残金1,842円|第52話「工程表の赤い線」
午前七時四十六分。
相原が消そうとした線を、榊原は指で押さえた。
「ここまで消す必要があるのか」
指の下には、造成完了から次の工事へ伸びる細い横棒があった。右端に、小さく引渡しと印字されている。
本社の会議室へ持ち込まれた工程表は、机二つ分の長さがあった。相原は端をテープで留め、丸まろうとする紙を押さえていた。
「消すのではありません。いったん、確定した予定から外します」
「当初進入路側の着手日が決まっていない。それは分かる。その先まで外したら、全体が組めない」
「その着手日を使って、後ろの日付を計算しています」
相原は赤い鉛筆を置いた。
榊原の指があるため、線の続きを引けなかった。
窓際で真鍋が鞄から資料を出している。誰も、榊原に指をどけろとは言わなかった。
「北側は動いている」
「はい。そこは残します」
「配管も入っている」
「第一区域です。今、社長が押さえているのは、まだ渡せていない区域です」
榊原は指を離した。
相原は、横棒そのものを塗り潰さなかった。その上に赤い斜線を一本引き、欄外へ細い線を伸ばした。
開始条件と代替班の確定後、再算定。
完成予定日の左側に、初めて赤い線が届いた。
昨日までは、そこだけ黒かった。
午前八時十二分。
現場の画面に大沢が映った。背後の窓を、作業着姿の人影が通り過ぎる。
「北川さんの測量確認は」
榊原が聞いた。
「予定した高さは確認できました。第二区域は、引渡し前の確認を進めます」
「先の予定も聞いたんだな」
「昨日の作業後に聞きました。今の注文範囲を終えた後は、別現場へ移ります。こちらの未着手部分を、そのまま続けて受ける予定にはできないそうです」
「条件を出せば検討するのか」
「別現場の注文を受けています。今の時点で、こちらから条件を出しても空きにはなりません」
榊原はうなずいた。
四人を横へ移す線も、引けなかった。
「北側で先にできるものを拾え。それで何日戻せるか見る」
「拾っています。ただ、日数を足せば全体が同じだけ早くなるわけではありません」
大沢が相原へ目を向けた。
相原は、工程表の別の場所を指した。
「北側のこの作業を先に終えても、こちらの区域を使う工事は始められません。別の場所が空くことと、必要な場所が空くことは違います」
「重ならないように組み替えればいい」
「そこを、今日、関係業者へ確認します」
「昨日まで確認していなかったのか」
「北側の順序変更は確認しています。今日は、当初進入路側の班が戻らない前提で、後に入る業者の予定を洗い直します」
大沢は、机の上の紙を一枚取った。
「土工だけを入れ替えて済むかどうかです」
榊原は赤い線を見た。
七人の予定が消えた場所から、離れた場所へ線が伸びていた。
午前九時三十八分。
榊原と真鍋が現場事務所に着くと、相原は電話中だった。
「その人数で来てもらう必要はありません。まず、一部だけ渡した場合の施工条件をお願いします」
相原は受話器を肩に挟まず、空いた手でメモを取っていた。
「ええ。確定した着手日としてではなく、検討用です」
電話を終えてから、相原は椅子を二脚引いた。
机の中央には、北側の区域図が置かれていた。第一区域の配管部分には青鉛筆で印があり、その先で色が途切れている。
「配管班を、そのまま次へ流せるか確認しました」
「どうだった」
「今、渡している範囲は施工できます。そこから先は、掘削と床付けの確認が必要です。まだ、その作業をする班と日が決まっていません」
「北川さんの終わった場所から渡せ」
「渡せる場所は渡します。ただ、次の区間へつながる順番になっていません」
大沢が、二つの区域の間へ鉛筆を置いた。
「離れたところだけ先に施工するなら、機械や材料を動かし直します。仮に保護する部分も出ます。今の注文範囲と条件で、そのままやってもらう話にはできません」
「追加を見ればできるのか」
「施工方法を確認します。できるなら、費用と日数を出してもらいます」
「出せるものは今日出せ」
相原がうなずいた。
