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婚約解消した当て馬令嬢は魔法百貨店を立て直す  作者: 星舟能空


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第101話 職人名のない賞

 削除しなければならない三十人の名を赤墨で囲んだ、そのすぐ隣で、『考案者エステル』の金文字だけが濡れた朝の光を弾いていた。


 博覧会名簿の受付卓は、夜のうちに入り込んだ砂で薄く曇っている。紙を押さえる硝子の重しまで湿り、持ち上げると丸い跡が残った。私は複写先を記した紙を一枚ずつめくりながら、向こうの彫刻台で賞札を磨く布の音を聞いていた。名簿からは、私たちが許可なく転記した名が消えてゆく。それなのに展示壁には、灯りに関わった仕事を一人分へ束ねた私の名だけが、昨日よりも大きく出来上がろうとしていた。


「その札を、まだ壁へ掛けないでください」


 彫刻係は磨き布を止め、金箔の粉がついた指で札を抱え直した。


「最終審査の指定書式です。国外のお客様にも、誰の品か一目で分かるようにと」


「《星灯り》の品だとは分かります。でも、これでは誰が作ったかを間違えます」


「店主が考案者ではないのですか」


 胸の底が、ひどく頼りなく揺れた。あの文字を受け取れば、この国で一番覚えやすい物語を持ち帰れる。債務を抱えた古い店を立て直し、王都を越えて南方にまで灯りを届けた女店主。その物語が、どれほど客を呼び、次の契約を楽にするかは、商人である私がいちばんよく分かっていた。


「私は、仕入れと売り方と、返品の費用を決めました。灯りそのものを一人で考えたことはありません」


 言葉にすると、金文字はなおさら鮮やかに見えた。


 賞札を彫刻台へ戻してもらい、私は先に三十件の所在を追った。相性個票から氏名と用途を写した出品者名簿、その原本から作られた通訳用の控え、審査準備卓へ渡った一覧、説明会の案内状を送るために切り分けた宛名札。紙の端へ同じ赤線を引いてゆくと、ひとつの間違いが、善意の手を渡るたび別の形で増えていた。原本の文字を塗り潰しても、海風に運ばれた種のように、写しがどこかへ残っていれば終わらない。


 通知には謝罪だけでなく、何をどこへ写し、誰が見ることのできる状態にしたか、どの複製を消し、どれがまだ回収中なのかを書いた。匿名統計へ加える予定だった用途も、本人が改めて選ぶまでは集計箱から外す。質問する、削除を確かめる、もう一度条件を選ぶ、そのどれも急がなくてよいことを、通訳を替えて読み合わせた。


 最初に届けたナディアは、魚籠の縄を膝で押さえながら通知を読んだ。市場の天幕の下は、朝だというのにもう蒸し暑い。銀色の鱗と砕いた氷の匂いの中で、彼女の指が白い個票の欄に止まる。


「わたしは、横向きの笠を考えた人としてなら、名前を出していいと言ったよ」


「ええ」


「魚市で頭が痛くなった女として、知らない人へ配っていいとは言っていない」


「私たちが、その二つを同じ名簿へ移しました」


 彼女は怒鳴らなかった。だからかえって、濡れた魚籠を支える縄が私の掌に食い込んでいるような気がした。


「名前を出してよい場所を、一つ選んだら、ほかでも使ってよいと思ったの?」


「いいえ。思ってはいけませんでした」


 青い匿名札をどうするか尋ねると、ナディアは返された札を魚籠の脇へ置いた。


「横向き笠の試験が済むまで決めない。今は、あなたの店が何を直すのかを見る」


 信じてほしいとは言えなかった。先に信頼を求めれば、今度は謝罪を代金にしてしまう。


 夜警の男は、名簿から消えたことを確認すると、匿名札も返してほしいと言った。「使い方まで別の机へ行くなら、もう残したくない」と告げた顔へ、なぜ心変わりをしたのかとは尋ねなかった。写字工房の主は、長時間使うと紙が反った事実は残してよいが、所在地は地域名より細かくしないでほしいと言った。何を写されたのか、最初の通訳では分からないという人もいたので、白票と名簿と削除済みの欄を三枚並べ、別の通訳に説明し直してもらった。


 削除の確認印を受け取らず、通知だけを持って帰った人もいた。店の説明をもう聞きたくないのだと通訳が告げた時、追いかけて、せめて消した紙だけ見てほしいと言いそうになった。けれど今すぐ私の前で決めることを迫れば、再同意という名前の別の強制になる。質問があれば主催者の監督員を通してもよいと伝え、帰る背中をそのまま見送った。


 複写一覧の端には、回収できた時刻と消去方法を書き込んだ。墨で塗り潰しただけの紙は、裏から光へ透かすと名が読めたため、該当部分を切り取り、本人の希望に従って返すか、監督員の前で溶解箱へ入れた。誰も見ていない時に捨てれば早い。けれど消したという私たちの言葉まで信用してもらえるとは、もう考えられなかった。


 三十件のうち、再同意が戻るたび新しい青箱へ移す。返却を選んだ札は、本人の目の前で元の束から抜く。許す人も、許さない人も、まだ決めない人もいた。ひとまとめに謝り、ひとまとめに許されたことにできたなら作業はずっと早いのに、そう考えてしまった自分を、私は誰にも見つからないよう舌の裏で噛んだ。


 主催者の審査室では、天井の扇が重い湿気を掻き回していた。事故届と複写一覧を差し出すと、審査員は眼鏡を外し、赤線が何本あるか確かめるように紙を傾けた。


「国外へ売ったわけではないのですね」


「売ってはいません。ただ、本人が許していない名簿へ三十件を写しました」


「自ら申し出たこと、削除を始めていることを踏まえ、展示そのものは止めません。しかし情報管理の審査は減点します。返品日には監督員を置き、訂正状況も会場へ掲示してください」


