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残金1,842円|第5話「止められない工事」

工事を止めるなら、今日の午後五時までに連絡がほしい。


建設会社の現場所長は、そう言った。


榊原征一は、仮設事務所の壁に掛けられた時計を見た。


午前九時四十分。


まだ七時間以上ある。


「何があった」


「何かが起きたわけではありません」


現場所長の大沢は、図面を机に広げた。


五十代半ば。日焼けした首筋に、作業着の襟が当たっている。榊原が初めて会った時から、必要以上に愛想を振りまかない男だった。


「起きる前に決めていただきたいんです」


図面の南端に、青い線が引かれていた。


大型車両の進入路だった。


発電設備、データセンター、物流拠点を一体で整備する八百億円の複合事業。その最初の工程では、建設資材を搬入する道路と仮設ヤードを確保する必要があった。


予定では、来週から造成用の重機が本格的に入る。


その前に、進入路の路盤を整えなければならない。


大沢は青い線の途中を指した。


「ここです」


「ここがどうした」


「当初の施工計画では、既存道路からこの区画を通って仮設ヤードに入る予定でした」


「予定どおりだろ」


「その予定を成立させるための土地が、まだ使えません」


榊原は図面を見直した。


未取得の土地が、進入路の途中に細長く食い込んでいる。


面積は小さい。


全体の敷地から見れば、ほとんど線のようなものだった。


「取得交渉は進んでいるはずだ」


不動産担当の小田が答えた。


「進んでいます。ただ、売買契約には至っていません」


「先週、条件を詰めろと言った」


「価格については、ほぼ合意しています」


「なら何が残ってる」


小田は一度、大沢を見た。


「引渡し時期です」


榊原の指が止まった。


「売ることには同意しているのか」


「条件が整えば、という段階です」


「いつ渡せる」


「先方は、十二月末を希望しています」


壁の時計が一分進んだ。


榊原は、もう一度図面を見た。


十月下旬。


十二月末。


二か月以上ある。


「理由は」


「地権者のご家族が、隣接する農地への出入りに使っています。代替の通路ができるまでは、工事車両を通したくないと」


「代替通路を作ればいい」


「その通路の用地についても、隣地所有者との調整が必要です」


「そこは取得済みじゃないのか」


「所有権は取得済みです。ただ、現在の通行について従前からの取り決めがありまして」


榊原は小田の説明を遮らなかった。


土地を買えば、直ちに何でもできるわけではない。


それは知っている。


賃借権、地役権、通行の合意、農業用水、埋設管、境界。


不動産事業を三十年近く続けてきた男にとって、珍しい話ではなかった。


珍しくないからこそ、腹が立った。


「なぜ今になって出てくる」


小田は答えた。


「土地取得の進捗と、工事で実際に使える時期を別々に管理していました」


「誰が」


「用地チームと施工チームです」


「同じ事業だろ」


「はい」


榊原は椅子に座った。


小田は立ったままだった。


「座れ」


「はい」


「責任者を探す話は後でいい。今、何ができる」


大沢が図面を引き寄せた。


「三つあります」


榊原は黙って先を促した。


「一つ目は、予定どおりの進入路を確保することです。ただし、売買契約だけでは足りません。工事車両の通行を認める合意と、実際に使える状態での引渡しが必要です」


「二つ目は」


「北側の市道から仮設道路を延ばす方法です。こちらは事業会社が取得済みの土地を通せます。ただ、距離が伸びますし、途中に高低差があります」


「費用は」


「概算で一億二千万円から一億八千万円。道路の仕様と排水処理で変わります」


「三つ目」


「進入路が確保できるまで、該当する造成工程を待つことです」


榊原は顔を上げた。


「待ったら」


「来週予定していた重機の一部を入れられません」


「別の場所から始めろ」


「始められる場所はあります。ただ、全体工程をそのまま維持できるとは申し上げられません」


大沢は、もう一枚の紙を出した。


そこには、重機の搬入予定と作業班の配置が記されていた。


「来週の月曜日から、土工班二組、重機七台を予定しています。下請けとの手配は済んでいます」


「キャンセルすればいい」


「できます」


大沢は即答した。


「ただし、無料ではありません」


榊原は大沢を見た。


「いくらだ」


「今日中に中止を指示していただければ、現時点で確定している手配解除費用は約千八百万円です。来週に入ってからですと、現場への搬入と待機が発生します。費用は増えます」