外で、トラックの後退を知らせる音がした。
窓から見える第一区域には、管材を吊るための帯を確認している作業員がいた。一人がしゃがみ、別の一人が重機の運転席へ手を上げる。
止まってはいない。
榊原は、その動きをしばらく見ていた。
目の前で仕事が進む音を聞いていると、紙の上で完成日を疑うことの方が、間違っているように思えた。
午前十時五十七分。
配管業者の担当者が事務所へ来た。
灰色の作業着の胸に、折り畳んだ手袋を差していた。椅子を勧められてもすぐには座らず、まず区域図をのぞき込んだ。
「ここだけ先に、というのは、この区間ですか」
相原がうなずく。
担当者は鉛筆を借り、図面の上へ短い線を二本引いた。
「ここで一度止めるなら、端部の処理と保護が要ります。後から重機が近くを通るなら、その条件も見たいです」
「できないということではないんだな」
榊原が言った。
「施工は検討できます。ただ、同じ人数を置いたままにするほどの数量はありません」
「少ない人数で続ければいい」
「今の区間を終えた後、次がいつ渡るかによります。二日分ずつ渡されて、その間を空けられると、班の予定が組めません」
担当者はようやく座った。
作業着の膝に、乾いた土が付いていた。
「今、ここへ来ている人間を別へ出すと、戻す時は、また予定を合わせます」
榊原は口を開きかけた。
同じ話だ、と言いそうになった。
七人を失った話を、今いる班にもう一度聞かされている。
「いつまでに、こちらが答えればいい」
担当者は相原を見た。
「明日の午後までに、次の区間を続けて渡せるか、見通しをください。渡せないなら、今の範囲を終えたところで、いったん引き揚げる段取りに入ります」
「明日、通路の協議がある」
「その後で構いません。ただ、協議がまとまっただけで、次の区間へ入れるとは限りませんよね」
「そうです」
大沢が答えた。
担当者は頭を下げた。
「こちらも、明日の返事を聞いてから、次の現場と調整します。今日、引き揚げを決めに来たわけではありません」
榊原は、その顔を見た。
強く言えば、もう一日待つとは言うかもしれなかった。
だが、その一日の終わりに渡せる場所を、榊原はまだ持っていなかった。
「明日の午後、こちらから答える」
「お願いします」
担当者は手袋を胸へ押し込み、現場へ戻った。
昼食の弁当は、事務所の隅に積まれていた。
榊原が蓋を開けた時には、大沢は半分ほど食べ終えていた。相原は電話へ出て、まだ箸を割っていない。
真鍋は、紙コップの茶を机の端へ寄せた。
「配管班まで、手放すことになりますか」
「今、決める話じゃない」
「分かっています。ただ、明日の回答が必要です」
榊原は、冷めた魚を箸でほぐした。
「大沢さん。細切れに渡してでも、残す価値はあるだろう」
大沢は飲み込んでから答えた。
「あります。動かし直す手間を払っても、全体が早くなるなら」
「それを出してくれ」
「出します。ただ、残すこと自体を目的にはしません」
榊原は箸を置いた。
「一度出したら、次はいつ来られるか分からない」
「ですから、残す案も調べています」
大沢は弁当の蓋へ箸を置いた。
「社長。今、来ている班の仕事まで、日付だけで延ばさないでください」
「仕事はある」
「次に施工できる形になった仕事です」
相原が電話から戻った。
誰も続きを言わなかった。
榊原は蓋の裏へ付いた米粒を取り、口へ入れた。
午後一時二十一分。
小田が、翌日の協議に持参する図面を広げた。
代替通路の幅と、農地へ出入りする時間帯が書かれている。工事側が使う範囲とは、色を分けてあった。
「先方には、この案を見てもらいます」
「受け入れられた場合、いつ引き渡せる」
「合意した内容によります。明日、その場で使用開始まで全部決められるとは言えません」
「最短の場合でいい」
小田の指が、図面の角で止まった。
「最短というのは、どこまでですか」
「大型車両を入れられるまでだ」
大沢が椅子を寄せた。
「用地側の手続きが終わったら、こちらで現地を確認します。通路の整備が必要ですし、搬入する車両に合うかも確認します」
