残金1,842円|第45話「同じ事業、別の表」
午前八時十七分。
小田の携帯電話が鳴った時、机の上には、まだ杉浦文江へ渡せない図面が三枚並んでいた。
「昨日、測量の方がいらしたそうですね」
文江の声だった。
小田は図面から手を離した。
「南側の現況を確認しています。土地を使うことが決まったわけではありません」
「ええ。それは聞いています。ただ、来月には工事が始まるんですか」
小田は壁の時計を見た。
「どなたから、その日程を」
「会社の方ではありません。畑の近くで、資材を運ぶ方に聞かれたんです。来月二日から入る現場は、ここで合っていますかと」
小田の前にある三枚の図面には、どれにも着工日が入っていなかった。
昨夜受け取った工程表にも、確定した着工日はない。
それでも、翌月二日は外へ出ていた。
「その日付は、会社内部で置いていた予定です。今は、その日に着工できるとはしていません」
「では、田島さんが畑へ入るのは、これまでどおりでいいんですね」
「はい。今ある利用を変えていただく合意はしていません」
「私はまだ、売るとも決めていませんから」
「承知しています」
「図面ができると、もう決まったようになるんですね」
小田はすぐには答えられなかった。
文江は責める口調ではなかった。その分、言葉を置き換える余地がなかった。
「十五日にお持ちするのは、選んでいただくための比較資料です。売却を決めた前提の資料にはしません」
「その前に、工事の人が来ないようにしてください」
「確認します。測量を含め、立ち入る場所と目的も、改めて整理してお伝えします」
電話を切ると、小田は相原へ連絡した。
「翌月二日の予定が、資材の搬入先確認に使われています」
受話器の向こうで、何かを置く音がした。
「昨夜の工程表は、調達にも送っています」
「送る前の表で動いている人がいます」
「業者名は分かりますか」
「これから確認します。ただ、一社だけの問題とは限りません」
相原は黙った。
「図面を直すだけでは、止まらないということですね」
「杉浦さんに、まだ売っていないと言わせてしまいました」
午前九時。
施工計画室へ入った小田は、壁に残る古い工程表を見つけた。
南側進入路。翌月二日。
昨夜、条件を付けたはずの日付が、紙の上では何の条件もなく残っていた。
相原が壁から外した。
「朝礼では新しい方を使いました。これは掲示の差し替えが残っていました」
紙を裏返し、机へ伏せた。
大沢はそれを見てから、小田へ尋ねた。
「測量で、合意していない土地に入ったのか」
「今のところ、その連絡はありません。ただ、杉浦さんには、工事の準備が先に進んでいるように見えています」
「立入りの記録を確認する。範囲外へ入っていないことも、測量担当に確認させる」
大沢は相原へ向き直った。
「古い工程表を渡した先を出してくれ」
「社内だけですか」
「外もだ」
相原が配布先の一覧を開いた。
用地。施工。工程管理。資材調達。財務。
その下に、協力会社と資材業者の名前が続いた。
小田が見ていたより、日付は遠くまで運ばれていた。
午前九時二十六分。
資材調達担当の西村が、見積書を抱えて来た。
「南側は、全部止めるんですか」
「昨日、相原から連絡したはずだ」
大沢が言った。
「共通で使える数量を分ける、と聞いています。ただ、こちらでは、どれが共通なのか判断できません」
西村は排水管の見積書を開いた。
四十二メートル。
有効期限は前日で切れていた。
「延長は」
「回答待ちです。価格より先に、納期の話になっています」
「何を伝えた」
「発注時期は未定。従来の納期を維持できるか確認してほしいと」
「それでいい」
「よくはないですよ」
西村の声が強くなった。
「メーカーは、この現場へ回す分を別の注文へ出していいかと聞いています。正式発注していない以上、こちらで止められません」
「押さえてくれとは言えない」
「言っていません。だから、別へ回る可能性があります」
相原がうなずいた。
「工程へ入れます」
「入れるだけでは、物は来ません」
西村は見積書を机へ置いた。
「調達は、決まった物を買うだけじゃない。決まる前から聞いておかなければ、現場が必要な日には届かないんです」
「それは分かっている」
大沢が言った。
「だが、まだ使うか分からない物を、使うと決めたことにもできない」
「では、いつまで待つんですか」
誰もすぐには答えなかった。
小田の十五日は、三案を提示する日だった。
相原の十五日は、概略比較をまとめる日だった。
西村にとっては、注文するには遅すぎるかもしれない日だった。
西村が見積書を引き寄せた。
「十五日に決まるんですね」
「決まりません」
小田が言った。
「その日に、杉浦さんが売却を決めるわけではありません。田島アグリとの利用条件も、水路の協議も残ります」
「では、十五日は何が決まる日なんですか」
「会社として、何を提示するかを決める日です」