「千八百万か」


「それだけではありません」


大沢は、工程表の横に別の数字を書いた。


「土工班の再手配には、現在の見込みで三週間から五週間かかります。同じ班を押さえ直せる保証はありません」


榊原はその数字を見た。


一億数千万円の仮設道路。


千八百万円の手配解除。


三週間から五週間の再手配。


どれも、八百億円の事業全体から見れば小さい。


だが、単純に比べられる数字ではなかった。


仮設道路を造っても、当初の進入路が後から使えるようになれば、投資の一部は不要になる。


工事を待てば、支払いを抑えられる代わりに、工程上の余裕を失う。


地権者との交渉を急げば、土地の取得価格だけでなく、他の地権者との関係にも影響する。


榊原は、図面に引かれた青い線を見つめた。


「真鍋は」


「本社から向かっています」


「呼んだのか」


大沢が答えた。


「私から連絡しました」


榊原は少し意外そうな顔をした。


「社長より先に財務か」


「社長には判断していただきます。財務には、判断できる材料をそろえていただきたいので」


大沢は平然としていた。


榊原は、その言葉を聞いて小さくうなずいた。


「それでいい」


大沢が初めて、わずかに表情を緩めた。


「では、午前中に現地を見ていただけますか」


「見る」


榊原は立ち上がった。


「数字だけでは決められん」


外に出ると、朝の空気にはまだ冷たさが残っていた。


造成予定地の向こうに、低い山が見える。


敷地の一部には測量杭が立ち、白いテープが風に揺れていた。


大沢は安全靴の先で地面を示した。


「ここから先が、問題の区画です」


舗装のない道が細く続いていた。


道の脇には水路がある。


反対側には畑が広がっていた。


その先で、軽トラックが一台停まっている。


荷台には農具が積まれていた。


年配の男性が、畑から戻ってきた。


小田が軽く頭を下げる。


男性も会釈したが、近づいてはこなかった。


榊原は、その様子を見ていた。


「地権者か」


「ご本人のお父様です」


「本人は」


「息子さんが所有者です。市外に住んでいます」


「使っているのは親父さんか」


「はい」


榊原は水路をまたぐ小さな橋を見た。


軽トラック一台が、ようやく通れる幅だった。


大型車両は通れない。


仮に通行の合意が取れても、橋の補強が必要になる。


「橋の強度は」


大沢が答えた。


「既存資料では、大型車両の通行を認められる状態ではありません。確認が必要です」


榊原は、そこで初めて眉を寄せた。


「用地を取れば通れると思っていたのか」


小田は答えなかった。


大沢が代わりに言った。


「私たちは、仮設の橋を設ける前提でした」


「その設置場所も、まだ使えない」


「そうです」


榊原は、水路の向こうを見た。


地権者の父親は軽トラックに乗り込んでいた。


エンジンがかかる。


狭い道を、ゆっくり走っていく。


榊原は、その車が見えなくなるまで黙っていた。


「小田」


「はい」


「先方は、金を上げれば動くのか」


小田は慎重に答えた。


「価格の問題だけではないと思います」


「理由は」


「お父様は、代替の通路が完成するまで今の道を使いたい。それが一番の希望です」


「その通路は、うちで造れる」


「造れます。ただ、先方は完成を確認してから引き渡したいと」


榊原は少し考えた。


「先に通路を造って、確認してもらえばいい」


「隣地との調整があります」


「それも含めて進めろ」


「はい」


榊原は大沢に向き直った。


「その間、別の場所から工事できないのか」


「できます。ただし、順番を変える必要があります」


「変えろ」


「順番を変えると、土砂の運搬距離が増えます。重機の稼働時間も変わります。現時点の請負範囲に含まれるかどうか、精査が必要です」


「見積もれ」


「承知しました」


大沢は即答したが、続けて言った。


「ただし、見積もりが出るまで、現在の作業班の手配は残ります」


榊原は時計を見た。


午前十一時十二分。


午後五時まで、六時間を切っていた。


「一時停止できないのか」


「手配の停止と、工程の停止は別です」


大沢は言った。


「作業班に待ってもらうことはできます。ただ、待機費用が発生します。いつまで待つのか決めなければ、こちらも下請けに説明できません」


榊原は、もう一度現場を見渡した。


土地は広かった。


広いのに、重機を通す道が一本足りない。


八百億円の事業が、小さな道の前で立ち止まっている。


そのことが、彼には不思議ではなかった。


大きな事業ほど、最後は小さな条件に左右される。


榊原は、それを何度も経験していた。


