残金1,842円|第6話「商店の息子」
店の床には、いつも白い粉が落ちていた。
米袋の口を縛る時にこぼれる粉だった。
掃いても、掃いても、
夕方にはまた薄く積もる。
木の床板の隙間に入り、
レジ台の足元に残り、
榊原征一の靴下の裏を白くした。
小学五年の征一は、
それを指でなぞるのが好きだった。
粉はさらさらしている。
けれど、
少し湿っている日もある。
雨の日は、
店の入口から入った土と混じって、
灰色になる。
冬は灯油の匂いが強くなり、
夏は醤油の段ボールが湿った匂いを出した。
榊原商店は、
駅前から少し外れた古い商店街の中にあった。
間口は広くない。
引き戸を開けると、
左に菓子棚がある。
右には、
洗剤、石鹸、軍手、乾電池。
奥には米袋が積まれている。
レジの横には煙草の棚があり、
その下に、
配達用の伝票を挟んだ板が置かれていた。
天井の蛍光灯は二本。
一本は新しく、白く明るい。
もう一本は古く、
時々、ちかちかした。
棚には値札が貼ってあった。
母の字だった。
きれいな字ではない。
でも、
見やすい字だった。
しょうゆ 198円。
みそ 248円。
さとう 168円。
ぐんて 1双 120円。
たばこはレジへ。
値札の端は、
少し丸まっている。
何度も貼り直したあとが残っていた。
店の前の道路は、
昼でも静かだった。
昔はもっと人が通ったと、
父は言った。
征一が覚えている頃には、
通りを歩く人は少なかった。
魚屋は午前中だけ開いた。
靴屋は店主が腰を悪くして、
午後三時にはシャッターを下ろした。
文房具屋は、
小学校の新学期前だけ忙しくなった。
洋品店のショーウィンドウには、
色の抜けたワンピースを着たマネキンが、
いつも同じ角度で立っていた。
夕方になると、
商店街のアーケードにぶら下がった古いスピーカーから音楽が流れた。
曲は途中で少し伸びる。
音が割れる。
最後の方は、
風の音と混じって聞こえた。
征一は、
その時間が嫌いではなかった。
店の奥から母の包丁の音がする。
父が外の灯油缶を片づける。
通りの向こうで、
自転車のブレーキが鳴る。
店の入口に吊るした小さな鈴が、
客の出入りで鳴る。
チリン。
その音がすると、
父は奥にいても必ず出てきた。
「いらっしゃい」
声は大きくない。
けれど、
必ず聞こえる。
父は、
背の高い男ではなかった。
痩せていた。
手の甲には細い傷がいくつもあった。
爪の間には、
いつも少し黒いものが残っていた。
米袋を運ぶ時にできた傷。
段ボールを開ける時にできた傷。
灯油缶を持った時にこすれた跡。
父は、
店ではあまり笑わなかった。
怒っているわけではない。
ただ、
店にいる時の父は、
家の中の父とは少し違った。
商品を持つ手つきが違う。
棚を見る目が違う。
客に返す声の長さが違う。
醤油瓶を棚に戻す時、
ラベルを必ず前に向ける。
菓子袋の列が乱れていると、
指先でそろえる。
新しく届いた油は奥へ入れ、
古いものを前に出す。
乾電池は、
サイズが違うものを混ぜない。
「棚は、黙って店のことを言う」
父はそう言った。
征一には、
よく分からなかった。
棚は何も言わない。
そう思っていた。
けれど、
父が棚を直すと、
店は少しだけ強く見えた。
月末になると、
店の奥の空気が変わった。
売れたものは、
いつもどおり棚から減っていく。
客も来る。
配達もある。
母は夕飯を作る。
征一は学校から帰って宿題をする。
何も変わっていないように見える。
それでも、
夕方になると父はいつもより早く奥の部屋へ入った。
店の奥には、
六畳の和室があった。
畳は少し沈む。
窓のそばには古い扇風機が置かれている。
冬は石油ストーブが入り、
部屋全体に灯油と味噌汁の匂いが混じった。
その部屋の真ん中に、
低い机があった。
父はそこに帳面を広げる。
帳面は厚かった。
表紙は黒く、
