残金1,842円|第8話「返すために借りるな」
征一は、借金を怖いものだとは思わなくなっていた。
それは、たぶん危ないことだった。
父から借りた二万円。
最初は重かった。
封筒に入った二枚の一万円札を受け取った時、
指先に紙の重さ以上のものが乗った気がした。
でも、
白い原付は走った。
駅裏まで行けた。
坂の上の団地まで行けた。
自転車では面倒だった場所へ、
夕方の短い時間で回れるようになった。
注文が来た。
洗剤。
醤油。
米五キロ。
灯油の予約。
伝票に済と書く。
売上を店に持ち帰る。
帳面に名前が増える。
そして一回目の返済日に、
征一は父へ五千円を渡した。
父は借用書の端に、
一回目返済 五千円
と書いた。
残額が減った。
たったそれだけで、
征一は金の仕組みを分かった気になった。
借りた金は、原付になった。
原付は、配達になった。
配達は、売上になった。
売上は、返済になった。
金が前へ進んでいる。
なら、借金は悪ではない。
返せばいい。
増やして返せばいい。
その考えは、
間違っていなかった。
少なくとも、
その時点では。
────────────────
九月の終わり、
雨が三日続いた。
商店街の古いアーケードは、
継ぎ目から水を落としていた。
魚屋の前には青いバケツが置かれ、
天井から落ちる水が、
ぽつん、
ぽつん、
と鳴っている。
八百屋の段ボールは湿っていた。
靴屋の店先には、
誰も立ち止まらない。
榊原商店の前も、
人通りは少なかった。
客が来ない日でも、
支払いは来る。
それを征一は、
その月にはじめて体で知った。
夕方、
配達から戻ると、
店の奥で母が売上金を数えていた。
皿の上に硬貨が並ぶ。
百円玉。
五十円玉。
十円玉。
音が軽い。
軽すぎる。
父は低い机の前に座り、
帳面を開いていた。
その横には、
請求書が重なっている。
米。
醤油。
洗剤。
灯油。
電気代。
電話代。
仕入れの支払い。
征一は濡れたヘルメットを置き、
父の手元を見た。
「今日、少ないの」
母が言った。
「雨だからね」
父は答えなかった。
鉛筆の先だけが、
帳面の一行を押さえている。
征一は、
自分の原付配達の欄を見た。
そこだけは増えていた。
駅裏の家。
団地三号棟。
団地五号棟。
坂の上の角の家。
名前が増えている。
配達先が増えている。
榊原商店が、
商店街の端から少しずつ広がっている。
その感覚が、
征一にはたまらなくうれしかった。
「団地、来月もっと増やせると思う」
父が顔を上げた。
「どうやって」
「チラシをもう一回入れる。灯油の予約も取れる」
「灯油は原付じゃ運べない」
「注文だけ取る。配達は軽トラで行けばいい」
「誰が行く」
「父ちゃん」
「その時間、店は誰が見る」
征一は黙った。
台所にいた母が、
こちらを見た。
父は帳面の端に線を引いた。
「米の支払い。醤油の支払い。洗剤の支払い。灯油の前払い。電気代。電話代。お前の返済」
征一は言った。
「俺の返済は払うよ」
「払えるかどうかだけじゃない」
「じゃあ何」
父は鉛筆を置いた。
「同じ日に、いくら出ていくかだ」
征一はレジを見た。
引き出しの中には札がある。
硬貨もある。
金はあるように見える。
でも父の帳面を見ると、
その金にはもう行き先が決まっていた。
仕入れ先へ行く金。
電気代になる金。
電話代になる金。
灯油の前払いになる金。
返済に回る金。
そこにあるだけで、
自由に使えるわけではない。
店の金ですら、
まだ店に残る金とは限らない。
父は言った。
「金は、あるかないかだけじゃない。いつ入って、いつ出るかだ」
その言葉を聞いた時、
征一は少し息苦しくなった。
金額だけなら見える。
でも、
日付が入ると急に見えにくくなる。
五千円ある。
それだけなら簡単だ。
でも、
明日出ていく五千円と、
来週入る五千円は、
同じ五千円ではなかった。
────────────────
翌週、
征一は団地へ追加のチラシを配った。
雨は上がっていた。
階段の手すりには水が残り、
コンクリートの壁はまだ湿っている。
三号棟の四階まで上がると、
シャツの背中に汗が張りついた。
郵便受けにチラシを入れる。
榊原商店
夕方配達します
米・醤油・洗剤・灯油予約
電話番号
前より字を整えた。
店名も、
父に書き直してもらわなかった。
自分で書いた。
その夜、
電話が二本来た。
翌日、
三本来た。
その次の日には、
灯油の予約が四件入った。
征一は、
