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残金1,842円|第54話「十五億円の予約金」

 午前七時四十二分。


 設備メーカーから届いた基本合意書案は、全二十八頁あった。


 真鍋は表紙をめくる前に、メールの送信時刻を確認した。


 午前二時十一分。


 添付ファイルは三つある。


 基本合意書案。


 製造予定表。


 支払条件表。


 三浦は、支払予定表の「設備製造枠予約金」の行を開いた。


 十五億円。


 未契約。


 社内未承認。


 基本合意書案未着。


 昨夜まで空欄だった部分へ、受領済みと入力する。


 それだけでは、十五億円は確定支払いへ移らない。


「法務は」


「午前七時から確認しています」


 三浦は支払条件表を画面へ出した。


 予約金十五億円。


 基本合意成立後、十営業日以内に支払う。


 支払いを確認した後、メーカーは対象設備の製造枠を確保する。


 予約金は、正式発注後に設備代金の一部へ充当する。


 発注者の都合で正式発注へ進まない場合、メーカーが既に負担した費用を控除し、残額を返還する。


 製造枠という言葉はある。


 だが、その枠が何月のどの工程を意味するのかは、本文に書かれていなかった。


「これでは、十五億円を払っても納期が決まらない」


 真鍋が言った。


「製造予定表にはあります」


 三浦が別紙を開いた。


 主要機器の組立開始は、翌年二月。


 工場試験は六月。


 現地搬入は七月。


 試運転開始は九月。


 すべての月の横に、予定と書かれている。


「予定を維持できなかった時の扱いは」


「基本合意書にはありません。正式契約で定める、とあります」


「正式契約はいつだ」


「主要仕様の確定後です」


「仕様確定の期限は」


 三浦は頁を戻した。


「基本合意成立から六十日以内を目標とする、とだけあります」


「六十日を過ぎたら」


「協議です」


 榊原は午前八時を過ぎて会議室へ入った。


 机に置かれた三つの資料を見て、上着を椅子へ掛けた。


「枠は取れるのか」


「金を払えば何を確保できるのか、まだ特定できません」


 真鍋が答えた。


「予定表は出ている」


「予定を守る条件がありません。こちらが仕様を決める期限も、メーカーが枠を外せる条件も曖昧です」


「先に押さえなければ、もっと後ろへ行く」


「だから、押さえる条件を確認します」


 榊原は製造予定表を手に取った。


 対象となるのは、発電設備から供給される電力を受け、データセンター側へ必要な電力を安定して送るための中核設備だった。


 一台を買えば済む既製品ではない。


 受電条件。


 出力。


 冷却方式。


 監視装置。


 非常時の切替え。


 設置場所の寸法。


 現地の配管と配線。


 決めるべき仕様が残っている。


 それでも、設備メーカーは製造枠だけを先に押さえるよう求めていた。


 材料と人員を、まだ確定していない設備のために確保するからだった。


「十五億円は、何に対する金だ」


 榊原が聞いた。


「書面上は、製造枠の確保と、正式発注前の準備に対する前払いです」


「設備代金の何%だ」


「最終額が決まっていないため、比率は確定していません」


「十五億円だけが先に決まっているのか」


「はい」


 榊原は支払条件表を机へ戻した。


「メーカーを呼べ」


「午前十時からオンライン協議を申し入れています」


「画面では足りない。責任者にも出てもらえ」


「製造部門と契約部門の責任者へ参加を求めています」


 午前八時三十六分。


 法務部が最初の確認結果を持ってきた。


 基本合意書案には、正式な設備製造契約ではないと書かれている。


 一方で、予約金の支払いと製造枠の確保については、成立後の義務として記載されていた。


 正式発注ではない。


 だが、何も約束していない状態でもない。


「正式契約ではないのに、金は払うのか」


 榊原が聞いた。


「設備を製造する正式契約ではない、という意味です」


 法務部長が答えた。


「基本合意そのものには拘束されます。予約金を払う義務と、メーカー側が製造枠を確保する義務は発生します」


「製造枠の中身がない」


