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残金1,842円|第47話「請負契約」

 午前七時五十八分。


 大沢から届いたメールには、写真が一枚だけ添付されていた。


 北側工区の仮囲い。その手前で、重機を載せた運搬車が止まっている。


 件名は、搬入待機。


 榊原は本文を開いた。


〈本日の搬入は、午前十時までに判断が必要です。新たな造成範囲について、発注範囲の確認が取れていません〉


 電話をかけると、大沢はすぐに出た。


「誰が止めた」


「私です」


「北側は進めると言ったはずだ」


「既に受けている準備作業は進めています。今日入れる予定だった重機は、その次の造成用です」


「昨日までは、入れる予定だったんだろう」


「入れるつもりで確認を進めていました。ですが、昨日の用地一覧では、使えない区画が施工範囲に残っています」


 榊原は椅子へ座った。


「そこを外して進めればいい」


「外すなら、施工範囲を変えていただく必要があります」


「大沢さん」


「はい」


「俺たちは、同じ工事をしているんじゃないのか」


 電話の向こうで、車のエンジン音がした。


「同じ事業です。ですが、会社として受けている工事は、全部ではありません」


 午前八時二十六分。


 真鍋が社長室へ入ると、榊原は上着を着ていた。


「現場へ行く」


「大沢さんから連絡がありました。契約資料を持っていきます」


「止める話ではない」


「分かっています」


「分かっているなら、現場で止めない方法を出せ」


 真鍋は鞄へ書類を入れた。


「施工会社の担当者にも来てもらいます。大沢さんだけでは決められない内容があります」


「所長だろう」


「現場を管理する権限と、会社が請け負う金額を決める権限は同じではありません」


 榊原は先に部屋を出た。


 午前九時十一分。


 現場事務所の前には、運搬車が止まっていた。


 荷台の重機は、まだ降ろされていない。


 運転手が車外で水を飲んでいる。大沢は榊原の車を見ると、事務所の扉を開けた。


「あと四十九分です」


「聞いている」


 机には、図面と、締結済みの準備工事の契約書があった。その横に、これから発注する造成工事の見積書が置かれている。


 榊原は二つを見比べた。


「北側を動かす契約はあるんだな」


「あります」


 大沢は契約書の添付図面を開いた。


「仮囲い、仮設排水、測量関係、それに施工のための準備です。今動いているのはこちらです」


 次に、造成工事の見積書へ手を置いた。


「こちらは、その次です。切土、盛土、地盤の整形。施工範囲と数量を詰めて、発注いただく段階です」


「見積は出ている」


「出しています」


「工程表にも入っている」


「入れています」


「なら、何が足りない」


「どこまでを、どの条件で受けるかという合意です」


 榊原は図面を自分の方へ引いた。


 黄色で塗られた施工予定範囲の端に、赤い線が引かれていた。


 昨日の用地一覧で、月末まで前の所有者が資材置場として使うと分かった区画だった。


「ここを外せばいい」


「外すと、盛土の作業順序が変わります。重機の通路も変わります」


「それも含めて見積もれ」


「見積もります。ただ、今の見積書の金額で、そのまま受けたことにはできません」


 真鍋が図面の端を押さえた。


「今日、搬入しようとしている重機は、どちらの作業に使うものですか」


「造成です」


「既存の準備工事には必要ない」


「今の台数で足ります」


 榊原は運搬車の方を見た。


「使う仕事はある。止める必要はない」


 大沢は椅子へ座らなかった。


「仕事があることと、こちらが受けたことは別です」


 午前九時二十九分。


 施工会社の工務担当者が到着した。


 四十代半ばの男だった。汗を拭うと、最初に大沢へ尋ねた。


「運搬会社には」


「十時判断と伝えています」


「延長は」


「まだ頼んでいません」


 担当者は榊原へ向き直った。


「今日、造成の発注範囲を決めていただければ、条件を整理します。ただ、当初見積の全範囲で受けた後に、使えない場所を抜いていく方法は避けたいです」


「全部受けた方が、そちらも仕事になるだろう」


「受けても、できない部分が残ります」


「後でできるようになる」


「いつでしょうか」


