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残金1,842円|第44話「施工チーム」

 午前七時四十分。


 施工計画室の大型画面に、南側接続候補地の図面が映っていた。


 赤い線は物流車両の進入路。


 青い線は既存の水路。


 緑色で塗られた部分は、田島アグリが耕作している農地だった。


 赤い線は、緑色の土地をまっすぐ横切っている。


「この図面は、いつの情報ですか」


 現場所長の大沢が尋ねた。


 施工計画を担当する相原が、図面の右下を拡大した。


「三週間前です。用地チームから受け取った取得希望範囲を反映しています」


「取得希望か。取得済みではないんだな」


「はい」


「使用開始日は」


「用地引渡し後です」


「その引渡しは、いつだ」


 相原は答えず、工程表を開いた。


 南側進入路の着工予定は、翌月二日になっていた。


 土地の引渡予定日は、その五日前だった。


 予定欄には日付が入っている。


 だが、その日付を確定させる売買契約は、まだなかった。


「誰がこの日を入れた」


 大沢が聞いた。


「基本工程を作った時に、用地取得計画から転記しました」


「用地取得計画の何を見た」


「取得予定日です」


「予定日と、使える日は同じじゃない」


 相原は工程表から視線を上げた。


「用地が取得できれば、工事に入れると認識していました」


「売買契約を結んでも、耕作者が来季の作付け準備へ入れば、すぐには使えない。引渡し条件に既存耕作の終了が入る可能性もある。農機具の出入りを残すなら、工事車両だけ先に入れることもできない」


「そこまでの条件は、施工側へ来ていません」


「来ていない条件で、着工日だけ来ている」


 画面の赤い線は、何も迷っていなかった。


 市道から橋を渡り、農地の一部を通り、造成区域へ接続している。


 線の上には、人も農機具もいない。


 土地を使うための交渉も、引渡しの条件も表示されていなかった。


 午前七時四十八分。


 小田が施工計画室へ入った。


 田島アグリから届いた機械一覧と、前日の現地確認図を持っていた。


「遅くなりました」


「遅いかどうかを決める前に、何が決まっているか教えてくれ」


 大沢は椅子を勧めなかった。


 小田も立ったまま、資料を机へ置いた。


「杉浦文江さんの土地について、売却の合意はありません。会社が希望している約八百平方メートルも、取得範囲として確定していません」


「工程表では、翌月二日から南側進入路へ着工する」


「その日程は使えません」


 相原が画面を見た。


「用地引渡予定日の変更通知は受けていません」


「変更ではありません。元の日付も、地権者と合意した日ではありません」


「では、何の日付ですか」


「用地チームが、そこまでに取得したいと置いた日です」


 大沢が机を指先で一度たたいた。


「施工側は、その日を使える日として工程へ入れた」


「用地側は、取得目標日として管理していました」


「同じ日付を、別の意味で使っていたということか」


「そうなります」


 小田は否定しなかった。


 大沢は工程表の南側進入路を選択した。


 その作業に連なる項目が黄色へ変わった。


 水路横断部の仮設。


 路床の掘削。


 砕石の搬入。


 仮設排水。


 大型車両の動線切替。


 資材置場への搬入開始。


 一つの日付を外すと、後ろに並んだ作業も動く。


「用地が遅れるだけなら、工程を後ろへずらす」


 大沢が言った。


「だが、昨日の資料では、取得範囲そのものを三案にするとなっている。道の位置も変わるのか」


「変わる可能性があります」


「幅は」


「現時点では六メートル案です」


「橋だけ六メートルか。取付部もか」


「そこは施工計画と確認したい」


「六メートルの橋を置けば、六メートルの道ができるわけじゃない」


 大沢は水路の両側を拡大した。


 市道側には、わずかな高低差がある。


 農地側は、市道側より低い。


 橋を架ければ、その前後に勾配が必要になる。盛土をすれば、農地へ雨水が流れ込む可能性がある。水路を越えた直後に物流車両が曲がるなら、橋の幅だけでなく、車体が振れる範囲も確保しなければならない。


