残金1,842円|第58話「見積有効期限」
翌営業日、午前八時十一分。
「その納入日は、いったん外してください」
電話の向こうで、配管材の営業担当者が言った。
榊原は、工程表へ伸ばしかけた手を止めた。
窓の外では、大型車両が曲がり角の手前で待っている。農地へ向かう軽トラックを先に通し、誘導員の合図を受けて、ゆっくり動き始めた。
ようやく通れるようになった道だった。
「金額の話ではなくてか」
「価格も再確認しています。ただ、先に納入日のご説明をしないと、そちらの工程が古い条件で進んでしまいます」
調達部長が、机上の端末を榊原の方へ向けた。
失効した見積書には、納入予定の記載が残っていた。
その横に、小さな文字がある。
指定期限までの発注と、承認図の確定を前提とする。
「発注を待つことは伝えたはずだ」
「承知しています。ですので、材料手配はしていません」
「製造枠だけでも残せないのか」
相手は、すぐには答えなかった。
受話口の向こうから紙をめくる音がした。
「そのご相談を、今朝、工場へ確認しました。営業だけではお約束できません」
調達部長が口を挟んだ。
「工場の方を交えて話せますか。こちらも設計と施工を入れます」
「十時でしたら、製造計画の責任者が出られます」
通話を終えた後も、榊原は端末を見ていた。
古い見積書の日付は変わらない。
紙の上では、まだ間に合っているように見えた。
「工程表には、これを使っているのか」
「直近の工程表にも、従前の参考日が表示されています。再確認の注記は付けましたが、日付そのものは残っています」
「資材側では未確定なのに、施工側では日付が見える」
「はい。今日、表示をそろえます」
「大沢を呼んでくれ」
調達部長が電話を取った。
榊原は、納入予定日の入った欄を指で押さえた。
失効した見積書を保存する必要はある。
だが、その日付を次の仕事に使っていいかどうかは、別だった。
午前八時三十七分。
大沢は雨具を腕に掛けたまま、事務所へ入ってきた。
「今朝の搬入は」
「午前中に二台の予定です。合意した規格の車両で、誘導員を付けています」
「路肩は」
「今朝の点検では変形なし。雨が降れば、決めたとおり共同確認します」
榊原は工程表を示した。
「配管材のこの日は、もう使えない」
大沢は椅子へ座らず、画面をのぞいた。
「供給会社からですか」
「ああ。十時に工場の責任者と話す」
「では、日付を外して、回答待ちへ変えます」
「どこまで影響する」
「まず、加工と取付けの段取りです。ただし、今この日を消しただけで、完成が何日遅れるとは言えません」
大沢は画面を拡大した。
配管材の納入予定の下に、加工、搬入、取付け、検査が並んでいる。
「配管径も継手も決まっていない。材料だけ来ても、この順には動きません。逆に、仕様が決まった時に材料がなければ、そこから待ちます」
「あの六人は、もう戻らないんだな」
「復帰できるという回答はありません。別の班も照会中です」
「材料まで遅れたら、次も逃がす」
「ですから、次の班へ渡す開始日は、材料と作業範囲を確認してから出します」
榊原は椅子の背へ体を預けた。
道が開けば、その先も動くと思っていた。
実際には、開いた道の向こうに、まだ日付のない仕事が残っていた。
大沢が、机に置かれた見積書を持ち上げた。
「この納期で、下へ確約はしていません」
「それは助かった」
「ただ、社内では見えています。注記を読まずに日付だけ拾う人間もいます。使えないなら、日付を外した方がいい」
午前九時十八分。
三浦が、支払予定を確認に来た。
支持架台の前払金三千四百二十万円は、翌営業日。
第一回予約金五億円は、その次の営業日。
振込申請は、承認済みの契約条件と照合して進めている。まだ、どちらも支払済みにはなっていない。
「配管材は、今日も発注しませんか」
「十時の話を聞く」
「支払条件が付くなら、金額と日付を一緒にください」
榊原は三浦を見た。
「残高は足りるんだろう」
「現在の支払予定に対しては、確認しています。新しい契約を入れるなら、その条件で組み直します」
「枠を取るだけなら、大きな金にはならない」