そして、何度も乗り越えてきた。


「午後にもう一度集まる」


そう言って、事務所へ戻った。


昼過ぎ、真鍋が到着した。


会議室に入るなり、真鍋は上着を脱いだ。


「社長」


「聞いたか」


「概要は」


「どう見る」


「まず、誰が何を契約しているか確認します」


榊原は椅子にもたれた。


「工事が止まるかもしれない時に、契約書か」


「工事を止める費用を、誰が負担するのか分からないままでは判断できません」


真鍋は鞄から書類を取り出した。


大沢も席に着く。


小田は図面を壁に貼り直した。


真鍋は、建設会社との契約書の該当部分を開いた。


「今回の造成工事は、総額一括の請負契約ではありませんね」


大沢が答えた。


「はい。基本契約のもとで、準備工事と造成工事を分けています。今回の作業班は、発注済みの準備工事に対応するものです」


「発注者側の用地引渡し遅延については」


「契約上、協議事項です。遅延による追加費用をすべて自動的に請求できる条項にはしていません」


真鍋はうなずいた。


「では、千八百万円という数字は」


「下請けの手配解除に伴う、現時点の見込みです。実費の確認が必要です」


「請求額ではない」


「まだ請求していません」


「それは分けてください」


大沢は、真鍋を見た。


「分けています」


二人の間に、短い沈黙があった。


真鍋は言った。


「失礼しました」


大沢は首を振った。


「こちらも、数字が先に歩かないようにしたいんです」


榊原は、二人のやり取りを聞いていた。


大沢は工事を進めたい。


真鍋は支出を管理したい。


目的は違う。


だが、互いに相手の仕事を理解している。


榊原は言った。


「結局、いくらかかる」


真鍋はすぐには答えなかった。


「まだ、一つの数字にはできません」


「概算でいい」


「概算なら出せます。ただし、選択肢ごとに分けます」


真鍋は白紙を一枚出した。


三本の縦線を引いた。


「当初の進入路を待つ場合」


左の欄に書く。


「仮設道路を新設する場合」


中央の欄。


「工事順序を組み替える場合」


右の欄。


「それぞれ、支払額と支払時期を分けます」


榊原は言った。


「費用だけなら仮設道路が一番高い」


「現時点では、そう見えます」


「なら待つか、順番を変えるかだ」


「まだ決められません」


真鍋は、三つの欄の下に別の線を引いた。


「この事業の収益開始予定が変わるなら、その影響も見なければなりません」


榊原はうなずいた。


「当然だ」


「ただ、今日の段階で収益開始の遅れを確定させることはできません」


「分かってる」


「ですから、今日決めるのは、来週の作業班をどうするかです」


真鍋は紙の上端に日付を書いた。


十月二十日。


「工事全体の継続か中止かではありません」


榊原は、その日付を見た。


「来週の班を止めるかどうか」


「はい」


「それだけか」


「今日の決裁としては」


榊原は笑わなかった。


真鍋の言葉が、いつもより短かったからだ。


「お前はどうしたい」


真鍋は答えた。


「一部の手配を解除したいです」


大沢が顔を上げた。


榊原も真鍋を見た。


「理由は」


「今の進入路が使えない以上、当初の配置のまま全班を入れても、予定した仕事ができません。待機させるために金を払うなら、その金で工程の組み替えを検討した方がいい」


大沢が言った。


「全班を解除すると、再手配が難しくなります」


「全班とは言っていません」


真鍋は大沢に向き直った。


「今の進入路がなくても着手できる作業を、今日中に切り分けてください。そこに必要な班は残す。使えない班だけ、解除か日程変更を協議する」


大沢は少し考えた。


「一組は北側の測量と排水の仮設準備に回せます。ただ、もう一組は現状のままだと作業量が足りません」


「では、その一組について費用を確認したい」


「分かりました」


榊原は真鍋を見た。


「止める判断をしたのか」


「全部は止めません」


「珍しいな」


「必要なところは進めます」


「お前なら全部止めると言うかと思った」


真鍋は、そこで初めて榊原を正面から見た。


「社長」


「何だ」


「私は工事を止めたいわけではありません」


榊原は黙った。


「金を使う場所を間違えたくないんです」


大沢が書類を閉じた。


「現場としても、その方が助かります」


榊原は大沢を見た。


「本当にか」


「はい。仕事のない班を待たせるのは、現場にとってもよくありません。職人は、待っている間も生活しています。こちらの都合で何日も空けておいて、明日から来てくれと言えるものではありません」