予約表を見ながら笑いをこらえた。
当たった。
自分が配った紙で、
客が動いた。
電話が鳴った。
注文が入った。
商売が、
自分の手で少しだけ広がった。
父は予約表を見て言った。
「灯油は日を分ける」
「まとめて行った方が早い」
「軽トラに積める量がある」
「二往復すればいい」
「その時間、店を閉めるのか」
「母ちゃんがいるだろ」
母が台所から言った。
「私は配達の伝票までは分からないよ」
征一は黙った。
父は予約表に線を引いた。
月曜。
水曜。
金曜。
地区ごとに分ける。
同じ棟は同じ日に回る。
灯油と米は軽トラ。
洗剤や醤油は原付。
代金引換。
月末払いは父の確認が必要。
征一は唇を曲げた。
「細かすぎる」
父は言った。
「細かくしないと、続かない」
仕事が増えることは、
自由が増えることだと思っていた。
違った。
仕事が増えると、
約束が増える。
誰が行くのか。
いつ行くのか。
何を運ぶのか。
どこまでなら原付で行けるのか。
どこから軽トラが必要なのか。
いくら受け取るのか。
いつ入るのか。
誰が店を見るのか。
注文は、
入った瞬間に売上になるわけではない。
届ける。
受け取る。
記録する。
支払う。
そこまで終わって、
やっと金になる。
増えた注文は、
増えた約束でもあった。
征一はまだ、
それを言葉にはできなかった。
ただ、
父が帳面に線を引くたびに、
紙が重くなるように見えた。
────────────────
月末の二日前。
団地五号棟の玄関先で、
若い母親が言った。
「悪いんだけど、支払い、来月でもいい?」
征一は動けなくなった。
玄関のたたきには、
米五キロと洗剤二つが置いてある。
合計は三千円を少し超えていた。
奥の部屋で、
小さな子どもが泣いている。
母親は財布を握っていたが、
中を開けようとはしなかった。
「給料日が五日で。前にも、お父さんにお願いしたことあるんだけど」
征一は伝票を見た。
月末払いは父に確認。
決めたばかりだった。
だが、
米はもう置いてある。
洗剤も渡してある。
子どもは泣いている。
母親は困っている。
ここで、
「では持って帰ります」
とは言えなかった。
征一は言った。
「いいです」
母親の顔がゆるんだ。
「ありがとう。五日に必ず払うから」
征一は伝票に、
来月五日
と書いた。
それで済んだと思った。
店に戻ると、
父はすぐに気づいた。
「五号棟、現金じゃなかったのか」
「五日に払うって」
「確認したか」
「本人が言った」
「うちに確認したか」
征一は黙った。
父は怒鳴らなかった。
その方が嫌だった。
父は伝票を机に置いた。
「これは売上じゃない」
「でも売れた」
「金が入っていない」
「五日に入る」
「入る予定だ」
征一は腹が立った。
「困ってたんだよ」
「そうだろうな」
「じゃあ仕方ないだろ」
「仕方ない時ほど、書く」
父は帳面を開いた。
「今日出た品物。今日入らない金。五日に入る予定の金。もし入らなかった時の扱い。誰が決めたか。そこまで書く」
征一は伝票を見た。
来月五日。
自分では、
ちゃんと書いたつもりだった。
でも父の言う「書く」は、
もっと逃げ道をなくすことだった。
母が台所から言った。
「昔からのお客さんなら、待つこともあるしね」
父はうなずいた。
「待つことはある。だが、待つなら日付を書く。金額を書く。誰が決めたかも残す」
「疑ってるみたいじゃん」
征一が言うと、
父は少しだけ目を細めた。
「疑うためじゃない」
父は伝票を指で押さえた。
「忘れないためだ」
征一は何も言えなかった。
客が忘れることもある。
自分が忘れることもある。
店が忘れることもある。
そして、
忘れた金は、
最初からなかったような顔をする。
その夜、
征一は初めて知った。
売れたのに、
金がないことがある。
────────────────
五日、
五号棟の母親は払った。
三千百二十円。
封筒に入れて、
玄関で渡してくれた。
「遅れてごめんね」
征一は首を振った。
「大丈夫です」
店に戻ると、
父は封筒を開けて数えた。
千円札。
千円札。
千円札。
百円玉。
十円玉。
十円玉。
帳面の横に、
入金済
と書いた。
征一は少し得意になった。
「入っただろ」
父はうなずいた。
「入った」
「信用してよかったじゃん」
「そうだな」
「なら」
父は封筒を閉じた。
「でも、入るまで金じゃない」
征一は口を閉じた。
父は続けた。
「払ってくれる人でも、払う日までは金じゃない。約束は金に近い。でも金そのものじゃない」
