残金1,842円|第51話「再手配不可」
午前七時十四分。
榊原の目の前で、七人の予定が埋まった。
「来月末までは動かせません」
電話の向こうで、施工会社の工務担当者が言った。
現在入っている現場が終われば、こちらへ戻る可能性があると工程表に残していた班だった。
榊原は本社の小会議室にいた。窓の外では、始業前の清掃をする社員が玄関のガラスを拭いている。机には、赤い線を引いた古い工程表と、未契約と書き直した新しい工程表が並んでいた。
「昨日は、終了後について照会を受けているという話だった」
「昨夜、次の現場の元請から正式な条件が来ました。今朝、七人全員の予定を確認しました」
「うちの返事を待たなかったのか」
「御社からは、施工範囲も開始日もいただいていません」
声は責めていなかった。
だから、榊原も声を上げられなかった。
「来月末までというのは、七人全員か」
「班としては、です。途中で一人か二人空く日はあるかもしれません。ただ、その人数だけをこちらへ出しても、予定していた工事はできません」
「その後なら戻せるのか」
「戻す、という約束にはできません。来月末に新しい現場が終わった時点で、次の予定を確認します」
榊原は赤い線の下に、来月末まで別現場と書いた。
「金額を上げても駄目か」
「今の現場を終えた後に受ける注文を断って、こちらへ移す話になります。金額だけでは決められません」
通話が切れた。
電話を置いても、七人の予定は戻らなかった。
午前七時二十九分。
真鍋が会議室へ入った。
「確定しましたか」
「来月末まで別現場だ」
「当社の完成予定との関係は」
「そのままでは待てない」
真鍋は椅子へ座り、二枚の工程表を見比べた。
「同じ七人の再手配は、現時点では不可と記録します」
「別の班を探せ」
「大沢さんが、施工会社の協力会社へ条件を出す準備をしています」
「準備じゃない。今日、探すんだ」
「何日から入る班を探しますか」
榊原は答えかけて止まった。
当初の進入路は、まだ使用できない。
地権者側が問題にしている代替通路と生活動線も、合意に至っていない。北側から入れるのは、現在契約している小型重機と、その施工範囲までだった。
「最短だ」
「最短の日付を、誰が決めますか」
「小田に確認させろ」
「用地側が答えられるのは、交渉状況です。使用開始日を約束できる段階ではありません」
榊原は窓の方を見た。
以前なら、候補を先に押さえ、条件を後から合わせた。受注が増えた物流事業でも、車両を先に確保したことで荷主を逃さずに済んだことがある。
人と機械を早く押さえる。
それ自体が、間違いだったわけではない。
「開始日を幅で出せ」
「待機を含む条件になります」
「見積りを取ればいい」
「その条件で出します」
真鍋は反対しなかった。
午前八時六分。
現場と本社をつないだ画面に、大沢と相原が映った。二人の後ろでは、北川土工の朝礼が始まっている。
「当初進入路側の代替班を、今日中に候補化する」
榊原が言った。
大沢は画面の外へ目を向け、誰かへ待つように手を上げた。
「見積条件を確認させてください」
「昨日、骨格は作っただろう」
「施工範囲、予定数量、必要な機械、地盤条件までは整理しています。開始日がありません」
「幅で出す。最短で入れる日と、待機できる期間を答えさせろ」
「開始条件はどうしますか」
「進入路が使えることだ」
「通れるだけでなく、作業範囲を引き渡せることも必要です。入口が開いても、境界確認や仮設排水が終わっていなければ、班を入れられません」
相原が、画面に工程表を表示した。
当初進入路の使用合意。
通路の整備。
大型車両の現地下見。
仮設排水の接続。
施工範囲の引渡し。
どれにも、完了日は入っていなかった。
「全部終わるまで探さないつもりか」
「探します。ただ、契約できる状態と、候補を聞く状態は分けます」
「候補でいい。今日出せ」
「分かりました」
大沢は、見積依頼の表題を変えた。
下請注文見積依頼ではなく、施工可能時期・保有機械の照会。
まだ注文ではなかった。
午前九時二十二分。
一社目から返事が来た。
作業員は五人。
土工事の経験はある。必要な資格を持つ者もいる。
ただし、大型の油圧ショベルは別現場へ出ており、戻るのは三週間後だった。
「機械をこちらで用意すれば入れるのか」
榊原が聞いた。
大沢は電話を保留にして答えた。
「機械だけ借りればよいとは限りません。機種とアタッチメント、運搬方法、誰が操作するかを合わせます」
「資格者がいるんだろう」
「資格があっても、普段使っていない機械で同じ能率が出るとは限りません」
保留を戻し、大沢が先方へ確認する。
先方は、機械を元請側で用意する場合も検討できると答えた。ただし、現場条件を見なければ人数も日数も確定できない。進入路の下見ができる日を先に示してほしいという。
