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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第127話 公爵は投票しない

 蝋の上には、ヴァイスベルクの冬薔薇が、欠けることなく咲いていた。


 封を切られていない委任状は、朝の光がまだ薄い局長机の中央に置かれている。宛名は公爵アルノルト・ヴァイスベルク。差出人は、王冠関連基金の支配権採決で不足している票を持つ、ヴァイスベルク系債権の名義人だった。


 外から透かせる署名欄は空白で、賛否のどちらにも印はない。委任を受けた者が、事情を見て決められるように作られている。


「公爵邸へお送りしますか」


 書記官が問うた。局の受付へ届いたとはいえ、局長職ではなく家名へ宛てた文書である。邸へ回せば、親族の資産を扱う内輪の書簡として開くこともできた。


「転送しない。到着した状態を先に記録する」


 アルノルトは封筒へ触れる前に、配達記録を開かせた。差出人、送付先、受取時の外観、蝋印の状態。届けた者の記載と、受付の到着鐘に食い違いがないことを照らし合わせる。ひっそり邸へ運んでから、届かなかったことにする余地を残さないためだった。


「受任前の利害関係文書として、利益相反記録へ載せる。開封は立会いのもとで。まず封面を写し、同封物の名称を確かめてから本文を読む」


 綿手袋をはめた書記官が蝋の縁へ刃を入れた。冬薔薇は崩れず、封筒の紙だけが細く開く。中から現れたのは、債権名義の証明、委任できる議決権の範囲、返送用の包み、そして署名を待つ委任状だった。


 議決の対象は、王冠関連基金による経営権の取得、担保の追加、債務を持分へ替える場合の条件。代理人は、いずれについても賛否を選ぶことができる。


 反対へ印を置けば、《星灯り》を救える可能性は高い。


 紙は驚くほど薄く、賛否欄は指先よりも小さい。その小さな空白の向こうへ、アルノルトには、夜の食卓で燃費型の灯りを回すエステルの手が見えた。帳簿を読みすぎた朝の掠れた声や、仕事の結論を尋ねない帰路にだけ緩む横顔も思い出せる。


 署名して反対に投じ、その直後に代理を辞すことは、手続の上ではできる。エステルへ知らせる必要さえない。助けを乞わせず、恩を負わせず、結果だけを残す道に見えた。


「局長」


 筆記を待つ書記官に呼ばれ、アルノルトは顔を上げた。


「何を記録なさいますか」


「委任を受けた場合、対象企業の代表との関係により、反対へ投じる可能性が高い。公開部分には判断が偏るおそれを、封印部分には想定される方向を残す」


 書記官の筆がわずかに止まった。


「方向まで、残すのですか」


「後になって、公平な答えを持っていたから離れた、と飾らないためだ。望む答えがある者ほど、その席へ着いてはならない場合がある」


 無関心だから委任を断るのではない。救いたいと願っているから、その願いを家の票へ流し込めない。胸の内を清廉な言葉へ磨けば、エステルを失う恐れも、彼女の店が他者に支配されることへの怒りも、初めからなかったようになってしまう。それもまた偽りだった。


 アルノルトは利益相反棚から、以前の綴りを取り出した。


 ヴァイスベルク系債権者の代理を辞した記録。国有化の審査から忌避した記録。星灯りに関する案件を副局長へ移し、非公開資料へ触れない範囲を定めた記録。どの紙にも、特別な事情が生じたときは戻ってよい、という抜け道はない。


「今回だけ代理へ戻れば、この綴りは何を意味する」


 問いかけられた副局長は、委任状と過去の辞任書を並べた。


「国有化審査を退いたことが、後の採決で反対票を投じるための取引だったように見えます。どちらかへ加わらないことが、もう一方へ加わる資格を買った、と」


「その疑いは正しい。結果が望ましいからと一度戻れば、忌避は都合のよい議案だけを避ける道具になる」


「受任して、棄権する方法もあります」


「それは代理人になった上で、票を使わない選択だ。受任そのものをしない」


 アルノルトは、開いたままの委任状を返送用の下敷きへ移した。署名欄にも、賛成にも、反対にも触れない。委任者が別の代理人を探す権利も、自ら判断する権利も、元の名義人へ残す。