「そこが問題です。対象工場、対象工程、開始予定時期、枠を維持する期間を別紙で特定する必要があります」


「返ってくる金は」


「発注者都合で中止した場合、メーカーが負担した費用を控除するとあります。ただし、何が控除対象になるのか、確認方法も上限もありません」


「十五億円全部が戻らない可能性もあるのか」


「今の文面では否定できません」


 榊原は椅子へ座った。


「相手も、枠だけ空けて何も作らなければ損をする」


「その損をこちらが負担すること自体は、不自然ではありません」


 真鍋が言った。


「問題は、負担する範囲を決めずに払うことです」


 法務部長が修正項目を読み上げた。


 製造枠の定義。


 仕様確定までの工程。


 メーカーが正式発注前に着手できる作業。


 予約金から控除できる費用。


 控除する場合の根拠資料。


 メーカー側の事情で枠を維持できない場合の返還。


 正式契約へ進んだ場合の充当先。


 正式契約へ進まない場合の精算期限。


 基本合意の有効期限。


「返還を確実にする条件は」


 真鍋が聞いた。


「案にはありません」


「十五億円を先に渡して、メーカー側が履行できなくなった時は、返還請求だけか」


「現状はそうです」


「前渡金の返還を担保する方法を求められるか確認してくれ」


 榊原が言った。


「相手の信用を疑うためではない。支払う側として必要な条件だと伝えろ」


「分かりました」


 午前九時十八分。


 小田から、通行条件の修正文案について連絡が入った。


 地権者側は、雨天後の通行再開を共同確認とする文言を受け入れた。


 午前十時に現地で署名する。


 署名後、測量と現地表示へ進む。


 榊原は大沢へ電話した。


「通路が使える日はいつ出る」


「今日の署名だけでは出せません。測量後に整地範囲を決め、使用する車両で旋回を確認します」


「何日必要だ」


「確認作業に二日。整地が軽ければ、その後三日程度です。ただし、まだ注文範囲を決めていません」


「最短なら来週か」


「雨が降らず、追加の補修が要らなければです」


 榊原は製造予定表を見た。


 現場の完成日は空いている。


 一方で、設備の製造枠は、二週間を超えて維持できる保証がない。


 現場が遅れているから設備を止める。


 設備を止めれば、現場が戻った時に設備が間に合わない。


 どちらも、待てば元に戻る話ではなかった。


「通路の署名が終わったら報告しろ」


「はい」


 電話を切ると、真鍋が聞いた。


「現場が進めば、十五億円を払いますか」


「払うかどうかを決めるために、条件を詰めている」


「条件が整えば払う、という意味ですか」


「製造枠を失えば、稼働開始はさらに遅れる」


「質問に答えてください」


 榊原は真鍋を見た。


「条件が整えば、払う」


 三浦は支払予定表を更新した。


 設備製造枠予約金。


 十五億円。


 基本合意書案確認中。


 支払い方針、条件整備後に承認申請。


 支払候補日、基本合意成立後十営業日以内。


 条件付き見込み。


 確定支払いではない。


 だが、昨夜より確度は上がった。


 午前十時二分。


 設備メーカーとのオンライン協議が始まった。


 相手側からは、営業担当、契約担当、製造部門の責任者が参加した。


 製造部門の責任者は、画面へ工程表を映した。


「現在、当該設備に対応できる組立区画は、翌年二月開始分を一枠確保できます」


「いつまで確保できるのですか」


 真鍋が聞いた。


「基本合意書の締結と予約金の入金をもって、正式に確保します」


「入金前は」


「ほかのお客様とも調整しています。二週間を超えて同じ時期を維持できるとは申し上げられません」


「十五億円を払えば、二月から必ず組み立てるのか」


 榊原が聞いた。


「必要仕様が確定し、主要部材の手配が間に合うことが条件です」


「こちらが仕様を決めても、部材が間に合わない場合は」


「原因によります。特殊部材の調達状況によっては、予定を見直す可能性があります」


「それでは、枠を買っても設備はできない」


「組立区画と担当部門の処理能力を押さえるための予約金です。未確定の仕様や、全ての調達リスクまで保証するものではありません」


 相手の説明には合理性があった。