「並行できないのか」
「図面で検討するものは、今日進めます。ただ、明日の合意で条件が変われば直します」
小田は、工事側の書類をのぞいた。
「協議成立の日から、工事開始まで何日、と先方へ言う必要がありますか」
「ない」
榊原は答えた。
「工事のために、農作業の条件を削る話にはしない。明日は、その案を決めることに絞ってくれ」
小田の指が動いた。
「分かりました」
「その代わり、決まった内容と残った内容を、協議が終わったらすぐ大沢さんへ渡す。口頭で、まとまりそうだ、とは流さない」
「承知しました」
小田は図面を巻き直した。
榊原は、その輪が小さくなるのを見ていた。
道が決まるだけでは、工事は始まらない。
それでも道を決めなければ、その先は一日も数えられなかった。
午後二時四十二分。
相原が、部分施工の検討結果を持ってきた。
配管を一部先行する案では、確かに施工量を増やせた。ただし、予定している次の作業に必要な区間は完成しない。
「機械を移して、また戻すことになります。先に埋めた部分の保護も必要です」
「何日戻る」
「全体の引渡しでは、今のところ短縮を見込めません」
「作業は進むんだろう」
「進みます。ただ、後の作業が待っている場所は残ります」
相原は、区域図の小さな区間をなぞった。
面積なら、ほかにもっと広く空く場所があった。そこを片付ければ、写真には進んだ現場が写る。
だが、次の班が必要としているのは、この細い区間だった。
「ここがつながらなければ駄目なのか」
「今回の順序では、そうです」
「その順序を変える案は」
「大沢さんと確認しました。変える場合も、先に必要な造成が残ります」
榊原は図面から手を離した。
事務所の外では、重機が土をすくっていた。
動いているものを増やせば、遅れは薄まると思っていた。
相原の鉛筆は、小さな区間から動かなかった。
「その案は、採用しない」
相原が顔を上げた。
「部分施工の案ですか」
「ああ。追加を払っても、必要な引渡しが早くならないなら、今はやらない。今の注文範囲は予定どおり進めてもらえ」
「はい」
「配管班を残す別案があるなら、明日の回答までに出せ。ただし、仕事を作って残すな」
大沢が、その言葉を書き留めた。
榊原は、書き終わるまで待った。
午後三時五十八分。
完成日を動かさずに済む案は、まだ残っていた。
相原が出した紙では、未着手区域の工事を分け、二つの班を同時に入れる。使う重機も増やす。
榊原は紙を引き寄せた。
「これでいいじゃないか」
「成立すれば、遅れを圧縮できる案です」
「何が必要だ」
「まず、二つの班を入れられる作業範囲です。搬入と土の運搬がぶつからない配置も要ります。班と機械は、まだ確保できていません」
「候補会社に聞け」
「条件をまとめて聞きます。ただ、昨日の三社の回答だけでは、この案は組めません」
榊原は配置図を見た。
二つの重機が、同じ通路を使うようになっていた。
「時間を分ければいい」
「その分、一台当たりの稼働時間が減ります。それを入れて、もう一度計算します」
「夜も使う案は」
大沢が首を横に振った。
「今の近隣条件で、夜間施工を前提にはできません。交代要員も必要です。作業時間だけ延ばした案は出しません」
榊原は紙を置いた。
できることを探すための図だった。
その図を見て、もうできるようになったつもりでいた。
「案は残せ。必要な条件と、返事をもらう期限を付けろ」
相原がうなずく。
「完成日は戻しますか」
「戻さない。まだ、使える案じゃない」
真鍋が、机の端で資料を閉じた。
午後五時十六分。
北側の作業終了報告が届いた。
第二区域では引渡し前の確認が進み、第一区域の配管も予定した範囲で進んでいる。大沢は報告を読み、翌朝の作業を一つずつ確認した。
現場には、明日やる仕事があった。
榊原は、その確認が終わるまで工程表を広げなかった。
作業員たちの車が事務所の前を通る。窓越しに頭を下げる者がいた。榊原も立って返した。
