残金1,842円|第60話「重機の待機」
エンジンを止めた機械にも、今日の金が掛かっていた。
午前七時三十二分。
大沢は、資材ヤードの端で一枚の配置確認書を読んでいた。紙の向こうに、黄色いラフテレーンクレーンが止まっている。ブームは畳まれ、運転席には誰もいない。
「今日中に、残すか返すかを決めていただけますか」
建設機械会社の担当者が言った。
「次の作業日は、まだ出ていない」
「承知しています。ただ、終わりが決まらないままでは、こちらも次の貸出予定を入れられません」
大沢は、確認書へ受領時刻を書いた。
「契約と使用記録を確認する。午後三時までに回答する」
「お願いします」
担当者が戻ると、大沢は現場事務所へ電話を入れた。
「この一台の搬入から昨日までを出してくれ。使った日と、残す判断をした日を分けてほしい」
機械がここにある理由を、記憶だけで決めるわけにはいかなかった。
午前七時五十一分。
当初進入路の点検が終わった。
路肩の変形なし。排水の閉塞なし。農地側への泥水の流出なし。
地権者側の父親は、確認記録へ目を通した。
「出ていく車も、こっちを使うんだな」
「大型車両の出入りは、この道です」
「帰りだからといって、急がせるなよ」
「農作業の車を優先します。九時より前には通しません」
父親はうなずき、軽トラックへ乗った。
道を使う条件は変わっていない。
使えるようになった道を、何のために通るかが変わろうとしていた。
午前八時八分。
三浦は第一回予約金五億円の支払確認画面を開いた。
榊原が机の前に立つ。
契約先、振込先、支払条件、承認記録。三浦は一つずつ照合し、変更がないことを伝えた。
「予定どおり、実行します」
「進めてくれ」
午前八時十六分。
銀行の実行結果が表示された。
三浦は五億円を支払予定から支払済みへ移した。相手方への着金確認は、続けて取る。
榊原は更新された表を見た。
昨日払った支持架台の前払金三千四百二十万円も、その上に残っている。
どちらも当初の契約に基づく支払いだった。
追加事業費が五億円増えたわけではない。
それでも、支払う前には口座にあった金が、今は出ている。
「今日、新たに決めるものは」
「大沢さんから、重機の配置変更について相談があります」
「仮置き場か」
「新設案とは別です。現場に入っているクレーン一台について、手配の経緯を確認中です」
榊原は時計を見た。
「現場で聞く」
午前八時四十三分。
黄色い車体の横で、大沢が待っていた。
「今日は動かさないのか」
榊原が聞いた。
「この一台を必要とする作業はありません」
「運転手は」
「必要日に手配する条件です。今日は呼んでいません」
「なら、止めておけばいい」
大沢は答えず、機械会社から来た紙を渡した。
機械本体の留置中の賃料、一日四万八千円。
運転手、燃料、実際の揚重作業の費用は別だった。
「動いていなくてもか」
「ここへ置いておく間は、ほかへ貸せません」
榊原は、タイヤの大きさを見た。
自分の胸ほどまである車輪に、乾きかけた泥が付いていた。
「いつから、何を待っている」
「記録がそろいました。中で説明します」
午前九時四分。
施工会社の工事担当が、搬入記録と日報を長机へ並べた。
このクレーンは四営業日前、共通仮設材の荷下ろしに合わせて搬入されていた。搬入日と翌営業日には実作業がある。
当初は、その後の資材搬入にも続けて使い、まとまった荷下ろしを終えてから返す計画だった。
しかし、受入れ区画と搬入順序の調整で、後続の作業日が確定できなくなった。
一昨日、昨日は稼働していない。
「ここで、一度返せなかったのか」
榊原が日報を指した。
工事担当は、手元の配置表を開いた。
「私が、後続の搬入予定を確認するまで留置としました」
「確認は、いつ終わる予定だった」
「その日か、翌日にはと思っていました」
「終わる日ではなく、思っていた日か」
「はい」
大沢が別の記録を置いた。
「こちらから、クレーンを残すよう指示した記録は、今確認できた範囲ではありません。搬入順序を検討する連絡と、機械の留置判断は分けて見ています」
榊原は工事担当を見た。
男は、配置表の端を押さえていた。
「資材が来てから機械がないという事態を避けたかったんです」
「それは分かる」
榊原は言った。
「ただ、来る日が決まらないまま残すなら、見直す日が要る」
「設定していませんでした」
留置した判断には理由があった。
その理由が続いている限り、終わる日も来なかった。
午前九時三十八分。
機械会社の担当者が、見積書を机へ置いた。
撤去運搬、三十六万円。
同条件で再搬入する場合の運搬費、三十六万円。
留置賃料と合わせ、金額はすべて税抜きだった。
「一度出して、同じ条件で戻せれば七十二万円か」
「運搬分はそうです。再搬入時の機械の賃料や作業条件は、その時に確認します」
「置いておけば、一日四万八千円」
「はい」
榊原は紙の余白で計算した。
