残金1,842円|第57話「資材価格」
午前六時四十九分。
補強を終えた路肩に、昨夜の雨は残っていなかった。
大沢は排水の出口へ水を流し、農地側へあふれないことを確認した。
大型車両の試行通行は、まだ行わない。
今日は地権者側と施工状態を確認する。問題がなければ、翌朝に実際の車両を通す。
現場事務所の窓から道路を見ていた榊原へ、三浦から資材見積一覧が届いた。
本日中に回答が必要な三件が赤く表示されている。
受変電設備用の支持架台。
冷却設備用の配管材。
電力ケーブル。
三件の現行見積を合計すると、十二億一千六百万円になる。
ただし、同じようには発注できなかった。
支持架台は、主要機器の配置が変わっても大部分を使用できる。
配管材は、設備仕様によって径と継手の構成が変わる。
電力ケーブルは、受電条件と配線経路が決まらなければ、種類も長さも確定しない。
「全部、今日頼めば価格は守れるのか」
榊原が電話で聞いた。
「今の仕様と数量を発注すれば、現行価格を使えます」
調達部長が答えた。
「仕様が変わったら」
「不要になった資材の引取り義務が残ります。転用できるものはありますが、全額を回収できるとは限りません」
「支持架台は変わらないんだろう」
「全数量のうち、八割六分は現在の設計で確定できます。残りは主要機器の配置次第です」
「配管材は」
「先行発注を勧めません。径が変われば、値上がりより大きな損失が出ます」
「ケーブルは」
「電力会社との協議結果を待つ必要があります」
榊原は三件の見積を開いた。
支持架台、一億九千六百万円。
配管材、三億四千万円。
電力ケーブル、七億八千万円。
今日発注すれば、現在の価格を使える。
だが、価格を守るために十二億円を契約すれば、支払予定表へ十二億円の約束が入る。
値上がりの可能性と、契約による支払義務は違う。
「支持架台だけ、確定数量を出せ。配管材とケーブルは待つ」
「支持架台の支払条件も確認します」
三浦が言った。
「四営業日後には第一回予約金五億円があります。前払金の日付を重ねて確認します」
「当初設備予算の内数だろう」
「はい。総事業費が増えるものではありません。ただし、予算に含まれていることと、支払日に現金が出ることは別です」
午前七時二十八分。
地権者側の父親が、息子の運転する軽トラックで現場へ来た。
父親は補強した路肩より先に、排水の出口を見た。
「雨が降ったら、こっちへ流れんのか」
「農地へ直接流れないよう、既存の排水へつなぎました」
大沢が答えた。
「詰まった時は」
「工事期間中は施工会社が点検します。泥がたまった場合の清掃範囲も確認書へ入れます」
「工事が終わった後は」
大沢はすぐに答えなかった。
今回追加した排水部分は、既存の通行合意書に記載されていない。
工事中の管理と、施設完成後の維持管理は別だった。
大沢から連絡を受けた真鍋が、事業会社側の条件を確認する。
「施設を運営する間は、事業会社側で管理します」
「ずっと、では契約になりません」
真鍋が榊原へ言った。
「事業会社が変わった場合の承継も必要です」
「施設の運営期間中だ。事業を承継する者にも引き継がせろ」
法務部が確認書へ文言を加えた。
追加排水部分の点検。
詰まりが生じた場合の清掃。
路肩に損傷が生じた場合の補修。
事業主体が変わる場合の義務承継。
父親は確認書を読んだ。
「道を使うたび、会社へ電話するのは困るぞ」
「通常の農作業では連絡不要です」
大沢が答えた。
「大型車両を通す時間だけ、施工会社側が調整します。農作業の通行を止める必要がある場合は、事前に連絡します」
「何分止める」
「一回の通行で十分以内を見込んでいます。長くなる場合は大型車両を手前で止め、農作業側を先に通します」
「明日は何時だ」
「午前九時です」
「俺も見る」
父親は補強部分へ靴を押し当てた。
「一回通れたからって、終わりにするな。雨の後も見せてくれ」
「共同で確認します」
路肩補強と排水について、地権者側の確認は終わった。
だが、当初進入路側が使用可能になったわけではない。
大型車両を実際に通し、旋回、停止位置、路肩の変形、農作業の動線を確認する必要がある。
北側仮設道路案一億四千万円は、条件付き見込みに残された。
午前八時三分。
支持架台の確定数量が出た。
全数量の八割六分。
現行見積の単価をそのまま掛けると、一億六千八百万円になる。
ただし、数量を減らすことで一括製作の値引きが一部外れる。
供給会社から提示された金額は、一億七千百万円だった。
「数量を減らしたのに、三百万円上がるのか」
榊原が聞いた。