「何を引き受けるかによります」
三浦は、五億円の行を閉じなかった。
「名前が予約金でも、取り消せない材料代かもしれません。預けるだけの金とは限りませんから」
榊原は返事をせず、十時の会議案内を開いた。
相手の参加者が一人増えていた。
営業担当者の下に、製造計画責任者とある。
午前十時。
画面に映った男の背後には、壁一面の予定表があった。
男は挨拶を済ませると、手元の資料へ目を落とした。
「最初に確認させてください。今回、確定している配管径と数量は、どこまででしょうか」
設計担当が答えた。
「主要機器の仕様調整が残っています。経路の一部も、機器配置との整合確認中です」
「弊社で材料手配を始められる一覧は、まだ出ないということですね」
「はい」
男はうなずいた。
責める調子ではなかった。そのことが、かえって榊原を急がせた。
「こちらも全部を待ちたいわけではない。共通で使える材料はあるだろう」
「ございます。ただ、共通と判断した範囲を、双方で特定する必要があります」
「一定額を払って、枠を取れないか」
「どの工程を押さえるかによります。材料の確保と、切断、加工、検査は、それぞれ予定が違います」
「まとめて押さえればいい」
男は、そこで初めて画面を見た。
「仕様が決まらないまま、全部の工程を空けておくことはできません」
「費用は協議する」
「費用をいただいても、作れない期間はございます」
榊原は黙った。
男は机の外へ手を伸ばし、薄い冊子を取り出した。
「こちらは別のお客様の注文です。仕様と数量が確定し、今朝、正式に受けました。御社の見積時に想定した一部の工程は、この注文を入れて組み直しています」
「うちの期限が切れたから入れたのか」
「確約していない工程へ、製作条件のそろった注文を入れました」
営業担当者が、何か言いかけてやめた。
製造計画の男は続けた。
「御社の発注をお断りする話ではありません。決まった条件で、改めて組ませてください」
榊原は男の背後の予定表を見た。
あの一枠にも、働く人間がいる。
榊原の返事が出るまで、別の客の仕事を断って待つ理由はなかった。
「以前の予定へ戻すには、どうする」
「他のお客様の納期を動かすことは前提にできません。材料調達と加工を分ける方法は検討できますが、品質確認や輸送の手間が増えます」
「いくら増える」
「仕様未確定のままでは、責任を持った金額を出せません」
金を足すと告げれば、相手が方法を持ってくる。
そうやって何度も進めてきた。
今日は、その先へ話が進まなかった。
真鍋が口を開いた。
「今、必要なのは、以前の納期を残す返事ではありません。こちらが何を、いつまでに出せば、次の回答がいただけるかです」
男は資料を一枚めくった。
「材質、径、数量。継手の構成。検査の条件。希望納入日と、分割納入の可否です。全部が一度に決まらないなら、先行できる範囲を明示してください」
設計担当が書き留めた。
「その資料を出したら、何日で返せますか」
「受領時に不足がなければ、二営業日を目安にします。ただし、価格と納期の回答です。その回答だけで枠を確保するものではありません」
調達部長が確認した。
「発注し、御社が受けた範囲で確保する」
「はい。その際の製作図承認期限も含めて、条件を決めます」
榊原は手帳を開いた。
三十日目。
これまで、まとめて判断を置いていた日だった。
その手前に、何を書かなければならないかが、初めて具体的になった。
「今日中に、決められる部分と決められない部分を分ける。明日の正午までに、そちらへ渡せる範囲と、残る条件の回答予定を連絡する」
設計担当が顔を上げた。
「仕様を明日決める、という意味ですか」
「違う。確定できない部分は、何を待ち、いつ確認できるかを出す。分からないまま三十日目まで置くな」
午前十一時二十六分。
会議が終わると、榊原は営業担当者だけに残ってもらった。
画面の人数が二人になった。
「納期も消えるとは、こちらが十分に受け取っていなかった」
担当者は唇を結んだ。
「見積書の条件には記載しました。ただ、私の説明も足りませんでした」
「こちらは、あの日付を見て動いている」
「はい」