 仕様が決まっていない設備について、完成日まで保証することはできない。


 しかし、発注者側も、何も決まらない権利へ十五億円を払うことはできない。


「確保するものを分けましょう」


 法務部長が言った。


「組立区画、設計体制、調達対応。それぞれ、いつからいつまで確保するのかを別紙へ記載してください」


「担当者個人の固定まではお約束できません」


「個人名は求めません。必要な機能と対応能力を確保する義務です」


「検討します」


「仕様確定が遅れた場合、何日までなら枠を維持できますか」


「遅れの内容によります」


「内容によるなら、判断手順を決めてください。直ちに失効するのか、維持費用を協議するのか、次の枠へ移すのか」


 契約担当者が記録を取っている。


 榊原は画面の製造予定表を見た。


「予約金を払った後、そちらの責任で二月の枠を外した場合は」


「未使用分を返還します」


「使った分は」


「設計や事前調査に使用した分です」


「そちらの責任で枠を外すのに、こちらが設計費を負担するのか」


 画面の向こうが静かになった。


「発注者側の仕様変更や承認の遅れがなく、当社の責任で確保した枠を維持できない場合は、全額返還とする案を持ち帰ります」


「返還日は」


「事由の確認後、十営業日以内を案として検討します」


「仕様変更や承認遅延がこちらにある場合は分けてくれ。全部をメーカー都合にするつもりはない」


「承知しました」


「利息までは求めない。だが、返す日を曖昧にするな」


 真鍋が榊原を見た。


 押している。


 ただし、相手へ全てのリスクを引き受けさせようとしているわけではない。


 どちらの責任で枠を失ったのかを分けようとしていた。


 協議は一時間二十分続いた。


 予約金十五億円のうち、正式発注前にメーカーが使用できる範囲を定める。


 設計着手費。


 長納期部材の事前調査費。


 製造枠の確保に伴う人員調整費。


 正式な部材発注は、発注者の個別承認後とする。


 メーカーが予約金から費用を支出する場合、月次で内訳を報告する。


 発注者側が中止する場合、実際に発生した費用と、取り消せない手配費用を予約金から控除する。


 未使用分は、精算確定後十営業日以内に返還する。


 メーカー側の責任で枠を維持できない場合は、予約金全額を返還する。


 ただし、発注者側の仕様変更や承認遅延による場合は除く。


 前渡金の返還を担保する方法については、メーカー側が取引銀行と協議する。


 対応できない場合は、代替条件を提示する。


「これで十五億円は戻るのか」


 榊原が聞いた。


「こちらの都合で中止すれば、使われた分は戻りません」


 法務部長が答えた。


「メーカー側の責任で枠を外した場合は、全額返還を求めます。正式な文案で確認が必要です」


「払った時点で全部が費用になるわけではない」


「はい。ただし、現金は出ます。返還請求権が残ることと、自由に使える現金が残ることは違います」


 三浦は、その言葉を支払予定表の注記へ入れた。


 午後零時十一分。


 小田から署名済みの通行合意書が届いた。


 地権者側と事業会社側の署名がある。


 通行できる車両。


 使用時間。


 農作業を優先する場合。


 雨天後の共同確認。


 路面の補修。


 異常が生じた場合の連絡先。


 合意したのは、通路を無条件に使う権利ではなかった。


 条件を守った時に通れる道だった。


 大沢は、その日の午後から測量へ入ると報告した。


「一つ進んだな」


 榊原が言った。


「はい」


 真鍋は合意書を確認した。


「ただし、設備の支払条件とは別です」


「分かっている」


 榊原は短く答えた。


 午後一時三十七分。


 真鍋と三浦は、十五億円の支払原資を確認した。


 事業会社の普通預金には、十五億円を支払えるだけの残高がある。


 だが、その残高の全てが空いているわけではない。


 造成工事の出来高払い。


 配管工事の支払い。


 用地取得の残代金。


 翌月の利息。


 給与と外注費。


 確定していない作業班手配解除費用。


 通路整備の追加費用。


 それぞれに日付と条件がある。


「十五億円を払った後も、現時点の確定支払いには足ります」


 三浦が言った。