「投票方針は添えない。適任者も推薦しない」


「基金に賛成しない者を紹介するだけでも、ですか」


「紹介された側が何を期待されているか分かれば、名を挙げること自体が票になる」


 副局長はしばらく黙り、やがて返送理由の用紙を引き寄せた。恋人を救う反対票が消えることで、星灯りは店員や職人、客から本物の資金と判断を集めなければならなくなる。間に合わず、基金が支配権を得るかもしれない。その損失まで、委任を断った者の手から完全に離れるわけではなかった。


 拒否理由には、監査局長として対象企業の過去監査へ関わったこと、代表者との交際を公表していること、既に債権者代理を辞して関連審査から忌避していることを記した。受任しない旨は、議案への賛成でも反対でもない。監査局長職そのものから退くのではなく、星灯りの買収と債権に関する案件だけから外れる。その範囲も曖昧にしなかった。


 法務官は文面を最後まで読み、机の端へ置かれた局長印を見た。


「返送書へ、どの印を使いますか」


「受任を拒む名義には、公爵本人の署名を。利益相反記録の受理欄だけに監査局の印を置く。局がヴァイスベルク家の投票を断ったように見せない」


「公爵家の意思を表す機会は失われます」


「家の意思は、議決権を持つ名義人が表せばよい。家長が一つにまとめるべき事柄ではない」


「その結果、基金へ票が渡っても?」


 紙へ落としかけたペン先が、しばし宙に留まる。


「避けたいと思っている」


 アルノルトは飾らず答えた。


「だから、受けない」


 拒否書へ署名が入り、委任状は届いたままの姿で新しい封筒へ戻された。賛否欄の空白を立会人たちが確かめ、封緘の上から送達記録の札が結ばれる。受け取らなかったことを、誰にも見えない沈黙にしておくのではない。いつ届き、何を確かめ、どこまで開き、何も書かずに返したかを辿れるようにする。


 発送係が、通常便と至急便の札を持って立っていた。


「期限が近うございます。通常便なら、名義人が別の代理を定める時間を失うかもしれません」


 委任を拒みながら、返送だけを遅らせれば、表向きは関与せず、望まぬ票を事実上封じることができる。それは賛否欄へ印を置くより見えにくく、拒否という姿だけを美しく残すやり方だった。


「至急便を使う。費用と到着予定を記録し、受領の返送を求めてほしい。委任者が次を選べる時間まで奪わない」


 発送係は至急の札を結び、封筒の角が曲がらないよう革の箱へ収めた。アルノルトは馬車が門を出るまで窓辺に立った。あの封筒が次に誰の机へ置かれ、どちらへ票が動くかは、もう指図できない。その不確かさを残したことまで含めて、受任しないという選択だった。


 返送の馬車が出たあとも、局長机から仕事がなくなるわけではなかった。


 別の商会が提出した子ども用浮遊輪が、試験室でアルノルトを待っていた。腰へ巻くと身体を軽くし、転んだ瞬間だけ床から浮かせる器具である。試験人形へ装着し、厚い外套の上から留め金を締める。正面へ倒したときには輪が柔らかな青に膨らみ、額が床へ触れる前に支えた。横向きでも間に合う。だが背中側へ倒すと、留め金が衣服の襞へ引かれ、光が遅れた。