角が丸くなっている。
背の部分は白く擦れていた。
ページをめくると、
紙の端が少し波打っている。
何度も手で押さえたところだけ、
黒くなっていた。
父は鉛筆を使った。
ボールペンではない。
間違えた時に消せるからだと、
母は言った。
父は何も言わなかった。
鉛筆は短くなるまで使う。
最後は小さな金具をつけて、
さらに使う。
父の字は細かった。
田島商店 八千六百二十円。
佐々木工務店 一万二千四百円。
青木酒店 五千七百円。
丸川運送 三万一千円。
名前の横に、
日付と品物と金額が並ぶ。
米。
醤油。
洗剤。
軍手。
缶コーヒー。
煙草。
灯油。
それは売れたものだった。
でも、
まだ入っていない金だった。
征一は、
そのことが嫌だった。
売れたなら、
金はあるはずだった。
「父ちゃん」
征一は、
宿題の漢字ドリルを開いたまま言った。
「なんだ」
父は帳面から顔を上げない。
「売れたなら、もう金はあるんじゃないの」
父の鉛筆が止まった。
母の包丁の音も、
一瞬だけ止まった気がした。
父は帳面を見たまま言った。
「売れたことと、入ったことは違う」
征一は、
むっとした。
大人はよく、
分かったようなことを言う。
「でも、買ったんだろ」
「買った」
「なら払うだろ」
「払う人もいる。後で払う人もいる」
「後でって、いつ」
父は、
帳面の端に小さく日付を書いた。
「月末」
「今日、月末じゃん」
「だから、今から集める」
征一は黙った。
その時、
店の鈴が鳴った。
チリン。
父は帳面を閉じずに立った。
店に出る。
征一も少しだけ体を乗り出して見た。
入ってきたのは、
近所の工務店の職人だった。
作業着の膝に白い粉がついている。
髪に木屑が絡んでいた。
首に巻いたタオルが、
汗で黒ずんでいる。
職人は煙草と缶コーヒーを取った。
「つけといて」
父はいつもの伝票板を引き寄せた。
「はい」
「明日、現場に軍手持ってきてくれる?」
「何双ですか」
「十でいいわ」
父は煙草と缶コーヒーの金額を書き、
別の欄に軍手十双と書いた。
職人は小銭入れを手に持っていた。
征一には見えた。
中に五百円玉があった。
なのに、
父は何も言わなかった。
職人は缶コーヒーを開けながら店を出た。
鈴がまた鳴る。
チリン。
征一は、
父が奥へ戻ってくるのを待っていた。
「今、金持ってたよ」
父は帳面を開きながら答えた。
「持ってただろうな」
「じゃあ、払ってもらえばいいじゃん」
父は伝票を帳面に挟んだ。
「現場帰りに煙草を買うたびに、財布を出させるのか」
「出せばいい」
「お前は、それで商売になると思うか」
「金払うのが普通だろ」
父は、
そこで初めて征一を見た。
疲れた目ではなかった。
怒っている目でもなかった。
何かを測っている目だった。
「普通はな」
征一は、
その言い方が気に入らなかった。
普通ではないことを父は毎日している。
それなのに、
父はそれを普通の顔でやっている。
夕飯は、
また少し遅くなった。
母は鍋の火を弱めた。
味噌汁の表面に、
小さな泡が浮いては消えた。
焼き魚の皿には、
ラップがかけられている。
畳の上には、
父の帳面と電卓と封筒が広がっていた。
外はもう暗い。
店の前の道路を、
軽トラックが一台通った。
タイヤが小石を踏む音がした。
父は上着を着た。
「行ってくる」
母は台所から顔を出した。
「先に食べる?」
「いや。戻ってからでいい」
母は、
少しだけ父を見た。
「冷めるよ」
「温めればいい」
母は何も言わなかった。
征一は立ち上がった。
「俺も行く」
父は一度、征一を見た。
「寒いぞ」
「行く」
父は短くうなずいた。
店の外には、
配達用の軽トラックが停まっていた。
白い車体は、
ところどころ錆びている。
荷台には、
米袋が二つと、
醤油の箱、
洗剤の段ボールが積まれていた。
助手席の足元には、
