残金1,842円|第56話「三十億円の入口」
午前七時十一分。
八日後に入れる可能性があった六人の配管班は、別の現場へ決まった。
大沢から届いた連絡には、受入先との調整完了と書かれている。
こちらが次区間を発注できる状態になっても、同じ条件では戻らない。
再手配可能日、未定。
人数、未定。
単価、再見積。
三浦は、その三つを工程表へ入力した。
「日付が消えただけで、金額は増えないのか」
榊原が聞いた。
「今は増えません」
三浦は別の表を開いた。
「ただし、増える可能性がある金額は出ています」
画面の右上に、三十一億八千万円と表示された。
榊原は立ったまま数字を見た。
「何の請求だ」
「請求ではありません」
「では、何だ」
「条件の違う金額を、最大額で単純に足したものです」
表は四段に分かれていた。
発生済み・契約済み。
見積受領済み・未発注。
条件付き見込み。
未算定。
発生済み・契約済みは、三千二百万円。
手放した作業班の準備費用。
通路の追加測量と現地表示。
大型車両の旋回確認で必要になった路肩補強。
実施範囲と負担区分を確認できたものだけが入っている。
見積受領済み・未発注は、二億五千八百万円。
排水経路の変更。
仮置き土砂の再移動。
工程変更に伴う施工計画の修正。
設備仕様の未確定によって増えた設計照査。
見積書はある。
しかし、数量や施工時期が決まっていない部分が含まれていた。
条件付き見込みは、最大二十八億九千万円。
北側仮設道路、一億四千万円。
配管班の再手配費用、最大一億二千万円。
資材見積の更新による価格上昇、最大二十億四千万円。
設備仕様の変更に伴う配線、配管、基礎の見直し、最大五億九千万円。
未算定は六項目。
再開時の施工単価。
設備搬入時期の変更費用。
工期が延びた場合の現場管理費。
金額を置くための条件が、まだそろっていない。
「三十億円を超えているじゃないか」
「全てが最大額で同時に発生した場合です」
三浦は合計欄の横へ入力した。
単純合算禁止。
「北側仮設道路は、当初進入路側を使えると確認できれば発生しません。配管班の再手配費用は、班も開始日も決まっていない段階の上限想定です。資材も、全品目が最大まで上がると決まったわけではありません」
「設備仕様が変わらなければ、五億九千万円も出ない」
「はい」
「なら、追加三十億円ではないな」
「違います。ただ、三十億円になる経路が見え始めています」
真鍋が会議室へ入ってきた。
手には、銀行団へ提出する進捗報告の草案がある。
「この合計は外へ出すのか」
榊原が聞いた。
「状態を分けて出します」
「最大額までか」
「最大額だけを出せば、追加事業費三十億円と読まれます。出さなければ、変更可能性を隠したと読まれます」
「どう書く」
「確定増額、見積受領済み、条件付き見込み、未算定を分けます。三十一億八千万円は、支払義務額でも、改定後の総事業費でも、追加融資の申込額でもないと明記します」
榊原は椅子へ座った。
前日の夜まで、支払予定表で最も大きく見えていたのは、設備製造枠に関する十五億円だった。
十五億円は、五億円と十億円へ分けられた。
まだ一円も払っていない。
その翌朝、別の表に三十億円が現れた。
十五億円とは性質が違う。
設備代金の一部でもない。
契約した一つの工事でもない。
小さな変更を横へ並べた時だけ見える数字だった。
「施工会社の見積は、誰がまとめた」
「施工会社側です」
三浦が変更一覧を表示した。
項目は十九件。
金額があるものは十一件。
見積依頼中が四件。
数量未確定が三件。
責任区分確認中が一件。
「こちらの変更管理表と番号が違います」
真鍋が言った。
「施工会社は現場で変更が生じた順番です。こちらは承認案件ごとです。番号をひも付けます」
「一つにできないのか」
「一つへ上書きすると、現場で発生した日と、社内で承認した日が混ざります」
三浦が最初の項目を開いた。
進入路変更に伴う排水計画の再照査。
現場発生日。
施工会社からの通知日。
見積依頼日。
