残金1,842円|第9話「空いた倉庫」
その倉庫には、何もなかった。
だから征一には、
金になるものが全部そろっているように見えた。
灰色の壁。
錆びた雨どい。
曇った窓。
半分消えた会社名。
山崎繊維加工。
シャッターの下から、
枯れ葉が一枚だけ入り込んでいる。
建物の前には、
小型トラックが向きを変えられるほどの空地があった。
県道まで近い。
団地へ向かう坂道にもつながっている。
商店街からも遠くない。
ここなら、
米を置ける。
洗剤も置ける。
店ごとに届く荷物を、
一度まとめられる。
原付で何度も店へ戻らなくていい。
征一の目には、
何もない床の上へ、
まだ届いてもいない段ボールが並び始めていた。
「そこで何してる」
背後から声がした。
征一は振り返った。
紺色の作業着を着た男が、
軍手を片手に立っている。
男は征一の制服を見た。
次に、
原付の後ろへ付けた箱を見た。
箱には、
榊原商店と書いてある。
「店の子か」
「はい」
「何を見てた」
「倉庫です」
男はポケットから鍵を出した。
「何もないぞ」
シャッターが上がる。
暗い床へ、
細長い光が差し込んだ。
本当に、
何もなかった。
征一は息を止めた。
何もない場所が、
これほど広く見えたのは初めてだった。
────────────────
その日、征一は団地へ米を二袋届けていた。
三号棟に一袋。
五号棟に一袋。
同じ時間の注文だった。
だが、
原付には一袋しか安定して載せられない。
店から団地へ走る。
米を下ろす。
店へ戻る。
二袋目を積む。
また団地へ走る。
二件届けるために、
同じ道を二度往復した。
商店街へ戻ると、
魚屋の前に卸業者のトラックが止まっていた。
狭い道の半分を塞いでいる。
後ろでは乗用車が待っていた。
短く、
クラクションが鳴る。
「すぐどかすから!」
魚屋の主人が、
発泡スチロール箱を抱えて走った。
店の入口は狭い。
冷蔵庫は奥にある。
箱を一度店先へ下ろす。
通る人を避ける。
また持ち上げる。
その間、
トラックの運転手は伝票を持って時計を見ていた。
次の店が待っている。
八百屋の軽トラも、
段ボールを積んで商店街へ入ってきた。
酒屋の前には瓶のケースが並ぶ。
榊原商店の奥にも、
米と洗剤の箱が積まれている。
店ごとに荷物が届く。
店ごとに車が止まる。
店ごとに荷物を下ろす。
置く場所がない。
通る場所もない。
そして征一自身も、
同じ米を運ぶために同じ道を二度走っていた。
無駄だ、と征一は思った。
その無駄が、
いくらなのかは分からなかった。
だが、
時間になっていることだけは分かった。
燃料にもなっている。
人の手にもなっている。
そして、
その帰りに空いた倉庫を見つけた。
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作業着の男は、
山崎と名乗った。
以前はこの倉庫で、
衣料用の生地を預かっていたという。
「ここで受け取って、工場へ回してた」
床には、
荷物を積んでいた跡が残っていた。
壁際に、
古い台車が一台ある。
車輪の一つが傾いていた。
「会社は?」
征一が聞くと、
山崎は奥の暗い壁を見た。
「閉めた」
それだけだった。
注文が減った。
機械を売った。
従業員に辞めてもらった。
預かっていた荷物を返した。
残ったのは、
倉庫と古い帳簿だけだった。
「この倉庫、売るんですか」
「買うのか」
「買えません」
山崎は少し笑った。
「そうだろうな」
「貸すんですか」
「全部なら月十二万」
征一は倉庫を見回した。
月十二万円。
父から借りた二万円より、
ずっと大きい。
配達で得た金を全部集めても、
一か月分に届かない。
「手前だけなら」
「手前?」
「使うところだけ借りるんです」
「壁がない」
「線を引けば分けられます」
山崎の笑みが消えた。
「線で泥棒を止められるのか」
征一は答えられなかった。
「何を置く」
「米とか、洗剤とか」
「誰の」
「商店街の」
「商店街の誰が、お前に頼んだ」
誰も頼んでいなかった。
「これから聞きます」
山崎は照明を消した。
「使い道を決めてから、金の話をしろ」
シャッターが下りる。
倉庫の中の光が、
