残金1,842円|第50話「一組を手放す」
午前六時五十八分。
運搬車の黄色い回転灯が、仮囲いの向こうに見えた。
「入口、閉めます」
大沢の声で、門の内側にいた作業員が動いた。
白い線の中から人が出る。資材を運んでいた小型トラックが止まり、準備工事の職長が別の搬入車へ待機の合図を送った。
榊原は門から三歩下がった。
金曜日に写真で見た場所には、何も置かれていない。杭も、資材も、作業員の車もなかった。
空いているのではない。
空けてあった。
午前七時。
運搬車は、二人の誘導員の合図に合わせて門を曲がった。長い荷台の後ろが仮囲い側へ振れ、白い線の内側で向きを変える。
荷台には、北川土工が使う油圧ショベルが載っていた。当初予定していたものより一回り小さい。それでも、営業車で下見した時とは、入口の見え方が違った。
「ここで固定します」
運転手が窓を開けて言った。
油圧ショベルは誘導に従って荷台を下り、決められた待機位置で止まった。すぐには青い施工範囲へ向かわない。
「動かさないのか」
「新規入場時教育と作業計画の確認が終わってからです」
大沢は、運搬車が門を出るまで見届けた。
午前七時二十一分。
「北側入口、搬入再開できます」
止まっていた小型トラックが動き出した。
白い線の中には、もう何もなかった。重機を降ろした後も、そこは使われない。引取りの日に、同じ運搬車が戻るためだった。
金曜日に追加した十八万円は、何かを作るためだけの金ではなかった。別の置場を整え、資材を移し、何も置かない場所を残すためにも使われる。
午前七時二十七分。
北川浩一が三人の作業員を連れて来た。四人とも、金曜日に確認した名簿と同じだった。
現場事務所で、大沢が一人ずつ氏名と資格を照合した。
使用する機械。運行経路。作業範囲。立入禁止の場所。合図を出す人間。異常があった時の連絡先。
北川は四人へ図面を見せた。
「青い線の外はやらない。社長から直接言われても、大沢さんへ戻す。機械の合図は一人にする。分からなければ止める」
榊原は事務所の後ろで聞いていた。自分の名前が出ても、口を挟まなかった。
午前八時二十七分。
油量、履帯、アーム、警報器。重機の始業前点検が終わった。
「始めます」
午前八時三十一分。
北川の声でエンジンがかかった。
オペレーターは誘導者の合図を見てから、青い範囲へ入った。最初の土を掘り、仮置場へ下ろす。
一回。
二回。
三回。
機械は小さい。しかも、掘り続ければよいわけではない。位置を確かめ、土の状態を見て、決めた高さを越えないように進める。
北川が一度、手を上げた。
重機が止まった。
「表土の下が少し柔らかい」
北川はスコップの先で地面を確かめた。大沢が写真を撮り、位置を図面へ残す。
榊原は腕時計を見た。
以前なら、始めた直後に止まるのかと言っていた。だが、ここで掘り進め、後から戻す方が時間を失う。
「確認してくれ」
それだけ言った。
柔らかい部分は、表面近くの限られた範囲だった。元請の管理範囲で処理し、北川土工の注文範囲は変えない。位置と処理方法を記録して施工を再開した。
土は動き始めた。
金曜日に決めた四人が来た。機械も入った。青い範囲の工事は、ようやく地面へ触れた。
午前九時三十八分。
相原が全体工程表を持って事務所へ入った。
「社長、確認していただきたい欄があります」
北側造成工事の下には、北川土工四人の名前がある。
その先。当初の進入路側で予定していた工事の欄に、別の一組が残っていた。
七人。
作業開始日は空欄。会社名の横には、再手配予定と書かれている。
「丸新土工とは別か」
「別です。丸新土工は北側造成の候補でした。これは、当初の進入路側で先に手配を外した七人です」
「もう別の現場へ行っただろう」
「はい。ただ、戻せる時期が分かれば再度相談する前提で、欄を残していました」
相原は、施工会社から届いた回答を置いた。
七人の班は別現場で仕事を受けている。その終了予定日は示されているが、この現場へ入れる日を約束するものではない。終了後についても、別の元請から照会を受けていた。
「うちへ戻す話をしていたんじゃないのか」
「空きが出た時に相談する話です。予約ではありません」
榊原は、再手配予定という文字を見た。
人はいない。
個別の下請契約もない。
来られる日も決まっていない。
それでも工程表の中には、一組が残っていた。
「この欄があるから、後の工程を組めているのか」
「一部は、七人が戻る可能性を置いています」
「可能性で工程を作ったのか」
「代替案もあります。ただ、人数と機械の組合せが変わります」
相原は別の工程表を開いた。
七人が戻らない場合、北側から入れる範囲を今の小型重機と別の作業班で順に進める。当初の進入路が使えるようになった後、大型機械と作業班を改めて手配する。
同じ七人が戻ることを前提にしない代わりに、作業の切替えが増える。測量確認も区域ごとに必要になる。機械の搬入と搬出が一回では済まない可能性もある。