見積受領日。
着手可能日。
契約変更の要否。
それぞれに別の日付が入っている。
「着手済みになっている」
「現地調査と設計照査までです」
大沢が電話会議へ入った。
「排水設備の追加施工には着手していません」
「同じ項目の中で、やった仕事と、やっていない仕事があるのか」
「現地を見なければ変更内容を決められません。調査は既存契約の範囲です。追加施工は変更契約が必要です」
「施工会社へ、口頭で進めろと言ったものは」
「ありません。安全確保を除き、書面が整うまで追加部分には着手しないよう伝えています」
「止めれば遅れる」
「先に施工すれば、後から範囲と金額を争うことになります」
榊原は二億五千八百万円の見積を開いた。
確定数量。
仮数量。
既存契約の単価を使う部分。
新しい単価が必要な部分。
一枚の見積書に、違う状態が混ざっている。
「この見積で、今すぐ発注できるのはいくらだ」
「排水変更の一部、四千六百万円です」
大沢が答えた。
「残りは」
「土砂の数量、移動距離、設備仕様が決まらなければ確定できません」
「二億五千八百万円と書いてある」
「全体の概算です」
「概算を、発注できる金額のように見せるな。分けて出させろ」
「施工会社へ伝えます」
午前八時三分。
調達部から、資材見積の期限一覧が届いた。
鋼材。
電力ケーブル。
冷却設備用の配管材。
受変電設備の構成部品。
コンクリート二次製品。
燃料費と運搬費。
見積有効期限は、品目ごとに違っていた。
今週末。
月末。
正式発注時に再見積。
価格だけでなく、納期も再確認となるものがある。
「二十億四千万円は、ここから出したのか」
「はい」
調達部長が答えた。
「現行見積が失効した後、同じ数量を発注した場合の価格変動幅を各社へ照会しました。回答の上限を合計したものです」
「値上げを通知された額ではないのか」
「違います。下限は七億六千万円です」
「幅が大きすぎる」
「発注時期が決まっていないためです。今月中に発注できるものと、設備仕様が決まるまで発注できないものが混ざっています」
「価格を押さえるため、先に発注できないのか」
「仕様が変わらない材料は検討できます。ただし、前払い、保管費、取消条件を確認する必要があります」
「仕様が変わるものは」
「先に買えば、使えなくなる可能性があります」
真鍋は一覧へ欄を増やした。
価格を固定できる期限。
数量を固定できる期限。
仕様を固定できる期限。
取消可能日。
保管費用。
「値段だけを押さえても、数量と仕様が決まらなければ発注できません」
「五%上がっても四十億円だ。二十億円なら感応度の範囲内だろう」
榊原が言った。
第2話で確認した建設費上昇の試算だった。
五%で四十億円。
十%で八十億円。
「割合だけなら、そう見えます」
真鍋が答えた。
「ただし、感応度試算には支払日がありません。今届いている見積には期限があります」
「予備費で吸収できる」
「予備費を使える項目か確認が必要です。全ての変更へ同じ予備費を使えば、二重になります」
三浦は、予備費充当欄を空白のまま残した。
金がないと決まったわけではない。
使えると決まっていないだけだった。
午前九時二十七分。
メインバンクから、第一回予約金五億円に関する回答が届いた。
対象設備の取得に直接関連し、正式発注後に設備代金へ充当されるため、融資契約上の資金使途に含めることができる。
ただし、予約金の支出管理、返還時の入金管理、メーカーの月次報告を確認できること。
残る十億円を第二回予約金として払う場合は、返還を担保する書面を確認すること。
正式発注後に設備代金として払う場合は、正式契約と設備総額を確認すること。
「銀行団全体は」
「参加行の回答待ちです」
真鍋が答えた。
榊原は倉田へ電話した。
「いつ終わる」
「午前十一時半までに状況を連絡します」
「今日中に契約できなければ、枠を失う可能性がある」
「急ぐ事情は理解しています」
「回答が遅れて失ったら」
