第106話 三倍になった仕入値
金の薄紙に包まれた贈答灯と、煤で黒くなった染色釜の部品が、同じ値替え台の上で触れ合っていた。
帰国した翌朝である。南方の塩気がまだ外套の裾に残っている気がするのに、一階には海の匂いなど届かず、乾いた紙と古い油、それから《導魔雲母》を磨いた時にだけ立つ、冷たい石の匂いが満ちていた。壁には、仕入値が三倍になったという問屋札。その隣には五工房の休業通知が、祝賀の花輪を押し退けるように並んでいる。
「新しい値札を出します」
若い店員が、贈答灯の紐へ三倍の札を結ぼうとした。悪気はない。仕入れが三倍なら売値も、というのは、忙しい朝ほど手を伸ばしたくなる分かりやすさだった。
「待って。その灯りの雲母は、いつ仕入れたもの?」
「南方へ発つ前です。でも、反射笠はまだ工房へ頼んでいません」
「では、ひとつの値札へまとめないで。もう店にあるものと、これから買うものを分けましょう」
指先で薄紙をめくると、《星雫灯》の交換輪が朝の光を返した。南方の夜市では、この輪を使う灯りが売れた。注文の半分を断っても、受けた分には新しい輪が要る。博覧会を見た商人たちも同じ雲母へ手を伸ばし、輸出に向く厚みの品は王都の工房へ届く前から押さえられた。成功を収めた店が市場をひとりで空にしたわけではない。けれど、私たちの成功もまた、国内の棚が薄くなった理由の外にはいなかった。
五工房の通知も、同じ文面ではなかった。問屋が入荷を止めたため刃を置いた工房があり、三倍の材料代を前払いできず戸を閉めた工房がある。必要な厚みだけ届かず、薄い片で代用するくらいなら休むと書いた職人もいた。別の通知には、以前の規格をほかの買い手がまとめて押さえたため、受けた修理を完了できないとある。最後の一通は、値上がりした材料を買えても、返品に備える分まで確保できないから新規製作を止めるというものだった。
休業という赤い文字だけを見れば、金を払えば再開するように思える。けれど失われたのは材料だけではなく、待てる時間や返品を引き受ける余白でもある。どの工房へ先に代金を渡せばよいかを、この場で決めることはできなかった。まず店の中で、すでに誰へ何を約束したのかをほどかなければならない。
私は全階へ、雲母を使う品を値替え台まで運んでほしいと頼んだ。ただし売場を空にするためではなく、誰のもので、何のために置かれているのかを確かめるためだ。
車輪の軋む台車が階段脇を行き来し、星雫灯の交換輪、業務具の安全接触部、保温具の入力板、修理用の薄片が集まってくる。磨かれた銀白色だけ見れば、どれも同じ材料に思えた。けれど、店がいま売れる現物には赤い紐、代金を受け取って客を待たせている予約品には黄、店が所有して貸し出す品には青、客からの修理預りには白を結ぶと、台の上の景色が変わった。白い紐の中に雲母が見えても、それは店の原料ではない。
「棚にある数と、使ってよい数が別になりますね」
マルタの声には、また帳簿が増えることへの嘆きと、増やすしかないという諦めが半分ずつ混じっていた。
「価格も分けます。旧在庫、新しく仕入れる材料、職人の工賃。原料の値が上がったからといって、昨夜までと同じ手の働きまで三倍になったことにはしません」
「反対に、古い材料なら昔の値で、とも言い切れません。次に補充する金が残らなくなる」
「ええ。差額をどこまで店が負うのかも、札の裏へ出してください」
開店鐘の余韻が消えないうちに、染色工房の職人が煤けた接触部を抱えて入ってきた。厚い前掛けから染料と蒸気の匂いがし、指を覆う手袋には紫色が染みついている。
「釜を止める板が、二度押さないと動かない。新品に替えられると聞いたんだが、この値は本当か」
店員の視線が、新しく書いた材料札へ吸われた。私は先に、接触部の金具へ触れた。まだかすかに温かい。
「釜が止まらない時、ほかに止める方法はありますか」
「鉄棒で弁を落とせる。ただし、ひとりでは重い。熱い染液のそばで相棒を待っていられるかは、運次第だ」
仕事を止めるだけなら日程を相談できても、染液のそばで板が戻らなければ腕を焼く。七階へ運び、本人がいつも使う濡れた手袋のまま、起動から停止までを試してもらった。正面から押せば動くが、釜を覗き込みながら斜めに手を伸ばすと、板が沈んだまま戻らない。
ニナが交換輪を外し、表面の泥を拭った。雲母には亀裂がなく、片側の入力板だけが摩耗している。
「新しい雲母はいりません。こちらを削り直して、板だけ替えます。ただ、あなたが急いだ時の手で止まるか、もう一度見せてください」
「急いだ時の手なんて、みっともないぞ」
「きれいな手つきで合う道具なら、店に飾っておきます」
職人は鼻で笑い、肩をひねって釜の向こうへ腕を伸ばす姿勢を取った。最初の調整では、手袋の濡れた縁が滑って反応が遅れる。ニナは眉を寄せ、強くするのではなく、板の戻る角度をわずかに変えた。今度は乱暴に触れても止まり、離せば熱が青へ退いた。
「三倍ではないのか」
「三倍なのは、これから仕入れる導魔雲母です。今日の調整と交換板には、それぞれの値を付けます」
私は見積書の行を指で辿った。雲母を使わなかったから無料、にもならない。ニナの調整とルチアの安全確認、外した板の処理には代金が要る。職人は少し考え、修理を選んだ。新しい部品のために取っていた材料は、ほかの修理候補へ戻る。