「完成日は」
「今の時点では動かしていません」
「また余裕を使うのか」
「この区間の二日分は、すでに消化しています」
「では、どうやって守る」
「後の設備工事と重ねられる範囲を再確認します。ただし、関係業者の回答前です」
真鍋が工程表へ目を落とした。
「七人が戻る前提を外せば、同じ完成予定日を維持する根拠も変わるということですね」
「はい」
「銀行へは、まだ再手配予定と出しているのか」
「先週は、作業班再手配中と記載しています。会社名と人数は出していません」
「今日の更新では」
「開始日未定で残すか、特定班を置かない代替案へ切り替えるか、決める必要があります」
榊原は窓の外を見た。
北川土工の重機が土を運んでいる。
四人は来た。
七人は来ない。
人数を足せば十一人になる話ではなかった。
別の契約。別の範囲。別の機械。別の時期。
工程表の同じ横棒に置かれていても、互いの代わりにはならない。
午前十時十五分。
施工会社の工務担当者が現場へ来た。
「七人を戻せないのか」
榊原は工程表を机へ置いた。
「現時点では、戻せる日を約束できません」
「別現場が終われば戻せるだろう」
「終了後に、どの現場へ入るかは改めて契約する話です」
「こちらが先に頼んでいた」
「予定を確認していました。ただ、手配を外した後、この現場の個別注文は出していません」
「解除費用は払う話になっている」
「手配を外した時点までに発生した実費を整理する話です。今後の七人を押さえる代金ではありません」
真鍋が尋ねた。
「七人を確保するなら、何が必要ですか」
「施工範囲と開始日を決め、見積りを取り、個別に注文する必要があります」
「開始日は、当初の進入路が使えなければ決められない」
「はい」
「進入路が使える日を待ってから注文すれば」
「その時に空いている班を探します。同じ七人とは限りません」
榊原は指で机を一度たたいた。
「待機させることはできないのか」
「期間と条件を決めれば可能です。ただし、七人はすでに別現場へ入っています。その仕事を終えた後の期間を空ける話になります」
「その時点で進入路が使えなければ」
「待機費用が発生する可能性があります」
「工事範囲が決まっていなければ」
「注文を出せません」
七人を戻すには、七人が空く日を待つ。進入路が使える日を決める。施工範囲と金額を決める。注文を出す。
どれか一つだけ先に決めても、班は動かない。
「代わりの班は」
「探します。ただ、人だけでは決められません。使う機械と作業範囲を合わせます」
「七人を工程表から消したら、探すのをやめるのか」
「やめません。特定の一組が戻る前提を外すだけです」
「同じことじゃないのか」
「違います」
工務担当者は、再手配予定の欄を指した。
「この書き方だと、その七人が戻るように見えます。実際には、その契約はありません」
午前十時五十八分。
大沢がヘルメットを脱がずに事務所へ入った。
「七人の班を、工程表から外す」
榊原が言った。
「代替の施工計画を作ります」
「北側の四人で全部やれるか」
「今契約している範囲は進められます。その先は、進入路と施工範囲が決まってからです」
「七人が戻らなくても、工事は止めない」
「止めません。ただ、同じ速度で進むとは約束できません」
「守れる案を出せ」
大沢は少し間を置いた。
「守れる条件を出します。誰を、いつ入れるかまで決めます」
榊原は、その間を拒絶とは受け取らなかった。
「今日中に出せるか」
「骨格は出します。下請会社の回答が必要な部分には、回答期限を付けます」
「分かった」
榊原は相原へ言った。
「消せ」
相原は、再手配予定、七人、開始日未定と書かれた行を削除した。
横棒が一つ消えた。
代わりに、未契約と残した。
「そこまで消さないのか」
「なぜ外したかを残します」
真鍋が答えた。
「後から別の班を契約した時、この空白を、以前から契約済みだった期間へ変えないためです」
榊原は工程表を見た。
一組を手放すというのは、七人を帰らせることではなかった。
七人は、最初からここにいない。
戻ると思っていた欄を、工程表から外すことだった。
午前十一時三十七分。
北川土工の重機が止まった。仮置場が予定量へ近づいている。
掘削を続けるため、先にたまった土を次の置場へ移す。
機械は一台だった。
掘るために使えば、運べない。運ぶために使えば、掘れない。
「七人いれば、早かったのか」
榊原が尋ねた。
「同じ場所へ七人を足しても、機械が一台なら掘る量は大きく変わりません」
大沢が答えた。
「なら、手放しても問題ない」
「この範囲では、です」
「先では違うのか」
「大型機械を入れられる範囲が開き、人と機械と置場がそろえば、進め方は変わります」
「今の四人は」
「この契約が終われば次の予定があります。先の工事へそのまま移れるとは限りません」
