第107話 空の原料棚
地下の棚板には、《導魔雲母》よりもよく光を返すものがあった。長く箱を引きずった傷である。
帳簿を抱えたマルタは、棚と数字を見比べて目を細めた。昨日の値替えで、売れる現物と予約品、貸出、修理預りを分けたはずなのに、在庫表の総数だけを読めば、底板がこれほど見えるはずはない。
「盗難なら、封印に跡が残ります」
ボルクが空箱の蓋を嗅ぎ、内側へ指を滑らせた。古い研磨粉が薄くつくばかりで、無理に開けた傷も、箱をすり替えた匂いもない。
「数え直せば合うでしょうか」
「棚から数えると、棚にない物が消えます。鉱山から入った時の製造番号まで戻りましょう」
彼は数字を足す前に、最後に残った薄片を箱から出した。縁へ刻まれた文字を灯りへかざし、原料帳の同じ番号から一本の糸を引く。どの工房へ渡り、どの部品へ切られ、どの商品に組み込まれ、いま誰の手にあるのか。糸が途中で途切れたところへ、赤い留め針を置いた。
全七階と地下の棚卸しが始まった。
売場へは、品切れの札ではなく、製造番号を照合するあいだ販売と修理の受付に時間がかかる旨を出した。七階の修理台には、朝から品を抱えた客が待っている。帳簿を正しくするためだからと、その時間を客から無言で借りることはできない。急ぐ品には貸出の延長を案内し、待てない人には返金と別の修理所を示した。
最初に糸がたどり着いたのは、六階の避難誘導灯だった。外箱には未販売とあり、売上だけを見れば自由な完成品に思える。ところが安全接触部を外せば、災害時の貸出契約を果たせなくなる。厚い雲母は修理用へ切り分けられるが、分解した灯りを元へ戻すには耐久試験からやり直さなければならない。
「原料欄へ戻せば、薄片は増えます」と棚係が言う。
「避難灯は減るな」
ボルクが答え、灯りへ黒い札を結んだ。取り出せることと、取り出してよいことを同じ丸印にしない札だった。
次の番号は、五階の業務具の予備接触部へ続いた。部品だけを外しても本体は壊れず、厚みも修理待ちの品へ合う。しかし箱には、休業中の工房名が記されていた。材料代をすでに預かり、引渡しを待つ予約品である。現物が店内にあっても、自由在庫へ足すことはできない。
さらに別の糸をたどると、地下帳簿と完成部品の双方へ同じ製造番号があった。誰かが持ち出したのではない。原片から部品を切った時、枝番号を付けず、地下の原料欄を残したまま完成品へ転記していたのだ。
「地下の行を消します」
マルタが筆を取るより、ボルクが部品を開いた。刻印の末尾が研磨で薄れ、目を凝らさなければ原片と同じに読める。
「今ここだけ消すと、次に切った時も同じことが起きます。原片、切断した片、検査に通った部品、組み込んだ完成品で番号をつなぎましょう」
切り落とした端も、光るからという理由で原料へ戻さない。接触部へ使える幅があるのか、装飾へしか回せないのか、亀裂で隔離するのかを分ける。帳簿の行は増えたが、棚の中身は増えなかった。
今度は、帳簿にだけ残り、どの棚にも見つからない番号が出た。古い紙をめくると、貸出品が急に止まった日の修理票へ行き当たる。客が薬湯を持ち帰れず、閉店間際に交換片を渡した記録だった。担当した店員は製造番号を修理票へ書いたが、原料帳から引く作業を翌朝へ残し、そのまま別の紙に埋もれていた。
「急いだ修理が間違いだったのですか」
当時の店員が、青ざめて尋ねる。
「あの日に渡したことではなく、あとで糸をつながなかったことです」
記録を優先して薬湯を待たせる店にはしたくない。だから急ぎの交換は止めず、営業中に最後まで帳簿を直せない時は、製造番号札を照合箱へ入れ、閉店後に原料帳へ結ぶことにした。箱を空にする担当も決める。記憶の良い誰かが明日直す、という約束へ戻さないためだった。
