残金1,842円|第59話「仮設の費用」
午前六時四十八分。
夜の雨は、当初進入路の補強部分に黒い跡を残していた。
大沢は地権者側の父親と並び、排水の出口を見た。水は既存の排水へ流れ、農地側にはあふれていない。
作業員が路肩の変形を測る。
試行通行前の数値と比べても、許容範囲を超える変化はなかった。
「一台通した後も見るんだな」
「見ます。変形があれば、そこで止めます」
午前七時十二分。
大型車両は午前九時から通すことになった。
誘導員を二人置く。
農作業側の車両を優先する。
雨が強くなった場合は、通行を止めて再確認する。
「見たから、今日は通していい」
父親は確認記録の控えを軽トラックへ置いた。
「明日も同じとは限らんぞ」
「毎朝確認します」
軽トラックが先に道を抜けた。
その後ろで、大型車両はまだエンジンを掛けずに待っていた。
午前八時二分。
三浦は支持架台の前払金三千四百二十万円について、最終照合を終えた。
契約額一億七千百万円。
前払金三千四百二十万円。
製作開始時五千百三十万円。
出荷時八千五百五十万円。
注文書の承認番号、供給会社名、振込先、支払条件が一致している。
「実行します」
榊原は画面を確認した。
「やってくれ」
午前八時六分。
支払予定だった三千四百二十万円が、支払済みに変わった。
支持架台の製作が終わったわけではない。
全額を払ったわけでもない。
だが、契約した資材を動かすための金は、口座から出た。
三浦は支払予定表を更新した。
第一回予約金五億円は、翌営業日。
支払日は動かしていない。
「今日、新しい契約を入れる場合は、五億円と分けてください」
「配管材は、まだ発注しない」
「資材ではありません。受入れ場所です」
榊原は三浦を見た。
「大沢さんから確認が来ています」
午前八時四十一分。
現場事務所の長机に、前日作った整理表が広げられた。
冷却設備の主要配管は二系統ある。
一系統は、機器メーカーから接続条件の回答が届き、材質と径を確定できる見込みになった。
もう一系統は、圧力条件と接続位置の回答待ちだった。
「先行できる範囲は出せるか」
榊原が聞いた。
「直管部分と共通継手なら、今日中に数量まで固められます」
設計担当が答えた。
「機器接続部は」
「残します。仮の寸法で発注すれば、後から使えなくなる可能性があります」
「供給会社へ渡せるものだけ分けろ」
「正午までにまとめます」
大沢は、図面の脇へ現場配置図を置いた。
「先行発注するなら、受け取る場所も必要です」
「今の資材ヤードでは足りないのか」
「支持架台の受入れに使う予定です。配管材まで同じ時期に入れば、荷下ろしと搬出の動線が重なります」
「時期をずらせばいい」
「どちらも出荷日が決まっていません。ずらせるとは、まだ判断できません」
大沢は、配置図の一角を赤鉛筆で囲んだ。
取得済みの工事区域だった。
だが、地面は未舗装で、夜の雨が浅い水たまりを作っている。
「ここを仮置き場にします」
「土地は使えるんだろう」
「土地は使えます。資材置場としては使えません」
大型車両が入るための地盤。
荷下ろしに使う重機の作業範囲。
配管材を地面から離して置く受台。
雨水を逃がす仮排水。
第三者が入らないための仮囲い。
使用後の撤去と原状回復。
何もない土地を、置ける場所へ変える工事が必要だった。
「最初から施工会社が用意する仮設じゃないのか」
「当初は、配管材を工程に合わせて搬入し、短期間で取り付ける計画でした。長く保管する専用区画はありません」
「あの六人は戻らないんだな」
「復帰できるという回答はありません。別の班も照会中ですが、開始日は出せていません」
資材を先に買えば、価格と製造枠を押さえられる。
だが、取り付ける班がいなければ、届いた資材は置かれる。
置くためにも、金が掛かる。
「概算を出させろ」
「必要範囲と、負担区分を分けて出します」
「施工会社の仮設だろう」
「通常の施工方法として負担する部分はあります。ただ、発注時期と施工順序の変更で新たに必要になった部分まで、契約内とは限りません」
「必要な工事を先に出せ。負担は、それを見て決める」
午前九時十九分。
大型車両一台目が当初進入路へ入った。
雨の後のため、前日より速度を落とす。
農地側から軽トラックが来ると、誘導員は大型車両を曲がり角の手前で止めた。
軽トラックが通り過ぎる。