集金用の封筒が入った茶色い鞄が置かれている。
車に乗ると、
座席が冷たかった。
父はエンジンをかけた。
古いエンジンが、
少し咳き込むように震えた。
商店街を抜ける。
シャッターの下りた店が並ぶ。
一軒だけ、
ラーメン屋の赤いのれんが出ている。
湯気がガラスに白くついていた。
自動販売機の明かりが、
道路に青白く落ちている。
父は、
何も話さなかった。
一軒目は、
駅裏の古い家だった。
台所の電気だけがついていた。
年配の女が出てくる。
「いつも悪いね」
父は米袋を肩に担いだ。
二十キロの米袋だった。
父の肩に袋が沈む。
体が少し傾く。
けれど、
父は声を出さない。
征一は洗剤の袋を持った。
玄関から台所までの廊下は薄暗かった。
床板がところどころ軋む。
台所には、
古い炊飯器と、
湯のみが二つ置かれていた。
父は米袋を台所の隅に置いた。
女は小さな財布を持っていた。
「今月、年金入ったらまとめてでもいい?」
父は言った。
「はい。いつ頃になりますか」
「十五日」
父は伝票に日付を書いた。
女は申し訳なさそうに笑った。
「ごめんねえ」
父は首を振った。
「重いものは言ってください」
家を出ると、
征一は言った。
「今のも、もらわないの」
「十五日に入る」
「本当に?」
「分からない」
「分からないのに待つの」
父は軽トラックの荷台を閉めた。
「今、米を置いてこなかったら、あの人はどうする」
征一は答えられなかった。
父はそれ以上言わず、
運転席に乗った。
二軒目は、
小さな食堂だった。
厨房の換気扇が回っていた。
外まで出汁の匂いがした。
ガラス戸の向こうで、
店主が大きな鍋をかき混ぜている。
父は醤油の箱を運んだ。
「月末にまとめるわ」
店主は鍋から目を離さずに言った。
父は「はい」と答えた。
ここでも金は入らなかった。
三軒目は、
工務店の事務所だった。
入口の土間に、
安全靴がいくつも並んでいた。
壁には現場写真が貼られている。
蛍光灯の下で、
作業着の男たちが弁当を食べていた。
父は軍手と洗剤を置いた。
工務店の社長が、
机の引き出しから茶封筒を出した。
「先月分、悪いね」
父は受け取った。
中は数えなかった。
「ありがとうございます」
征一は、
その封筒を見ていた。
車に戻ると、
すぐに聞いた。
「なんで数えないの」
父はハンドルを握ったまま答えた。
「相手の前で数える時と、数えない時がある」
「なんで」
「足りなかった時に、その場で相手の顔を潰すことがある」
「足りなかったら困るじゃん」
「困る」
「じゃあ数えればいい」
父は、
交差点で一時停止した。
商店街へ戻る道に、
白い息が流れた。
「困ることと、その場で言うことは同じじゃない」
征一は窓の外を見た。
言われた意味が分からなかった。
けれど、
父の声がいつもより少し固かったので、
それ以上は聞かなかった。
店に戻ると、
父は奥の部屋で茶封筒を開けた。
一万円札が三枚。
千円札が二枚。
父は帳面を見た。
「三万一千円」
征一は数え直した。
三万二千円ある。
「多い」
父はうなずいた。
「今月分が混じってる」
帳面をめくる。
今月に入ってから納めた軍手と洗剤の欄に、
千円と書かれていた。
父は先月分に済と書き、
今月分の欄に一部入金と書いた。
「面倒くさい」
征一は言った。
父は、
封筒から出した札を伸ばしながら答えた。
「面倒くさくしないと、分からなくなる」
「何が」
「この金が、何の金か」
征一は札を見た。
一万円札は一万円札だった。
どれも同じに見える。
父はそれを、
白い小さな缶に入れた。
缶の側面には、
問屋支払と書いた紙が貼ってあった。
「それ、使わないの」
「使う」
「何に」
「明後日、問屋に払う」
「じゃあ、うちの金じゃないの」
父は缶の蓋を閉めた。
カチン、と乾いた音がした。
「店に入った金は、全部うちの金に見える」