大沢は少し間を置いた。


「ただ、解除した班が別の現場へ行けば、戻ってくる日は選べません」


その言葉で、会議室の空気が変わった。


金を払えば、同じ人間が同じ日に戻ってくるわけではない。


工程表には作業班の名前が書かれている。


だが、その人間たちは工程表の中に住んでいるわけではなかった。


それぞれ別の会社に雇われ、別の現場を抱え、生活があった。


榊原は言った。


「大沢さん」


「はい」


「その一組は、腕がいいのか」


大沢は即答した。


「いいです」


「代わりは」


「います。ただ、同じ条件で同じ日に入れるとは限りません」


「なら、できるだけ残したいな」


「現場としては」


「しかし、仕事がないのに置いておくわけにもいかない」


「はい」


榊原は真鍋を見た。


「費用だけで決めるなよ」


真鍋はうなずいた。


「分かっています」


「人も工程の一部だ」


「はい」


「その一組を手放した時の損失も計算しろ」


「します」


榊原は少し考えてから、付け加えた。


「ただし、仕事を作るためだけに工事を増やすな」


真鍋が顔を上げた。


「承知しました」


榊原は立ち上がった。


「午後四時にもう一度集まろう」


大沢も立った。


「それまでに、作業を切り分けます」


「頼む」


榊原は会議室を出た。


真鍋は残った。


大沢が図面を巻き始める。


「財務の方に言うことじゃないかもしれませんが」


真鍋は顔を上げた。


「何でしょう」


「現場は、止めるのが下手なんです」


「どういう意味ですか」


「一度人を集めると、何か仕事をさせたくなる。重機が来れば動かしたくなる。動かせば進んでいるように見える」


大沢は図面を押さえた。


「でも、動かした土を後で戻すこともあります」


真鍋は黙って聞いていた。


「社長は、現場が動いているのを見ると安心するでしょう」


「そうかもしれません」


「私は、動いている理由を説明できる現場にしたいんです」


真鍋は、手元の紙を見た。


三つの選択肢。


まだ空白が多い。


「大沢さん」


「はい」


「今回の用地の件、施工計画の段階で気づけませんでしたか」


大沢は少し考えた。


「気づけたと思います」


真鍋は顔を上げた。


「私たちもです」


大沢は何も言わなかった。


真鍋は続けた。


「土地取得率七割という報告を見ていました。工事開始に必要な土地が全部使えるかどうかまでは、確認していなかった」


「私たちも、引渡し予定日を前提に工程を組みました」


「その予定が、契約上確保されているかを確認していなかった」


「はい」


真鍋は、白紙の余白に一行書いた。


取得済みと使用可能を区別する。


大沢がそれを見た。


「簡単な言葉ですね」


「簡単なことを、確認していませんでした」


真鍋はペンを置いた。


「今から直します」


午後二時、真鍋は本社の財務部へ電話をかけた。


相手は、朝から資金繰り表を更新している若い社員だった。


「今、時間あるか」


『はい』


「先週の支払予定表を開いてくれ」


『開きました』


「建設会社への前払金二十八億円の行」


『はい』


「支払済みになっているか」


『いいえ。承認済みで、支払予定は十月二十五日です』


「請求書は」


『受領済みです』


「契約上の支払条件を確認してほしい。請求書の日付だけで振り込まない」


『承知しました』


「それから、設備メーカーの予約金十五億円」


『十一月五日予定です』


「予約金を払った場合、発注を取り消した時にいくら戻るか、契約案を確認してくれ」


『まだ基本合意書の段階です』


「なら、確定債務として扱うな。予定と契約済みを分けて表示してくれ」


電話の向こうで、キーボードを打つ音がした。


『部長』


「何だ」


『支払予定表の残高が変わります』


「どう変わる」


『承認済みと契約済みを分けると、今月末の支払見込みが減ります』