西村は小田を見たまま、しばらく動かなかった。
「こちらには、十五日回答と来ています」
相原がメールを開いた。
南側接続条件、十五日回答予定。
それだけだった。
何に対する回答かは、書かれていなかった。
午前十時十一分。
真鍋が持ってきた資金繰り表では、南側造成工事の支出が翌月から始まっていた。
「この支払いは、契約済みですか」
相原が尋ねた。
「予算上の予定です。昨日も大沢さんに説明しました」
「では、翌月の支出から外せますね」
「そのままは外せません」
西村が口を挟んだ。
「南側が止まっても、北側で使う物があります。搬入先を変えられる物もある。手配を残す物と、止める物を分けないと」
真鍋は表へ手を置いた。
「私は、南側が一か月ずれれば、対応する支出も一か月ずれると考えていました」
「一緒には動きません」
西村が答えた。
「品物ができていれば、現場へ入れなくても支払いが来る場合があります。置き場を変えるなら運賃も変わる。まだ注文していない物なら、そもそも債務はありません」
真鍋はうなずいた。
「今の表では、そこを分けられていません」
小田は顔を上げた。
真鍋は自分の表を閉じなかった。
「工程から受け取った日付で、予算支出を置いています。財務で日付を作ったわけではありません。ただ、契約の状態を確かめず、支払日として使ったのはこちらです」
「予算と実際の支払いを、別にするんですか」
相原が聞いた。
「すでに別です。ただ、集計すると一つの月額になります。合計だけを見れば、全部同じ確かさの金に見える」
真鍋は南側造成の行を選んだ。
「この中に、まだ見積も取っていない工事が混じっています」
「概略工程から置いた予算です」
「分かっています。問題は、これを私が銀行へ渡す時です」
室内が静かになった。
「銀行は、この日付を何だと思う」
大沢が尋ねた。
「説明しなければ、会社が支払う見込みの日だと受け取ります」
「間違いではないだろう」
「土地を使える日が決まっていないことまで、合計額からは読めません」
午前十時四十分。
榊原が来た時、机には四種類の資料が広がっていた。
小田の取得希望図。
相原の工程案。
西村の発注予定表。
真鍋の資金繰り表。
「一枚にできないのか」
榊原が言った。
真鍋が顔を上げた。
「一覧にはできます。ただ、元の表は残します」
「また表が増える」
「今は、同じ言葉を使っている場所を探しています」
榊原は空いている椅子に座った。
「何があった」
小田が文江からの電話を伝えた。
翌月二日という日付が、搬入先確認に使われたこと。
文江が、売却前に工事を始められると思ったこと。
十五日が、調達では条件確定の日として受け取られかけていたこと。
榊原は西村を見た。
「正式発注はしていないな」
「南側固有の物は、していません」
「業者に、こちらが買うと受け取られる約束は」
「確認します」
「今、確認できていないのか」
「発注書が出ていないことは確認しています。口頭でどこまで話したかは、担当者ごとに確認が必要です」
榊原は言いかけて、口を閉じた。
西村が続けた。
「私も、納期を維持してもらうために、近いうちに条件が出るとは伝えています。それが相手に、待てば注文が来るという意味で伝わっている可能性はあります」
「取り消せばいいのか」
「正式な注文を取り消す話なのか、見積と納期の確認を終える話なのか。先にそこを分けたいです」
榊原は、机に広がる紙へ視線を落とした。
「今日中に分けろ」
「はい」
「発注していない物を、解除済みとは書くな。何も負担がないかどうかも、確認してからにしろ」
西村は手帳へ書いた。
榊原は小田へ向いた。
「杉浦さんには、俺から話そうか」
「今は、私が説明します」
「会社が勝手に進めていると思われたままでは困る」
「だから、外へ伝わっている予定を先に直したいんです。説明した翌日に、別の業者から同じ日付を聞かれたら、私の説明が違ったことになります」
榊原は小田の顔を見た。
「分かった。直したことを確認してから、連絡してくれ」
午前十一時十二分。
相原が、画面に南側進入路の一行を出した。
四枚の表を一つへ押し込む代わりに、同じ対象を横へ並べた。
土地の状態。
施工の条件。
調達の状態。
支払いの見込み。
小田が読んだ。
「売却合意なし。取得範囲未定。耕作継続条件は協議前」
相原が続けた。
「現況測量のみ。三案固有の設計と手配は保留。着工可能日は未定」
西村が見積書を見た。
「南側排水管は未発注。旧見積の期限経過。延長と納期の回答待ち」
真鍋が入力した。
「対応する契約債務は、現時点の確認ではなし。予算支出の時期は再設定が必要」
「確認では、というのは残すのか」
榊原が尋ねた。
「口頭のやり取りを確認するまで残します」
西村が答えた。
榊原はうなずいた。
相原が最後の欄へ、次に必要な判断を書いた。
十五日提示用の三案比較。
「それだけでは、また十五日に全部決まると思われる」