 榊原は答えなかった。


 担当者は図面へ視線を戻した。


「使えるようになった時に、同じ作業班を置いておけるとは限りません。いったん現場を離れて、もう一度入るなら、その費用を決める必要があります」


「まだ出てもいない費用を、今から請求するのか」


「請求ではありません。どう扱うかを決めたいんです」


 大沢が紙を一枚置いた。


 今朝の作業指示だった。


 既存の準備作業。

 造成用重機は搬入判断待ち。

 未発注範囲には着手しない。


 一番下に、大沢の名前があった。


「私が職長へ、ここから先もやってくれと言えば、今日の作業はできます」


 大沢は言った。


「ですが、その作業を後で、誰の指示で、どの契約でやったのか説明できなくなります」


「俺が言ったと書けばいい」


「それを、会社の発注として残してください」


 榊原は大沢を見た。


 大沢は視線を外さなかった。


 午前九時四十二分。


 相原が修正図面を持ってきた。


 北側の施工予定範囲を、三つに分けていた。


 今すぐ使える土地だけで完結する部分。

 引渡し確認を待つ部分。

 南側進入路の選択によって施工順序が変わる部分。


「今日、発注できるのは最初の範囲です」


 相原は青く囲んだ部分を示した。


「既存の準備工事と重ならないように、作業項目も分けました」


 真鍋が尋ねた。


「この範囲だけ進めて、後で壊すことにはならないか」


「三案のどれになっても必要な造成です。ただし、この端には仮の排水処理が必要です。隣の区画へ流す設計にはできません」


「その費用は」


「取り直しです。当初見積は、一続きで施工する前提です」


 榊原は時計を見た。


「あと十八分しかない」


 誰も返事をしなかった。


 机の外で、運転手が大沢を呼んだ。


 次の運搬があるという。


 大沢は外へ出て、短く話して戻った。


「今日は戻すなら、今から積載状態の確認に入ります」


「待たせろ」


 榊原が言った。


 真鍋が顔を上げた。


「何時までですか」


「見積が出るまでだ」


「今日出ると決まっていません」


 工務担当者が答えた。


「数量の確認と、仮排水の施工方法が必要です。今日中に出せるかも、まだ約束できません」


「重機を戻して、また持ってくるのか」


「そうなります」


「無駄だろう」


 真鍋は鞄から手帳を出した。


「待たせる費用と、戻して再搬入する費用を確認します。ただ、待たせたからといって、造成を発注した扱いにはしません」


 榊原は窓の向こうを見た。


 荷台の運転席へ、運転手が戻っていく。


「今日使わないと、次に来る保証はないんだな」


 大沢が答えた。


「ありません」


 榊原は口を閉じた。


 必要な重機だった。使える土地もあった。事業には資金があり、施工会社も仕事を受けるつもりでいる。


 それなのに、一台を荷台から降ろせない。


 午前九時五十七分。


 榊原は言った。


「今日は戻せ」


 大沢がうなずいた。


「再搬入費用は、見積を取れ。今日の搬入について、どちらが何を負担するかは、手配の経緯を確認してから決める」


「分かりました」


「造成の発注は、今日決める。全部ではない。今できる範囲を決める」


 工務担当者が図面を引き寄せた。


 外で、運搬車のエンジン音が大きくなった。


 榊原は、その音が遠ざかるまで窓を見なかった。


 午前十時二十四分。


 真鍋は既存契約の作業内訳を、相原の図面と並べた。


「仮設排水が両方にあります」


 相原が画面をのぞいた。


「準備工事の排水と、今回の造成端部の処理です。場所が違います」


「図面で分かるようにしてください。同じ名前のままだと、同じ仕事を二度払うように見えます」


 大沢が既存の仮設排水を指でたどった。


「こっちは残します。今回必要なのは、この先です。ただ、接続部は既存側にも手を入れます」


「その接続部は、どちらへ入れますか」


 工務担当者が内訳に印を付けた。


「今回の造成側へ入れます。準備工事側の数量には加えません」


 確認は、一行ずつ進んだ。


 掘った土をどこへ置くか。

 置場は使用可能な範囲に入っているか。

 既存の仮囲いを移す作業は含むか。

 測量のやり直しは何を原因とするものか。

 工事用車両は、どの道を通るか。


 榊原は途中で立ち上がった。


「その確認を全部やってから、契約をするのか」