「下見だけなら今でもできる」
榊原が言った。
「通れる道がない状態を見ることになります」
大沢は受話器を置いた。
「現況確認としては意味があります。ただ、搬入できるという判断には使えません」
「来てもらえ」
「候補日を聞きます」
午前十時四分。
二社目は、機械を持っていた。
作業員は三人。
追加の二人を別会社から組み合わせる案なら出せるという。
「五人で足りるのか」
「予定数量を見れば、元の七人と同じ日数にはなりません」
相原が答えた。
「機械が大きければ戻せるだろう」
「掘削だけなら近づけます。土の積込み、誘導、測量との調整まで含めると、人が減った分は残ります」
大沢が先方へ、追加の二人をどこから出すのか尋ねた。
まだ決まっていなかった。
同じ指揮系統で動いた実績も確認できない。二社の工事範囲を分けるのか、一社がまとめて注文を受けるのかも未定だった。
「人の名前は、いつ出ますか」
「正式に依頼をいただいてから調整します」
「正式依頼には、開始日が要ります」
「そこが分からないと、こちらも人を押さえられません」
大沢は礼を言って電話を切った。
榊原は、照会表の二社目へ印を付けた。
「消すな。組み方を確認しろ」
「残します。ただし、班として確保できたとは書きません」
「分かっている」
言葉が強くなった。
大沢は返事をせず、未確定と入力した。
午前十一時十八分。
小田から連絡が入った。
地権者側との次の協議は、二日後に設定できた。
代替通路の幅と、農地へ入る時間帯について、こちらの修正案を見てもらう。合意できた場合でも、書面化と現地表示が残る。
「二日後に決まる可能性はあるんだな」
「協議することが決まりました」
小田は言い直さなかった。
「修正案は、相手の希望を入れているのか」
「農作業の車両が通れる幅を残しています。工事車両が入る時間帯も分けました。ただ、相手が受け入れるかは、まだ分かりません」
「金額の話は」
「今回は通行条件です。土地の売買条件とは混ぜません」
「決まったら、すぐ工事へ渡せ」
「決まった内容を書面にしてから渡します」
通話が終わる。
榊原は、開始日の欄へ二日後と書きかけた。
真鍋がその手元を見ていた。
「協議日です」
「分かっている」
榊原はペンを置いた。
午後零時二十六分。
北川土工は、第二区域の掘削を進めていた。
昨日確認した柔らかい部分を避け、順序を変えている。配管班へ渡した第一区域では、管材が並び始めていた。
大沢は榊原を青い線の端へ連れて行った。
「こちらは、予定した範囲まで進めます」
「四人を、その先へ回せないのか」
「北川さんに確認はできます。ただ、今の注文を終えた後には、別現場の予定があります」
「何日空ければいい」
「空けてもらう話ではありません。先の仕事を断ってもらうなら、新しい施工条件と注文が必要です」
昨日、自分が七人について言ったことが、そのまま返ってきた。
北川土工の四人も、工程表の中で横へ移せる数字ではない。
「聞くだけ聞け」
「今日の作業後に、先の契約状況を確認します」
「作業中には聞かないのか」
「今は、受けている工事を進めてもらいます」
重機の音が近づき、会話が切れた。
午後一時五十三分。
三社目から回答が来た。
人と機械を一体で出せる。
人数は六人。
現場下見後に、必要なら一人を加える。
条件だけを見れば、最も近かった。
「開始できる日は」
榊原が聞いた。
「最短で、四週間後です」
相原が答えた。
「遅い」
「その前の現場が終わる予定日から、移動と準備の日を取っています」
「短くできないか交渉しろ」
「先方は、今の現場を短くする約束はできないと言っています」
「一週間だ」
「一週間短くしても、当初の工程には戻りません」
「何もしないよりはいい」
真鍋が、三社分の回答を一枚へ並べた。
一社目。
五人。機械なし。現地下見前。
二社目。
三人。機械あり。追加人員と契約関係が未定。
三社目。
六人と機械。最短四週間後。
どれも、元の七人の代わりではなかった。
「再手配不可、と報告するのか」
榊原が言った。
「同条件、同時期での再手配は不可です」
真鍋が答えた。
「それでは工事が止まったように見える」
「北側造成は動いています。当初進入路側は、まだ開始条件が整っていません。分けて書きます」
「銀行は、遅れを見る」
「だから、戻せる根拠のない日付は出せません」
榊原は三社目の四週間後へ丸を付けた。
「下見を頼め」
「三社ともですか」
「条件が合うところは全部だ」
大沢が首を横へ振った。
「一社目と三社目には、現況確認を頼めます。二社目は、誰が注文を受けるのか整理してからです」
「また書類か」
「事故が起きた時、誰の指示で動いていたか分からない班は入れられません」
榊原は丸の横へ、下見と書いた。