「田島アグリの機械一覧です」


 小田が資料を渡した。


 相原は、トラクターと作業機の寸法を入力した。


 画面上に農機具の形が現れた。


 東側の既存入口から入り、畑の中央で左へ回る。


 機体の後ろに付いた作業機が、遅れて内側へ膨らんだ。


 現行の取得希望線と重なった。


「この動きは、昨日の現地で確認しています」


 小田が言った。


「後ろの作業機まで含めると、今の取得希望範囲では旋回場所がなくなります」


 相原は西側へ新しい入口を置いた。


 水路へ六メートルの橋を架け、農地の中へ直線で入る。


 農機具だけを通すと、橋は渡れた。


 次に、物流車両を反対側から入れた。


 二台は橋の上ですれ違えなかった。


「同時に通さなければいい」


 施工担当の一人が言った。


「誰が順番を決める」


 大沢が尋ねた。


「誘導員を置けば」


「工事中は置ける。供用開始後はどうする」


「信号か、予約運用か」


「まだ利用企業も交通量も決まっていない。決まっていない運用を前提に、農業側へ不便を受けてもらう設計は出せない」


 小田は、大地の注記を読み上げた。


「実際の旋回には、積載状態、土の硬さ、降雨、畦の高さ、前後の作業車両を考慮すること。数字だけでは決めないでください」


 相原が画面上の農機具を止めた。


「最小回転半径だけでは足りないということですね」


「現地で回した時も、図面の数字どおりには動きませんでした」


「動画はありますか」


「あります」


 小田は携帯電話から動画を共有した。


 トラクターが畑へ入る。


 前輪が左へ向く。


 後部の作業機は、すぐには同じ方向へ動かない。


 地面の凹凸でわずかに振れ、取得希望線を越える。


 画面上の滑らかな軌跡とは違った。


 相原は動画を二度見た。


「現地で走行試験をさせてもらえますか」


「田島アグリとの調整が必要です。作業を止めてもらうなら、日時も先に決めなければならない」


「半日あればできます」


「施工側の半日は、田島さんの半日でもある」


 小田が言った。


「機械と人を借りるなら、その扱いも決めます」


 大沢は小田を見た。


「費用を払うのか」


「会社の設計確認のために作業を止めてもらうなら、無償を前提にはできません」


「用地費か、設計費か」


「そこも分ける必要があります。土地代へ混ぜれば、売買に応じた対価のように見えます」


 大沢はうなずいた。


「施工計画の確認費として整理しろ。金額は、先に田島さんと合意する。終わった後で謝礼を渡す形にはするな」


「法務と経理へ確認します」


 午前八時十二分。


 榊原と真鍋が入ってきた。


 榊原は、画面に並ぶ三本の進入路案を見た。


「もう三案ができたのか」


「線だけです」


 大沢が答えた。


「線なら十分に見える」


「見えるから危ないんです」


 大沢は一つ目の案を拡大した。


「現行案です。会社が希望する約八百平方メートルを取得する。ただし、田島アグリが使っている旋回場所を失う可能性があります」


 二つ目を表示した。


「取得範囲を北へずらし、農機具の入口と旋回場所を残す案。物流側の道路線形が変わり、造成範囲が広がる可能性があります」


 三つ目を表示した。


「土地全体を取得する案。残地の形は問題になりません。ただし、会社がすぐ使わない土地まで取得し、管理することになります。田島アグリとの耕作終了時期も別に協議が必要です」


「どれが一番早い」


 榊原が尋ねた。


「今は答えられません」


「施工だけで見れば」


「施工だけで見た最短案を出せば、その案が用地側で成立するように見えます」


「比較するために聞いている」


「比較するなら、着工できる条件をそろえる必要があります。土地を取得する日だけでは足りません。耕作終了日、水路の使用条件、橋の設計、農業動線、行政手続き、物流車両の運用条件が必要です」