「銀行が設備を選ぶ責任までは負いません。ただし、必要資料を受領した後、合理的な時間内に確認する責任はあります」
「必ず連絡しろ」
「はい」
午前十時十二分。
現場から、路肩補強の出来高報告が届いた。
補強材の数量。
施工延長。
使用機械。
現地表示の位置。
当初見込んだ範囲内だった。
翌朝、地権者側と現地を確認する。
問題がなければ、その翌日に試行通行を行う。
「北側仮設道路は、いつ外す」
三浦が聞いた。
「実際に車両を通してからだ」
「見積期限は明日です」
大沢が言った。
「期限を過ぎれば、価格と着手可能日は再確認になります」
「一億四千万円の条件を残すために、使わない道路を発注するつもりはない」
榊原は答えた。
三浦は見込み欄へ入力した。
現行見積期限、翌日。
試行通行に問題がなければ不採用。
再発生時、価格・着手日再確認。
数字を表へ残すことと、現在の見積条件を維持することは違った。
午前十一時三十二分。
倉田から連絡が入った。
第一回予約金五億円の資金使途について、参加行から異議は出なかった。
次回融資実行の承認ではない。
事業費増額の承認でもない。
今回の五億円を、実行済み融資から支払うことが融資契約上の資金使途に適合するという確認だった。
「これで七つの条件はそろったな」
榊原が言った。
「はい」
真鍋が答えた。
製造枠の特定。
予約金の使途。
返還条件。
精算期限。
分割払い。
支払原資。
仕様確定までの担当と期限。
法務部長が基本合意書の最終版を開いた。
メーカー側の責任で枠を維持できない場合、第一回予約金五億円を全額返還する。
事業会社側の仕様変更や承認遅延がある場合は、発生済み費用等を控除する。
予約金から費用を支出する場合、メーカーは月次で根拠資料を提出する。
部材の正式発注は、事業会社の個別承認後。
残る十億円は、返還担保確認後の第二回予約金、または正式発注後の設備代金。
「承認する」
榊原が言った。
午後零時九分。
事業会社側の承認済み文書が送られた。
午後零時四十八分。
メーカー側の締結手続きが完了した。
第一回予約金五億円に、支払義務が生じた。
期限は十営業日後。
午後一時五分、メーカーから請求書が届いた。
三浦は、振込日を五営業日後に置いた。
メーカーは、支払期限までは二月の製造枠を他社へ提案しない。
早く払っても、確保される枠は変わらない。
支払予定表の五億円の行が、橙色から赤へ移った。
契約済み。
支払日確定。
未払い。
口座残高は変わらない。
残る十億円は、条件付き確保のまま残された。
返還担保が整えば第二回予約金になる。
整わなければ、正式発注後の設備代金として支払う。
まだ、別の工事へ使える金ではなかった。
午後二時六分。
施工会社との変更協議が始まった。
施工会社は、二億五千八百万円の見積を、確定部分と概算部分へ分けて再提出した。
確定しているのは、排水変更の一部、四千六百万円。
既存契約の単価を使える部分と、新しい単価の部分が分けられている。
「今、必要な工事か」
榊原が聞いた。
「試行通行前に処理する必要があります」
大沢が答えた。
「施工しなければ、雨天時に路面へ水が回る可能性があります。地権者側と合意した補修条件にも触れます」
「工期は」
「通路補強と並行し、試行通行までに終えます」
「残り二億一千二百万円は」
「数量と条件が決まるまで発注できません」
榊原は四千六百万円だけを発注すると決めた。
施工範囲。
数量。
単価。
工期。
出来高確認方法。
支払条件。
変更注文書には、その六つが記載された。
ほかの概算項目を含まないことも明記する。
午後三時二十八分。
双方の承認が終わった。
書面の成立時刻を確認した後、大沢が現場へ着手を指示した。
二億五千八百万円の見積のうち、四千六百万円だけが契約済みへ移った。
発生済み・契約済み。
三千二百万円から、七千八百万円。
見積受領済み・未発注。
二億五千八百万円から、二億一千二百万円。
条件付き見込み。
最大二十八億九千万円。
最大単純合算は、三十一億八千万円のままだった。