細くなって消えた。
征一の頭の中に並んでいた荷物も、
一度すべて消えた。
────────────────
翌朝、
征一は父に話した。
「県道の近くに、空いた倉庫がある」
父は米袋の口を閉じながら、
短く返した。
「そうか」
「トラックも入れる。団地にも近い」
「そうか」
「商店街の荷物を、あそこでまとめて受け取れる」
父の手が止まった。
「誰が受け取る」
「俺」
「学校にいる時は」
「その時は……」
「何を置く」
「米。洗剤。酒。魚屋の荷物も」
「冷蔵庫はあるのか」
「ない」
「魚は置けないな」
征一は口を閉じた。
父は続けた。
「米と洗剤を同じ場所へ置くのか」
「離せばいい」
「誰が数を確認する」
「俺がやる」
「一箱足りなかったら」
「調べる」
「壊れていたら」
「運んできた人に言う」
「いつ壊れたか、どうやって分ける」
質問されるたび、
倉庫が狭くなっていった。
昨日は、
何でも置けるように見えた。
今は、
置けないものばかりが増えている。
「父ちゃんは反対なの」
征一が聞くと、
父は首を振った。
「何の話か決まっていないから、反対も賛成もできない」
「倉庫を借りる話だよ」
「それは金を払う話だ」
父は征一を見た。
「何をして金を受け取るのか。その話がない」
征一は何も言えなかった。
「場所が空いていることと、仕事があることは別だ」
父は米袋を棚へ置いた。
「家賃は、仕事がなくても毎月来る」
その言葉だけは、
すぐに分かった。
────────────────
征一は三日間、
商店街を回った。
最初は魚屋だった。
「荷物をまとめて受け取れる場所があったら、使いますか」
主人は包丁を動かしたまま答えた。
「魚は無理だ。すぐ冷やす」
「箱だけでも」
「空箱預かってどうする」
八百屋は聞いた。
「そこから店まで、誰が持ってくる」
「俺が運びます」
「何時に」
市場から荷物が届く時間は早い。
その時間、
征一は学校にいる。
酒屋は、
瓶のケースなら助かると言った。
だが、
多いのは年末だけだった。
年末の荷物のために、
毎月家賃は払えない。
電器店は、
修理待ちの商品を置きたいと言った。
しかし、
預かった時から傷があったのか、
運んだ途中で壊れたのか、
記録が必要だった。
布団店は、
湿気が心配だと言った。
金物店には、
自前の倉庫があった。
使いたい。
あると便利だ。
助かるかもしれない。
そんな返事はあった。
だが、
いくら払うかを尋ねると、
誰も答えなかった。
征一はノートに書いた。
荷物の種類。
届く時間。
置く日数。
必要な広さ。
濡れたら困るか。
壊れやすいか。
運ぶ人。
金を払う人。
書くたびに、
できることが減った。
「使えそう」と、
「金を払って使う」は違った。
────────────────
四日目、
征一は町外れの金属加工会社へ配達に行った。
軍手。
洗剤。
缶コーヒー一箱。
事務所で代金を受け取っていると、
外にトラックが入ってきた。
荷台には、
細長い木箱が二つ載っていた。
運転手が伝票を持って降りる。
「受領印、お願いします」
事務員が困った顔をした。
「工場長が午後まで戻らないんです」
「代わりの人は?」
「中身を確認できる者がいなくて」
「じゃあ下ろせないです」
「そこへ置いてもらうだけでは」
「破損があった時、誰が確認するんですか」
事務員は工場長へ電話をかけた。
出ない。
運転手は時計を見る。
「明日はこの辺、回らないですよ。一度営業所へ戻します」
「それだと部品が」
「勝手には置けませんから」
木箱は、
もう会社の前まで届いている。
使う人もいる。
置く場所もある。
それでも、
受け取る人がいない。
受け取ったと証明する人がいない。
だから荷物は、
また遠くへ戻っていく。
征一はトラックの荷台を見た。
「近くに、代わりに受け取る場所があったら駄目ですか」
運転手が征一を見る。
「会社が指定した場所で、受領できる人がいるならな」
「別の場所でも?」
「荷主と受取先が認めれば」
「何をすれば受け取れますか」
「数を確認する。外から見える破損がないか見る。時間を記録する。伝票に署名する」
運転手は木箱を手で示した。
「それと、預かった後になくさないことだ」