 榊原は画面の下に並ぶ未入力欄を見た。


 空白が多かった。


「十五日までに資料を出す」


「用地側から聞いています」


「間に合うか」


 大沢は、すぐには答えなかった。


「三案の概略比較はできます。ただし、十五日に出せるのは、工事費の確定額ではありません。設計条件がそろっていない以上、幅を持たせた概算になります」


「幅はどの程度だ」


「それを今日から確認します」


「数億か。数十億か」


「そこまで広い幅では比較資料になりません」


 真鍋が口を開いた。


「概算の幅が大きくなる項目を先に出してください。橋、盛土、排水、造成、用地外の仮設、行政協議。確定していない条件を、最安条件で埋めないでください」


「最悪条件で埋めれば、全部高くなる」


 榊原が言った。


「最悪条件ではなく、今分かっている範囲です」


「数字が広がりすぎれば、地権者も選べない」


「狭く見せて、後で増える方が選べません」


 真鍋は画面を見たまま言った。


 榊原は反論しなかった。


 小田が、三案を提示する目的を説明した。


「杉浦さんへ、土地代だけを三つ並べるわけではありません。残る土地を使えるか。田島アグリが耕作を続けられるか。会社がいつ使えるか。そこまで分けて示します」


「全部取得案が一番高いのは分かる」


 榊原が言った。


「取得費だけなら、そうなる可能性が高いです。ただ、現行案で残地補償や新しい入口が必要になれば、差は縮まります」


「全部買えば早いとは限らないのか」


「地権者が全部売ると決めていません。農地全体を取得するなら、必要な手続きと引渡し条件も変わる可能性があります」


「では、価格を上げても早くならない」


「価格で決まる部分と、価格では決まらない部分があります」


 榊原は三本の線を順に見た。


 金を増やせば選択肢は広がる。


 だが、金を出した瞬間に土地が使えるわけではない。


 そのことは、進入路の問題ですでに知っていた。


「共通して進められる作業は何だ」


 榊原が大沢へ尋ねた。


「南側以外の準備作業。北側の測量。既存道路側の仮設ヤード整備。排水計画のうち、南側接続に左右されない部分です」


「南側は」


「三案に共通する現況測量だけ進めます。橋の発注、盛土材の手配、作業班の予約はしません」


「予約しなければ、決まった時に人がいない」


「今押さえれば、案が変わった時に解除費用が出ます」


「前と同じだな」


 榊原の言葉で、室内が静かになった。


 一組の作業班は、すでに手放している。


 再手配の日は決まっていない。


「同じではありません」


 大沢が言った。


「前は、使えると思っていた工程から人を外した。今回は、使えると確認できていない土地へ、人を入れない判断です」


「結果は同じだ。工程が遅れる」


「違います。理由を記録できます」


「理由があれば遅れていいのか」


「理由が分からないまま遅れるよりはいい。誰が何を決めれば再開できるかが分かるからです」


 榊原は大沢を見た。


 大沢は視線を外さなかった。


「現況測量は進めろ」


 榊原が言った。


「三案に共通しない手配は止める。ただし、十五日に概略比較を出す。足りない条件は、空白にせず、誰の回答待ちかを書く」


「分かりました」


「工期への影響も出せ」


「幅を持たせます」


「最短だけを書くな」


 真鍋が榊原を見た。


 榊原は続けた。


「最短と、条件がそろわない場合を分けろ。俺が最短だけを選べないようにしておけ」


 午前八時三十八分。


 決定事項が記録された。


 南側接続候補地は、現況測量のみ実施。


 三案に共通しない橋梁設計、盛土材、作業班、重機の手配は保留。


 田島アグリの実機走行確認は、目的、日時、費用負担を整理した後に依頼。


 十五日までに、用地、施工、費用、工程、農業動線、未確定条件を並べた概略比較を作成。


 相原は工程表から、翌月二日の着工日を消さなかった。


 代わりに、日付の横へ条件を付けた。


 用地引渡し。


 耕作者との合意。


 水路横断条件。


 行政協議。


 設計承認。


 五つの条件がそろわなければ、その日は着工日にならない。


 午前九時十五分。


 施工計画室へ、資材調達担当から電話が入った。


「南側の仮設排水管ですが、発注確認が来ています」


 相原が資料を探した。


「まだ発注していないはずです」


「正式発注ではありません。見積有効期限が今日までです。納期を維持するなら、数量を確定してほしいと」


「数量は、どの案を前提にしていますか」


「現行案です」