「条件付き見込みまで入れると」


「余裕は減ります。ただし、残高予測上、直ちに不足する状態ではありません」


「未実行の三百五十億円を入れていないな」


 榊原が聞いた。


「入れていません。実行条件を満たしていない金を、入金予定にはしていません」


「現在の口座残高だけで支払えるのか」


「残高上は可能です」


 三浦は答えた。


「ただし、この予約金が融資契約上の資金使途に含まれるかは、銀行団への確認が必要です」


「資金使途に入らなければ」


「融資で入った金を、そのまま予約金へ使えるとは扱いません。事業会社の自己資金部分を含め、支払原資を組み直します」


「口座の中で色は付いていない」


「だから表で分けます」


 三浦は資金繰り表を切り替えた。


 口座の残高。


 確定した資金使途。


 条件付きで確保する金。


 融資契約上の確認が残る金。


 同じ口座にあっても、自由に使える範囲は同じではなかった。


「設備を遅らせた場合も出せ」


 真鍋が言った。


 三浦は、予約金を払わなかった場合の資金繰りを表示した。


 短期の現預金は十五億円多く残る。


 一方で、製造枠が後ろへ移れば、稼働開始も後ろへずれる可能性がある。


 発電収入。


 データセンター利用料。


 物流施設の賃料。


 開始時期がずれれば、返済原資が入る時期も変わる。


 まだ製造枠を失ったわけではない。


 次の枠が何月になるかも確定していない。


 そのため、失う収入を一つの金額へ決めることはできなかった。


「払わない方が安全とは言えないな」


 榊原が言った。


「払う方が安全とも言えません」


 真鍋が答えた。


「十五億円を残せば、現金は残ります。設備が遅れれば、収入の開始が遅れます。払えば枠を確保できますが、現場側が間に合わなければ、設備を置く場所がありません」


「だから両方を見る」


「はい」


 榊原は通行合意書と製造予定表を並べた。


 道は、あと数日で使える可能性がある。


 完成日は、まだ置けない。


 製造枠は、二週間後まで待ってくれる保証がない。


 今の時点で正しい答えは、どちらかを待つことではなかった。


「基本合意を進める」


 榊原が言った。


「条件が整った場合、十五億円を払う。現場の完成日が決まるまで契約しない、とはしない」


「承認条件を残します」


 真鍋が言った。


「製造枠の別紙。予約金の使途。返還条件。精算期限。返還を担保する方法。支払原資の確認。この六つです」


「仕様確定までの担当と期限も必要です」


 法務部長が付け加えた。


「七つです」


「メーカー側の責任だけ書くな。こちらが仕様を出す期限も入れろ」


 榊原は製造予定表の二月を指した。


「枠を取っておいて、こちらが決められなかったでは済まない」


 午後三時五分。


 メーカーから修正版の骨子が届いた。


 正式な文案は翌営業日までに送る。


 製造枠は、翌年二月第一週から始まる組立区画一枠。


 設計担当部門は、基本合意成立後から仕様確定まで対応する。


 発注者は四十五日以内に主要仕様を確定する。


 確定できない場合は、十営業日の猶予期間を設ける。


 それを超える場合、枠の維持費用または次順位への変更を協議する。


 メーカーが理由を示さず、一方的に枠を外せる文言は削られていた。


「四十五日で決められるか」


 榊原が調達部へ聞いた。


「現場条件と電力側の仕様が予定どおり出れば可能です」


「予定どおり、では承認できない」


 調達部の担当者は、仕様項目の一覧を出した。


 事業会社が決める項目。


 設計会社の回答が必要な項目。


 電力会社との協議結果が必要な項目。


 施工会社の測量結果が必要な項目。


「誰が、いつまでに出す」


 担当者は、その場では答えられなかった。


「明日の午前中までに作ります」


「十五億円を払う承認書に付けろ。メーカーへ期限を求めるなら、こちらの期限も置く」


 真鍋は黙って記録した。


 榊原は、止めないことだけを決めたのではない。


 止めないために、社内へ日付を置こうとしている。


 以前なら、必要な部署へ急げと命じて終わっていた。


 今回は、誰の回答が遅れれば、どの仕様が決まらず、製造枠へ何が起きるかまで表へ入れさせた。