簡単なことのように聞こえた。
だが、
最後の一つだけが重かった。
なくさないこと。
荷物を預かるとは、
置いておくことではない。
届くまでの責任を、
途中で引き受けることだった。
────────────────
翌日、
征一が同じ会社へ行くと、
木箱は工場の入口に置かれていた。
「届いたんですね」
事務員がうなずく。
「今朝、もう一度来てもらったの」
「昨日届かなかったから?」
「午前の作業が止まった」
箱の横では、
作業員が部品を取り出していた。
昨日受け取れなかっただけで、
運転手は同じ道をもう一度走った。
作業員は部品を待った。
機械は止まった。
会社は、
作れたはずの時間を失った。
荷物一つが遅れただけではない。
何人もの時間が、
その後ろで止まっていた。
「もし、近くで昨日受け取れていたら、使いましたか」
征一が聞くと、
事務員は少し考えた。
「会社として頼めるところなら」
「会社として?」
「荷物をなくさない。壊さない。受け取った記録を残す。誰が責任を持つか分かる」
「それができれば?」
「工場長に聞かないと決められない」
「聞いてもらえますか」
事務員は、
征一の制服を見た。
「あなたがやるの?」
以前の征一なら、
すぐに「やります」と答えていた。
だが、
今回は答える前に考えた。
鍵はない。
棚もない。
保険もない。
学校にいる時間は受け取れない。
壊れた時に払える金もない。
「できる形を作れたら」
征一は答えた。
それは、
自分でも少し悔しい返事だった。
だが、
できないことをできると言うよりはよかった。
事務員は、
工場長の机に話を置いておくと言った。
────────────────
征一は、
もう一度山崎の倉庫へ行った。
山崎は古い書類を段ボールへ詰めていた。
「また来たのか」
「全部は借りません」
「前にも聞いた」
「荷物一個ごとに、手前だけ使わせてください」
山崎の手が止まった。
「何の荷物だ」
「工場で使う部品です」
「決まったのか」
「まだです」
「なら、まだ何もない」
征一は食い下がった。
「置ける条件が分からないと、頼めないんです」
「俺の倉庫で勝手に商売を作るな」
「でも、空けておくだけなら金にならないでしょう」
口にした瞬間、
間違えたと分かった。
山崎の顔から、
わずかに表情が消えた。
倉庫の奥には、
廃業後の帳簿が積まれている。
人を辞めさせ、
機械を売り、
荷物を返し、
ようやく空けた場所だった。
最初から空いていたわけではない。
「すみません」
征一は頭を下げた。
山崎は、
持っていた書類を箱へ入れた。
「空いてるんじゃない」
低い声だった。
「空けたんだ」
征一は顔を上げられなかった。
「ここにあった仕事をなくして、人を出して、機械を運んで、それで空けた」
「はい」
「何もないから、何にでも使えると思ったか」
征一は答えなかった。
その通りだった。
山崎は軍手を外した。
「使いたいなら、安く借りることだけ考えるな」
「はい」
「何を置く。いつ置く。誰が受け取る。誰が責任を持つ。事故が起きたら誰が払う」
山崎は征一を見た。
「それを決めてから、俺にいくら払えるか持ってこい」
追い返されてはいなかった。
征一は、
顔を上げた。
「持ってきたら、見てもらえますか」
「中身があればな」
────────────────
その夜、
征一は店の帳面とは別に紙を広げた。
最初に書いていた言葉を消した。
倉庫を借りる。
その代わりに、
新しく書いた。
荷物を受け取る。
数を確認する。
外から見える傷を記録する。
伝票を預かる。
一時的に保管する。
受取先へ連絡する。
決めた時間に届ける。
その下へ、
必要なものを書く。
鍵。
照明。
雨漏りの確認。
台車。
荷物ごとの札。
受領時刻。
引渡時刻。
預かる責任。
運ぶ車。
壊れた時の負担。
書くほど、
仕事は難しくなった。
それでも、
何をするのかは前より見えた。
征一が売ろうとしていたのは、
倉庫の広さではなかった。
荷物が届いてから、
誰かの手に渡るまでの時間だった。
さらに、
できないことを書いた。
冷蔵品は預からない。
食品と薬品は扱わない。
壊れやすい物は預からない。
原付で運べない物は運ばない。
