第100話 相性票の値段
「どれを売れば、魚を売れなくなるんだい」
ナディアは三枚の紙を指先でずらし、白、青、黄の順に並べた。白い紙には、星雫灯を試した時の手の使い方と頭痛、右手で魚籠を持つ仕事、横向き笠なら値札を読めたことが記されている。青は、その経験を名のない集計へ加えてよいかを選ぶ札。黄色は購入日、型、支払、保証と修理先を残す帳票だった。
「どれを売っても、魚を売れなくなるとは書いていません」
「紙を買った商人が、頭の痛くなる女は魚市に向かないと言い出すかもしれない。婚家へ渡って、灯り一つ使えない嫁だと笑われるかもしれない。それでも同じかい」
博覧会の試用卓で、そこまで尋ねられたことはなかった。商品を選ぶための記録だから店の内側に留まると、こちらが分かっているつもりだった。けれど一件百金貨の値が付き、国外の商会へ渡る可能性が生まれた瞬間、白い紙は灯りの説明だけではいられなくなる。
「同じではありません。白い票は売りません。青い票で許された範囲を集める時も、魚市の働き手を選ぶためには使わせません」
「黄色は?」
「壊れた品の保証と、同じ品を再注文する時のためです。輸出商へ購入者名簿として渡しません」
ナディアはすぐに署名せず、横向き笠を付けた灯りの下で三枚を読み直した。試用票を残さなくても返品と修理は受けられるか、匿名集計を断っても価格が上がらないか、いったん許した後で気が変わったらどうするのか。一つ答えるたび、今の用紙では足りない場所が見つかった。
私は仮設店の試用をいったん止め、通訳と、絵札を作る職人を呼んだ。王都語を読める者だけが迷わず選べる紙を、魚市へ持ち込むわけにはいかない。白票には手と品、青票には名を外して数える箱、黄票には壊れた品を修理卓へ戻す絵を添え、現地の言葉で一枚ずつ読み上げてもらった。
三枚を細い紐で束ねようとした店員を、ナディアが止めた。彼女は魚を選るときのように紙をひとつずつ灯りへ透かし、白票だけを自分の膝へ置く。青票には、横向き笠と間欠点灯の結果だけを、南方での改良に使うと書かせた。魚市で同じ笠を試した者が彼女一人なら、名を消しても誰の話か分かってしまう。その間は箱を開けず、人数が集まらないまま期限が来れば燃やすことにした。
王都から持ってきた長い規則は、契約の別紙に残っている。けれど目の前で必要なのは、紙の持ち主が、自分の経験の行き先を見失わないことだった。次の商品へ使いたくなれば改めて尋ねる。保証のための黄色い票は、頭痛を記した白票と別の箱で守る。ナディアは説明のたびに札の位置を替え、最後には、自分で選んだ三つの置き場所を私たちへ言い返した。
「あとで消せる、とだけ書けば、青箱へ入れやすいでしょう」
通訳の一人が、紙面へ収めるため文を縮めようとした。
「混ぜる前と後で違います。長くなっても、二つに分けてください」
祈りの間で星雫を断った老女は、前に入れた青票を返してほしいと言った。隣席を眩しくしたという話が、祈り方の評価へ使われるのではないかと不安になったからだ。まだ集計箱を開ける前だったので、本人の印を照らし合わせ、票を抜いて返した。
「これで、灯りの修理もしてもらえなくなるのかい」
「なりません。お持ちの現地灯の修理予約は、そのままです」
老女は予約札と返された青票を、別々の袖へしまった。受付の青年が理由を聞きかけ、口を閉じる。それから修理予約の札だけを確かめ、いつもと同じ声音で、次に来る日を伝えた。紙に書いた約束が本物になるのは、断ったあとの顔つきにまで届いた時なのだろう。
黄色の購入票を預かる箱は、白と青から離れた修理卓へ移した。蓋が閉じる乾いた音を聞きながら、ナディアは自分の白票を魚籠の底へしまう。頭痛も、婚家の不安も、彼女がこちらへ渡すと選んだ以上の場所まではついていかなかった。
「面倒な紙になったね」
ナディアは呆れたように笑った。
「前より、選ぶ場所は増えました」
「増えた方がいい。嫌なら嫌なところだけ退けられる」
彼女は白票を手もとへ戻し、青票では横向き笠と間欠入力の試験結果だけを、決めた期間に限って集計へ入れることを選んだ。発案者として名を展示する許可は別の札に残し、頭痛の記録とは結ばない。黄色の履歴は、借りた灯りの修理に必要な範囲だけ店へ預けた。
サフィアとの交渉には、三枚の見本と、個票を入れていない青い集計箱を持っていった。彼女の商会が用意した契約書には、《星灯り》の独占輸出権と引き換えに、来場者の個人相性記録を受け取る条項がある。対価は一件百金貨。店の債務と国外の修理費を思えば、目を背けられない額だった。
「白票は提供しません。黄色の購入履歴も、保証と本人の再注文以外には渡せません」
「なら、独占の判断材料がないわ」
「青い集計のうち、ここへ書いた商品、目的、期間に本人が同意した範囲なら、提供できます。再び別の業者へ渡す時には、その相手と用途を示して許可を取り直します」
サフィアは見本を一枚ずつ読み、百金貨の欄を指で叩いた。
「この会場へ来た人だけの集計を、南方全体の需要とは呼べません。それも提供票へ入れます」
「魚市へ来られる者と、遠い村で夜を過ごす者では違う、ということね」
「はい。次の商人へそのまま売ることも認めません。別の相手、別の目的へ渡したい時は、元の許可で足りるかを本人へもう一度尋ねます」