五日、二十四万円。
二十日、九十六万円。
十五日で、七十二万円になる。
「十五日より早く使うなら、残した方が安い」
「この二つだけを比べれば、そうなります」
担当者は、再搬入の欄へ指を置いた。
「ただし、同等機をその日に手配できることが前提です」
「今、戻す日を予約すれば」
「いつでしょうか」
榊原は大沢を見た。
「支持架台は」
「前払金は昨日支払いましたが、出荷日はまだ確認できていません」
「配管材の回答は明日だな」
「二営業日を目安とした回答なので、明日を予定しています。ただ、明日納入されるわけではありません」
榊原はペンを置いた。
回答が来る日と、物が届く日は違う。
物が届く日と、取り付ける日も違っていた。
午前十時五分。
「ほかの工区で使えばいい」
榊原が言うと、大沢は現場配置図を広げた。
「転用は確認しました」
必要な作業半径と吊り荷の重量、進入できる場所を照合した結果が記されている。
別の機械で実施する作業はあった。だが、この一台へ置き換えれば、作業位置と進入経路の再検討が必要になる。
「簡単な荷下ろしでも、やらせればいいだろう」
「そのために運転手を呼び、配置を変える費用が掛かります」
「遊ばせるよりはいい」
大沢は、配置図へ目を落とした。
「必要のない移動と作業を作れば、留置費より多く払うことがあります」
榊原は口を閉じた。
動いていれば、働いているように見える。
だが、そのために余分な仕事を作れば、費用は減らない。
「機械を動かすために、人を動かすなということか」
「必要な仕事に使えるかを見ています」
榊原は、転用困難と書かれた紙を自分の方へ引いた。
「分かった。無理には回すな」
午前十時四十八分。
三浦が電話会議に入った。
榊原は、留置と撤去の見積額を伝えた。
「今日、返すと決めれば、この分だけ追加になるのか」
「まだ、総額への純増とは判断できません」
「見積がある」
「今回初めて具体額が出た費用なのか、すでに置いている見込みの内訳なのかを確認します」
三浦は、昨日の金額表を開いた。
確定増額、七千八百万円。
見積受領済み・未発注、二億一千二百万円。
条件付き見込み、二十七億四千四百万円。
最大単純合算、三十億三千四百万円。
「工程変更に関する各項目の内訳と照合します。機械費がすでに含まれていると、今の段階で断言はできません」
大沢が、施工会社の工事担当へ資料の提出を頼んだ。
「仮置き場の五千四百万円との重複も確認します」
「別の機械だろう」
「機械が別でも、同じ作業の費用を二か所へ置いていないか見ます。総額へ足すのは、対応関係が取れてからです」
榊原は紙を置いた。
「それを待っていたら、返却の回答期限が来る」
「配置の判断と、総額への反映は分けられます。承認する範囲と上限を明記してください」
大沢が答えた。
「私から施工会社へ整理を出します。機械会社への手配は、施工会社が行います」
「支払いも、こちらから機械会社へ直接ではないな」
「はい」
三浦が続けた。
「請求と支払日は、施工会社との変更合意に従って管理します。今日の五億円には混ぜません」
「分けて進めろ」
榊原はそう言って、電話を終えた。
午前十一時五十六分。
昼の弁当が届いても、長机の片側は空かなかった。
供給会社側で配管材を保管する案の回答が来ていた。
一週間、一か月、それ以上。
期間を分けた条件が示されている。ただし、先行範囲の価格と納期の正式回答ではなかった。
既存ヤードを共用する案も、大沢の前に届いた。
支持架台や電気設備との配置を重ねると、面積だけでは判断できない箇所が残った。搬入日が確定しなければ、同じ区画を順に使えるか決められない。
「新設なら、この問題は片づくか」
「受入れ場所の選択肢は増えます。ただ、地盤確認と整備が必要です」
「八営業日」
「概算で示した目安です。発注はまだしていません」
「五千四百万円も、そのままか」
「条件付き見込みに残しています」
榊原は箸を割った。
空いた土地を使うにも、止まった機械を残すにも、日付を決めなければ安い方が選べない。
明日には分かる。
そのつもりで一日残せば、翌日には別の確認が残る。
工事担当が空いた椅子へ座った。
「私も、次の搬入日を待っていました」
榊原は顔を上げた。
「一日だけ残せば、引き揚げずに済むと思ったんです」
大沢は弁当の蓋を閉じた。
「今日は、その一日を終わらせるか決めます」
午後一時九分。
榊原は機械会社の担当者へ尋ねた。
「明日の配管材の回答まで待ってから、返却を決められるか」
「明日になってからでは、明日の搬出は約束できません」
「明後日なら」
「その時点の運転手と配車を確認します」
「今、明日の搬出だけ押さえて、回答が来たら取り消す」
「取消しの時刻によっては、費用が発生します。運転手と配車を押さえるので、無条件ではできません」
榊原は椅子の背へ身体を預けた。
決めないまま、場所だけ確保しておきたかった。