「それでいい」


『でも、社長が見ている表と数字が違ってしまいます』


真鍋は少し黙った。


「社長が見ている表を直す」


『分かりました』


「数字を合わせるために、契約を合わせるな」


『はい』


真鍋は電話を切った。


窓の外では、現場の作業員が資材を運んでいた。


二十八億円。


十五億円。


数字だけなら、どちらも大きい。


しかし、今日の時点で何が確定し、何がまだ変更できるのか。


そこを分けなければ、資金繰り表は単なる予定表になる。


予定表なら、誰でも作れる。


真鍋が必要としているのは、予定が外れた時に、何を守り、何を動かせるかが分かる表だった。


午後三時過ぎ、小田が会議室に戻ってきた。


顔色がよくなかった。


「地権者の息子さんと話しました」


榊原が尋ねた。


「どうだった」


「価格については、これ以上の上乗せは求めないそうです」


「いいじゃないか」


「ただ、引渡しは十二月末より前にはできないと」


榊原は眉を寄せた。


「代替通路を造ってもか」


「はい」


「なぜ」


小田は一枚のメモを見た。


「お父様が、年内の農作業を終えるまでは大型車両を通してほしくないと」


「それだけか」


「ご本人は、父親の意向を尊重したいそうです」


榊原は椅子に深く座った。


「その道を通らなければ、農作業はできないのか」


「代替通路はあります。ただ、遠回りになります」


「どれくらい」


「車で五分ほどです」


榊原は小田を見た。


「五分か」


「はい」


「五分のために、こっちは何億も動く」


小田は黙った。


榊原は窓の外を見た。


言葉にしてから、自分でも少し引っかかった。


五分。


それは、地権者の父親にとって毎日の五分だった。


年内だけでも、何十回と通る道だ。


長年使ってきた道を、突然、大型車両のために譲れと言われている。


相手にとって、八百億円の事業は関係がない。


榊原は言った。


「先方には、うちの都合を説明したか」


「しています」


「それでも十二月末か」


「はい」


「なら、今の条件で無理に押すな」


小田が顔を上げた。


「よろしいんですか」


「よくはない」


榊原は言った。


「だが、相手の生活を壊してまで道を通す話じゃない」


小田はうなずいた。


「別の方法を探します」


「土地の取得交渉は続けろ。ただし、通行の合意を先に取れると思い込むな」


「はい」


「売買契約の成立と、工事で使える日を分けて報告しろ」


小田は少し驚いた顔をした。


榊原はその表情を見た。


「真鍋にも同じことを言われたか」


「はい」


「なら、二度言わせるな」


小田は深く頭を下げた。


午後四時。


会議室には、三つの案がそろった。


大沢が説明を始めた。


「まず、当初の進入路を待つ案です」


工程表には、赤い線が引かれていた。


「十二月末の引渡しを前提にすると、来週予定の土工班二組をそのまま投入することはできません。北側でできる準備作業はありますが、全体の作業量は不足します」


「手配解除費用は」


真鍋が尋ねた。


「一組を解除した場合、現時点の見込みは九百万円です。下請けからの正式な精算資料は、明日以降になります」


「再手配は」


「最短で三週間。ただし、確約できません」


「次」


「仮設道路を新設する案です」


大沢は別の図面を広げた。


「概算一億四千万円。排水施設と法面保護を含めています。ただし、追加測量と設計確認が必要です。今日決めても、来週月曜から全面的に使えるわけではありません」


榊原は言った。


「何日かかる」


「順調でも三週間程度です」


「結局、来週は使えない」


「はい」


「三つ目」


「工事順序を組み替える案です」


大沢は、北側の区画を指した。


「来週から一組をこちらへ回します。測量、仮設排水、資材置場の整備を先行します。もう一組は解除し、必要になった段階で再手配します」