「販売開始を待っている家族がいます」


 製作者は、床へ横たわった人形を起こしながら言った。


「今日、装着法だけ直せば通りますか」


「留め金を腹側へ回せば、後ろへ倒れたときの遅れは減るだろう。だが子どもの指で外れやすくなるかもしれない。転倒検知と、意図せず開く危険は別に確かめる」


 冬服、薄い服、濡れた外套を模した布を重ね、留め金の位置を変える。子どもの指ほど細い試験棒で押すと、腹側へ移した型は軽く開いた。後方の検知だけなら改善している。そこだけを合格にして売れば、今度は遊んでいる途中で輪が外れる。


「現状では、子ども用品として通せない。改良して再提出を」


「星灯りの案件なら、担当を副局長へ渡すのに、これは局長が決めるのですね」


 製作者の言葉に敵意はなかった。ただ、街に広がった事情を知っている者の率直な疑問だった。


「対象企業も、利害関係も違う。この器具の監査まで手放せば、離れるべき範囲を広げて職務を軽くしたことになる」


「恋人の店に関わらないため、局そのものを辞めるのかと思っていました」


「辞めない。星灯りへ関われないことと、引き受けた職務を捨てることは同じではない」


 製作者は不合格票を受け取り、悔しそうに唇を噛んだ。それでも丸めて帰ることはせず、衣服別の結果を読み返す。


「後方の検知と留め金を、別々に直します」


「改良途中で片方が良くなっても、もう片方の不合格を消さずに持ってきてください」


 人形から浮遊輪を外し、試験台を片づける。星灯りを助けない姿を美しく見せるために、ほかの誰かが必要とする監査を投げ出すことはできない。公爵の外套も局長の椅子も、恋愛のために脱げば潔白になれる衣ではなかった。


 午後、星灯りに関する引継机へ移った。


 公開済みの安全評価、処理の残る製品照会、誰でも請求できる検査規格を、担当を引き継ぐ副局長と照合する。公開資料を渡さなければ厳格に見えるとしても、それは忌避ではなく、次の担当者への妨害になる。


「記録にない判断で、局長だけが覚えていることはありますか」


「あったとしても根拠にしないでほしい。必要なら現物を再検査し、記録を新しく作る。見えない助言を残せば、それも票と変わらない」


 買収を防ぐ案は添えない。基金の内部に関する推測も、ヴァイスベルク系が次に誰へ委任するかという見立ても書かない。机の引き出しを空にし、エステルの名がある勤務外の便箋が公務記録へ紛れていないことまで、立会人に確かめさせた。


 日が傾くころ、返送を受け取ったという送達記録が戻った。ほとんど時を置かず、ヴァイスベルク家の法務代理から照会が入る。


『受任拒否は、基金案への反対意思を示すものか』


『違う。議案の内容にかかわらず、委任を受けない』


『では、代わりの代理人を推薦できるか』


『できない。推薦も投票方針への関与になる』


『家に損失が生じても、家長として放置するのか』


『名義人の損益判断を、家長の望む結論へ揃えない』


 回答の写しも、利益相反記録へ添えた。裏で反対派を紹介し、表には潔い拒否だけを残す方が、委任を受けて反対に投じるよりさらに悪い。星灯りを救う結論へ、見えない指で票を押してはならなかった。


 執務が終わると、アルノルトは局の封筒ではなく、薄い便箋を取り出した。


 委任が届いたこと。受けなかったこと。賛否いずれにも投じていないこと。公務記録へ置けるのはそこまでだった。彼は書き終えた行を読み返し、別の行へ、昼間から胸の底に沈んでいた言葉を記す。


『あなたの側へ票を置かなかったことは、あなたから離れたことではありません』


 資金も、助言も、基金の内情も同封しない。返事を求める問いも書かなかった。ただ、票を捨てたことで関係まで捨てたのではないと、仕事の外から届かせる。


 委任状を返した馬車とは別の便で、手紙は星灯りへ向かった。


 机に残った利益相反記録には、英雄の反対票も、中立を装う棄権もない。送達記録と、最後まで空白だった署名欄だけが、白い朝のように乾いていった。


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