小田が言った。
相原は書き直した。
十五日は比較資料の提示予定日。売買、使用開始、発注の確定日ではない。
長い一行になった。
榊原は削らせなかった。
午後零時八分。
西村の電話が鳴った。
排水管の業者だった。
「見積は、同じ条件であと三営業日なら延ばせるそうです」
「納期は」
大沢が聞いた。
西村は電話口へ問い直した。
しばらく聞いてから、受話器を押さえた。
「従来の納期は、今日注文した場合です。延長後の注文なら、その時点で空いている枠になると」
「三営業日延びても、納期は延びるのか」
榊原が言った。
「価格の期限と、生産枠は別です」
西村が答えた。
榊原は窓の外を見た。
ここで発注すれば、少なくとも一つの期限は守れる。
四十二メートルの管なら、別の場所へ使えるかもしれない。
「共通で使える分はないのか」
「管の仕様も確認が必要です。長さだけでは分けられません」
相原が答えた。
「橋の位置と排水の出口が変われば、勾配も変わります」
榊原は指で机の端をなぞった。
「押さえない」
西村が受話器を耳へ戻した。
「今回は、生産枠を確保する依頼はしません。数量と仕様が決まってから、改めて納期を確認させてください」
通話が終わった。
西村は発注予定表の納期を消した。
空いた欄を見て、若手担当者が尋ねた。
「これで、何日遅れるんですか」
「まだ出せない」
相原が答えた。
「次に確認した納期で、工程を引き直す」
誰も、遅れないとは言わなかった。
午後一時四十分。
榊原が席を外した後、真鍋は自分の資金繰り表を開いた。
南側の支出を、隣の月へ動かしかけて止めた。
「大沢さん。北側だけで進める場合の出来高は、明日の資料に入りますか」
「入れる。ただ、南側を後ろへずらした分だけ、北側へ振り替えられるわけじゃない」
「分かりました」
「収入開始も、同じだけずらすのか」
「そこも確認します。設備基礎への影響が出た後で、各事業の担当へ渡します」
「財務で先に決めないのか」
「決めれば、また別の表ができます」
真鍋は翌月の欄に残る予算額へ、注記を付けた。
支払時期の確度を確認中。
資金が浮いたとは、書かなかった。
午後三時二十五分。
古い工程表の配布先から、返信が戻り始めた。
受領。
差し替え済み。
社内共有済み。
相原は、その三つを同じ扱いにしなかった。
誰へ渡したか分からない会社には、再配布先の確認を依頼した。紙を運転席に入れている担当者には、次に現場へ来る前に差し替えるよう頼んだ。
西村は業者とのやり取りを確認した。
価格の照会。
数量の相談。
納期の仮確認。
注文を約束したと受け取られかねない言い方が、一件あった。
西村は自分で電話をかけた。
「こちらの説明が足りませんでした。南側の仕様は、まだ確定していません」
相手の話を聞く間、西村は椅子へ座らなかった。
「待っていただける前提にはしません。ほかの注文を受けていただいて構いません」
電話を切ると、相原へ言った。
「次の納期は、今の枠が埋まってからでは長くなるそうです」
「記録します」
「俺の名前も入れてください。ここまで、こちらから待ってもらっていました」
相原は担当者欄へ、西村と入力した。
午後四時五十二分。
小田は文江へ電話した。
「工事日程の訂正を、関係先へ伝えています。まだ確認の戻っていない先があるので、全部済んだとは申し上げられません」
「そうですか」
「もし、また来月二日から始まるという話がありましたら、私へ連絡をいただけますか」
「私が、一人ずつ断ることにはなりませんね」
「はい。会社から伝えます」
受話器の向こうで、戸を閉める音がした。
「田島さんが、明日も畑へ入ると言っていました」
「承知しました」
「機械が通るところへ、車を止めないでください」
小田は手帳を開いた。
売却条件の欄ではなく、明日の現地確認の欄へ書いた。
「測量担当にも伝えます」
午後六時二十分。
真鍋が榊原の部屋へ入ると、机には翌日の銀行向け説明資料が置かれていた。
「差し替えをお願いします」
真鍋は、南側進入路の資料を渡した。
旧版には、翌月二日着工予定とある。
新版には、土地と施工と調達の条件が並び、着工可能日は未定と書かれていた。
榊原は二枚を重ねた。
「確定してから報告する方が、説明は短く済む」
「その間、銀行は古い日付で見ます」
「これでは、急に進まなくなったように見える」
「そこも説明します。昨日、何かが壊れたわけではありません」
榊原は資料から目を上げた。
「会社の予定の置き方を説明することになるな」
「はい」
窓の向こうで、北側の作業灯が点いた。
榊原はしばらくそれを見ていた。
やがて、旧版を資料の束から抜いた。
「倉田さんに、冒頭で話す」
真鍋は新版を綴じた。
翌月二日と書かれた紙は、榊原の手元に残った。
その日付を誰が決めたのか、もう分からなくなっていた。
榊原は紙を裏返した。
明日は、自分が説明する。




