残金1,842円|第55話「止めないための停止」
午前六時五十八分。
大沢からの電話は、配管班の空きを知らせるものだった。
「八日後から、一組入れられる可能性があります」
榊原は、照明の半分しか点いていない会議室で立ち止まった。
「戻せるのか」
「前の班ではありません。別の現場を終える協力会社です。六人、車両と小型機械を含みます」
「押さえろ」
「午前十一時までに返事が必要です」
大沢の声が止まった。
「何がある」
「次の注文範囲を、八日後から切れ目なく渡せるか確認できていません」
「昨日、通路の測量は終わった」
「旋回確認は今日です。通れることと、施工できることは別です」
榊原は壁の工程表を見た。
当初進入路側には、開始日の入っていない線が残っている。
現在の配管班は、注文済みの範囲を終えれば引き揚げる。
八日後に別の班を入れられるなら、空白を短くできる。
「何が決まっていない」
「通路の整地範囲。大型車両の旋回条件。次区間の数量。それから、設備側の接続条件です」
「配管位置は図面にあるだろう」
「基本位置はあります。ただ、中核設備の仕様で接続口と保守空間が変われば、取り回しを確認し直します」
「変わらない範囲だけ渡せ」
「何日分を連続して渡せるか出します。正式に押さえてから仕事が切れれば、また待機費か手配解除費用が出ます」
仕事を作って人を残さない。
数日前、自分で決めたことだった。
「午前十時までに、渡せる範囲と渡せない範囲を分けろ。押さえた後に断った場合の費用も確認しろ」
「分かりました」
電話を切ると、真鍋が会議室へ入ってきた。
手には、設備メーカーから届いた修正版がある。
「今度は三十一頁です」
「増えたな」
「別紙が三つ増えました」
製造枠の特定表。
予約金の使用範囲。
仕様確定工程表。
製造枠は、翌年二月第一週から始まる組立区画一枠。
基本合意成立後から主要仕様確定まで、メーカーは必要な設計対応能力を確保する。
正式な部材発注は、事業会社の個別承認後。
予約金から支出できる費用は、設計着手費、長納期部材の事前調査費、製造枠確保に伴う人員調整費に限られていた。
メーカー側の責任で枠を維持できない場合、予約金は全額返還する。
発注者側の仕様変更や承認遅延が原因なら、発生済み費用と取り消せない手配費用を控除する。
未使用分の精算期限も入った。
ただし、前渡金の返還を担保する方法の欄には、別途協議とある。
「残っているな」
「メーカーの取引銀行から、今日中に回答が来ます」
「回答が来なければ」
「七つの承認条件を満たしません」
三浦が支払予定表を開いた。
十五億円の行は橙色のままだった。
口座残高には含まれている。
確定支払いには入っていない。
条件付きで確保する金として、自由に使える残高からは外されていた。
「銀行団との確認は」
「午前九時からです」
「予約金を払ってよいか聞くのか」
「設備を選ぶのは事業会社です。銀行団へ確認するのは、融資契約上の資金使途に含まれるか、次回実行条件へ影響するかです」
「含まれなければ自己資金から払う」
「その場合は、造成工事、用地取得、利息、給与に残す自己資金との配分を組み直します」
支払うだけの残高はある。
だが、どの資金から支払うかによって、次に使える金が変わる。
午前七時二十六分。
調達部から、仕様確定工程表の社内版が届いた。
四十五日以内に決める主要仕様は二十七項目。
事業会社だけで決められるものは九つ。
設計会社の回答が必要なものは七つ。
施工会社の測量結果が必要なものは四つ。
電力会社との協議結果が必要なものは五つ。
残る二つは、複数の回答がそろわなければ決められない。
担当者名と回答期限が入っている。
ただし、電力会社に関係する五項目には、回答予定と書かれていた。
「期限ではないのか」
榊原が聞いた。
「協議日程が確定していません」
調達部長が答えた。
「四十五日を過ぎる可能性は」
「あります」
「それで枠を取るのか」
「仮の条件で設計を進められる項目を、メーカーへ確認しています」
「仮で進めて、全部やり直すなら意味がない」
「影響が小さい項目と、大きい項目を分けます」
真鍋が一覧を見た。
「影響が大きいのは」
「受電条件と非常時の切替方式です。主要機器の構成に触れます」
榊原は資料を机へ置いた。
「待ちを一つの言葉にするな。誰の回答を、いつまで待てるのかを分けろ。回答が遅れた時、何を先に決められるかも出せ」
調達部長が会議室を出ると、真鍋は一覧の右端へ欄を増やした。
回答期限。
枠を維持できる最終日。
期限を越えた場合の影響。
代替条件。
十五億円を払えば時間を買える。
だが、その時間を社内で使えなければ、予約金は別の費用へ変わる。
午前八時十四分。