次に値替え台へ来たのは、金の薄紙の贈答灯を予約していた婦人だった。新居へ移る姪へ贈る品で、灯芯と交換輪は旧在庫から取り置き、飾り笠だけがまだ出来ていない。
「予約した時の値で受け取れるのでしょうね」
「取り置いた部品まで新しい値にはいたしません。ただ、これから作る飾り笠と、仕入れが必要な材料は見積りが変わります」
「そちらが国外へ売ったせいでしょう。こちらには関係のない話だわ」
胸の奥に、南方で押した受注印の感触が戻った。関係がないと言い切ることも、全部が私たちのせいだと頭を垂れることも、どちらも簡単だった。
「国外注文は受けられる分まで減らしました。それでも、私たちが使う量は以前より増えています。ご予約の時に、この不足をお伝えできなかった責任は店にあります」
マルタが選択札を婦人の前へ広げた。納品を延期するか、予約を取り消して返金を受けるか、雲母を使わない別素材の灯りを試すか、それとも何も買わないか。値上げに応じる道だけを大きく書くことはしなかった。
「姪の祝いは動かせないの」
「お使いになる方のお住まいには、灯りがありませんか」
「灯りならあるわ。けれど、姉の娘には星雫灯を贈ったのよ。妹だけ油灯では、かわいそうでしょう」
愛情の値段を揃えたいのだ。生活が止まらないから後回し、と切るだけでは、その人が大切にしているものを聞いたことにならない。
婦人には、薄い貝板が星の影を落とす油灯と、磨いた金属鏡で光を広げる非雲母灯を手に取ってもらった。火の匂い、芯を切る手間、姪の部屋にある布へ煤が移る可能性まで確かめる。どちらも贈りたい品ではないと、婦人は首を振った。
「今ここで別の物を選ぶくらいなら、本人に聞くわ。予約は取り消します」
返金箱から硬貨を出す音がした。売上を失っただけではない。旧値で取り置いた部品を、値上がりした今の棚へ戻すことになる。婦人が扉を出る前に、私は呼び止めた。
「お姪御さんが使いたい灯りを決められたら、試用だけでもいらしてください。買う約束は要りません」
「また高くなっていたら、買わないわよ」
「その時も、買わない札は残っています」
婦人は不機嫌なまま頷いた。納得して笑う客ばかりを、正しい値替えの証拠にはできない。
昼を過ぎるころ、古い保温具を胸に抱いた女性が来た。母親の薬湯を冷まさないため毎日使っており、接触部の縁に薄い割れがある。店には、旧在庫の交換片が残っていた。しかし、それを以前と同じ値で出せば、次の修理用を三倍の仕入れで補えない。新しい相場へ合わせてすべてを上げれば、いま困っている人へ補充費を丸ごと負わせることになる。
旧在庫の原価、新しい補充見込み、交換の工賃を別々に示し、店が引き受ける差額も隠さなかった。輸出前金で埋めればよい、という声は出なかった。南方から持ち帰った封印箱は、通関や翻訳、現地で売った灯りの修理と返品のために預かった金である。
女性には、交換までのあいだ店の貸出品も試してもらった。慣れた品より入力板が硬く、弱い指先では一度目に起動しない。借りるだけでも、合わない道具を渡すわけにはいかなかった。ニナが別の接触部へ替え、女性が椅子へ座った姿勢で湯を入れ、蓋を閉め、停止する。ようやく熱が穏やかに残った。
「直す方を待ちます。これは、そのあいだだけ」
「貸出費と洗浄費はこちらです。返却が遅れそうなら、取り上げる前に次の使い方を相談します」
女性は費用を読み、修理と貸出へ署名した。足りない時ほど、無料という言葉は甘く響く。けれど洗い、確かめ、次の客へ渡す人の仕事を消せば、貸出棚もいずれ空になる。
閉店前、全階から戻った札を値替え台へ並べた。三倍と書かれた新規材料札の隣で、旧在庫の原価、修理工賃、貸出の洗浄、予約取消しの返金が、それぞれ違う線を描いている。見た目はひどく不揃いで、説明には以前より時間がかかった。それでも、急ぐ人から高値を取るひと続きの数字よりは、誰が何へ払うのかが見えた。
アルノルトは通常の入口から入り、まだ残っていた祝賀の花輪を避けて値替え台へ来た。
「保温杯を、値上がりした今なら贈ってくださるのかと思いました」
「高くなったことは、あなたに贈る理由にはなりません。三つ目を試す約束は、そのままです」
「安心しました」
私は問屋札を畳みながら、債権側に別の仕入れ経路があるかと尋ねた。彼は少しも声を和らげず、答えられない、と言った。
「審査対象になりうる仕入情報を、恋人へ私的に渡すことはできません」
「分かっています。聞いてしまったことまで、なかったことにはしません」
「今夜なら、仕事ではない話を聞けます」
「では、家を借りるなら朝の鐘に間に合う道がどこか、続きを話しましょう」
未来の家と、今日の値札は同じ机に置かない。それでも店を出る時、彼の外套の袖へ指先が触れたことを、私は避けなかった。
問屋への返書には、三倍の新値を受け入れる意思とともに、品質、厚み、事故品の追跡、納期が遅れた時に予約を止める条件を記した。払うと答えるだけで、足りない物が生まれるわけではない。
返事は夕闇と一緒に届き、封を切ったマルタは読み進める途中で唇を引き結んだ。
「新しい値を受けても、翌月に納められる量は、これまでの四分の一だそうです」
台の上には正しく分けた値札が残っていた。そのどれにも結べない空白が、三倍という数字より大きく見えた。