ここにある機械も、明日の運転手も。
「次の貸出先があるのか」
「照会はあります。まだ確定ではありません」
「こちらが残すと言えば、そちらを断る」
「留置を継続する契約なら、ほかへは出せません」
榊原は担当者の顔を見た。
先方も、確定していない仕事を待っていた。
自分たちが押さえている間、その会社は別の客へ返事をできない。
「回答は三時までだったな」
「はい」
「その前に決める」
午後一時四十三分。
大沢と榊原は、再びクレーンの前へ出た。
赤い杭の打たれた仮置き場候補地が、車体の向こうに見える。
榊原は、その杭から機械へ視線を戻した。
「返した後で必要になって、取れなかったら」
「同等機を探します。取れなければ、荷下ろし方法や受入れ日を調整します」
「資材の搬入が遅れる可能性がある」
「あります」
「残せば、その一つは避けられる」
「使える条件が合えば、避けられます」
大沢は、残す案を否定しなかった。
榊原は、それがかえって決めにくかった。
金を払って残す理由はある。
返して費用を止める理由もある。
どちらにも、後で説明しなければならない結果が付いていた。
「大沢さんなら、返すか」
「次の確定作業がないので、今回は返します」
「戻らないかもしれなくても」
「はい。その条件を工程表へ残します」
榊原は車体へ触れた。
鉄板は、日の当たる側だけ温かかった。
ここに置いておけば、機械はどこだと聞かれても、指を差せる。
返した後は、照会中と答えることになる。
「ある方が、現場は安心するだろう」
「安心はします」
大沢が答えた。
「でも、何日分の安心を買うのかは決めなければなりません」
榊原は手を離した。
午後二時十七分。
現場事務所へ戻ると、榊原は施工会社の工事担当を呼んだ。
「明日、搬出する」
工事担当は、手元の紙を引き寄せた。
「撤去運搬三十六万円は、今回の返却判断に伴う追加として、こちらが負担する条件で変更合意を進める。既存の見込みに入っているなら、そこから振り替えろ。重ねて足すな」
「はい」
「明日の留置賃料は」
機械会社の担当者が答えた。
「搬出日まで日単位です。明日搬出できれば、明日の一日分で終了します」
「四万八千円だな」
「はい」
「そこまでを今回の承認範囲にする。今日までの留置費は、原因と契約範囲を照合して、別に協議する」
工事担当が確認した。
「過去分の負担まで、今回の合意に含めない」
「そうだ。再搬入も、まだ発注しない」
榊原は見積書の七十二万円を指した。
「往復を一度に契約するな。今決めるのは、出す方だけだ」
大沢が書いた内容を読み上げた。
榊原は最後まで聞いた。
「再手配できない場合も、工程へ残せ」
「残します」
「返したから問題が消えた、という報告にはするな」
午後二時四十六分。
施工会社との確認書に、今回の負担範囲が記された。
機械会社への返却依頼は、施工会社から送られた。
午後三時六分。
翌日の搬出手配が取れたとの回答が届いた。
大沢はすぐ、当初進入路の使用条件を伝えた。朝の確認を済ませ、九時以降。農作業側の車両を優先する。
担当者は復唱し、運転手へ渡す依頼書へ追記した。
榊原はその紙を受け取った。
「戻す日付は空欄か」
「まだ決められません」
今度は、空欄を埋めろとは言わなかった。
午後四時十一分。
三浦から電話があった。
第一回予約金五億円の着金確認が取れた。
重機については、今回合意した範囲を支払管理へ登録する。支払日は施工会社との合意条件に従い、請求内容を照合する。
総額表への反映は、既存見込みとの重複確認が終わってからだった。
「今、最大単純合算を減らしたとは言えません」
「分かっている」
「ただ、終期のなかった留置は、明日の搬出で終える予定になりました」
榊原は窓の外を見た。
黄色い車体は、朝と同じ場所にある。
「搬出を確認してから、確定させてくれ」
「そうします」
電話を切ると、大沢が翌日の予定表を置いた。
配管材の価格と納期の回答。
資材の受入れ方法の判断。
返却するクレーン一台。
榊原は、その三つへ順番に目を通した。
午後五時三十九分。
搬出する運転手が、機械の確認に来た。
大沢と車体の周囲を歩き、運転席へ上がる。エンジンが掛かると、静かだったヤードに低い振動が広がった。
榊原は少し離れて見ていた。
ようやく動いた。
そう思ってから、明日ここを出るための確認なのだと気づいた。
運転手が地面へ降り、大沢から経路図を受け取った。
「九時以降ですね」
「朝の道の確認が終わってから連絡します。農作業の車が来たら待ってください」
「分かりました」
榊原は、また必要になるかもしれないと言いかけた。
運転手は経路図を折り、作業着のポケットへ入れた。
その背中へ、まだ決まっていない仕事を約束することはできなかった。
大沢が翌朝の確認欄へ、搬出一台と書き込む。
榊原は、日付の入ったその一行を見た。
ここを出る日だけが、次に働く日より先に決まった。




