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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第108話 買い占めではない契約

 真鍮の筒から落ちた小さな札を、王冠の店員が受け止めた。


 客が抱えているのは、古い標準灯だった。封印蓋に亀裂が入っているものの、灯核も接触部も動く。店員は札に記された型を読み、壁一面の部品棚へ手を伸ばした。箱の向きも、留め具の位置も、説明書の折り方まで揃っている。


「本体を替えなくても、蓋だけで戻ります。こちらなら、いまお使いの指の位置も変わりません」


 《王冠百貨商会》の印が入った新品灯を勧めることなく、店員は交換後の起動と停止を客に試させた。細い鐘の音とともに灯りが点き、指を離せば穏やかに消える。待っていた客が箱を抱え直すまで、さほど時間はかからなかった。


 次の客が求めた部品は、その店になかった。店員は真鍮筒へ照会札を入れ、ほどなく戻ってきた札を読む。近隣にはないが、南の店に同型があり、配送便へ載せられるという。北の店にも残っているものの、冬季最低のため動かさない旨が添えられていた。


 配送を待つあいだにも、客へは仮の留め具が合うかを試させ、急ぐなら別店舗で受け取る道を出していた。王冠の店員は、その客がどれほど困っているかを大げさに聞き出そうとはしない。標準部品で足りる人には、型と受取場所だけで短くつなげる。それが、話すことを苦手とする客や、急いで仕事へ戻りたい人にとっては、私たちの長い試用より親切な場合もある。


 売場の奥では、修理から戻った標準灯が同じ箱へ納められていた。どの店で買った品でも、番号さえ合えば、近くの王冠店が窓口になる。箱には、交換した箇所と再試験の印が読みやすく並び、次の配送便の空きへ迷わず積めるようになっている。量が多いからこそ、ひとつずつ違う包み方をせず、壊れた時に戻る道を誰でも辿れるのだ。


 私は、その列の速さに少し嫉妬した。《星灯り》なら、同じ故障にも本人の手袋や姿勢を尋ね、職人の名を追い、合わなければ調整へ戻す。細かく見ることを誇りにしてきたが、細かく見なくても安全に合う人まで長く待たせる理由にはならない。王冠の標準化が救う客を、平均という言葉で薄く扱えば、競争相手を小さくするだけだった。


「この仕組みを見て、買い占めだと言えますか」


 背後からマクシムの声がした。


「言いません」


 振り返ると、彼は金賞の徽章をつけていなかった。代わりに、各地の在庫札で膨らんだ帳面を腕に抱えている。


「ずいぶん素直だな」


「良いところを悪いことにしなければ断れない契約なら、断る理由の方が弱いでしょう」


 王冠の大量物流は、本物の強みだった。同じ型を広く売り、部品の番号を揃え、余る店と足りない店を一つの網で見つける。どの店員が窓口へ立っても、標準品なら迷わず交換へ進める。私たちが工房へ電信を送り、返事を待ち、本人の手に合わせて調整するあいだにも、平均的な使い方に合う客へ部品を届けられる。


 導魔雲母を半年分まとめて購入する契約も、鉱山を脅して安く奪う紙ではなかった。大口として運賃を整え、参加する店の予約と修理需要を集め、地方の最低在庫を残しながら不足を融通する。星灯りが加われば、単独で三倍の材料を探すより仕入れは安定し、空の棚へ届く道も短くなる。


 マクシムは私を中央の配分室へ案内した。大きな地図に、各地の店と工房を結ぶ糸が張られている。標準接触部の型を告げると、係が在庫、修理予約、輸送中、地域最低の札を動かした。


「王都の染色工房、北の診療所、南の宿屋が、同じ部品を求めたとする」


 彼は用途票を地図へ置く。宿屋には点検済みの油灯があり、染色工房は人手を増やせば手動弁を使える。診療所には代わりがなく、保温が止まれば薬を失う。最初に届く片を診療所へ、次を染色工房へ回し、宿屋には待てる期間を返す。