金額が増えたのではない。
同じ金額の一部が、可能性から約束へ移った。
午後四時四十三分。
三浦は銀行団向けの資料を完成させた。
確定増額、七千八百万円。
見積受領済み・未発注、二億一千二百万円。
条件付き見込み、最大二十八億九千万円。
未算定、六項目。
最大単純合算、三十一億八千万円。
注記を付ける。
同時発生を前提としない。
予備費充当、既存予算内の振替、減額項目は未反映。
追加融資必要額ではない。
改定後の総事業費ではない。
支払義務額ではない。
「ここまで書けば、三十億円ではなくなるな」
榊原が言った。
「三十億円になる可能性が、何でできているかが見えるだけです」
真鍋が答えた。
「三十億円を承認してもらう資料ではありません。三十億円にしないために、いつ何を決めるかを示す資料です」
午後五時三十六分。
銀行団へ進捗報告が送られた。
十九分後、倉田から電話が入った。
「三十一億八千万円は、追加事業費の見込みですか」
「違います」
真鍋が答えた。
「確定増額は七千八百万円です」
「未算定が六項目ある。最大額が増える可能性もあるのですか」
「あります。条件が解消すれば、減る可能性もあります」
「予備費で吸収できますか」
「まだ回答できません。予備費を充当できる項目と、設備予算内で振り替える項目を確認しています」
「総事業費は改定しないのですか」
「可能性だけで改定すれば、発生しない北側仮設道路や、未確定仕様の最大額まで確定費用になります」
倉田は、次回報告で増減理由を追えるよう求めた。
最大額が下がった場合も、項目を消したのか、条件が解消したのかを分ける。
資材を先行発注する場合は、現金流出、保管費、取消不能額を示す。
次回融資実行への影響は、その資料を確認して判断する。
午後六時二十二分。
現場から、排水変更部分へ着手したと連絡が入った。
変更注文書の成立時刻。
現場への指示時刻。
作業開始時刻。
写真記録。
全てが変更管理表へ入った。
四千六百万円の工事は動いた。
残る二億一千二百万円分は、現場へ指示されていない。
「書面を作った分、遅くなったか」
榊原が聞いた。
「作業開始は数時間遅れました」
三浦が答えた。
「その代わり、何をいくらで頼んだかは、今日分かりました」
午後七時十六分。
支払予定表と変更管理表が並べて保存された。
第一回予約金五億円。
契約済み。
五営業日後に支払い。
変更工事四千六百万円。
契約済み。
施工中。
見積受領済み二億一千二百万円。
未発注。
条件付き見込み二十八億九千万円。
支払日なし。
未算定六項目。
金額なし。
三十一億八千万円は、どの支払合計にも入っていない。
「この数字は、いつ消す」
榊原が聞いた。
「条件が消えた時です」
真鍋が答えた。
「確定した時ではないのか」
「確定したものは別の欄へ移します。発生しないと確認できたものだけを消します」
「北側道路は」
「試行通行の後です」
「資材は」
「見積期限ごとです」
「設備仕様は」
「三十日目の判断日までに、影響範囲を絞ります」
「配管班は」
「再手配条件が出るまで、金額も再開日も決まりません」
午後七時四十八分。
施工会社から作業終了報告が届いた。
排水変更部分は、予定数量の三割まで進んだ。
路肩補強は完了。
翌朝、地権者側との現地確認を行う。
問題がなければ、北側仮設道路案を不採用とする準備へ入る。
一億四千万円は、消える方向へ動いている。
一方で、翌日までに回答が必要な資材見積が三件残っていた。
価格を守るために先に買うか。
仕様を守るために待つか。
その判断は、まだ表へ入っていない。
朝に現れた三十億円は、請求書ではなかった。
契約でもなかった。
不足額でもなかった。
まだ避けられる費用と、もう避けられない費用が、初めて同じ画面へ並んだだけだった。
三十一億八千万円のうち、その日、支払う約束へ変わったのは四千六百万円だった。
三十億円は、まだ発生していない。
だが、発生してから見る数字ではなくなった。