 午後四時四十六分。


 銀行団へ提出する次回進捗報告の草案が届いた。


 設備製造枠予約金十五億円は、まだ契約済みではない。


 それでも、金額が大きく、今後の資金使途へ影響するため、真鍋は条件付き見込みとして記載することを決めた。


「承認前に報告するのか」


 榊原が聞いた。


「契約後に初めて知らせるより、何を確認している段階なのかを先に説明します」


「銀行の承認が要るのか」


「まず、融資契約上の資金使途に含まれるかを確認します。銀行が設備を選ぶわけではありません。ただし、融資で入った金を使うなら、契約上の範囲を外れていないことが必要です」


「使途に入らなければ、予約をやめるのか」


「自己資金から出せるか、ほかの確定支払いを圧迫しないかを再計算します。銀行への確認前に、融資資金から払えるとは扱いません」


「予約金を払うなと言われたら」


「理由を確認します。融資契約上の問題なのか、次回実行条件への影響なのかを分けます」


 榊原は報告草案を読んだ。


 未契約。


 条件交渉中。


 支払候補日。


 返還条件。


 製造枠確保の目的。


 現在の工程見直しとの関係。


 十五億円を使う、と断定してはいない。


 十五億円を使う可能性があるから、何を確認しているかが書かれていた。


「出せ」


「今日中に送ります」


 午後六時十四分。


 大沢から、通路の測量を終えたと報告が入った。


 整地が必要な区間は、想定より短い。


 大型車両の旋回確認は翌日。


 通行開始日は、その結果を見て決める。


「北側仮設道路案は」


「すぐに捨てず、旋回確認が終わるまで比較案として残します」


「金は押さえるのか」


「当初進入路側が使えると確認できれば、北側案の一億四千万円は見込みから外せます」


 榊原は三浦を見た。


 三浦は支払予定表へ、判断期限を入力した。


 翌日午後。


 十五億円の行にも判断期限がある。


 正式文案受領後、三営業日以内に社内審査。


 銀行団への説明と資金使途の確認。


 返還を担保する方法または代替条件の確認。


 支払原資の再計算。


 条件を満たした後、契約承認。


 契約成立から十営業日以内に支払う。


 金額だけを見れば、支払いは一行だった。


 その前に、いくつもの期限と責任が並んでいる。


 午後七時二十二分。


 真鍋は、支払予定表の十五億円の行を黄色から橙色へ変えた。


「色に意味はあるのか」


 榊原が聞いた。


「黄色は、可能性があるだけの見込みです。橙色は、支払う方針があり、条件を整えている段階です」


「赤は」


「契約済みで、支払日が確定したものです」


「緑は支払済みか」


「はい」


 榊原は橙色の行を開いた。


 十五億円。


 まだ会社の口座にある。


 契約は成立していない。


 メーカーも、製造を始めていない。


 銀行団による資金使途の確認も終わっていない。


 それでも、その金を別の工事へ回す判断は、昨夜より難しくなっていた。


 製造枠を失えば、事業全体の稼働が遅れる。


 払えば、現場の遅れに使える現金が減る。


 どちらを選んでも、何も失わない状態には戻れない。


「この十五億円は、いつから使えない金として見る」


 榊原が聞いた。


「支払い方針を決め、条件整備へ入った今日からです」


 真鍋が答えた。


「契約していないぞ」


「法的な支払義務はありません。資金繰り上、別の案件へ重ねて使わない金として扱います。条件が整わず見送れば、確保を解除します」


「まだ俺たちの金だ」


「はい。だからこそ、使う先を二つにしません」


 三浦は、条件付き確保の欄へ十五億円を移した。


 口座残高は変わらない。


 確定支払いの合計も変わらない。


 自由に使える金だけが、十五億円減った。


 会議室の窓には、夜の本社ビルが映っている。


 榊原は表を閉じず、製造予定表の二月と、現場工程表の空白を交互に見た。


 金は、振り込んだ日にだけ動くのではない。


 使うと決めた日から、別の場所へは動かせなくなる。


 十五億円はまだ口座にあった。


 だが、その日の終わりには、もう空いている金ではなかった。

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