「店ごとの声だけなら、どこも自分の客が最優先だと言う。中央で見なければ、同じ部品を重ねて予約する者も出る」


「この判断に必要な情報を、どこまで集めますか」


 彼が契約書を開いた。物流と大口購入の条項のあとに、配分のための提出欄が続いている。使用者の名、購入履歴、返品した理由、どの姿勢で起動できるか、止まった時に何が困るか。参加店は個人相性票を王冠本部へ送り、中央が半年の配分を決める。


「匿名の用途と商品番号では足りませんか」


「別の店で同じ人物が予約しても分からない。家庭用と仕事用に分けて申請すれば、重複にも見えない」


「本人が、雪で片方の便が止まることへ備えた可能性は?」


「それも個票に書かせればよい」


 理屈は通っていた。細かく集めるほど、声の大きさではなく、生活が止まる影響を比べやすい。誰かが各店で少しずつ事情を変えて予約することも見つけられる。限られた雲母を、より多くの客へ回せるだろう。


 係が、別の仮票を地図へ置いた。同じ名の客が、街を隔てた店で似た保温具を予約している。中央で見れば、重複として片方を外し、その分を別の家庭へ回せる。


「本人へ確かめる前に外しますか」


「配分を急ぐ時は、そうなる。もちろん後で異議は受ける」


 予約した人が欲深いとは限らない。病身の親が暮らす家と、自分の家で別々に使うのかもしれず、片方の便が雪で止まった時に備えているのかもしれない。それをすべて許せば、本当の重複を残す。先に消せば、本人だけが知る事情を切る。その迷いまで中央が引き受けるから、王冠の配分は速いのだろう。


「異議が届くまで、外された人は何を使いますか」


「店舗が貸出か代替を出す。だから全国の貸出状況も集める必要がある」


 集める項目は、ひとつの不確かさを埋めるたび増えていく。正確さを求めるマクシムの考えは誠実だったが、その誠実さが、客の暮らしをまるごと中央の机へ運ぼうとしていた。


 私は試しに、南方で使った個票を思い浮かべた。魚市の湿った手、夜市の頭痛、家庭で薬湯を作る時間。それらは、本人が選んだ目的と期間の中でだけ預かった。集計前なら撤回でき、商品を買ったからといって、票まで店の所有にはならない。


「提出しない客は、半年契約の配分へ入れますか」


「通常市場で買う自由はある。だが、優先枠の判断材料がなければ同じ順位には置けない」


「つまり、足りない時に部品を受け取るため、個票を本部へ渡すことになる」


「渡さずに正確さだけ求めるのか」


 マクシムは苛立ちを隠さなかった。それでも、原料をよこせと声を荒らげるのではなく、配分表をこちらへ押し出す。


「この診療所を守ったのは、詳しい票だ。店の好き嫌いではない」


「ええ。だから、配分表の価値も認めます」


「では何が不満だ」


「詳しい票を持つ者と、半年の配分を決める者が同じになることです。期限を終えた記録が購入履歴へ残れば、次の配分にも使われる。提出を断った人は、通常市場がさらに細くなった時、選ぶ道を失います」


 彼は契約の余白へ、匿名化や保存期間を書き足そうとした。私は筆を置かせた。ここで一言変えれば済む問題ではない。目的、期間、撤回、複写された後の扱いを、個票の持ち主へ返さなければならない。


「大量購入と配送の契約には入りたいです。けれど、全国の配分権と個人相性票を一緒には渡せません」


「それでは、王冠が不足の責任だけを負う」


「負わせません。匿名需要の誤差も、重複を見逃す損も、参加する側で分ける契約を考えます」


「考える、か。いま空なのは君の棚だぞ」


「はい」


 それ以上、立派な返事はなかった。現行条件では参加しないと記し、署名しなかった契約書を返す。半年の仕入れと配送網が、紙の向こうへ遠ざかった。


 星灯りへ戻ると、マルタが私の机に別の契約案を置いた。表紙には、星灯り専用の優先枠とある。鉱山へ三倍の新値を払い、国外で受けた注文と国内修理を根拠に、わずかでも自店のための継続分を押さえる案だった。


「個票を王冠へ渡さずに済みます。うちの客と、国外で既に売った品の修理は守れます」


 私は返事をせず、机の引き出しから似た草案を出した。帰国した夜、自分で書いたものだ。王冠の契約を断るなら、せめて星灯りだけでも先に材料を取る。その方が、空棚の前で待つ客へ早く答えられると思った。


