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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第126話 王太子妃の返品

 金箔の王冠が検品台へ触れたとき、鍋蓋を伏せるような、思いがけず素朴な音がした。


 額は、向こう側に立つセシリアの胸元まで隠すほど大きかった。磨き上げられた縁には星を抱く王冠が彫られ、中央の文字は、冬の薄日さえ自分から輝くように撥ね返している。


 中央には《王家御用達》とあり、入口へ掲げれば、道の反対側からでも読めるだろう。


「注文していない物を、返しに来ました」


 王太子妃の声が一階へ落ちると、包装紙を選んでいた客も、修理票を差し出しかけていた客も、つい手を止めた。供の人へ持たせたままではなく、セシリアは自分の両手で額を支えている。金の角が手袋へ食い込み、白い布地に細い皺を寄せていた。


 マルタは、奥の応接室へ通すための扉を開けなかった。返品窓口の椅子を引き、いつも使っている灰色の用紙を台へ置く。


「では、ご注文者から確かめさせていただきます。お名前をいただけますか」


「注文者はいません。王太子府の儀礼係が、推薦に伴う掲示品として店へ届けました。受け取る前に、私がこちらへ運ばせたのです」


「発送した方と、所有している方が同じとは限りません。裏面を拝見してもよろしいでしょうか」


 問い返すマルタの声に、畏れも挑発もなかった。私は額の反対側を受け持ち、厚布の上へゆっくり伏せた。裏板には製作工房と王太子府の発送印があり、壁へ固定するための吸着陣はまだ眠っている。けれど、《星灯り》の注文番号を記す欄は空で、納品を受けた者の署名も、検収済みを示す光印も見当たらない。


 額の角へ検品鏡を寄せると、金箔の細かな起伏が鏡面へ写った。目立つ傷はなく、裏板にも店の壁へ掛けた痕跡はない。私はセシリアにも鏡を見てもらい、現状を返送票へ写し取った。


「当店から発注した記録はありません。所有を受けた記録も、掲示を承諾した記録もありませんので、返品として買い戻すことはできません」


「返金を求めに来たわけではありません」


「ええ。売買が成立していない以上、お返しする代金そのものがありません。こちらでは受領を拒み、発送元へ現状のまま返送します。それでよろしいですか」


 セシリアは金色の裏板を見つめた。名誉としてなら、所有者を確かめずとも受け取るだろうと思われた品だった。断る者などいないと見越して作られた空欄が、王家の印よりもくっきり見えた。


「お願いします。私の名で、その手続を止めないでください」


「止めません。ただ、先にお待ちの方がいらっしゃいます」


 マルタが窓口の脇へ目を向けると、温熱肩掛けを抱いた母親が、幼い娘の手を引いて身を縮めていた。王太子妃より先へ進むことをためらい、呼び札を掌で隠している。


「どうぞ、先に」


 セシリアは椅子から立ち、額とともに壁際へ寄った。母親が差し出した肩掛けには、留め具の近くへ淡い赤色が残っていた。規格から外れる熱ではないものの、娘の細い首へ巻くと、光の筋が同じ場所へ集まるらしい。


 ニナが弱い熱の候補を肩へ掛け、留め方も変えてみせた。娘は首を竦めたり腕を上げたりしながら、やがて薄青い温度線が肌から離れる位置を自分で指した。母親は交換を選び、マルタは返ってきた肩掛けへ試用済みの札を結ぶ。


「王宮でも使われている品だと聞いたものですから、あの子にも間違いないと思ってしまって」


 母親が会計票をしまいながら言った。責める響きはなく、だからこそ、その言葉は額縁の金よりも鋭くセシリアへ届いたようだった。


「使う方が違えば、同じ品でも温まり方は変わります」私は娘が自分で決めた留め位置を票へ記しながら答えた。「王宮で役立ったという話は、試す候補を見つける助けにはなります。でも、その子の首に合うかどうかまでは決められません」


 母娘を見送ったあと、セシリアは自分の手袋を外した。額を支えていた指に、縁の硬さが薄赤く残っている。


「私は、よいと思った生活用品を人に勧めました。それが悪いことだとは考えていなかったのです」


「勧められて助かる方もいるでしょう」


「けれど、私の言葉には、使った感想だけではないものが付いてくる。店は断れば王家の顔を潰すと見られ、別の商会は、試してもらう前から王家に劣るように扱われる。あの母親は、自分の娘より、王宮で使われたという話を先に信じた」


 セシリアのまなざしが、布を待つ額へ戻る。昔の彼女なら、レオポルドが差し出す善意を疑わなかっただろう。昔の私は、疑いかけた彼女へ、王太子殿下のお心だからと受け取りやすい言葉を添えていた。誰も悪意を持たないまま、断れない贈り物を完成させていたのだ。


「受領を拒む理由は、こちらで定めてもよろしいでしょうか」


「私が言ったことを、都合のよい推薦文へ直さないのであれば」


「では、読み上げます。発注記録なし。所有移転の合意なし。検収前の王家表示は、調達済みであるとの誤認を招き、他の販売者と購入者の選択へ影響するおそれあり」


 セシリアはしばらく考え、最後の箇所を指で押さえた。


「王太子妃個人の使用感を、王家の品質保証と受け取らせるおそれも入れてください。私が返したいのは額だけではなく、その混同です」


 マルタが文を加え、発送元、受領拒否の時刻、外観、固定陣が未使用であることを続けて記す。ニナは金箔へ繊維が擦れない柔らかな布を選び、角ごとに厚紙を当てた。包む前には三人で傷の位置を確かめ、返送中についたものと、受領前からあったものが混じらぬよう鏡像を封じる。


