第128話 一株を買わない権利
アルノルトの手紙を畳んだ指で、私は「何もしない」と書いた札を、四枚の中でもいちばんよく見える場所へ置いた。
卓上には、株、社債、現金賞与、何もしない、という四つの選択肢が並んでいる。
紙の質も、縁取りも、机の上で占める広さも揃えてある。ただ、最後の文字だけは、相談卓から離れた場所でも読める大きさにした。小さく記せば、選べることにはなる。けれど人は、見えにくい出口を自由とは呼ばない。
「店を救うための募金ではありません」
開店鐘のあと、持ち場を交替して相談卓へ来た人たちへ、私はそう切り出した。営業を止めた大広間で熱を吹き込むのではなく、給金の出る時間のうちに仕事を替わり、互いの返事が聞こえない人数で説明を受けてもらう。上役の目の前で札を選ばせることもしない。
「ここへ来た時点で、何かを買う義務はありません。どの札を取っても、取らなくても、雇用、担当、昇給、買収後の残留や移籍には結びつけません。理由も尋ねません」
「星灯りに残りたいなら、株を持った方がよいのですか」
包装係が、膝の上で説明書の角を撫でながら尋ねた。
「残る意思と、店の一部を所有する意思は別です。腕のよい包装係であり続けるために、資産が減る危険まで負う必要はありません」
「でも、株を買った人が店を守って、買わなかった人は守られるだけになるのでしょう」
胸の奥へ刺さる問いだった。基金へ渡るかもしれない票を前にすれば、差し出した者の方が立派に見える。私自身、そんな目をしないと言い切れても、職場の隣人まで同じとは限らない。
「株を持つ人は、利益を受けるだけでなく損失と議決の責任を負います。持たない人は、給金に対する仕事をします。どちらかがもう一方へ恩を着せる関係にはしません。もし持分会で、非購入者の担当や昇給を不利にする話が出たら、私は代表として止めますし、本人も異議を出せます」
ベルタが、四種類の説明書を伏せた状態で揃えた。
「長所より、先に不都合を読みます。読み終えてから選んでも、持ち帰っても、何もせず仕事へ戻ってもかまいません」
株は、《星灯り》の一部を持つ。店が利益を上げれば受け取れる可能性があり、価値が落ちれば、払った金よりも小さくなる。従業員持分会を通じて、店則、代表の選任、安全規則、発明名義の扱いに意見と票を持つが、望む商品を仕入れさせたり、自分の給金を直接決めたりする切符ではない。
社債は、店へ金を貸す契約である。返済の期日と順位、利息があり、通常の経営議決には加わらない。店が立ちゆかなくなれば、貸したものがすべて戻るとは限らない。持分より先に返される条件があっても、金庫が空なら、紙に書かれた順位だけでは暮らしを守れない。
現金賞与は、そのまま受け取る。家へ持ち帰っても、靴を買っても、蓄えてもよく、何に使ったかを店へ告げる必要はない。賞与を渡すことと、あとから同じ手で投資を勧めることを結びつけない。
そして何もしない。申し込まず、貸さず、賞与以外の金を店へ戻さない。理由を書く欄はなく、答えたことは有効な選択として封じられる。
「代金を、給金から引いてもらうことはできますか」
運搬係が株の用紙を持ち上げた。
「自動では引きません」
「毎月少しなら、払えると思うのですが」
「払える額を、雇う側が決めることはしません。いったんあなたの手へ渡った金から、生活に残す分を自分で決めてください。申し込むために給金日を待つなら、期限へ間に合わなくても構わないと考えてください」
「間に合わなければ、店が買われるかもしれないのに?」
「そのためにあなたの食卓を、店の担保へ入れることはできません」
運搬係は鼻から長く息を吐き、株の紙を戻した。選んだのは現金賞与だった。
「腰を診てもらいます。王冠へ移ることになっても、これは返しませんよ」
「これまでの仕事に対する賞与です。残留の前金ではありません」
封筒へ現金受領の札を入れた彼は、行きよりも軽い足取りで荷受け口へ戻った。買収後の移籍を考えている人が現金を選べることは、店への忠誠を損なうのではない。忠誠という名で金を預からないために必要だった。
説明の途中、隣の試用台で瓶の蓋が硬い音を立てた。年配の客が、蓋開けの補助具を手に試している。握る力を増すものは軽く回るが、止まる感覚まで薄くなる。滑り止めだけのものは力が要り、輪が瓶へ合わせて縮むものは手順が多い。
「この札を選んだら、品物も安くなるのかい」
客が社債の札を顎で示した。
「なりません。修理の順番も早くなりません」
「なら、今日は瓶の方だけにするよ」
客は、自分の指で蓋が開いた感触の残る滑り止めを買った。相談卓の説明書へは触れず、会計を済ませて帰る。マルタは投資案内を包みに忍ばせなかった。
店へ来る人を、危機のたびに財布として見れば、相談卓そのものが別の買収者になる。客の用事が一つ終わり、扉が閉じたあとに残ったその思いを、私は自分へ向けた。
休憩交替の終わりに、ニナが来た。
彼女は説明を受ける前から財布を膝へ置き、中の硬貨を掌へ出しては戻した。数え方が合っているか不安なのではなく、払ったあとに残る暮らしを、自分の指で確かめているらしい。
「こちらへ見せなくていいのよ」
「エステル様へ見せているんじゃありません。自分が見ているんです」
少し尖った声に、私は口をつぐんだ。見守る顔をしながら、決断を褒める準備をしていたのかもしれない。
ニナは株の説明を読み、それから社債へ移った。