ボルクは見つかった修理票を、隠すように綴じ直さなかった。貸出品の現在位置まで追うと、持ち主は以前の客のままではなく、返却後に別の家庭へ渡っている。いま使う人の名を商品台帳へ足し、故障した時に古い客へ連絡が行かないよう整えた。一枚を数え直す仕事は、いつの間にか、その一枚へ触れる人を数え直す仕事になっていた。
貸出品の糸は、店の外へ伸びた。返却予定表にある旅行箱の内部へ雲母が残っている。店所有だから総在庫には入るが、客が旅先で使っている間は動かせない。修理預りの《星雫灯》にも薄片は見つかったものの、それは灯りの持ち主の財産であり、抜いて別の人へ渡せば返却できなくなる。
「新しい物をくれるなら、古い方から取ってもいいわ」
持ち主は、透明な修理台の向こうで言った。
「その新しい物を作る雲母が、いま足りません。店が買い戻す場合の条件は別に出せますが、預かったままでは外しません」
女性は古い灯りを撫で、買戻しの見積りだけを受け取った。長く使った品を手放すかどうかは、空棚を見た勢いで決めなくてもよい。
危険隔離箱から出てきた片は、帳簿の数字だけなら最も動かしやすかった。誰かの予約も、貸出予定もついていない。だがルチアが熱色札を当てると、停止後にも赤い筋が残った。
「空の方がましです」
彼女はそれだけ言い、箱の封を新しくした。足りない棚へ危険品を戻せば、在庫表は満ちても、修理品の中で事故を待つことになる。
午後には、支店と工房へ電信を送った。私は最初に書いた『雲母在庫を報告せよ』を読み返し、破った。数字だけを尋ねれば、本店の棚を満たすために、少なく見える場所から呼び戻す返事になる。
『所在地と所有者、予約された修理、次便まで地域で守る冬季最低、止まる用途と代替の有無を知らせてください。本店への送付を命じる照会ではありません』
イーダの返書には、辺境に残る部品と、それを待つ生活が同じ紙へ記されていた。診療所の冷却箱、街道の灯り、雪の夜に使う保温具。王都へ戻せば目の前の修理はいくつか進むが、雪で次便が遅れれば、現地には代わりがない。
『地域最低は動かしません。余剰が生まれた時だけ、所有者を分けて知らせます』
許可を求める文ではなかった。以前なら、私が王都から残す量を決めたかもしれない。いまは、その土地で冬を知るイーダが、動かさないと自分の名で書いている。
『了解しました。最低分は本店在庫へ数えません』
返信すると、空棚の冷たさが少し増した気がした。正しく数えるほど、私が使える量は減ってゆく。けれど辺境の冬を、本店の帳簿のために暖かいことにはできなかった。
五工房からの返事にも、休業の文字の裏で残る材料があった。完成を待つ品へ組み込まれた分、返品修理のために預かった分、検査で落ちて封じた分、職人自身が買った分、こちらが材料代を先に払った分。すべてを《星灯り》の在庫へ寄せれば、所有者の名が消える。工房の棚にあるまま、用途と持ち主を製造番号へつないだ。
日が傾くころ、マルタが集計表を閉じかけた。いつもなら紙の角を寸分違わず揃える手が、その日は途中で止まる。
「まだ、あります」
「どこに?」
「予約された商品と、国外で売った品の返品修理用です。もう売れる在庫ではないので、別帳へ移しました」
「総数からも外したのですか」
彼女は頷いた。別帳を開くと、南方へ約束した交換部品や、本店で受取日を待つ灯りの薄片が並んでいる。売り直すつもりで隠したのではない。むしろ守るため、誰にも見えない場所へ退かせたのだ。
「帰国して、花輪まで届いた日に、予約分さえ足りないと掲げたくありませんでした」
声がかすかに低くなる。
「二位でも国外契約を取れた。昔の客も戻った。そこで空の棚を見せたら、また終わる店だと思われます」
責める言葉は喉まで来なかった。百日で閉めると告げた頃の一階を、私も覚えている。悪い数字を一日だけ遅らせれば、扉を守れるような気がした夜もあった。