施工会社から、配管班の手配条件が届いた。
六人。
八日後から開始可能。
最低確保期間は十五稼働日。
正式発注後に取り消す場合、協力会社の手配費用、車両費、機械の取消費用を実費で協議する。
午前十一時までに返事がなければ、別の現場へ提案する。
「十五日分の仕事はあるのか」
三浦が、大沢から届いた施工範囲表を画面へ出した。
現在の図面だけで確実に渡せるのは、六稼働日分。
測量結果を反映できれば、さらに四日分を追加できる可能性がある。
設備側の接続条件が固まれば、その先へ進める。
「六日しかないのか」
「六日は確実です」
「四日を足せば十日だ」
「測量結果の照査が終わっていません」
「残り五日は」
「設備仕様に影響されます」
「押さえなければ、次はいつだ」
「現時点では確約できないそうです。早くても三週間後ですが、別案件の進み方で変わります」
三週間。
確実な仕事は六日。
最低確保は十五日。
「現場の意見は」
「大沢さんは、今の段階での正式発注に反対です」
「理由は」
「十五日分を渡せないことと、設備仕様の確定後に手直しが出る可能性です」
「人が取れなくなるぞ」
「その代償を承知した意見です」
以前なら、六日分があるなら入れろと言った。
六日の間に残りを決める。
期限を先に置けば、人は動く。
図面も出る。
その圧で間に合わせた現場は多かった。
だが、この現場では一度、渡せない仕事のために班を手放している。
同じことを、別の六人で繰り返すことになる。
午前九時。
銀行団との電話会議が始まった。
真鍋は、設備製造枠予約金の目的から説明した。
対象設備。
製造枠。
未確定の仕様。
予約金の使途。
返還条件。
支払った場合と、支払わなかった場合の工程影響。
説明が終わると、倉田が口を開いた。
「確認したいのは三点です。予約金が当初の設備取得費の内数なのか。事業費の増額要因なのか。正式発注後、総額のどこへ充当されるのか」
「当初の設備取得予算の内数です」
三浦が答えた。
「正式発注後は設備代金の一部へ充当します。予約金によって総事業費が十五億円増えるものではありません」
「正式発注へ進まない場合は」
「発生済み費用等を控除し、残額を返還します。控除対象と精算期限は修正案で特定しました」
「返還保証は」
「取引銀行の回答待ちです。対応できなければ、分割払いを含む代替条件を再協議します」
参加行の担当者が聞いた。
「実行済みの百五十億円から支払う予定ですか」
「それを確認するための説明です」
真鍋が答えた。
「設備取得に関連する支出ですが、正式発注前の予約金です。融資契約上の資金使途へ含まれるか、書面での確認を求めます」
「含まれない場合は」
「自己資金からの支払いを再検討します。融資資金から当然に払えるとは扱いません」
倉田が資料をめくった。
「設備は融資対象事業に必要です。ただ、予約金の性質と返還条件を確認しなければ、資金使途へ適合するとは回答できません」
「いつ回答できる」
榊原が聞いた。
「正式文案と、予約金の支出管理方法を受領した後です。今日中に資料がそろえば、当行の見解は翌営業日までに出します。銀行団全体の確認には、その後の時間が必要です」
「次回実行への影響は」
「今回の予約金だけで、直ちに次回実行を止めるとは申し上げません。ただし、工程見直し、事業費、自己資金の使用状況は確認します」
「枠を失えば、収入開始が遅れる」
「その点も見ます。払わない方が常に安全だとは考えていません」
「なら、急ぐ理由は分かるな」
「分かります。急ぐ理由と、契約条件を省略する理由は同じではありません」
倉田は拒絶しなかった。
承認もしなかった。
確認する資料と、回答までの順番を置いた。
午前十時六分。
大沢から、旋回確認の映像が届いた。
通行合意書で想定した大型車両が、地権者側の動線へ入らない位置で停止する。
誘導員が左右を確認する。
車両は低速で前進し、一度切り返した。
後輪は現地表示の内側を通った。
路肩の一部には補強が必要だった。
「通れるのか」
「補強と現地表示を終えれば、合意した車両は通せます」
「いつからだ」
「三日後を見込みます。雨天後は地権者側と共同確認です」
「今日、班を押さえれば八日後に入る」
「通路は間に合う可能性があります」
「なら入れられる」
「通路へは入れます。仕事を十五日分渡せるとは言っていません」
大沢は言葉を区切った。
「次の班を入れるなら、図面と数量と施工条件が必要です。現場に六人いることと、六人が続けて施工できることは別です」
「六日分はある」
「六日後に止まる可能性があります」
「その間に決める」
「決められなかった時、また人を返すことになります」
午前十一時まで、あと四十分だった。