「製造単位が変わるためです」
調達部長が答えた。
「全量を発注すれば一億九千六百万円です。確定分だけなら一億七千百万円。差は二千五百万円です」
「二千五百万円で、残り一割四分も押さえられるように見えるな」
「使えると決まっていれば、そうです」
「配置が変われば」
「加工で対応できない部分は残ります」
榊原は数量表を見た。
全量を先に買えば、単価は下がる。
確定分だけを買えば、単価は上がる。
だが、使えない可能性のある資材へ支払う金は減る。
「確定分だけで進めろ」
「供給会社と条件を詰めます」
午前九時十四分。
支持架台の供給会社との電話会議が始まった。
対象数量。
材質。
表面処理。
製作図の承認期限。
材料手配日。
製作開始日。
出荷予定日。
取消時の精算方法。
設計変更時の加工費。
保管が必要になった場合の費用。
供給会社の担当者は、現在の価格を維持できるのは午後三時までだと答えた。
「明日になれば、いくら上がる」
榊原が聞いた。
「明日から一律に値上げするという意味ではありません」
「では、なぜ今日までなんだ」
「材料商社からの仕入価格を、現在の条件で確保できる期限です。明日以降は、その時点で確認し直します」
「下がる可能性もあるのか」
「あります。ただし、材料手配後に市場価格が下がっても、固定した契約額は下がりません」
「上がった時だけ守られる契約ではないということか」
「はい。価格変動を供給会社側で負担する代わりに、契約後の市場下落も契約額へ反映しません」
真鍋が注文書案を見た。
「事業会社側の仕様変更まで、固定価格で吸収する条件ではありませんね」
「仕様、数量、納入場所を変更する場合は別途協議です」
「納期が遅れた場合は」
「原因を確認します。材料供給や輸送の事情を全て当社負担にする条件なら、その危険を価格へ加える必要があります」
榊原は椅子へ座った。
相手へ全ての危険を負わせれば、価格が変わらないわけではない。
相手が負う危険は、見積へ戻ってくる。
負いきれなければ、契約そのものが成立しない。
「注文範囲は確定数量だけだ。価格は一億七千百万円で固定する。こちらが仕様を変えた場合は、変更部分だけ協議する」
調達部長が注文書を修正した。
契約額、一億七千百万円。
契約時前払金、三千四百二十万円。
製作開始時、五千百三十万円。
出荷時、八千五百五十万円。
未確定数量は注文範囲に含めない。
材料手配後に事業会社都合で取り消す場合、取消不能額を根拠資料に基づいて精算する。
注文範囲の材料価格が変動しても、契約額は変更しない。
納期に影響する事情が生じた場合は、判明後速やかに通知する。
午前十時二十二分。
法務部が注文書案を確認した。
「価格変更の方法は特定されています」
法務部長が言った。
「ただし、追加加工は別です。配置を変えれば、固定した契約額だけでは終わりません」
「変えなければ一億七千百万円だな」
「注文範囲については、そうです」
「承認する」
午前十一時六分。
注文書が供給会社へ送られた。
午前十一時四十八分。
供給会社側の承認が完了した。
支持架台一億七千百万円が契約済みになった。
当初設備予算の内数。
総事業費の増額ではない。
ただし、前払金三千四百二十万円の支払義務が生じた。
三浦は振込日を三営業日後に置いた。
第一回予約金五億円の振込予定日は、その一営業日後だった。
どちらも、まだ口座から出ていない。
どちらも、すでにほかの用途へ回せない約束になった。
午後零時三十二分。
配管材の供給会社から、見積期限終了前の確認が入った。
調達部は発注しないと回答した。
主要仕様が確定していない。
配管径と継手構成が決まっていない。
先に買えば、転用できない可能性がある。
現行見積は三億四千万円。
更新後の想定幅は、三億六千万円から三億九千万円。
価格上昇の可能性は残る。
だが、支払義務には変わらなかった。
午後一時九分。
電力ケーブルについても、発注を見送った。
電力会社との協議が終わっていない。
仮の受電条件で種類と長さを決めれば、後から使えない部分が生じる可能性がある。
現行見積は七億八千万円。
期限後は、材料価格、製造枠、納期の全てを確認し直す。
「二つとも上がるぞ」
榊原が言った。
「上がる可能性はあります」
調達部長が答えた。
「それでも待つのか」
「使えないものを現在の価格で買うより、使うものを確定後の価格で買います」
「後から二十億円増えたら、今日買わなかった判断が問われる」
「今日買って使えなければ、今日買った判断が問われます」
榊原は反論しなかった。