父は言った。
「でも、先に行き先が決まっている金がある」
その言葉は、
征一の中に残った。
先に行き先が決まっている金。
その金は、
目の前にある。
缶の中に入っている。
父の手で数えられている。
店の奥の六畳に置かれている。
それなのに、
自由に使えない。
征一は、
缶をじっと見た。
白い缶の縁には小さなへこみがあった。
何度も開け閉めされたせいで、
蓋の内側が少し錆びていた。
その中に入った札は、
もう家の夕飯には変わらない。
征一の新しい運動靴にも変わらない。
母が欲しがっていた電気ポットにも変わらない。
明後日、
問屋へ出ていく金だった。
翌日、
父は田島商店へ集金に行った。
征一もついていった。
田島商店は、
榊原商店より古かった。
入口のガラス戸には、
黄色くなった紙が貼られている。
本日午後より営業。
午前中だったが、
中には人がいた。
店内は暗い。
文房具と雑貨が並んでいた。
封筒、
祝儀袋、
ノート、
鉛筆、
セロハンテープ、
電球、
雑誌。
棚の一部が空いていた。
商品が少ない棚は、
ほこりが目立った。
田島の主人は、
奥から出てきた。
髪が乱れている。
セーターの袖口が伸びていた。
「悪いね、榊原さん」
父は帳面を開いた。
「八千六百二十円です」
田島の主人は、
すぐに財布を出さなかった。
奥の座敷を見る。
畳の上に、
段ボールが積まれている。
開けていない箱もあれば、
空の箱もある。
「今月、ちょっと待ってもらえんかな」
父は黙っていた。
征一は、
父の横で息を止めた。
田島の主人は続けた。
「学校の納品が遅れてな。来週には入る。入ったら払う」
父は言った。
「来週の何日ですか」
「水曜には」
父は帳面の端に、
水曜と書いた。
それから言った。
「半分だけ、今日いただけませんか」
田島の主人の顔が固くなった。
「半分か」
「はい」
「厳しいな」
「こちらも、問屋の支払いがあります」
田島の主人は笑った。
笑ったけれど、
目は笑っていなかった。
「どこも同じだな」
父は何も返さなかった。
田島の主人は奥へ入った。
障子の向こうで、
引き出しを開ける音がした。
小銭の音がした。
女の人の低い声がした。
田島の主人が、
何か短く答えた。
しばらくして、
四千円を持って戻ってきた。
「これで勘弁して」
父は受け取った。
その場で数えた。
征一は父を見た。
昨日の工務店では数えなかった。
今日は数えた。
田島の主人は、
少し目を伏せた。
父は言った。
「残りは水曜で」
「分かった」
店を出ると、
外の光がまぶしかった。
商店街のアーケードは、
ところどころ破れている。
雨の跡がタイルに残っていた。
魚屋の前には、
空の発泡スチロール箱が積まれている。
征一は父の横を歩いた。
「今日は数えた」
父は前を向いたまま答えた。
「今日は数えなきゃいけない」
「なんで」
「待つと決めた金だからだ」
征一は分からなかった。
父は続けた。
「待つなら、どこまで待つか決める。いくら待つかも決める」
「決めないと?」
「こっちが潰れる」
征一は父の手元を見た。
父の右手には、
四千円が入った封筒があった。
薄い封筒だった。
八千六百二十円のうち、
四千円。
残りは四千六百二十円。
数字だけなら、
小さい。
でも、
父はその四千六百二十円を帳面に書き直す。
日付を入れる。
水曜。
その日まで待つと決める。
征一は、
その作業が重く見えた。
商売は、
売って終わりではなかった。
売った後に、
待つ時間があった。
待つ時間にも、
重さがあった。
その夜、
父は征一に電卓を渡した。
「足してみろ」
征一は未回収の金額を足した。
田島商店。
佐々木工務店。
青木酒店。
丸川運送。
駅裏の家。
食堂。
数字は、
思ったより大きくなった。
「こんなにあるの」
「ある」
「じゃあ、うちは金持ちじゃん」