「守ろうとした用途は、そのまま残します。でも、在庫外にはしません。使い道が拘束された在庫として、解除できる条件と一緒に出しましょう」
「新しく受けられる注文は、もっと減ります」
「その数字を先に出します」
マルタは自分の名で、伏せかけた日と理由まで追記した。謝罪の言葉だけで終えず、次からは別帳へ移した時点で、拘束在庫欄へ同時に載せる手順をボルクと決める。悪い知らせを持ってきた人を罰すれば、次の知らせはもっと遅くなる。そう説明して彼女を慰める代わりに、私は消しかけた跡も残る紙へ署名した。
空になった地下棚を、一階へ運んだ。底板の傷を隠す布は掛けない。商品に組み込まれたもの、交換部品、修理預り、貸出中、危険隔離、支店の冬季最低、工房材を、所有と用途の違う札で掲げる。同じ製造番号を重ねて数えず、予約分を存在しないことにもせず、自由に使えない理由まで見えるようにした。
客は傷だらけの棚を覗き込み、自分の修理品が白い札のどこにあるかを探した。
「中に雲母が残っているなら、それで直してください」
七階で現物を開くと、薄片は熱で白く濁り、端へ触れただけで細かな亀裂が走った。ルチアが手を止める。あることと、戻してよいことは違う。客は貸出の継続を選び、入荷後の再試用を予約した。
別の客は、自分の黄札を見つけて安堵したあと、完成日を尋ねた。薄片は確保されていても、組立てる工房が休んでいる。所有が守られていることと、約束の日に渡せることを混ぜず、延期と取消しを案内した。
空棚を見て、その場で予約を取り消す人もいた。あまりに少ないのなら、待つ間に別の品を探すという。返金箱から金が出てゆき、黄札が外れる。それを見た別の客が、空いた雲母を自分へ回してほしいと申し出た。
「いま取り消されたのなら、誰のものでもないでしょう」
「予約からは外れました。ただ、この場で一番早く手を挙げた方へ渡すとは決めていません」
「では、何のために棚を見せるのです。見せたのに選べないなら、余計に腹が立つわ」
もっともな怒りだった。透明であることが、希望どおりに買えることまで約束するわけではない。私は、次の配分がまだ決まっていないことと、生活が止まる影響、代替の有無、地域最低を照合するまで、その薄片を動かさないことを伝えた。客は納得せず帰った。公開台には、取消しで戻った在庫とともに、渡せなかった理由、苦情を受けた時刻も残した。
棚の前で長く説明しているあいだ、通常の会計は遅れた。上階では、照合待ちの品を買うつもりで来た客が、予定を変えて何も持たずに帰る。棚卸しは、紙を正しくするだけの裏方仕事ではなく、その日の売場を細くする仕事でもあった。だから閉店後の集計には、止めた販売と延ばした修理も記した。空棚を見せた誠実さという言葉で、待った人の時間を覆わないようにした。
「公爵様へ頼めば、これくらいの棚は埋まるのでしょう?」
誰かが、私とアルノルトの関係を知っている声で言った。
「彼の名は、私の仕入れ札ではありません」
言葉にすると、棚の空白がこちらへ吹いてくるようだった。それでも彼が恋人であることを、安い経路の証明へ使う気にはなれなかった。
閉店後、全館の照合結果を掲示した。伏せた拘束分を総数へ戻したため、数字そのものは最初より増えた。自由に動かせる分は、最初より減った。七階の華やかな品をすべて開き、最後に地下へ戻って棚板へ手をつくと、木の冷たさだけが指へ返ってきた。
その棚板の上へ、金の縁取りがある契約書が届いた。
差出人はマクシム。《王冠百貨商会》が半年分を優先購入し、参加店へ大口の仕入れと全国配送を分ける共同契約だった。
署名すれば、傷だらけの棚を埋められるかもしれない。しかも契約は、読むほど合理的にできていた。