以前なら、上がる前に全て押さえた。
先に人と物を確保し、残りの条件を後から整えた。
その速さで勝った現場は多い。
だが、この事業では一度、渡せない仕事のために班を手放している。
設備仕様が決まっていないまま資材まで押さえれば、同じ判断を物で繰り返すことになる。
午後二時四十四分。
三浦は資材価格の見込み表を更新した。
支持架台。
確定数量分、一億七千百万円。
契約済み。
当初設備予算内。
価格固定。
未確定数量分、仕様確定後に再見積。
冷却設備用配管材。
未発注。
現行見積、本日失効。
仕様確定後に再見積。
電力ケーブル。
未発注。
現行見積、本日失効。
受電条件確定後に再見積。
資材価格上昇の最大見込みは、二十億四千万円から十九億八千万円へ下がった。
支持架台の確定数量について、価格変動の上限想定六千万円を外したためだった。
確定した価格上昇が六千万円減ったのではない。
将来増える可能性がある金額の範囲が減っただけだった。
条件付き見込みは、最大二十八億九千万円から二十八億三千万円へ下がった。
確定増額七千八百万円。
見積受領済み・未発注二億一千二百万円。
条件付き見込み二十八億三千万円。
最大単純合算は三十一億二千万円になった。
北側仮設道路一億四千万円は、まだ残っている。
「支持架台を一億七千百万円で契約したのに、最大額は六千万円しか下がらないのか」
榊原が聞いた。
「一億七千百万円は、当初設備予算に含まれている金額です」
三浦が答えた。
「最大単純合算で見ているのは、当初予算から増える可能性のある部分です。契約額と値上がりの可能性を足せば、同じ資材を二重に数えます」
「支払予定表には入れる」
「はい。追加事業費には入れませんが、現金は出ます」
金額を一つにまとめれば、分かりやすく見える。
だが、予算に含まれる契約額と、予算を超える可能性がある増額を足せば、金の役割が消える。
午後四時二分。
銀行団へ補足資料が送られた。
支持架台の一部先行発注。
契約額一億七千百万円。
当初設備予算内。
前払金三千四百二十万円。
配管材と電力ケーブルは未発注。
現行見積の失効後、再見積予定。
資材価格上昇の最大見込みは、二十億四千万円から十九億八千万円へ更新。
最大単純合算は、三十一億八千万円から三十一億二千万円へ下がった。
北側仮設道路案の扱いは、翌朝の試行通行後に決める。
午後五時十九分。
倉田から電話が入った。
「支持架台は先行発注ですね」
「使う数量だけ押さえた」
榊原が答えた。
「配管材と電力ケーブルは見送った」
「仕様が決まっていない」
「判断は理解します。ただし、次回実行条件を確認する際は、価格だけでなく納期も見ます」
「値上がりしても、予備費で吸収できる」
「予備費をどの項目へ充てるかは、まだ確定していません」
「二十億円程度なら、八百億円の事業では吸収できる」
「金額だけなら、そう見えるかもしれません」
倉田は言葉を切った。
「発注が遅れて納期が延びれば、費用だけでは終わりません。設備完成日と収益開始日へつながります」
「仕様が決まらなければ買えない」
「はい。ですから、いつ仕様を決め、いつ発注し、いつ納入されるかを確認します」
「三十日目に判断日を置いている」
「その日まで、今の製造枠が残るとは限りません」
榊原は電力ケーブルの欄を見た。
価格、再見積。
納期、再確認。
製造枠、未確定。
買わなかったことで、現金は残った。
買わなかったことで、現在の納入予定日も失う。
銀行が見ているのは、資材の値札だけではない。
その資材がいつ設備になり、設備がいつ収入へ変わるかだった。
午後七時十二分。
配管材と電力ケーブルの現行見積が失効した。
値上げ額は、まだ確定していない。
納期が遅れたとも決まっていない。
ただ、今日まで使えた価格と納期の条件は、明日へ持ち越されなかった。
支払予定表には、支持架台前払金三千四百二十万円が追加された。
三営業日後。
第一回予約金五億円は、その一営業日後。
口座残高は変わっていない。
だが、使い道の決まった金は増えていた。
翌朝、午前八時五十六分。
当初進入路側に、大型車両が一台止まった。
地権者側の父親と息子も来ている。
大沢は、車両重量、全長、最小回転半径を確認した。
昨日の確認書で定めた規格内だった。
誘導員を二人配置する。
農地側の通路に車両がいないことを確認する。
午前九時二分。
大型車両が動いた。
最初の曲がりで速度を落とす。
後輪が補強部分へ乗る。
一度切り返す。
車体の後部が現地表示の内側を通った。
路肩は崩れなかった。
排水材にも変形はない。