父は笑わなかった。
「入ればな」
征一は、
電卓の数字を見た。
そこには、
確かに金額が出ている。
でも、
机の上にはその金はない。
缶の中にもない。
レジの引き出しにもない。
父の財布にもない。
ただ帳面にある。
父は別の紙を出した。
問屋支払い。
電気代。
燃料代。
軽トラックの車検積立。
借入返済。
家の生活費。
「こっちは出ていく金だ」
征一は二つの紙を見比べた。
入る予定の金。
出ていく予定の金。
入る予定の金の方が多く見えた。
「大丈夫じゃん」
父は言った。
「同じ日に入ればな」
征一は黙った。
父は、
入る予定の金額の横に日付を書いた。
水曜。
金曜。
月末。
来月十日。
未定。
次に、
出ていく金額の横にも日付を書いた。
明日。
三日後。
二十五日。
月末。
数字だけなら足りていた。
けれど、
日付がずれている。
水曜に入る金は、
明日の支払いには使えない。
来月十日に入る金は、
今月末の問屋には払えない。
未定の金は、
どこにも置けない。
征一は、
電卓を見つめた。
画面の数字が、
急に頼りなく見えた。
「日付の方が大事なの」
父は、
少しだけ征一を見た。
「金額が大きくても、日にちが間に合わなければ負ける」
その言葉を、
征一は忘れなかった。
忘れなかったはずだった。
何十年も後、
榊原征一は何百億という数字を動かすことになる。
銀行団から五百億円の融資枠を組む。
百五十億円の初回実行を受ける。
八百億円の事業を始める。
土地を取得する。
工事を発注する。
設備を予約する。
支払予定表を作る。
工程表を更新する。
金額は、
父の帳面とは比べものにならない。
けれど、
最後に彼を追い込むのは、
やはり日付だった。
支払日。
利払日。
融資実行条件の確認日。
工事進捗報告日。
担保評価日。
売却決済日。
給与支給日。
税金の納付期限。
金額は大きくなっても、
原理は変わらない。
入る日と、
出る日。
その二つが合わなくなった時、
人は金額ではなく時間に追われる。
小学五年の征一には、
まだそこまでは分からなかった。
ただ、
日付の横に書かれた金額が、
人の顔とつながっていることだけは分かり始めていた。
田島商店の八千六百二十円。
工務店の三万一千円。
食堂の醤油代。
駅裏の家の米代。
それぞれに、
店があり、
台所があり、
仕事があり、
言い訳があり、
事情があった。
父は、
それを全部同じ帳面に書いていた。
翌週の水曜、
田島商店の残りは払われなかった。
夕方、
父は店を閉める前に上着を着た。
外は冷えていた。
店のガラス戸が、
内側から白く曇っている。
征一は言った。
「取りに行くの」
「行く」
「怒る?」
「怒らない」
「じゃあ、また待つの」
父は、
表の電気を一つ消した。
店内が少し暗くなった。
「話を聞く」
「聞いてどうするの」
「決める」
「何を」
「待つか、止めるか」
征一は、
その言葉に引っかかった。
「何を止めるの」
父は、
レジ台の上に置いた伝票板を片づけながら答えた。
「次の配達だ」
征一は黙った。
田島商店に売ることを止める。
それは、
相手だけが困ることではなかった。
こちらの売上も減る。
父の店から、
ひとつの客が消える。
でも、
払えない相手へ売り続ければ、
こちらが持たない。
待つことと、
売り続けることは違う。
父は、
それを分けていた。
田島商店へ行くと、
主人は奥で電話をしていた。
父は店先で待った。
征一も横に立った。
棚には、
ノートや封筒や鉛筆が並んでいる。
一部の商品は倒れたままになっていた。
誰も直していない。
棚板には薄くほこりが積もっている。
店の奥から、
古い紙の匂いがした。
征一は、
その棚を見た。
商売が弱る時、
店は大きな音を立てない。
棚が少し空く。
電気が少し暗くなる。
店主の声が少し遅れる。
奥の段ボールが、