「更新後の価格は、どうなる」
「従前の仮仕様と数量であれば、三億六千八百万円を目安に調整しています」
三億四千万円から、二千八百万円。
榊原は手帳の端へ数字を書いた。
「それで注文できるのか」
「まだ正式な更新見積ではありません。材料の確認と、納期の再調整が残っています。仕様が変われば金額も変わります」
「また目安か」
担当者がうつむいた。
机の上に、使い込んだ電卓が見えた。
「約束できる条件まで、詰めて出します」
榊原は、書いた二千八百万円を囲むのをやめた。
その数字を叱っても、工場の予定は戻らなかった。
「頼む。こちらも、何を買うかを出す」
通話を切った後、冷めた茶を飲んだ。
湯飲みの底に、薄い茶渋が残っていた。
午後零時九分。
大沢は弁当のふたを閉じ、設計担当の隣へ椅子を寄せた。
会議室ではなく、現場事務所の長机だった。
榊原も向かいに座った。
図面を広げると、昼食を取っていた事務員が、湯飲みを端へ移した。
「配管を先に決めるために、何が要る」
榊原が聞いた。
設計担当は主要機器の接続箇所を指した。
「ここです。機器側の条件が変われば、径と接続が変わります」
「ここだけ先に回答を取れ」
「全体の仕様承認とは分けて照会します。ただ、仮回答なら発注根拠にはできません」
「確定できないなら、その理由と必要な日数を取る」
大沢が別の箇所を指した。
「こちらは経路です。機器配置だけでなく、支持方法と点検用の空間を確認してください。入るから通す、では保守で困ります」
設計担当が赤鉛筆を動かした。
榊原は口を挟まず、その線を見た。
止まっていたものが、少しずつ分かれていく。
機器メーカーへ聞くこと。
設計側で決めること。
施工側が確認すること。
供給会社へ条件として渡すこと。
誰か一人の返事を待っているようで、実際には、渡していない問いがいくつもあった。
「これを先にやっていれば、期限内に買えたか」
榊原が言った。
設計担当の鉛筆が止まった。
「期限までに確定したとは言えません」
「そうか」
「ですが、何を待っているかは、もっと早く分けられました」
榊原は図面を押さえていた手を離した。
「今日、分けよう」
午後一時四十二分。
電力ケーブルの供給会社からも回答が入った。
価格は、受電条件と配線経路が確定してから再提示する。
以前の製造時期は、現時点で確約できない。
調達部長が電話を切り、榊原へ報告した。
「こちらも、枠を別途確保する契約はしていません。先方の回答どおり、納期は再確認です」
「配管と同じか」
「似ていますが、待っている条件が違います。配管は機器仕様と経路。ケーブルは電力会社との協議結果も必要です」
「連絡を待つだけにするな。こちらから出していないものを確認しろ」
「担当へ確認します」
榊原は立ち上がり、窓の外を見た。
大型車両が、道を戻っていくところだった。
曲がり角の手前に誘導員が立っている。
急がせても、あの角を曲がる時間は縮まらない。先に通す車があれば、待つしかない。
その代わり、手前で止める位置は決められる。
榊原は机へ戻った。
「二件とも、条件を出す担当と日付を付けてくれ。相手の回答期限だけ赤くするな」
午後二時三十三分。
三浦が持ってきた更新表に、三億六千八百万円の記載はなかった。
「配管の新しい金額は」
「正式見積前の参考回答として、別に記録しています」
「二千八百万円増える」
「従前と同じ仮仕様と数量を前提にした目安です。確定増額には移せません」
榊原は、最大単純合算の欄を見た。
二十九億八千万円。
「では、ここも変えないのか」
「現時点では。資材価格上昇の条件付き見込みには、配管材の変動幅をすでに含めています。その上へ二千八百万円を足すと、同じ値上がりを重ねます」
「正式な見積が来たら」
「仕様と数量をそろえて比較します。見積を受けた範囲の増額は未発注の欄へ移し、その範囲について条件付き見込みへ残した分を外します」
「仕様が変わった部分は」
「材料の値上がりと分けます。追加数量を全部、価格上昇にすると比較できなくなります」
榊原は表を返した。
確定増額七千八百万円。
見積受領済み・未発注二億一千二百万円。