「名を買いたいのではないのよ。どの職業で、どんな手の者が、何を使えなかったかが欲しい。人気だけを見て王都の灯芯を仕入れれば、この街に合わない品が船いっぱいに届く。返品できない商人は値を下げ、それでも売れなければ贈答へ回す。最後に、使えない灯りを押しつけられるのは、選べない人たちよ」
「その危険は分かります」
何も知らせなければ清らかでいられるわけではない。横向き笠がどんな使い方で役立ち、王冠が夜警に選ばれたかを共有しなければ、次の船もまた王都で人気の品を積むだろう。粗い情報で早く動く商人に、サフィアが市場を奪われるという懸念も現実だった。
「けれど、次の商品へ使う項目まで先に買うことはできません。その商品が決まった時、必要な目的を示して、本人へもう一度聞きます」
「遅いわ。その間に、別の商会が大まかな市場表で契約を取る」
「速くするための代金を、試用した人の将来で払えません」
サフィアは椅子へ深く座り、独占という文字の上に爪を置いた。怒って契約を閉じることはせず、青票で何を得られるかを確かめていく。横向き笠の使用環境、間欠入力で起きた明滅、返品の理由は、本人へ戻れない大きさへまとめ、期限内なら商会の商品選定に使える。ところが魚市の個人名、購入額、住所、婚家、病歴めいた記述は渡らない。
「独占でなければ、費用をかけて試用所を作る理由が薄くなる」
「運営料と修理教育の費用は、契約へ入れます。ただ、客があなたの商会へ行けない日に、返品まで閉じる権利は渡せません」
「利益は落ちるわ」
「はい」
「あなたの店も、独占なら売りやすいのに」
それにも頷いた。サフィアを悪者にすれば、百金貨を断る自分だけを美しく見せられる。けれど彼女は損を避け、役に立つ品を早く揃えようとしている。その合理性を認めたうえで、個票の所有だけを渡さない線を引くしかなかった。
交渉は決着しなかった。サフィアは独占案を持ち帰り、私は期間を限った集計提供と、複数の試用所が参加できる案を作り直すことになった。握手も決裂の言葉もなく、百金貨の値が付いた白票だけが、売られず私の鞄へ戻った。
鞄の重さは、金を断った誇らしさより、失った利益の方を正直に伝えてきた。国外で修理卓を保ち、返品の船便を用意するには費用がかかる。白票を売れば、その一部はすぐに埋まる。店へ戻る道すがら、売らないという判断を何度も頭の中で計算し直し、そのたび百金貨の列が惜しくなった。
だからこそ、いつか帳簿が苦しくなった時にも同じ答えを出せるよう、個票を提供しない条項を契約の外へ置かなかった。良心が揺れないことに賭けるより、サフィアにも、次の店主にも読める文字へしておく必要があった。
仮設店へ帰ると、三色の票箱が新しい机へ移されていた。白は本人試用、青は匿名集計、黄は購入と保証。店員には、色が違っても迷った時には写さず、責任者へ戻すよう伝えてある。
ところが、博覧会の出品者名簿を確認していたニナが、奥の卓から私を呼んだ。
「この名前は、どの札から来たのでしょう」
名簿には、《星雫灯》の改良に協力した者の氏名と用途が並んでいた。横向き笠の発案者として名を出してよいナディアだけではない。頭痛がした者、祈りの間で買わなかった者、夜警で王冠を選んだ者まで、白い個人相性票にしかないはずの言葉が書き写されている。
出品の連絡を送り、展示への協力者として紹介するため、星灯りの店員が転記したのだという。売ったわけでも、サフィアへ渡したわけでもない。協力した人へ審査結果を知らせたいという、善意から始まった仕事だった。
それでも、試用と返品のために預かった白票を、博覧会名簿へ移す許可は誰からも得ていない。
「この名簿は、もうどこへ渡りましたか」
受付、通訳、審査準備の卓へ複写がある。案内状の宛名札にも使ったかもしれない。私は名簿を閉じず、複写先を聞き取り、これ以上使わないよう全卓へ停止札を走らせた。
転記されていたのは、三十件だった。
削除して終わりにする前に、誰の票を、どこへ写し、誰が見られる状態にしたのかを確かめる。本人へ通知し、削除、返却、改めて許す、まだ決めない、を選んでもらう。誤転記した店員一人へ罪を負わせず、白票箱と登録机が同じ場所にあった配置も残す。
私はまず博覧会主催者へ事故届を書いた。星灯りの内部で直してから、アルノルトへの私信だけで裁いてもらうことはしない。主催者の監督員へ複写一覧と利用停止を提出し、その控えを封じてから、ようやく彼への便箋を開いた。
『こちらの店で、許可のない転記が見つかりました。正式に届け、三十人へ通知を始めます。帰ったら、聞いてください』
海を隔てた彼の返事を待つあいだにも、名前は紙の上に残っている。会いたいという言葉を添えたかったが、今は書かなかった。甘い一行で事故の報告を結んだように見えることが、自分にも耐えられなかった。
通知に使う赤墨と、削除する紙を並べた卓へ、主催者の彫刻係が細長い包みを運んできた。
「最終審査の賞札です。考案者名を先にご確認ください」
金色の布をほどく。磨き上げられた札には、《星雫灯》の名より大きく、ひとり分の文字だけが刻まれていた。
『考案者 エステル』
その金文字は、削除しなければならない三十人の名のすぐ隣で、朝の光を眩しく弾いた。