停止位置まで、六分四十二秒。
父親は腕時計を見ていた。
車両を奥へ入れた後、逆方向から戻す。
帰路では切り返しが二回になった。
所要時間は八分十一秒。
「戻る方がかかるな」
父親が言った。
「誘導位置を変えて、もう一度確認します」
大沢は一人を曲がりの手前へ移した。
二回目の帰路では、最初の切り返しを深く取った。
所要時間は七分二十六秒。
「うちの軽トラが来たら、どうする」
「大型車両を手前で止めます」
「工事の方を止めるんだな」
「はい。農作業側を待たせ続けません」
父親は補強部分を踏み、排水の出口を見た。
「雨の後は、また確認する」
「共同で確認します」
「なら、通していい」
午前十時十三分。
当初進入路側は、条件付きで使用可能になった。
全ての車両が自由に通れるわけではない。
合意した車両規格。
誘導員の配置。
農作業側の通行優先。
雨天後の共同確認。
その条件を守る場合に限り、使用できる。
「北側案を外せ」
榊原が言った。
三浦は、条件付き見込みから一億四千万円を削除した。
北側仮設道路。
不採用。
理由。
当初進入路側の試行通行完了。
条件付き使用合意成立。
現行見積失効。
再度必要になった場合は、価格と着手可能日を再確認。
条件付き見込みは、最大二十八億三千万円から二十六億九千万円へ下がった。
確定増額、七千八百万円。
見積受領済み・未発注、二億一千二百万円。
条件付き見込み、二十六億九千万円。
最大単純合算は、二十九億八千万円になった。
初めて、三十億円を下回った。
「三十億円は消えたな」
榊原が言った。
「表示上は下回りました」
真鍋が答えた。
「二十九億八千万円なら、三十億円ではない」
「二千万円の差です。配管材とケーブルは再見積前です。未算定六項目も残っています」
「それでも一億四千万円は消した」
「はい。発生しない条件を確認できたため、消せます」
口座残高は増えていない。
一億四千万円が戻ったわけでもない。
昨日まで存在した支出の可能性が、一つ消えただけだった。
午前十一時三十八分。
銀行団へ更新資料が送られた。
当初進入路側、使用可能。
北側仮設道路案、不採用。
条件付き見込み、一億四千万円減。
最大単純合算、二十九億八千万円。
支持架台前払金の支払日は、二営業日後。
第一回予約金五億円の支払日は、三営業日後。
変更工事四千六百万円は施工完了、請求書待ち。
金額が下がった資料の下に、二つの支払日が赤く並んだ。
午後零時二十二分。
倉田から確認の電話が入った。
「二十九億八千万円へ下がった理由は、北側仮設道路の不採用ですね」
「それと、支持架台の価格固定だ」
榊原が答えた。
「確認しました。ただし、配管材と電力ケーブルの価格は未確定です」
「分かっている」
「次回報告では、見積の更新額だけでなく、納期と製造枠も示してください」
「金額が予備費に収まれば問題ないだろう」
「返済原資は、設備が完成しなければ生まれません」
倉田の声は変わらなかった。
「安く買えても、収益開始に間に合わなければ、別の費用が生じます」
榊原は、使用可能へ変わった進入路と、開始日のない配管工事を同じ画面で見た。
車両は通れるようになった。
だが、八日後に入るはずだった六人は来ない。
現場へ入る道を確保しても、次の班は決まっていない。
資材を一件押さえても、設備仕様は決まっていない。
午後二時四十分。
現場から、大型車両一台目が資材を積んで進入したと報告が届いた。
所要時間は七分三十二秒。
農作業側の通行はなかった。
路肩の変形もない。
通路では、工事が動き始めた。
工程表の次区間には、まだ開始日が入らなかった。
午後七時三分。
三浦は二日分の変更を保存した。
支持架台、一億七千百万円。
当初予算内。
契約済み。
前払金三千四百二十万円、二営業日後。
第一回予約金五億円。
契約済み。
三営業日後。
配管材、未発注。
現行見積失効。
電力ケーブル、未発注。
現行見積失効。
北側仮設道路、不採用。
条件付き見込みから一億四千万円を削除。
最大単純合算、二十九億八千万円。
三十億円は画面から消えた。
代わりに、現在の価格で買わなかった二件から、現在の納期が消えていた。
資材価格とは、材料の値段だけではない。
いつ買えるか。
何を買うか。
どこへ置くか。
使えなくなった時、誰が負担するか。
払った金が、いつ設備へ変わるか。
その条件が一つ変わるたび、同じ資材の値段も変わる。
二十九億八千万円になったから、安くなったわけではなかった。
今日の価格で買わなかった二件が、明日の価格へ移っただけだった。