「お前ならどうする」
「次の班は押さえません」
「三週間以上空くかもしれないぞ」
「はい」
「工程が遅れる」
「人を入れて止めれば、費用と遅れが両方残ります」
「全体を止めるのか」
「通路の補強は進めます。測量結果の照査も進めます。現在の注文範囲は終わらせます。設備仕様に影響されない図面も固めます。ただ、仕事がそろう前に次の班は入れません」
午前十時三十二分。
設備メーカーから、返還保証に関する回答が届いた。
取引銀行による予約金全額の返還保証は、基本合意の締結期限までには用意できない。
代替案として、予約金を二回に分ける。
基本合意成立後、五億円を支払う。
その入金時点で、翌年二月の製造枠を確保する。
残る十億円は、返還を担保する書面を確認した後に支払う。
返還保証を用意できない場合は、主要仕様のうち着手に必要な項目を確定し、正式発注契約へ進む段階で、設備代金の一部として支払う。
メーカーが基本合意段階で使える金額は、最初に支払われた五億円の範囲に限る。
「十五億円を一度に払わなくていいのか」
「メーカー側も、保証を出せないまま全額を求める条件を変えました」
法務部長が答えた。
「五億円の返還は」
「昨日合意した精算条件を適用します。メーカー側の責任で枠を外した場合は全額返還です。ただし、返還請求権があることと、確実に回収できることは別です」
「その信用リスクを、五億円までに抑えるのか」
「はい」
三浦は、十五億円の行を二つへ分けた。
第一回予約金五億円。
第二回支払十億円。
どちらも、まだ未契約だった。
午前十一時。
会議室に、榊原、真鍋、三浦、大沢、調達部長、法務部長がそろった。
画面には、現場工程表、仕様確定工程表、支払予定表が並んでいる。
大沢が、次の配管班について説明した。
確実に渡せる作業は六稼働日。
測量結果を反映できれば、さらに四日分。
設備仕様の影響を受ける区間は、現時点で発注できない。
最低確保期間は十五稼働日。
作業を渡せなければ、待機費が生じる。
後から配管位置を変えれば、撤去と再施工が必要になる。
「六日分だけ発注できないのか」
「施工会社は十五日を条件にしています」
「別の班は」
「探します。ただ、八日後に入れる班はこれだけです」
「十日分まで出せる可能性がある」
「可能性で十五日分を契約すれば、昨日直した支払予定表を元へ戻すことになります」
三浦が言った。
「契約済みの十五日分と、渡せるかもしれない十日分を同じものとして扱うことになります」
「現場を空ければ、遅れは確実だ」
「入れて止めれば、費用と手直しも残ります」
真鍋が答えた。
榊原は三つの表を見た。
電力会社の回答が必要な仕様。
メーカーが仮条件で進められる範囲。
施工会社が配管位置を固定できる期限。
三つの日付は、まだ一本につながっていない。
「次の班は押さえない」
榊原が言った。
「現在の注文範囲は完了させる。出来高を確認し、契約どおり支払う。通路の補強と表示は進める。設備仕様に影響されない図面は固める」
「次区間は」
「仕様、数量、施工条件が確定するまで発注しない」
「施工会社へ回答します」
「再手配可能日は毎週確認しろ。待つだけにはするな」
「分かりました」
「北側仮設道路案は、三日後の通行確認まで残す。使えると確認した時点で不採用にする。一億四千万円は、その時に見込みから外せ」
三浦が記録した。
「設備の基本合意は進める。五億円と十億円を分ける。五億円で確保するものを正式文案で確認する。残る十億円は、返還担保がなければ基本合意段階では払わない」
「融資資金の使途適合性も確認条件です」
真鍋が言った。
「ああ」
「現場を止めて、設備は進めるのですか」
調達部長が聞いた。
「現場全部は止めない。決まっていない次区間だけを止める。設備全部を進めるわけでもない。決められる仕様と、製造枠の確保を進める」
榊原は三つの表を指した。
「止める単位を大きくするな。進める単位も大きくするな」
午後零時四分。
施工会社へ、次の配管班を発注しないと回答した。
十二分後、返信が届いた。
六人の班は、別の現場へ提案する。
一度決まれば、こちらへ切り替えることはできない。
次回候補日は未定。
まだ契約していない。
取消費用も発生していない。
それでも、八日後に再開できる可能性は消えた。
午後一時二十二分。
現在の配管班が、注文済みの最後の区間を施工し終えた。
大沢と施工会社の担当者が出来高を確認する。
施工した延長。
使用材料。
埋設深さ。
継手の位置。
写真記録。
追加部分施工は行っていない。
確認済みの範囲だけが請求対象になる。
班の責任者が、翌日の搬出時刻を確認した。
「次は、いつ戻ればいいですか」