「追加費用は」


「現時点では、作業順序変更による直接費の増加を二千万円から三千万円と見ています。ただし、正式な変更見積もりは未提出です」


真鍋が聞いた。


「その変更作業は、現在の契約範囲に含まれますか」


「一部は含まれます。追加分は別途協議が必要です」


「今日の承認対象を分けましょう」


真鍋は紙を出した。


「来週から着手する既契約範囲の作業は継続。追加費用が発生する作業は、金額と内容が確定するまで発注しない」


大沢はうなずいた。


「可能です」


榊原は三つの案を見比べた。


一つ目は、待つ。


二つ目は、金を使って別の道を造る。


三つ目は、順番を変える。


どれも完璧ではない。


榊原は、北側の図面を指した。


「三つ目でいこう」


真鍋が顔を上げた。


「理由を確認させてください」


「今ある土地で進められる。余計な道路を造らずに済む。仕事のある班は残せる」


「はい」


「その代わり、再手配のリスクを取る」


「はい」


「それでいい」


真鍋は資料に書き込んだ。


大沢が言った。


「では、作業班一組の解除を進めます」


榊原はうなずきかけて、止まった。


「待ってくれ」


大沢が顔を上げた。


「はい」


「解除する班の責任者と話せるか」


「今ですか」


「できれば」


大沢は時計を見た。


「電話なら」


「頼む」


数分後、会議室のスピーカーから男の声が聞こえた。


下請け会社の工事部長だった。


大沢が状況を説明する。


男はしばらく黙っていた。


『分かりました。ただ、こちらも来週からの予定で人を押さえています』


榊原が口を開いた。


「榊原です」


電話の向こうで、声が変わった。


『あ、社長。お世話になっております』


「急な変更で申し訳ない」


『いえ、現場のことですから』


「解除費用は、契約と実際の手配に沿って協議させてほしい」


『承知しました』


「それと、次の工程でまたお願いしたい」


男はすぐには答えなかった。


『社長、それはありがたいんですが』


「うん」


『うちも人を遊ばせられません。今回いったん外すなら、次の予定は空いているところで組みます』


榊原は目を閉じた。


「そうだな」


『戻ってこいと言われて、戻れるとは限りません』


「分かった」


『すみません』


「謝ることじゃない。こちらの都合だ」


榊原は言った。


「今回は一組を外す。必要な費用は、確認したうえで払う。次の工程は、改めて条件を相談させてほしい」


『ありがとうございます』


電話が切れた。


会議室は静かだった。


榊原は大沢を見た。


「これで進めてくれ」


「承知しました」


大沢は席を立った。


小田も続いた。


真鍋だけが残った。


榊原は、図面を見ていた。


「真鍋」


「はい」


「九百万で済むなら安いな」


真鍋は答えなかった。


榊原は続けた。


「ただ、次に同じ班を呼べないかもしれない」


「はい」


「そこは九百万じゃ買えない」


真鍋は静かにうなずいた。


「そうですね」


榊原は、少し笑った。


「お前が言いそうなことだ」


「今日は社長が言いました」


「たまにはな」


真鍋は、決裁書を差し出した。


榊原は目を通した。


作業班一組の手配解除。


既契約範囲内での北側準備作業の継続。


追加工事は見積確定後に別途承認。


解除費用は実費確認のうえ協議。


どこにも、工事全体を止めるとは書いていなかった。


どこにも、予定どおり進むとも書いていなかった。


榊原はペンを取った。


「これでいい」


署名した。


真鍋は書類を受け取った。


「本社に戻ったら、資金繰り表を更新します」


「頼む」


「それから、工程表も更新してもらいます」


「分かってる」


「用地の引渡し予定と、工事で使用できる日を別の欄にします」


榊原は真鍋を見た。


「細かいな」


「必要です」


「今日は、その言葉ばかりだな」


