階が狭くなっていても、返却台までの通路だけは空けてある。


 接地輪を直した歩行杖は黄札だった。石の床、敷布、濡らした板へ順に突き、滑らないことを本人の手で試してもらう。


「今夜は、店の値段を決めているそうじゃないか」


 客は杖へ体重を預けながら、床に並ぶ箱を眺めた。


「ええ」


「この杖はよい物だ。ずいぶん高く数えられるだろう」


「あなたの物ですから、店の値段には入りません」


「空っぽの店を買いたがる者がいるのかね」


 からかうように笑う口元へ、私はうまく答えられなかった。客は杖をもう一度濡れ板へ置き、確かな音を聞いてから続けた。


「品ではなく、誰の物をどこへ置くか決める場所を買うんだろう。なら、その決め方を安売りしないことだね」


 客は自分の杖を持って帰った。黄札がなくなっただけで、店の資産は増えない。けれど、空になりつつある一階に、値札へ書けないものが残った。


 装身具と香りの階では、所有の線がさらに絡み合っていた。外套そのものは店有でも、留め具の意匠は職人へ使用料を払っている。委託の香炉へ、店が買った交換用火皿だけが組み込まれている。王室行事へ貸し出す礼装は店有であっても、販売できる在庫ではない。


「この安全輪、完成品にも部品箱にも載っています」


 ベルタが帳簿を並べ、同じ製造印を指した。完成品へ取り付けた後も、赤札の部品数から消されていなかったらしい。


「完成品の内訳へ移して、部品の方から外して」


「どちらに残した方が評価は高いですか」


「高い方を選ぶのではなく、現物に合う方よ。輪はもう箱の中にはないわ」


 安全輪を完成品の内訳へ移すと、部品箱の数が一つ減った。姿の見えない重複がほどけ、帳簿の末尾から、また小さな額が落ちていった。


 支店から届く棚卸し票にも、同じ色が使われていた。イーダの店が雪の暮らしのために残した部品、国外の工房が預けた委託品。それぞれの札には、遠い売場の寒さや潮の匂いまで染みついているようだった。


 署名に不明なところがあれば照会を返し、返事が来るまで色を保留する。本店へ集まった紙を、私の机の上で一つの倉庫へ畳み直すことはできない。夜はその分だけ長くなったが、灯りの向こうに、一店ずつ違う扉が見えていた。


 地下倉庫で、ボルクは壁際の棚を眺めていた。長く倉庫を預かった人だけが知る、木材のわずかな色の違いへ指を掛ける。板を外すと、湿気を避けるために作られた細い保管溝が現れた。


「帳簿にはありません」


 後任の倉庫担当が息を呑む。


「昔は、ここへ入れておけば覚えていられた」


 ボルクは中から古い留め具と包みを取り出した。製造番号を照合し、由来の分からないものは白札ではなく隔離へ回す。それから紙を広げ、溝の位置、湿度の癖、開け方、置いてはいけない材料まで、太い指で図にした。


「秘密の棚を知っているのが、倉庫番の腕だと思った時期もある」


「今は違うのですか」


「俺が寝込んだ日に腐る知識なら、腕じゃない。怠けて書かなかっただけだ」


 彼は、自分の頭にだけあった棚の記憶を、照合簿へ移していった。箱の並び方だけでなく、なぜその場所へ置くのか、季節が変われば何を動かすのか、見つからないときに勝手に代用品を出してはいけないことまで書く。


 最後に、日々使う倉庫鍵を一本、後任の掌へ置いた。担保に入っている店の七本の鍵ではない。朝ごとに荷を出し入れする、擦れて色の薄くなった鍵である。


「まず照合簿を見ろ。俺の記憶を呼びに来るのは、その後だ。分からなければ、分からないまま記録へ残せ」


 後任は鍵を差し、倉庫扉を閉めてから開け直した。蝶番が低く鳴ったが、ボルクは手を添えなかった。彼の横顔には寂しさが浮かび、その寂しさを、誰にも渡さない秘密で埋めようとはしなかった。


 やがて、一階へ最後の箱が下りた。


 明け方の七階まで上がると、棚には品物の代わりに埃の輪と値札の紐だけが残っていた。鏡のあった四角、鍋の脚が刻んだ小さな窪み、何度も試用した灯りが焼いた淡い色。置かれていた人の名前と、触れた人の暮らしが、品よりも消えにくく残っている。


 空になった床で、壁へ留めた棚は建物の設備、運べる試用台は店有什器、職人が持ち込んだ台座は青札と、一つずつ印を付けた。贈り物だと語り継がれてきた椅子は、贈与の書面を見つけられず、夜明け色の隔離札を結ばれた。


 照明陣、昇降機、消火線を実際に動かし、修理費を見積りへ載せる。昨日までの華やぎは床の淡い焼け跡に残っていた。明日の朝、安全に扉を開けられる部分だけを拾い上げた数字が、私たちの差し出せる店の姿になった。


「ずいぶん、小さくなりましたね」


 ニナの頬には埃が一筋つき、声は眠気に掠れていた。


「本当の大きさになったのよ」


 そう答えたものの、胸の内は軽くならなかった。故障品を落とし、他人の品を外し、行き先のある在庫を縛るたび、買収へ抗うための値段が減った。正しく数えた帳簿は、慰めより先に、足りない額をありのまま差し出してきた。


 ベルタが、空の棚にはなかった紙を持って階段を上がってきた。


「照合が終わらない資産が残っています」


 王宮向けの請求書だった。注文があり、納品され、検収され、売上へ記録されている。入金の印だけがない。


「未回収は?」


「一件です。レオポルド殿下の名で発注されています」


 入金までは、金庫の硬貨に数えられない。それでも検収まで終えた仕事には、受け取るべき額と、待たされた日数があった。私は未収金の欄を新しく開いた。


 私は請求書へ赤い札を結んだ。


 七階の棚をすべて空にした朝、店で最も重い品は、誰の手にも持てない未払いの紙になった。


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