「再開できる範囲が固まったら、施工会社を通じて相談します」
「来月は別の現場です。その後も分かりません」
「分かっています」
責任者は、それ以上聞かなかった。
午後二時五十八分。
調達部から、仕様確定工程表の修正版が届いた。
電力会社の回答が必要な五項目のうち、三項目は仮条件で設計を進められる。
二項目は、回答がなければ主要機器の構成を確定できない。
その二項目の判断日を、基本合意成立から三十日目に置いた。
期限までに確定しなければ、メーカー、設計会社、施工会社、事業会社で製造枠への影響を判定する。
四十五日目まで黙って待つ工程ではない。
進められるかを判断する日を、その前へ置いた。
午後四時十一分。
メーカーから、分割払いを反映した正式文案が届いた。
基本合意成立後、十営業日以内に五億円を支払う。
その入金により、翌年二月第一週からの組立区画一枠と、仕様確定に必要な設計対応能力を確保する。
残る十億円は、返還を担保する書面を確認した後に、第二回予約金として支払う。
返還保証を用意できない場合は、主要仕様を確定し、正式発注契約の成立後に設備代金の一部として支払う。
法務部長が修正履歴を確認した。
控除対象。
根拠資料。
精算期限。
月次報告。
個別承認前の部材発注禁止。
メーカー側の責任による全額返還。
「文案上の問題は解消しました」
法務部長が言った。
「融資資金の使途適合性に関する回答が残っています」
真鍋が続けた。
「今日は承認しない」
榊原が答えた。
「メーカーへは法務確認を終えたと伝えろ。契約承認は、銀行団から資金使途に関する回答を受けた後だ」
午後五時二十三分。
支払予定表が更新された。
第一回予約金五億円。
未契約。
法務確認済み。
融資資金の使途適合性確認中。
契約承認前。
基本合意成立後、十営業日以内に支払う。
第二回支払十億円。
支払条件未達。
返還担保確認後の予約金、または正式発注後の設備代金。
支払日未定。
条件付き確保。
北側仮設道路案一億四千万円は、まだ見込み欄に残っている。
判断期限は三日後。
次区間の配管工事は、金額欄が空白になった。
未発注。
仕様、数量、施工条件の確定待ち。
再手配可能日未定。
空欄は、費用が発生しないという意味ではない。
再開が遅れれば、収益開始も遅れる。
再手配時の単価が上がる可能性もある。
今は金額にできないだけだった。
午後六時四十分。
大沢から、片付け前の現場写真が届いた。
配管班が使っていた機械は、搬出できる位置へまとめられている。
その奥では、通路の補強作業が続いていた。
止まる場所と、動く場所が同じ写真に写っている。
三浦は工程表を更新した。
現在の注文範囲。
完了。
出来高確認済み。
請求書待ち。
次区間。
未発注。
再開条件確認中。
通路補強。
施工中。
使用開始確認。
三日後。
設備基本合意。
法務確認済み。
資金使途確認中。
工程表から、無理に置いていた開始日が消えた。
代わりに、再開条件と判断日が入った。
「完成日は」
榊原が聞いた。
「まだ置けません」
真鍋が答えた。
「止めた期間が決まれば、再算定できます」
「班が取れなければ、その期間も決まらない」
「はい」
「止めた方が、工程が見えなくなったな」
「見えていなかったものを、日付で隠さなくなっただけです」
午後七時九分。
施工会社から最後の連絡が届いた。
六人の班は、別現場との調整へ入った。
翌朝までに受入先が決まる見込み。
こちらが再発注する時は、新たに人員と機械を手配する。
今回示された条件は引き継がれない。
費用を払えば、同じ日から戻ってくるとは書かれていない。
いくらになるかも、いつになるかも決まっていない。
止めたことで、仕事のない十五日分の発注は避けた。
待機費も手直しも避けた。
その代わり、再開日を失った。
五億円は、まだ払っていない。
残る十億円も口座にある。
一億四千万円の仮設道路案も判断前だった。
配管班の再手配費用は、金額さえない。
口座残高だけを見れば、何も減っていない。
だが、工程からは八日後という日付が消えていた。
「止めたのは、ここだけだ」
榊原が言った。
「はい」
「ほかは進める」
「進められる条件があるものは進めます」
「条件がないものは」
「日付を作るためには動かしません」
現場では、配管班が最後の機械をまとめている。
通路では、翌日の補強作業に使う資材が運び込まれている。
同じ事業の中で、止まる音と進む音が重なっていた。
工事を続けるために、工事の一部を止めた。
その停止は、何もしない時間ではない。
次に動かす時、同じ間違いを繰り返さないために払う時間だった。
ただし、時間には、請求書より先に代金が付く。
八日後に来るはずだった六人は、もう来なかった。