開けられないまま残る。
それだけで、
何かが減っていく。
田島の主人は電話を切った。
「悪い。明後日には必ず」
父は言った。
「今日、二千円だけいただけませんか」
田島の主人は、
苦しそうに笑った。
「二千円か」
「はい」
「細かいな」
父は、
いつもの声で言った。
「細かくしないと、続きません」
田島の主人は黙った。
征一は、
その横顔を見た。
怒っているようにも見えた。
恥ずかしそうにも見えた。
助かったようにも見えた。
結局、
田島の主人は二千円を払った。
父はその場で数え、
帳面に書いた。
残り二千六百二十円。
帰り道、
商店街の空気は冷たかった。
アーケードの蛍光灯が一本だけ点滅している。
父の靴音が、
タイルに響いた。
「なんで全部じゃないの」
征一は聞いた。
「全部は無理だ」
「じゃあ、なんで二千円」
「相手が今日出せる金額で、こっちが待てる金額だからだ」
「そんなの分かるの」
「分からない」
父は歩きながら言った。
「だから聞く」
征一は、
父の横を歩いた。
「金の話はな、怒鳴ると終わる」
父は言った。
「でも、聞くだけでも終わる」
「どっちなの」
「怒鳴らずに聞いて、最後は決める」
父は、
それ以上説明しなかった。
征一は、
その言葉を頭の中で繰り返した。
怒鳴らずに聞いて、
最後は決める。
それが父の商売だった。
優しいだけではなかった。
厳しいだけでもなかった。
待つ日を決める。
金額を決める。
次の配達を決める。
相手の顔を潰さない。
だが、
自分の店も潰さない。
父は、
大きな商売をしていたわけではない。
むしろ、
いつもぎりぎりだった。
でも征一は、
そのぎりぎりの帳面から、
金が人をつなぎ、
人を離すものだと知った。
金は冷たい数字ではない。
だが、
温かい気持ちだけで扱えるものでもない。
そこに日付が入る。
約束が入る。
相手の事情が入る。
こちらの限界が入る。
それが商売だった。
榊原征一が最初に覚えた金は、
銀行の融資ではなかった。
株でもない。
不動産評価でもない。
企業価値でもない。
大型事業でもない。
父の店の帳面に残った、
八千六百二十円だった。
入るはずの金。
まだ入っていない金。
待つと決めた金。
待ちすぎれば、
こちらを潰す金。
店に戻ると、
母が味噌汁を温め直していた。
鍋の蓋が小さく鳴る。
焼き魚は少し固くなっていた。
茶碗には、
まだご飯がよそわれていない。
畳の上には、
父の帳面が置かれている。
父は上着を脱ぎ、
帳面を開いた。
二千円。
細い字で書く。
その横に、
残り二千六百二十円。
さらに日付。
明後日。
征一は向かい側から、
それを見ていた。
「父ちゃん」
「なんだ」
「金って、難しいな」
父は鉛筆を置いた。
少しだけ笑った。
「難しいから、みんな簡単に言うんだ」
「何て」
「儲かったとか、損したとか、払えとか、待てとか」
父は帳面を閉じた。
「でも本当は、その間にいろいろある」
征一は、
その言葉を聞いていた。
店の表では、
風が引き戸を少し揺らした。
カタ、と音がした。
蛍光灯の下で、
帳面の角だけが白く光っていた。
征一は、
いつか自分も大きな商売をすると決めていた。
この小さな店のように、
月末の集金に追われるのではなく、
もっと大きな金を動かす側へ行く。
人に待ってもらうのではなく、
人を動かす側へ行く。
父のように、
四千円や二千円を集めに歩くのではなく、
一度に何千万、
何億という金を動かす人間になる。
その時の征一には、
それが父の帳面から逃げることなのか、
父の帳面を大きくすることなのか、
まだ分かっていなかった。
ただ、
ひとつだけ覚えた。
金は、
持っている人間よりも、
待てる人間のところに集まる。
その考えは、
のちに榊原征一を大きくした。
そして、
同じ考えが、
彼を少しずつ追い込んでいくことになる。