「社長もです」


榊原は少し笑った。


「そうか」


真鍋は書類を鞄にしまった。


「社長」


「何だ」


「今日の判断は、間違っていないと思います」


榊原は顔を上げた。


「珍しいな」


「ただし、来週の工程は変わります」


「分かってる」


「次の融資実行に必要な工事進捗の確認にも、影響が出ないか見ます」


「まだ先の話だろ」


「先の話だから、今見ます」


榊原は、少しだけ表情を硬くした。


「次の融資が止まるのか」


「現時点で、そういう話ではありません」


「ならいい」


「ただ、融資実行の条件は、工事が動いていることだけではありません。契約で定めた確認資料と、実際の進捗が一致している必要があります」


榊原は黙った。


真鍋は続けた。


「工事の順番を変えれば、支払いの順番も変わります。銀行に提出する資料も変わります」


「説明すればいい」


「はい。説明できるようにしておきます」


榊原はうなずいた。


「それがお前の仕事だ」


「そうです」


真鍋は、そこで言葉を切った。


「ただ、工程を決めるのは社長です」


榊原は真鍋を見た。


「分かってる」


「今日の判断も、社長の判断です」


「当然だ」


「私も、その判断に必要な数字を出しました」


真鍋は静かに言った。


「ですから、結果が悪ければ、私にも責任があります」


榊原はしばらく真鍋を見ていた。


「お前は、責任を分けたがるな」


「分けたいわけではありません」


「じゃあ何だ」


「誰が何を決めたか、残しておきたいんです」


榊原は決裁書を見た。


自分の署名。


真鍋の確認印。


現場所長の報告書。


一枚の紙に、複数の人間の名前が並んでいた。


「残しておけ」


榊原は言った。


「後で見返せるようにな」


真鍋はうなずいた。


「はい」


夕方、現場の外では、作業員たちが道具を片づけていた。


榊原は帰りの車に乗る前に、もう一度進入路を見た。


朝と同じ道だった。


水路があり、畑があり、細い橋がある。


大型車両はまだ通れない。


その道の向こうに、建設予定地が広がっている。


榊原は、そこに完成後の姿を思い描いた。


発電設備。


データセンター。


物流拠点。


道路を行き交うトラック。


人が働き、電力が流れ、金が生まれる。


その景色は、朝と変わらず見えていた。


ただ、そこへ至る道筋が一本、変わった。


車に乗ると、運転手が尋ねた。


「本社へ戻りますか」


「ああ」


榊原は答えた。


車が動き出した。


窓の外で、現場の仮囲いが後ろへ流れていく。


榊原は携帯電話を取り出した。


真鍋からメールが届いていた。


件名は、工事順序変更に伴う資金繰り表の修正。


添付ファイルが二つある。


一つは、更新後の支払予定表。


もう一つは、変更後の工程表だった。


榊原は工程表を開いた。


来週の欄に、赤い線が引かれている。


予定されていた作業の一部が消え、別の作業が書き込まれていた。


その下に、小さな注記があった。


土工班一組、手配解除。


再手配時期、未確定。


榊原は画面を拡大した。


未確定。


金額ではなかった。


日付でもなかった。


ただ、いつ戻るか分からないという意味だった。


榊原は、その文字をしばらく見ていた。


そして、画面を閉じた。


工事は止めなかった。


止めないために、予定していた人間を一組、手放した。


その夜、大沢のもとには下請け会社から連絡が入った。


解除した作業班について、翌月から別の現場への投入が決まったという。


大沢は電話を切ると、工程表の該当欄に鉛筆で書き込んだ。


再手配不可。


少し考えてから、その横に日付を入れた。


まだ工事は始まったばかりだった。


だが、来月そこに来るはずだった七人は、もう来ない。

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