「社債なら、店を誰が動かすかには口を出せないんですね」
「通常の議決権はありません」
「株なら、エステル様を代表から外すことにも票を出せますか」
「持分会を通じて提案できます。一株だけで決めることはできませんし、ほかの票に負けることもあります」
「私の安全輪から、私の名前を外すときは?」
「発明名義の規則を変える手続になります。理由、改める範囲、工程使用料を示した上で持分会へ諮る。あなたは説明を求め、賛否を出し、負けたときも異議を議事へ残せます」
「必ず守れるわけではないんですね」
「ええ。守られる約束を買うのではなく、決める場所へ入る権利です」
ニナはしばらく黙り、指先で硬貨を寄せた。初めて安全輪を作ったころ、彼女は名前を載せてもらえるかと、おそるおそる尋ねていた。私たちは正しいことをしたつもりで、名義を残す店則を作った。けれど、その規則を決める側はいつまでも私たちで、彼女は守ってもらう側に置かれたままだった。
「規則が変わるとき、また、残してくださいとお願いするだけなのは嫌です」
ニナは株の申込票を引き寄せた。
「説明される側だけではなく、票を出す側にいたい。だから一株を買います」
「もっと持つこともできる、と案内しなくていい?」
ベルタが確認すると、ニナは首を横へ振った。
「一株でいいんです。私の名前へ口を出すためで、エステル様への忠誠を買うためじゃありませんから」
「もし私が、都合よく名義を変えようとしたら?」
「反対します。ほかの人にも話します」
笑うところなのに、ニナの目はまっすぐだった。私はようやく、肩の奥へ入っていた力を抜いた。
「それなら、よい使い道だと思うわ」
「店主がよいと言ったから買う、という記録にしないでください」
「……分かったわ。今の一言も残しましょう」
ニナは自分の筆で署名し、払込は発行価額が確定してから行うという欄まで読んだ。愛店心を差し出したのではない。将来、私へ反対できる小さな席を買うことにしたのだ。
マルタは株へほとんど目を留めず、社債の返済条件を繰り返し読んだ。
「議決へ入らなくてよいの?」
「売場で危険品を止める権利は、従業員規則で持っています。所有しないと使えない権利にされるなら、その規則の方へ反対します」
「私を信じて、貸してくれる?」
「店主を信じるだけなら、返済日を読む必要はありません」
ぴしゃりと言われ、私は苦笑した。
「期限と順位を決めて店へ貸す方が、今の暮らしには合います。株価が下がる危険より、返済が遅れる危険を選びます。ただし、戻らない可能性まで承知した上で、蓄え全部は出しません」
店に金がなかった頃、最初の給金を前払いで受け取ったマルタは、返せるという言葉の脆さを知っている。その彼女が選んだ社債を、献身と呼んで軽くしてはならない。ベルタと一緒に条件を読み、質問への回答を書面へ加えてから、マルタは仮申込へ署名した。
別の店員は現金賞与を選んだ。家へ持ち帰るとだけ言い、使い道までは語らなかった。さらに別の者は、「何もしない」の札を取ったあと、理由を書く場所を探して紙を裏返した。
「欄が見当たりません」
「作っていません」
「家の事情を書かなくても、不参加と認められますか」
「何も書かないことが、あなたの回答です。こちらは家の事情を知る権利まで買っていません」
その人はまだ不安そうに私を見た。私は視線を合わせたまま、なぜと聞かずに待った。やがて札は封筒へ入り、本人の手で封じられた。集計には不参加という判断が残るが、上役に名と理由は渡らない。
説明を受けた時間も給金から引かず、持ち場へ戻ったあとの仕事も変えなかった。閉店確認の鍵は、株を選んだ者ではなく、いつもの担当者が持つ。最初の日からそうしなければ、雇用と購入を切り離すという言葉は、紙の上だけで終わる。
職人たちの問いは、さらに細かかった。持分を買えば委託棚が優先されるのか。別の商会へ品を卸す自由は残るのか。損失が出たとき、工房の道具まで差し出すことになるのか。どれにも、持分契約と委託契約は別だと答えた。星灯りを所有することは、職人の工房や意匠を星灯りの物へ変える呪文ではない。
日暮れには、四種類の封筒が相談箱へ収まった。どの束が重いかを、私は持ち上げて比べなかった。選ばれなかった金まで、明日の資金へ数えないためだ。
アルノルトの手紙には、公爵の反対票がなかった。私は返事の便箋を開き、しばらく何も書けずにいた。助けてくれなかった寂しさも、境界を守ってくれた安堵も、同じ胸の中にあった。どちらかだけをきれいな答えへ整える必要はないと思えた。
『私も、私を選ばせる札は作りません』
それだけを書いて封をした。
閉店後、ベルタは仮の発行価額表を広げたものの、数字を入れずに紙を私へ返した。
「七階の棚が、全部この店の物なら簡単でした」
「職人の委託品も、客の預り品もあるわ」
「貸出中の品と、用途が決まった部品もです。見かけの棚を値段へすれば、他人の物で株を売ることになります」
私は、営業を終えた階段の暗がりを見上げた。灯りを落とした売場の上には、商品だけでなく、返る先の違う無数の名前が眠っている。
「全部、下ろしましょう」
「七階すべてを?」
「最初の棚から最後の部品箱まで。誰の物で、いま本当に動くのか、今夜確かめます」
相談箱へ封をしたあと、七階の灯りを順に消した。
やがて暗い階段を、最初の箱が軋みながら降りてきた。