征一は、
その言葉を好きになれなかった。
人を信じるなと言われているように聞こえた。
けれど、
父が言っているのは違った。
信じることと、
数えることは別。
その二つを混ぜると、
商売は崩れる。
征一は、
少しだけ分かった。
少しだけだった。
────────────────
二回目の返済日が近づいた。
征一は五千円を用意していた。
今度も払える。
そう思っていた。
その前日、
原付のエンジンが変な音を立てた。
信号待ちで、
一度止まりそうになった。
胸が冷えた。
原付が止まれば、
配達が止まる。
配達が止まれば、
売上が止まる。
売上が止まれば、
返済も止まる。
自転車店へ持っていくと、
主人はエンジン音を聞いただけで顔をしかめた。
「見た方がいいな」
「いくらかかりますか」
「開けてみないと分からん」
その言葉が嫌だった。
開けてみないと分からない。
見積もってみないと分からない。
やってみないと分からない。
その全部が、
金が出ていく前に必ず現れる言葉に聞こえた。
夕方、
修理代の見込みが出た。
六千円から八千円。
征一は黙った。
返済用の五千円はある。
手元にも少しある。
だが、
全部を払えば来週の釣り銭が心もとない。
父に話すと、
父は修理見積を見た。
「必要な修理か」
「止まったら配達できない」
「なら必要だ」
「返済、少し待って」
父が征一を見た。
「なぜ」
「修理代がいる」
「修理代は、配達を続けるための金だ」
「そう」
「返済は、借りた金を返す約束だ」
「分かってる」
「どちらを先に払うか、決めたのか」
征一は答えられなかった。
どちらも必要だった。
原付を直さなければ、
配達できない。
返済しなければ、
約束が崩れる。
「父ちゃんに返す金を、修理に回したい」
「つまり、返済を延ばす」
「うん」
「延ばした分はどうする」
「来月多く返す」
「いくら」
「七千円」
「できる根拠は」
「配達増えてる」
「入金日は」
「月末と五日」
「返済日は」
「二十五日」
そこで征一は黙った。
父は何も言わなかった。
言われなくても分かった。
五日に入る金では、
二十五日の返済は作れない。
日付が合わない。
売上は増えている。
でも、
返す日に金がなければ返せない。
征一は、
金額ではなく日付に追い詰められる感覚を初めて知った。
父は言った。
「金は、額だけ見るな」
征一は小さく答えた。
「日付も見る」
「そうだ」
父は、
それ以上言わなかった。
────────────────
その夜、
征一は借用書を前に座っていた。
修理代がいる。
返済もある。
手元の金は足りない。
考えているうちに、
ひとつだけ道が見えた。
母に借りればいい。
母から五千円を借りる。
父に返す。
来月、配達の売上が入ったら母に返す。
それなら、
父への返済は遅れない。
約束は守れる。
いい考えだと思った。
むしろ、
ちゃんとしているように思えた。
征一は台所へ行った。
母は夕飯の片づけをしていた。
流しの水音の中で、
征一は言った。
「母ちゃん、五千円貸して」
母の手が止まった。
「何に使うの」
「父ちゃんへの返済」
水道の音だけが続いた。
母は水を止めた。
家の中が急に静かになった。
「それは、だめ」
「なんで」
「返すために借りることになる」
征一は笑いかけた。
「でも、父ちゃんには返せるじゃん」
母は振り返った。
怒ってはいなかった。
でも、
いつもの母の顔ではなかった。
「父ちゃんに返したことにはなるかもしれない。でも、借金は減らないでしょ」
征一は黙った。
「相手が変わるだけ」
母は言った。
「借りた先が、父ちゃんから母ちゃんに移るだけ」
その瞬間、
征一の中で、
名案だったものが崩れた。
父のところへ戻ると、
父はすでに帳面を開いていた。
聞こえていたのかもしれない。
父は言った。
「今のが、一番危ない」
「何が」
「返すために借りることだ」
父は白い紙を出した。
鉛筆で線を引く。
母から借入。
父へ返済。
線は右から左へ動いた。
でも、
金額は減っていなかった。
「お前が母ちゃんから五千円借りる。俺に五千円返す。俺への借金は減る。だが、家全体では何も減っていない」
「家族だからいいだろ」
「家族だから見えにくい」
父の声は静かだった。
「これを外でやると、もっと分かりにくくなる」
父は線を増やした。
Aから借りる。
Bへ返す。
Bから借りる。
Cへ返す。
「返済日は守っているように見える。でも、借金は減っていない」