「受ける範囲を決める確認です」


 工務担当者が答えた。


「全部を今日決めろとは言っていません。分からない部分が残るなら、どこが残るかを決めます」


「金額を決めなければ発注できないだろう」


「ですから、範囲を決めています」


 男は言い終えてから、わずかに唇を結んだ。


 大沢が図面を押さえていた。


 榊原は椅子へ戻った。


「続けてくれ」


 午前十一時三十六分。


 未確定だったのは、掘削土の扱いだった。


 再利用できる土として現場内に置く想定だが、実際の状態によっては、処理方法を変える必要がある。


「その分も含めて、総額で出せないか」


 榊原が尋ねた。


 工務担当者は少し考えた。


「出すなら、こちらで余裕を見ます」


「どのくらい」


「調べずに今言える額ではありません。ただ、何も起きなければ、御社にとって高い契約になります」


「起きたら追加を出さない契約なら、それでいい」


「何が起きても追加なし、では受けられません。想定する地盤条件と、想定から外れた場合の確認方法は必要です」


 真鍋が言った。


「一括で受けてもらう部分と、確認後に協議する部分を分けましょう。追加は、現場判断でそのまま進めない。状況、必要作業、金額への影響を出してから承認する」


 大沢が首を振った。


「安全のために、その場で止められない作業はあります」


「そこは例外として、範囲を決めます」


「応急処置までです。後続の工事を全部進める理由にはしません」


 真鍋は書き込んだ。


 榊原は、その手元を見ていた。


 任せれば早い。


 だが、任せるという言葉だけでは、大沢がどこまで動いてよいかは決まらない。


「写真と日報を残せ」


 榊原が言った。


「応急処置は先にやっていい。ただし、安全確保に必要なところまでだ。その日のうちに、何をしたか、次に何が必要かを報告してくれ」


 大沢がうなずいた。


「それなら、職長へも説明できます」


 午後零時十八分。


 弁当が届いた。


 机の図面を片側へ寄せ、四人で食べた。相原は廊下で施工範囲の修正を続けていた。


 榊原が箸を置いた。


「大沢さんは、最初からこれを言いたかったのか」


「どれですか」


「全部は請け負っていないという話だ」


「準備工事の打合せでも、造成は別に範囲を詰めると話しています」


「俺は、順に発注するだけだと思っていた」


「順に発注していただく予定でした」


「それなら、同じじゃないか」


 大沢は弁当の蓋を閉じた。


「順番が変わりました。使える土地の範囲も、当初想定と違います。同じ内容では出せなくなっています」


 榊原は、空になった自分の弁当箱を見た。


「この現場を、最後までやる気はあるんだな」


「あります」


「だったら、もう少しこちらを信用してくれ」


 大沢はすぐに答えなかった。


 工務担当者も箸を止めていた。


「信用していないから、書くんじゃありません」


 大沢は言った。


「社長のいない日に、私が現場で同じ判断をできるようにしたいんです」


 午後一時四十二分。


 施工会社から、範囲を絞った見積が届いた。


 大沢と相原が数量を読み合わせ、真鍋が支払条件を確認した。


 着手時の一括前払いではなく、確認した出来高に基づいて請求する。ただし、今回のために先行手配が必要なものは、内訳を別に示す。


 榊原は支払条件の欄を指した。


「銀行の次回実行が遅れた場合は」


 工務担当者が顔を上げた。


「工事代金の支払日を、自動的に延ばす条件にはできません」


「分かっている。確認しただけだ」


 真鍋は資金繰り表を開いた。


 融資が入る予定日と、工事代金を払う日。その間には、会社が負担する時間がある。


 次回実行を見込んで発注しても、施工会社への支払義務が銀行へ移るわけではない。


「承認済みの予算内です。ただ、初回支払いは、次回融資の入金を待たずに対応できるよう、手元資金を残します」


「他の支払いは」


「設備予約金と既存工事の支払いを先に確保します。その上で確認しています」


 榊原は画面を見た。


「余裕は」


「広くありません。未確定の追加工事を、ここへ重ねないことが条件です」


 午前中なら、榊原は、必要なら調達すると答えていたかもしれない。


 今は、見積書をもう一度開いた。


「今回の範囲を増やす時は、必ず俺と真鍋へ出せ」


 午後二時二十七分。