条件付き見込み二十六億九千万円。
数字は直近の報告と同じだった。
けれど、それだけで安全になったわけではない。
「納期の欄も出せ」
三浦が画面を切り替えた。
配管材、再確認。
電力ケーブル、再確認。
金額の横に、その文字が並んだ。
午後三時十七分。
真鍋は、銀行団へ送る補足資料を開いていた。
榊原はその横へ座った。
「直近の報告でも、納期は再確認と書いた」
「はい」
「なら、状態は変わらない」
「表示は同じです。ただ、今日、工場から直接確認した内容と、条件を確定させる段取りは加えます」
真鍋は文章を短く直した。
従前の納入予定は確約なし。
仕様確定後、価格と納期を再提示。
事業会社側の確認事項を整理中。
完成予定日は、関連する工程との整合確認後に更新。
「完成が遅れたと報告するのか」
「まだ、遅延日数を算定できません」
「なら、今の完成日も使うんだろう」
「目標日は残します。ただし、資材が間に合うと確認できた日付にはしません」
榊原は、机に置いた両手を組んだ。
「銀行は、そこを突いてくる」
「聞かれます」
「道は通した。北側の一億四千万円も外した。何も進んでいないわけじゃない」
「その事実も送っています」
真鍋は画面から目を離した。
「通れる道と、まだ買えない配管を、同じ返事で済ませないための資料です」
榊原はしばらく黙っていた。
やがて、組んだ手をほどいた。
「送れ。仕様を決める日程は、明日、確認できた範囲で追送する」
午後四時五十二分。
設計担当から一枚の整理表が出た。
機器メーカーへは、接続条件を切り出して照会済み。
回答可能日の確認を依頼している。
施工側は、経路と点検空間の確認を翌朝に行う。
その結果を受け、調達側が先行発注できる範囲の有無を供給会社と詰める。
どこにも、発注完了とは書かれていなかった。
それでも、朝にはなかった担当者の名前が付いていた。
榊原は表を読み終え、設計担当へ戻した。
「明日の正午、これで話す」
「はい」
「回答が間に合わないものは、確認中と明示してくれ。埋めるための日付はいらない」
設計担当が、少しだけ肩を下ろした。
帰り際、机上の古い見積書を見て足を止めた。
「こちら、差し替えますか」
「残しておけ」
榊原は言った。
「ただし、使える書類と混ぜるな」
午後六時二十一分。
三浦が翌営業日の振込予定を再確認した。
支持架台前払金、三千四百二十万円。
契約済みの金額と一致。
振込先は、所定の確認を終えている。
第一回予約金五億円は、その次の営業日。
こちらも日付を動かしていない。
榊原が承認画面を確認すると、三浦は静かにうなずいた。
「配管の枠代は、ありませんね」
「今日は契約していない」
「分かりました」
配管材を買わなかった分の金は、口座に残っている。
だが、それを別の用途へ回せば、仕様が決まった時に買う金がなくなる。
榊原は承認を終え、椅子を引いた。
窓の向こうで、誘導員がカラーコーンを片付けていた。農作業の軽トラックは、連絡を入れることなく、いつもの道を通っていった。
大沢が戸口から声を掛けた。
「今日の通行確認、異常なしです」
「分かった」
「工程表の資材納入日は、直しました」
榊原は机上の紙を見た。
配管材の欄から日付が消えている。
代わりに、確定に必要な条件を確認する担当者と、明日の時刻が入っていた。
「その表を、明朝使おう」
大沢が出ていくと、事務所が急に静かになった。
榊原は失効した見積書を手に取った。
期限内なら三億四千万円で買える、と読んでいた。
今は、その下の一行に目が止まった。
指定期限までの発注と、承認図の確定を前提とする。
紙を伏せたところで、電話が鳴った。
配管材の営業担当者だった。
「工場から、先ほど連絡がありました」
「次の日程か」
「はい。ただ、以前と同じ納入日ではお出しできません。条件をいただいて、組み直します」
榊原は、伏せた紙をもう一度表に返した。
「明日の正午に、出せる条件と、残る条件の確認予定を連絡する」
「承知しました」
電話を切り、古い納入予定日の上へ、一本の線を引いた。
価格の数字より先に、日付が消えた。