大型車両が再び動く。
通過後、大沢は路肩と排水を確認した。
変形なし。
泥の流出なし。
進入路の使用条件は維持された。
その報告が届いた時、榊原は仮置き場候補地に立っていた。
長靴の底が、地面へわずかに沈んだ。
「砕石を入れれば済むように見えるな」
「必要な厚さを確かめずに敷けば、重機を入れた時に沈みます」
大沢が答えた。
「排水は」
「仮設側溝を設けます。泥水をそのまま流さないため、沈砂部分も必要です」
「使い終わったら撤去する」
「はい。残す場合は、恒久設備として使えるかを別に確認します」
遠くから見れば、空いた土地だった。
だが、空いていることと、使えることは違った。
午前十時三十四分。
施工会社から概算が届いた。
仮置きヤード整備、二千四百万円。
仮排水と沈砂設備、一千百万円。
資材受台、六百万円。
仮囲いと出入口管理、三百万円。
撤去、運搬、原状回復、一千万円。
合計五千四百万円。
発注後八営業日を目安とする。
ただし、地盤状態と排水接続箇所の確認が前提だった。
「八営業日も掛かるのか」
「地盤確認と材料手配を含みます。発注した翌日に全部を始められるわけではありません」
「配管材の製作より先には終わるだろう」
「その可能性はあります。ただ、配管材の納期が出ていない以上、間に合うとは書けません」
「正式見積か」
「概算です。施工範囲も負担区分も確定していません」
「金額表には入れろ」
「今回、初めて生じた条件です。条件付き見込みへ入れます」
昨日、最大単純合算は二十九億八千万円だった。
三十億円を二千万円だけ下回っていた。
五千四百万円を加えれば、再び三十億円を超える。
「まだ発注していない」
「発注済みにはしません」
「こちらが全額負担するとも決まっていない」
「その条件も書きます。ただし、最大額では、負担が決まる前に外せません」
費用が確定したわけではない。
それでも、存在しないことにはできなかった。
午前十一時五十八分。
配管材の供給会社との会議が始まった。
設計担当は、確定できる一系統分の一覧を提示した。
材質。
径。
直管の数量。
共通継手。
検査条件。
機器接続部と残る一系統は、未確定部分として分けた。
供給会社の製造計画責任者が一覧を確認する。
「この範囲なら、材料調達の確認へ進めます」
「製作も先行できるか」
榊原が聞いた。
「承認図の確定後です。ただし、全体を待たず、この範囲だけ製作単位を分けることは検討できます」
「納入日は」
「本日の資料を工場へ回します。二営業日を目安に、価格と納期を回答します」
「分割納入なら早められるか」
「全量の完成を待つより、先行分を早く出せる可能性はあります。ただし、製作単位、検査回数、輸送回数が変わります」
調達部長が尋ねた。
「一括発注時の価格条件は使えませんね」
「はい。先行範囲と残る範囲を分けて計算します」
「受入れ場所はこちらで用意する」
榊原が言った。
「受入れ方法は検討中です」
大沢が口を挟んだ。
「新設ヤードは未発注です」
榊原は大沢を見た。
大沢は視線をそらさなかった。
「既存ヤードの共用を含めて、受入れ方法を二営業日以内に回答する」
榊原が言い直した。
製造計画責任者がうなずく。
「納期を回答する際は、受入れ可能日も確認させてください」
資材の納入日を求めた会議で、こちらの受入れ日を問われた。
買うと決めるだけでは、納入日は決まらなかった。
午後零時四十六分。
会議を終えると、榊原は大沢を呼び止めた。
「なぜ、あそこで止めた」
「新設ヤードは、まだ発注していません」
「間に合わせるために作るつもりで話している」
「作るかどうかを決めるために比較しています」
「供給会社へ迷っているように見える」
「できていない場所を、できているとは伝えられません」
榊原は黙った。
「仮置き場を作れば、分割納入を受けやすくなります」
大沢は続けた。
「ただ、資材を受け取れることと、取り付けられることは別です」
「ほかに何がある」
「現在の資材ヤードを共用する案。供給会社側で一時保管してもらう案です」
「向こうに置けば、保管料が掛かる」
「こちらへ置いても、五千四百万円が掛かる可能性があります」
「三案を並べろ。明日の五億円とは分けろ」
「分けます」
午後一時三十八分。
三浦は五千四百万円の概算を金額表へ入れた。
確定増額、七千八百万円。