 ニナが草案を読み、指で欄外を叩く。


「これなら工房も少し動かせます。返品のために残す分も決められる」


「うちと契約していない工房は?」


「残った市場で買うことになります」


「辺境の小さな店も、王冠も、同じですね」


 星灯りだけの枠は違法でなく、個票も集めないのだから、店主として当然の備えにさえ見えた。けれど市場へ届く翌月分は四分の一のまま、私たちの棚だけを先に満たせば、外にいる店が三倍より高い材料を争うことになる。どの店も専用枠を広げようとすれば、鉱山へもっと掘れという声も強くなる。


「それでも、まず自分の客を守るのが店ではありませんか」


 マルタの問いは鋭かった。私は草案を持ったまま、公開した空棚を見た。予約を取り消して帰った婦人、貸出を延ばした客、南方で修理を待つ人。その人たちを守りたいという思いは、本当だった。


「自分の客であるあいだだけ守るなら、王冠の中央配分へ言えることがなくなります」


 紙を裂く音が、一階まで響いた。きれいに捨てることはせず、破った草案を台紙へ貼り直す。誰が得て、誰が外れる案だったかを書き、《自店優先案・不採用》として空棚のそばへ置いた。初めから考えなかった顔をすれば、次に苦しくなった時、同じ案をもっと美しい言葉で選んでしまう。


 客の反応は冷たかった。


「王冠も断り、自分で買うこともやめた。では、いつ直るのです?」


 旅行用の保冷箱を持った女性が、擦れた接触部を見せた。再調整では次の長旅を保証できず、新しい薄片はまだ配分できない。重い非魔法の氷箱は、本人が背負って歩くには合わなかった。


「旅を延ばすか、返金して別の店を探すか。いま提示できるのは、そこまでです」


「個票を守ったお礼に、私が待つの?」


「お礼は求めません。契約を断ったため、早く届いた可能性を失ったのは事実です」


 女性は旅の延期を選んだが、納得したとは言わなかった。待たせる期間、貸せなかった理由、王冠契約を受けていれば変わった可能性を、修理票へ残す。境界を守ったという私の満足で、彼女の遅れを帳消しにはできない。


 その修理票を見たニナは、破られた自店優先案へ視線を移した。


「あの人が王冠へ行けば、個票を出しても早く直るかもしれません。私たちは、守らなくていい物を守っているのでしょうか」


「私にも分かりません」


 口にすると、店員たちの間へ重い沈黙が落ちた。私は迷いのない店主を演じるために、王冠の条件だけをもう一度悪く言いたくなった。


 けれどマルタは、破った紙の端を指で押さえた。


「分からないなら、分からないまま期限を切りましょう。待たせた客へ、次に何を調べているかだけは返せます」


 返品倉庫、危険隔離品、買戻し済みの古道具。店が合法に扱えるものと、まだ他人の所有であるものを、ボルクが翌朝までに分けることになった。代案とは呼べない。どれほど材料が戻るかも分からない。それでも、空欄の横へ調査する場所と答える日を書き、ただ待ってほしいという紙にはしなかった。


 閉店後、アルノルトに会った。昼の商談内容を意見として聞かせるのではなく、公開した拒否理由だけを伝える。


「王冠の半年契約を断りました。自店だけの枠も破りました」


「代わりの案は?」


「まだありません。不安です」


 正しいと言ってほしい気持ちが、喉の奥へ浮かんだ。彼は債権側の仕入れ先も、監査側の見通しも話さなかった。


「不安だということは、恋人として聞けます。契約判断の保証はできません」


「分かっています」


 差し出された手を握る。答えの代わりにはならない温度が、かえってありがたかった。


 翌朝、ボルクが返品倉庫から、修理不能の札がついた古い調整具を運んできた。外装は割れ、灯核は焼けている。けれど安全接触部の奥で、曇った導魔雲母が光を残していた。


「元の持ち主を確かめられれば、材料へ戻せるかもしれません」


 空棚を埋めるものが、売った品の残骸に眠っている。そう思った次の瞬間、ボルクは箱へ手をかけた私を止めた。


「壊れていても、店の物とは限りません」


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