 工期の欄で、再び手が止まった。


 着手日は、必要な重機と作業員を確保した上で確定する。


 榊原はその一文を指した。


「これでは、いつ始まるか分からない」


「今日戻した重機を、取り直します」


 大沢が答えた。


「明日ではないのか」


「空きを確認しています。作業員の配置も合わせます」


「発注するのに、日付がない」


「御社が範囲を決めてくだされば、こちらも手配を確定できます。ただ、今この場で、明日からとは書けません」


 真鍋が時計を見た。


「手配状況の回答期限を決めましょう」


 大沢は工務担当者と短く話した。


「明日の午前十一時までに、着手できる日と、必要な日数を回答します」


「その回答が遅れたら」


 榊原が聞いた。


「遅れる理由と、次の回答時刻を、期限前に連絡します」


 榊原はしばらく黙っていた。


 それから、契約範囲を示す図面を手元へ引いた。


「この青い範囲で進める」


 午後三時三十九分。


 施工会社の社内確認が終わり、発注書と請書に使う内容がそろった。


 準備工事の既存契約は、その範囲で継続する。


 新たな造成工事は、青い範囲を対象にする。


 月末まで既存利用が残る区画と、南側進入路に依存する部分は含めない。


 範囲外へ進む時は、追加の指示と条件の確認を行う。


 今朝の運搬費用は、手配記録を照合して協議する。今日の造成契約へ、黙って混ぜない。


 榊原は最後の図面まで確認した。


「この端で止めると、隣の区画が使えるまで、いったん仕上げる必要があるんだな」


「はい」


「後でつなぐ作業も要る」


「要ります。今回の見積には、今の範囲を安全に終えるところまでを入れています」


 一続きで施工できれば、しなくてよかった仕事だった。


 それでも、土地が使える日を待って、北側まで止めるよりは進められる。


 榊原は図面から手を離した。


「出してくれ」


 真鍋が発注手続を進めた。


 午後四時五十六分。


 大沢は職長を事務所へ呼び、図面を広げた。


「次に入るのは、ここまでです」


 職長は青い線を指で追った。


「この先は」


「今回の発注には入っていません」


「社長から、先にやっておけと言われたら」


 大沢は榊原を見た。


 榊原は扉の脇に立っていた。


「俺が言っても、いったん大沢さんへ戻せ」


 職長が顔を上げた。


「範囲を変えるなら、紙を変える。電話だけで、この線を越えるな」


「分かりました」


 職長は図面を受け取った。


 榊原は外へ出た。


 朝、運搬車が止まっていた場所は空いていた。地面には、タイヤの跡が二本残っている。


 大沢が後ろから来た。


「次の搬入は、手配が取れ次第、連絡します」


「今度は入れられるんだな」


「この範囲の工事に使う重機なら、入れられます」


 榊原はうなずいた。


 事務所の窓の向こうで、職長が新しい図面を壁へ留めていた。古い施工予定図の上へ、重ねずに並べている。


 榊原は車へ向かいかけ、足を止めた。


「大沢さん」


「はい」


「朝は、降ろせと言わなくてよかった」


 大沢はタイヤの跡を見た。


「次は、降ろすところから始めましょう」


 午後六時十二分。


 榊原が本社へ戻ると、真鍋は今日の発注を資金繰り表へ反映していた。


 予算だった一行に、契約の相手と範囲が付いた。


 まだ支払っていない。だが、会社はもう、その仕事を頼んでいた。


 榊原の電話が鳴った。


 大沢からだった。


「重機の手配先が、一社見つかりました。搬入日は明朝、確定します。ただ、一台目の候補とは機種が違います。施工方法を確認してから回答します」


「急いでくれ」


「はい」


 榊原は電話を切り、真鍋の机へ図面を置いた。


 青い線の外には、まだ広い土地が残っていた。


 明日から全部が動くわけではない。


 それでも、青い線の内側については、誰に何を頼んだのか、同じ紙で答えられる。


 真鍋が尋ねた。


「役員会には、どこまで進むと説明しますか」


 榊原は図面の端を持ち上げた。


「これを配れ」


「全体工程も付けますか」


「付ける。ただ、先にこっちだ」


 真鍋が図面を複写機へ運んだ。


 榊原は社長室へ戻らず、一枚目が出てくるのを待った。

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