北川土工も、この現場のために一年中空いているわけではない。
人がいるのではない。
決めた期間だけ、人が来ている。
午後零時十二分。
北川が午前の出来高を大沢へ渡した。
掘削した範囲。仮置きした土の量。柔らかい部分を処理した位置。重機を止め、再開した時間。
「予定より」
「少し遅れています。最初の地面確認と、土の移動を早めた分です」
「今日中に戻せるか」
「午後の地盤と、配管班へ渡す区域の確認次第です」
「人を増やせば」
「今日の作業へ、今から別の人は入れません。範囲と指揮系統を決めていません」
北川は机の工程表を見た。
「うちの四人で受けた仕事は、四人で進めます。遅れが出るなら、大沢さんへ報告します」
「黙って遅らせないということか」
「黙って人数も増やしません」
午後一時四十一分。
施工会社から代替工程の骨格が届いた。
今の北側造成は、北川土工との契約どおり進める。配管班へ区域を順次渡す。当初進入路側の工事は、使用可能日が決まるまで特定班を置かない。
見通しが出た時点で、機械と作業班を一体で手配する。候補会社は一社に限定しない。見積条件には、搬入経路、作業範囲、予定数量、地盤条件、施工日数を含める。
「完成予定日は」
「維持する案です」
相原が答えた。
「根拠は」
「設備工事との区域分けを増やします。ただ、電気設備会社と配管班の確認が必要です」
「確認前に、維持と書くな」
榊原が言った。
「条件付きと書け。誰の返事が必要かも入れろ」
榊原は、修正された工程表を引き寄せた。
朝には七人の横棒があった。
今は空白になっている。
その下に、代替班選定条件という欄が増えていた。
人数も、会社名も、開始日もない。
決まっていないことが、決まっていないまま残されている。
午後三時十八分。
第一区域の掘削が終わった。
元請の測量担当が高さを確認する。北川土工の四人は、機械を第二区域へ移す前に待った。配管班は、まだ入らない。
二か所を測り直し、大沢が記録を確認した。
「第一区域、配管班へ渡します」
待っていた二人が資材を持って入った。北川の重機は第二区域へ移る。
同じ場所へ二つの班を重ねず、終わった区域を次へ渡す。予定より二日長い土工事を、後の作業と区域で重ねる。
七人の班はいない。
いないまま、現場は動いた。
その事実は安心ではなかった。
いなくても今日の工事は進む。だから、先の工事にも要らないとは限らない。
午後四時五十六分。
北川土工の初日の作業が終わった。
重機は決めた位置へ止められ、バケットが地面へ下ろされた。北川が出来高を報告する。
「第一区域は引渡し済み。第二区域は、予定したところまでです」
「遅れは」
「午前の停止分を、午後で半分戻しました。残りは明日の順序で調整します」
「施工日数は変えるか」
「まだ変えません。明日の地面を見てからです」
変えない。
だが、確定でもない。
榊原は、その後に付いた条件まで役員会へ持ち帰ることにした。
午後六時二十三分。
本社の会議室で、真鍋が更新後の工程表を印刷した。
北側造成工事。
北川土工四人。
小型重機一台。
月曜着手済み。
第一区域引渡し済み。
当初進入路側の作業班。
未契約。
開始日未定。
特定班の再手配予定を削除。
代替班は施工条件確定後に選定。
完成予定日は、関係業者との調整結果を確認中。
榊原は一行ずつ読んだ。
「七人の会社名は出さないのか」
「契約していない会社を、再手配先として銀行へ出す方が問題です」
「手放したことは」
「特定班を前提としない工程へ変更した、と書きます」
「言葉が軽いな」
「解除した個別契約があるようには書けません。手配を外した時点の実費協議と、今後の下請契約は別です」
真鍋は工程表の空白を指した。
「今日失ったのは、契約ではありません。この班が戻るかもしれないという前提です」
七人へ新しく金を払ったわけではない。今日、違約金が発生したわけでもない。現場から七人を追い返したわけでもない。
数字だけを見れば、何も減っていない。
だが、工程表から一組が消えた。
「これを役員会へ出せ」
「はい」
「旧版も付けろ」
真鍋は、朝の工程表と更新後の工程表を並べた。
一枚目には、七人の横棒がある。
二枚目には、空白と条件がある。
紙の重さは変わらなかった。
午後七時十一分。
大沢から写真が届いた。
決めた位置に止めた小型重機。配管班へ渡された第一区域。誰もいない切り返し区画。
次の写真には、作業員配置表が写っていた。
北川土工四人。
元請の施工管理担当者。
測量担当。
配管班。
七人の名前はなかった。
榊原は写真を閉じ、朝の工程表を見た。
人は、工程表の横棒ではなかった。
契約が終われば別の現場へ行く。
注文がなければ待たない。
金を払えば、失った日付ごと戻ってくるわけでもない。
榊原は、再手配予定と書かれた古い欄へ赤い線を引いた。
その一組を手放したのは今日ではない。
今日、ようやく、もう戻る前提では組めないと認めた。