 机の上へ置かれた減点票は、薄い紙なのに、指を滑らせても動かなかった。金賞候補から遠ざかる重さを、私の手が勝手に作っていた。


「受け入れます」


 署名した文字が少し掠れた。自分から届けたことを評価してほしいとも、三十件しかなかったとも言わなかった。ただし展示を続けられる条件は、罰の印だけにせず、監督員の立会い、三色票を別の卓へ置くこと、複写の行方を毎日確かめることまで書いてもらった。戻った店員が恐怖だけを抱えて働けば、また隠す理由が増える。


 誤転記をした店員は、通知受付の椅子から立ち上がり、「私が全員へ謝ります」と声を震わせた。


「あなたには、質問を受けて、どの紙をどこへ動かしたか説明してもらいます」


「解雇は、しないのですか」


 彼女の前に、白票箱と出品登録票を置いた。どちらの上にも同じ言葉で『協力者』と印刷され、登録係が連絡先に困れば、鍵のない白票箱へ手を伸ばせる並びだった。


「故意に売ったのではないから何もしない、とはしません。一人を切り離して、この机の置き方を残すこともしません」


 白票は施錠箱へ移し、登録票には工程名義、連絡先の掲載、審査用の公開を別々に選ぶ欄を作る。赤字で禁止を書き足すだけでは、忙しさの中で古い近道が生き残る。本人へ渡して必要な連絡先だけを書いてもらう小札も用意した。店員は涙を拭う暇もなく、新しい札の言葉を通訳と確かめ始めた。


 机そのものも離した。白票を扱う卓は天幕の奥へ運び、出品登録は入口近くへ残す。重い脚を砂の上で引くと、昨日まで同じ場所にあった跡が二つの四角になって現れた。たったそれだけの距離が最初からあれば、迷った手を止められたかもしれない。私は旧い配置図へ自分の署名をし、新しい図とともに事故届へ綴じた。


 午後、賞札を直すため、ニナと彫刻台へ戻った。金文字を削る小刀が『エステル』の端へ入ると、胸のどこかまで薄く剥がされる気がした。惜しくないと言えば嘘になる。けれど、落ちた金箔の下から現れた木目を見ているうちに、そこへ置くべき名前が一つずつ思い浮かんだ。


 効果核と三種の灯芯には、ヨナス・オルロフと彼の工房。交換部品、調整輪、現場での小修理にはニナ。耐久試験と灯核を開く大修理には、ルチア・フェルナーの工房。売場で用途を聞き、試し、返品を記録した各階の担当者にも、それぞれ担当工程を添える。王都へ確認書を送り、どこまで名を出してよいか、本人の署名を待った。


「私の札には、『灯核を開かない範囲』と足してください」


 隣に立つニナが、下書きの文字へ爪を当てた。


「小修理だけでは足りない?」


「名前だけ見て、国外で大修理まで教えたと思われるかもしれません。できないことまで、私の名で書いておきたいです」


 功績を受け取ることと、責任の端を引き受けることが、彼女の中では離れていなかった。私は文を足し、彼女にも口頭ではなく署名してもらった。


 翌朝届いた王都の返書には、私の知らない名もあった。ヨナスは最初の灯芯設計と南方での調整を分け、ルチアは、亀裂品を持ち込んだ客の記録がなければ耐久試験はできなかったと追記している。七階の担当者は、試用札の並べ方を考えた若い店員の名を書き添えた。大きな一枚に収めるのを諦め、同じ高さの小札を横へ増やした。


 南方で生まれた横向き笠にはナディア、耐砂固定法と笠の加工には《砂鴎工房》のバシールの名を置く。翻訳係が「南方式」と短くまとめようとしたので、工房名も本人名も残してほしいと頼んだ。


「発音しにくく、客が覚えられないかもしれません」


「私の店名も、初めて聞く方には同じでしょう」


 ただしナディアを『頭痛を訴えた客』としては記さない。彼女が許したのは発案者としての掲示だけだった。名を足す札と消す札を同じ壁へ並べるうち、金色一色だった展示が、王都の灰青や、南方の朱、工房ごとの焼印で不揃いになってゆく。その不揃いさを、私はしばらく離れたところから眺めた。


 正式な届出と掲示を終えてから、アルノルトへ私信を書いた。


『私の店が、三十人の名と用途を別の名簿へ写しました。帰ったら、聞いてほしいです』


 正しかったかを尋ねる文も、許してほしいという文も加えなかった。彼は本国の監査職にあり、恋人から届いた手紙で国外の審査を裁く立場ではない。返書にはただ、『帰ってくるのを待っています』とあった。その余白へ頬を寄せたいと思ったのに、紙は南方の熱を吸って少し湿っていた。


 修正した壁の前へ、公開返品日の予約箱が運ばれてきたのは、その日の夕刻だった。箱の側面には当初の見込みを示す線が引かれている。蓋を押し上げるほど詰まった票を、ニナと数え直した。


「……同じです。四倍あります」


 予定していた人数の、四倍。箱の底には、予約票と一緒に持ち込まれたらしい細かな砂が溜まり、指で払うと湿って重くまとわりついた。


 翌朝、まだ会場の扉を開ける前から、返品の箱を抱えた人々が通りの角まで並んだ。販売日の列よりも長く、当初の予想の四倍に伸びた人波の先頭で、箱の隙間から潮の匂いを含んだ砂がこぼれていた。

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