 誰かが見れば、王家の威光を布で覆う儀式に見えたかもしれない。けれど私の手にあったのは、薄い金箔を剥がさず発送元へ戻すための紐だった。角を締めすぎれば跡がつく。緩ければ馬車の中で動く。貴いものだからではなく、こちらの物ではないから、壊さず返さなければならなかった。


「返金はなし、ですね」


 帳簿を開いたベルタが念を押した。


「ええ。受け取っていない代金を返すことはできません。売上にも寄付にも、預り資産にも入れないで。返送が完了するまでの荷姿だけ記録します」


「金箔の値打ちを、担保評価へ忍ばせる余地もなし」


 ベルタの乾いた言い方に、私はうなずいた。基金へ示す店の価値は、一片でも大きい方がよい。けれど、注文していない額を金庫へ入れ、その値で独立を守れば、独立という言葉の内側へ王家の指を残すことになる。


 窓口の周りには、いつの間にか記者が集まっていた。細い筆記板が一斉にセシリアへ向けられる。


「妃殿下は、《星灯り》の独立を支持なさるのですね」


「王太子府が額を引き取るなら、買収へ反対する声明にお名前をいただけませんか」


「支持を公にされれば、基金の委任者も考え直すはずです」


 差し出された声明文へ、セシリアは手を伸ばさなかった。


「署名しません。私は《星灯り》の応援に来たのではありません」


 記者たちの筆が一度止まる。売場の奥で、包装紙を畳む音だけがした。


「王家が契約もなく特定の商会へ印を与えることに、反対しています。《星灯り》であれ、王冠であれ、ほかの商会であれ同じです。この額を返したことを、別の推薦額に作り直さないでください」


「しかし、基金の支配を防ぐ結果にはなります」


「結果が近いからといって、理由まで同じにしないでください」


 静かな声だった。けれど、かつて誰かの望む結論へ運ばれるばかりだった娘の声ではない。私は胸に浮かんだ感慨を、彼女の署名の代わりにしなかった。


「支持声明は受領しない、と店からも記録します」


「お願いします。代わりに、こちらを正式な意見として提出したいのです」


 セシリアが供の者から受け取ったのは、冬季物流についての文書だった。王太子府が進める指定網を、一社の所有へまとめるのではなく、必要な役務ごとに公開して入札させるよう求めている。


 雪の前に必要な防寒具を運ぶこと。災害時の修理部品を途切れさせないこと。遅れたときに誰が代替と返金を担うか、利用者が追えること。土地に合わない品を現地で止められること。


「同じ仕様書を、《王冠百貨商会》と《星灯り》だけに渡さないでください」セシリアは広げた紙の端を押さえた。「条件を満たせる運送商会や地域工房にも開くべきです。王家は必要な仕事を選び、代価を払う。一社の看板を冬支度そのものにしてはいけません」


「王太子殿下は、責任の所在をまとめたいのではありませんか」


「ええ。一つにまとまった網は速く、民にも説明しやすい。その利点まで否定するつもりはありません。ただ、王位に就く前の功績として見えやすいことと、雪の日に暮らす人へ合うことは、いつでも同じではないでしょう」


 夫の政策を嘲るのではなく、利点も書き残した上で別の方法を求める。その文書には、セシリア自身の名と地位が記されていた。匿名になれば圧力は薄れるが、王太子妃が自分の夫へ異論を出した責任も薄れる。彼女はどちらも望まなかった。


 私は意見書の受領欄へ、買収反対ではなく「冬季物流の公開入札に関する意見」と記した。星灯り方式を採用せよという要求にも変えない。昨夜の試験で王冠が優れていた輸送工程も、地域店が手放せない停止権も、同じ仕様へ並べて競わせればよい。


「何かご覧になりますか」


 返送控えを渡したあと、ニナが売場へ掌を向けた。新しい旅行用品の比較台には、雨に強い腰灯や、畳める保温布が並んでいる。セシリアが何かを手に取れば、その写真だけで今日の意味を塗り替えられるだろう。


 彼女は灯りの下で目を細めたものの、近づかなかった。


「今日は、何も買いません」


「承知しました。お見送りは必要ですか」


「いいえ。額を戻す者だけ、馬車まで一緒に来てください」


 買わないと告げた王太子妃へ、ニナは別の商品を勧めなかった。私は返品窓口の内側に残り、通りまで追って礼を言うこともしなかった。返送の包みが扉を抜けると、金の文字は布の下に隠れ、店内には先ほどまでと同じ木と乾いた紙の匂いが戻った。


 拍手は起きなかった。セシリアも振り返らなかった。


 止まっていた包装紙の音が、ためらいがちに戻った。修理票を持つ客は自分の番を確かめ、試用台では娘が選んだ肩掛けの留め方をニナが写している。王太子妃が去ったからと、店内の誰も買収から救われた顔にはならなかった。額を断ったことは、新しい売上も票も生まない。ただ、これから品を選ぶ人の頭上へ、注文していない答えを掲げずに済んだだけだった。


 閉店後、ベルタと返送受領の印を確かめた。未契約品の欄は閉じ、売上欄にも寄付欄にも数字は生まれない。広報係が用意していた「王太子妃も選んだ店」という文案は、まだ墨の乾かぬうちに廃棄箱へ入った。


 その横で、債権者委員会から届いた委任状一覧が淡く光った。


 王冠関連基金が持つ票。賛同を表明した名義人。まだ答えを出していない名義人。ベルタの指が欄を辿り、ヴァイスベルク系の名の前で止まる。


「支配権を成立させるまで、あと一票です」


 返品台から王家の冠を下ろしても、買収の刃は少しも鈍っていなかった。


 足りない一票の委任先には、翌朝、公爵アルノルト・ヴァイスベルクの名が書かれた。


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