学校にいる時間は受け取らない。
依頼主が確認できない荷物は預からない。
できないことを消していくと、
残った仕事は小さかった。
乾いた荷物。
原付で運べる大きさ。
夕方までの一時預かり。
受取先が事前に決まっている物。
それだけだった。
だが、
初めて金を受け取れる形になった。
────────────────
父は、
征一の紙を最後まで読んだ。
「倉庫を借りたい話はどうした」
「先に倉庫を借りたら、家賃を払うために仕事を探すことになる」
父は顔を上げた。
「うん」
「先に、金を払って預けたい会社があるか確かめる。荷物がある時だけ、使う場所の分を山崎さんに払う」
「前よりは仕事の話になった」
「前は違った?」
「ああ」
父は紙を机に置いた。
「前は、広い場所を見つけて、うれしくなった話だった」
征一は黙った。
父は一行を指した。
「荷物をなくした時は」
「弁償する」
「何で」
征一の鉛筆が止まった。
弁償する金はない。
「店の金?」
父が聞いた。
「違う」
「お前の金?」
「足りない」
「なら、今のお前一人では責任を持てない」
征一は悔しかった。
だが、
反論はできなかった。
商店の名前。
父の信用。
店の帳面。
長く続けてきた取引。
征一は、
それを使おうとしている。
自分で見つけた仕事でも、
自分一人の信用では始められない。
「店の仕事として、父ちゃんに確認してもらう」
「俺が全部引き受けるという意味じゃないぞ」
「分かってる」
「本当に分かってるか」
征一は、
もう一度紙を見た。
「分かるまで書く」
父は少しだけ笑った。
────────────────
一週間後、
征一は三枚の紙を持って山崎を訪ねた。
山崎は倉庫の入口で読んだ。
預かる荷物。
預からない荷物。
使う範囲。
使う時間。
受け取り方法。
記録する内容。
責任の範囲。
山崎へ払う金額。
「安いな」
山崎が言った。
「最初は荷物が少ないからです」
「少なければ、俺には何も残らない」
「月に最低三千円払います。荷物が増えたら、一個ごとに追加します」
「三千円で倉庫を貸せと?」
「全部じゃありません」
征一は、
入口に近い床を指した。
「ここから、ここまでです」
倉庫全体の、
十分の一にも満たない。
古い台車を一台置けば、
半分埋まる程度だった。
山崎は紙を裏返した。
「電気代は」
征一は黙った。
「照明を使うんだろ」
「使った分を払います」
「どうやって分ける」
答えられなかった。
山崎は紙を征一へ返した。
駄目だった。
そう思った時、
山崎がシャッター横の扉を開けた。
「最初の一か月は、ここだけだ」
征一は顔を上げた。
山崎は床の一角を指した。
「荷物は床へ直に置くな。雨の日は入口で水を切れ。勝手に人を入れるな。鍵は渡さない」
「はい」
「俺がいる時間だけ使え」
「学校が終わってから来ます」
「荷物をなくしたら、お前の店にも話が行く」
「はい」
「お前一人の信用では足りないからな」
胸に刺さった。
それでも征一は、
目をそらさなかった。
「父にも確認してもらいます」
山崎はうなずいた。
「それからだ」
まだ契約ではない。
荷物もない。
売上もない。
それでも、
最初の条件が一つ決まった。
────────────────
帰り際、
征一は壁際の台車に触れた。
「これは使えますか」
山崎は首を振った。
「使うな。軸が曲がってる」
征一はしゃがみ、
車輪を見た。
押せば動く。
空のままなら、
まっすぐ進む。
だが、
荷物を載せれば傾く。
使えるように見えて、
仕事には使えない。
倉庫も同じだった。
空いているだけでは使えない。
荷物を置けるだけでは、
金にならない。
誰が受け取るのか。
誰が運ぶのか。
誰が記録するのか。
誰が責任を持つのか。
誰が金を払うのか。
すべてがつながった時、
初めて場所は仕事に変わる。
山崎がシャッターを下ろした。
征一は、
閉じていく倉庫を見ていた。
一週間前、
あの中には何でも置けると思った。
今は、
置いてはいけない物のほうが多いと知っている。
それでも、
征一には前よりはっきり見えていた。
何もない倉庫に最初に置くべきものは、
荷物ではなかった。
責任だった。