最後の車が見えなくなってから、相原が紙を置いた。
朝より、赤い線が増えていた。
その大半は、作業を削る線ではなかった。先行する作業から、後で必要になる作業へ伸びている。
一本をたどると、別の区域の引渡しへ届く。その日付が置けないため、次の横棒にも確定した始まりがなかった。
「これを、全部やり直すのか」
「全部ではありません。動いている範囲は、実績を入れて残しています」
相原が青い印を指した。
赤と青は、同じ紙の上にあった。
「明日の協議がまとまった場合と、まとまらなかった場合を分けています。ただ、まとまった場合も、候補班の下見と見積りが残ります」
「三社目の四週間後を入れたら」
「現時点の回答として入れています。着手の約束にはしていません。下見後に、施工範囲と必要日数を確認します」
「完成日は」
相原は紙の右端を見た。
「今の条件では、当初日を守れる工程を提出できません」
榊原は椅子へ座った。
昨日、自分で、完成日も含めて引き直せと言った。
まだ協議の前日だった。
だが、目の前の線は、明日の返事を待つだけでは元に戻らなかった。
午後六時三十一分。
真鍋は、工程表の隣へ契約関係の一覧を置いた。
「工事契約上の期限を、ここで勝手に消すことはできません。今日の工程検討とは分けます」
「分かっている」
「工程を見直すことと、工期や代金の変更を合意することは別です。施工会社から必要な協議事項を出してもらいます」
大沢がうなずいた。
「こちらでも、根拠を整理します。今日の赤い線だけで、追加費用を決めていただく話ではありません」
「九百万円の概算も混ぜるな」
「手配解除の実費確認は、別で進めています」
真鍋が答えた。
榊原は、契約期限が残る一覧と、完成日を置けない工程表を見比べた。
二枚の紙は、同じ事業のものだった。
片方だけを書き直しても、もう片方は変わらない。
「銀行への次の説明は」
「確認済みの進捗と、見直している工程を分けます。報告の時期は契約上の扱いも確認します。完成日を維持できる根拠がないまま、維持とは書きません」
榊原は、すぐに返事をしなかった。
ここで日付を外せば、現場だけの話では済まなくなる。
社内の別の部署も、その日付で準備を進めている。問い合わせを受ければ、まだ決まっていないと答えなければならない。
「代わりの日を聞かれるぞ」
「確認できていないものは、確認中と答えます」
真鍋は、ペンを置いた。
「いつ答え直すかは、こちらで決められます」
午後七時二分。
相原が、本社へ送る工程表を画面に映した。
当初完成予定日は、欄外に残してあった。契約関係の確認にも、変更の比較にも必要だった。
その下に、現在の工程見通しがある。
完成見通し、再算定中。
榊原は画面を見たまま言った。
「社内で、元の日付だけが使われないようにしろ」
相原の指が止まった。
「配布先へ、差替えを依頼します」
「依頼だけではなく、受け取ったか確認する。別の部署が、古い日付で次の約束をしないように」
真鍋が資料を開き直した。
「発注や対外回答に使っている予定日も、確認します」
「ああ。ただし、現場が全部止まったという伝え方はするな。北側の実績は、そのまま載せる」
相原は、送信先を一つずつ確認した。
榊原の名前も入っていた。
大沢は壁の工程表へ近づき、透明な覆いを持ち上げた。古い紙の端を外すと、長い横棒がゆっくり丸まった。
榊原は、その紙を受け取った。
折り目を付けようとして、やめた。机の脇へ立て掛ける。
明日の協議で道が決まるかもしれない。
候補の会社が、条件を合わせてくるかもしれない。
圧縮案が使える可能性も、なくなってはいなかった。
相原が画面の送信ボタンへ手を置いた。
「これで、出します」
榊原はうなずいた。
短い操作音がした。
壁には、大沢が新しい紙を留めていた。青い実績線の先から赤い線が伸び、その先の完成欄は空いている。
榊原の携帯が、机の上で震えた。
自分にも同じ工程表が届いていた。
画面を開いた時には、もう誰にも、元の日付を約束できなかった。