見積受領済み・未発注、二億一千二百万円。
条件付き見込みは、二十六億九千万円から二十七億四千四百万円へ増えた。
最大単純合算は、二十九億八千万円から三十億三千四百万円になった。
配管材分割納入対応仮置き場。
概算五千四百万円。
未発注。
負担区分未確定。
代替案を比較中。
「全部、こちらの負担として足したのか」
榊原が聞いた。
「最大額ですので、今は全額を置きます」
「施工会社負担になれば」
「合意した時点で、その分を外します」
「新設しなければ」
「不採用が決まった時点で外します」
画面には、三十億三千四百万円と表示されていた。
昨日、三十億円は消えた。
翌日、完成後に残らない場所の概算で戻った。
「支持架台の三千四百二十万円は足していないな」
「当初設備予算内です。追加事業費には足しません。支払予定表では、支払済みに移しました」
「明日の五億円は」
「契約済みの予約金です。追加事業費ではなく、支払予定として管理しています」
同じ日に見る金額でも、役割は違った。
三千四百二十万円は支払済み。
五億円は支払予定。
五千四百万円は条件付き見込み。
一つにまとめれば、何が増え、何を払うのかが分からなくなる。
午後二時二十一分。
三案が長机に並べられた。
新しい仮置き場を作る。
現在の資材ヤードを共用する。
供給会社側で一時保管する。
新設すれば、分割納入を受けやすい。
既存ヤードを使えば、新設費用は抑えられるが、支持架台や電気設備との調整が必要になる。
供給会社へ預ければ現場側の仮設費は減るが、保管料と再荷役費が掛かる。
「どれが一番安い」
榊原が聞いた。
「保管期間によります」
大沢が答えた。
「配管材の納期も、取付け班の開始日も出ていません。今は期間を決められません」
資材の納期が決まらない。
班の開始日も決まらない。
だから保管期間も決まらない。
保管期間が決まらなければ、最も安い案も決まらなかった。
「新設ヤードの発注は保留する」
榊原が言った。
「既存ヤードの使用可能期間と、供給会社の保管条件を明日までに出せ。二営業日後に受入れ方法を決める」
「新設案は残しますか」
「残せ。消せる条件は、まだ確認できていない」
午後三時五十九分。
銀行団へ補足資料が送られた。
支持架台前払金三千四百二十万円、支払済み。
配管材の一部先行発注範囲を供給会社へ提示。
価格と納期は二営業日を目安に回答予定。
新設仮置き場案、概算五千四百万円。
未発注。
負担区分未確定。
条件付き見込み、二十七億四千四百万円。
最大単純合算、三十億三千四百万円。
午後四時二十七分。
倉田から電話が入った。
「三十億三千四百万円へ戻った理由は、仮置き場ですね」
「最大額へ五千四百万円を入れた」
榊原が答えた。
「既存ヤードと供給会社保管も比べている。新設は決めていない」
「次回は、保管期間ごとの比較も示してください」
「納期も班の開始日も出ていない」
「ですから、一週間、一か月、それ以上で分けてください。期間を置かずに五千四百万円だけを見れば、それが唯一の案に見えます」
「完成後に残らない場所だぞ」
「残るかどうかではなく、融資資金から何に払うかを確認します」
「必要だから検討している」
「必要性と、誰が負担するかは別です」
大沢と同じ言葉だった。
「二営業日で整理する」
「お願いします。明日の五億円も予定どおりで確認しています」
「動かさない」
午後六時十四分。
大沢は当初進入路の最終点検を終え、地権者側へ異常なしと連絡した。
仮置き場候補地には、赤い杭が四本打たれていた。
工事の着手を示す杭ではない。
必要な面積を確認するための印だった。
三浦が支払予定表を閉じる。
「明日は、第一回予約金五億円です」
「ああ」
「仮置き場の五千四百万円は、支払予定には入れていません」
「契約していないからな」
「条件付き見込みにだけ入っています」
三浦が部屋を出ると、机の上に三枚の資料が残った。
新設する。
共用する。
供給会社へ預ける。
どの案を選んでも、完成した施設の価値が五千四百万円増えるわけではない。
それでも、資材を受け取るには、置く場所が要る。
地面を整え、水を逃がし、人が入らないよう囲い、使い終えた後に撤去する。
残らないものにも、材料と人と日数が要る。
窓の外では、四本の赤い杭だけが、まだ何もない土地の費用を囲んでいた。