契約とは書けなかった。
午後三時九分。
施工会社から、変更後の工程案が届いた。
北側造成と配管工事は、区域を分けて継続する。
当初進入路側は、使用条件が確定するまで着手日を置かない。
候補班の下見は、地権者側との協議結果が出た後に実施する。合意に至らなかった場合は、現況説明だけで終わらせず、別経路案を再検討する。
完成予定日は、維持ではなく確認中になっていた。
「昨日より後退している」
榊原が言った。
「昨日は、関係業者の調整結果を確認中でした」
相原が答えた。
「今日、作業班の条件がそろわないことが分かりました。未確認だったものを、確認した結果です」
「結果が悪ければ、後退だ」
「工程表は、良く見せるための表ではありません」
相原の声は小さかった。
榊原は顔を上げた。
相原は目をそらさなかった。
「続けろ」
「はい」
相原は次の欄を読んだ。
候補会社の回答期限。
地権者協議の予定日。
進入路条件が確定した場合の現地下見。
見積りに必要な数量と図面の確定担当者。
決まっていない欄は残った。
だが、誰が次に答えるかは入った。
午後四時三十七分。
元の七人を抱える会社から、一通のメールが届いた。
現在の現場が終わった後も、七人の班は別の元請の現場へ続けて入る。その注文を正式に受けたという連絡だった。
次の現場を含め、来月末まで空きはない。
班の構成員七人。
この現場への再配置予定なし。
朝の電話では、口頭で聞いただけだった。今度は、施工会社の回答記録として残った。
榊原は画面を閉じなかった。
「九百万円の実費協議はどうなる」
真鍋が資料を開いた。
「九百万円は概算です。手配解除時点までに発生した費用について、施工会社が根拠資料をまとめています」
「班は別の仕事を取った」
「だから、当社が今後の待機費を払う話にはなりません。解除までに発生した費用がなくなるかどうかは、別です」
「こちらへ戻れないのに払うのか」
「戻すための金ではありません」
榊原はメールを印刷した。
七人の名前は書かれていなかった。
班の人数と、別現場の期間だけがある。
それで十分だった。
工程表へ戻る可能性は、もう残っていない。
午後五時五十二分。
北川土工の二日目の作業が終わった。
第二区域は予定した高さまで進み、翌朝に測量確認を行う。柔らかい部分の追加は見つからなかった。
大沢から届いた報告には、北側造成の進捗と、代替班の照会結果が別々に書かれていた。
動いている工事。
動かせない工事。
同じ現場の中に、二つの時間があった。
榊原は役員会へ出す資料の表題を見た。
当初進入路側作業班の再手配状況。
真鍋が、その下へ一行を加えた。
同条件・同時期での再手配不可。
榊原は不可の二文字を指した。
「代替案検討中も入れろ」
「入れます」
「下見予定も」
「協議結果後です。予定ではなく、実施条件として書きます」
榊原は椅子へ背を預けた。
「何なら書ける」
「今日、確認できたことです」
真鍋は、三社の回答を資料の後ろへ付けた。
一社目には機械がない。
二社目には班がない。
三社目には今月の時間がない。
金額の比較欄は空白だった。
見積りへ進める条件が、まだそろっていないからだった。
午後七時八分。
会議室に残っていたのは、榊原と真鍋だけだった。
古い工程表には、七人の横棒がある。
昨日の工程表には、未契約の空白がある。
今日の照会表には、三社の返事がある。
紙は増えた。
人は増えなかった。
榊原は、七人の横棒が残る古い工程表を裏返した。
「明後日の協議が終わるまで、何も決められないのか」
「決められることはあります」
「何だ」
「誰かが空くのを待つ工程には戻さないことです」
真鍋は、新しい工程表を榊原の前へ置いた。
当初進入路側。
開始条件未確定。
特定班なし。
候補二社、現況確認可能。
候補一社、契約関係確認中。
「人を押さえてから道を決めるのではなく、道と範囲を決めた時に、入れる人と機械を選びます」
「その時、誰もいなければ」
「工程を変えます」
「完成日は」
「変わる可能性があります」
榊原は、すぐには答えなかった。
窓の外で、本社の駐車場から最後の車が出ていく。
以前なら、空いている会社をさらに探せと命じていた。
今日も、探すことはやめていない。
だが、日付も範囲もない仕事を、先に注文することはできなかった。
榊原は新しい工程表へ手を伸ばした。
完成予定日の欄には、まだ元の日付が残っている。
その横に、確認中と書かれていた。
「明後日、道が決まらなければ、その日のうちに工程を引き直せ」
「はい」
「完成日も含めてだ」
真鍋は、返事をする前に榊原を見た。
「記録します」
榊原はうなずいた。
七人を戻すための欄は、もうなかった。
残っていたのは、道が決まらなければ、日付を変えるという一行だった。