征一は紙を見た。
返しているのに、
減っていない。
その矛盾が、
急に怖くなった。
父は言った。
「借りるなと言っているんじゃない」
「うん」
「借りた金が何に変わるかを見ろ」
原付。
配達。
売上。
返済。
これは分かる。
だが、
借金。
返済。
借金。
返済。
これは何も生んでいない。
ただ、
時間だけが動いている。
父は言った。
「時間をつなぐ借金はある。商売では必要な時もある」
それから、
少し声を低くした。
「だが、時間だけつないで、金の行き先が変わらないなら危ない」
前にも聞いた言葉だった。
その時は分からなかった。
今は、
痛かった。
────────────────
翌朝、
征一は父に言った。
「今月の返済、三千円にしてほしい」
父は帳面から顔を上げた。
「理由は」
「修理代がいる。配達を続けるため。残り二千円は来月の二十五日に足す。ただし、五日の入金はあてにしない。二十五日までに配達手当から作る」
父は黙って聞いていた。
征一は続けた。
「母ちゃんからは借りない」
父は、
少しだけ口元を動かした。
「書け」
征一は紙に書いた。
今月返済 三千円。
不足分 二千円。
来月返済に追加。
理由 原付修理。
母からの借入なし。
父は読んだ。
「修理代は見積が確定してから払う」
「うん」
「修理内容も書く」
「そこまで?」
「そこまで」
征一はため息をついた。
でも、書いた。
書くと、
腹立たしさが少し減った。
何が起きているのかが、
紙の上に出たからだ。
自分は逃げているのではない。
予定を変えている。
だが、
予定を変えるなら、
理由を書かなければならない。
理由を書けば、
自分にも嘘をつきにくくなる。
父は三千円を受け取り、
借用書に記入した。
残額は、
思ったより減らなかった。
でも、
減った。
残った二千円が、
妙に重かった。
────────────────
原付の修理は、
七千二百円で済んだ。
安くはない。
だが、
エンジンは前よりよくかかるようになった。
征一は、
修理明細を帳面に挟んだ。
父に言われたからではない。
自分で挟んだ。
配達を続けるために出した金。
そう分かるようにしておきたかった。
その月、
征一は前より丁寧に配達した。
留守の確認をした。
釣り銭を分けた。
月末払いは父に確認した。
灯油の予約日は地区ごとに分けた。
原付で運べるものと、軽トラが必要なものを分けた。
面倒だった。
でも、
面倒にした分だけ失敗は減った。
二十五日。
征一は父に七千円を渡した。
いつもの五千円に、
前月の二千円を足した金だった。
父は何も言わずに受け取った。
借用書に済とは書かなかった。
まだ残りがある。
でも、
二千円は消えた。
征一は息を吐いた。
返した。
借りて返したのではない。
動いて、
受け取って、
残して、
返した。
その違いは小さい。
でも、
征一には大きかった。
────────────────
その夜、
店を閉めたあと、
父は帳面を片づけながら言った。
「金を借りるのは悪いことじゃない」
征一は、
椅子に座って原付の鍵を回していた。
「うん」
「ただ、借りた金が何に変わったか分からなくなったら危ない」
父は引き出しを閉めた。
「返すためだけに借りるようになると、金は前に進まない」
征一は鍵を見た。
白い原付。
団地の階段。
雨の日の配達。
五号棟の封筒。
修理明細。
三千円の返済。
残った二千円。
七千円の返済。
全部、
紙に残っている。
全部、
まだ小さい。
二万円。
五千円。
三千円。
七千二百円。
二千円。
小さい金額だった。
けれど、
その小さい数字の中に、
金の怖さがあった。
父は言った。
「金を借りるなら、何かに変えろ」
征一はうなずいた。
「返すために借りるな」
父は、
初めて少し笑った。
「そうだ」
その言葉は、
征一の中に深く残った。
借りれば進める。
それは確かに正しかった。
原付は、
征一の動ける範囲を広げた。
配達は、
店の売上を広げた。
信用は、
少しずつ増えた。
だが、
借りた金が返済にしか変わらなくなった時、
金は前へ進む力ではなくなる。
ただ、
時間を先へ送るだけのものになる。
高校二年の征一は、
それを小さな金額で覚えた。
その後、
何十億、
何百億という金を動かすようになっても、
この言葉は消えなかった。
消えなかった。
ただ、
聞こえにくくなっていった。
金額が大きくなるほど、
聞こえにくくなっていった。