 相原は画面上の三本の線を見た。


 現行案では、排水管は四十二メートル。


 範囲変更案では、五十八メートルになる可能性がある。


 全部取得案では、排水経路そのものを変えられる。


「延長を依頼してください」


「価格が変わる可能性があります」


「分かっています」


「納期も維持できないかもしれません」


「それも記録してください」


 電話を切った後、相原は発注予定表を開いた。


 南側接続に関係する資材が、ほかにも並んでいた。


 排水管。


 砕石。


 仮設鋼板。


 防護柵。


 橋台周辺の型枠材。


 どれも正式発注前だった。


 だが、納期を守るために、見積と仮予約だけが先に動いている。


「これも全部、保留ですか」


 若手の施工担当者が聞いた。


「共通数量が出せる物は分ける」


 相原が答えた。


「案ごとに数量が変わる物は、発注しない。納期への影響を一覧にする」


「決まってからでは間に合わない物があります」


「だから、間に合わない可能性を書く」


「それを工程遅れと言われるのは施工です」


 相原は手を止めた。


 大沢が振り返った。


「施工が遅らせたことにはしない。用地条件の未確定で手配できなかったと記録する」


「用地チームは、自分たちの遅れではないと言うでしょう」


 小田は、まだ室内にいた。


「言いません」


 若手担当者が小田を見た。


「地権者が返事をしていないだけでは」


「会社が示す条件も決まっていません。返事を求められる状態ではありません」


「でも、工程表には取得予定日があった」


「用地チームの目標日です」


「施工では着工の前提日です」


 小田と担当者の間に、同じ日付が置かれていた。


 片方には交渉の目標。


 もう片方には作業開始の条件。


 書かれた数字は同じでも、意味は違った。


 大沢が言った。


「今日から、用地取得予定日を工程表へそのまま入れない」


「では、何を入れますか」


「使用可能確認日だ」


 小田がうなずいた。


「用地側で、所有権、引渡し、利用者、通行、既存耕作を確認します」


「施工側は、水路、行政、設計、安全条件を確認する」


「全部そろった日を、誰が確定しますか」


 相原が尋ねた。


「一人では決めない」


 大沢は答えた。


「用地と施工で確認し、工程管理へ渡す。財務には、日付が変わる可能性も含めて伝える」


 午前十時。


 工程表に、新しい欄が追加された。


 取得予定日。


 契約予定日。


 引渡予定日。


 使用可能確認日。


 着工可能日。


 それまで一つの日付で扱われていたものが、五つに分かれた。


 南側接続候補地では、五つの欄すべてが空白だった。


 午後一時三十分。


 大沢は現場へ出た。


 北側の準備区域では、測量担当者が基準点を確認していた。


 手放した作業班が入る予定だった場所には、重機が一台もなかった。


 空いた場所だけが、工程表より広く見えた。


 現場事務所へ戻る途中、大沢は南側候補地を遠くから見た。


 トラクターが畑を横切っている。


 作業機が土を返し、その後ろに濃い線を残していた。


 物流車両の道路は、まだ図面の中にしかない。


 だが、畑ではすでに別の工程が動いている。


 田島アグリにとって、来季の準備は会社の判断を待って始まるものではなかった。


 午後二時五分。


 大沢は現場事務所で、施工側の制約一覧を作った。


 南側進入路。


 橋梁形式未定。


 水路管理者との協議未了。


 取付勾配未確定。


 物流車両の設計条件未確定。


 農機具動線未確認。


 土地使用可能日未確定。


 資材見積期限あり。


 作業班再手配時期未定。


 その下に、工事を進められない理由ではなく、進めるために必要な判断を書いた。


 誰が答えるのか。


 いつまでに確認するのか。


 答えが出なければ、工程へ何日影響するのか。


 午後四時二十分。


 真鍋から電話があった。


「南側の着工予定日が、条件付きへ変わったと聞きました」


「ああ」


「資金繰り表では、翌月から造成工事の支払いが始まる前提です」


「発注していない物まで払う表になっているのか」


「契約済みではありません。予算上の支出予定です。ただ、工事がずれれば支払いもずれます。支払いが遅れるだけなら現金は残りますが、供用開始も遅れます」


「今は金が出ない方がいいんじゃないのか」


「短期ではそうです。長期では、収入開始が後ろへずれます」


「南側だけで、そこまで動くか」


「南側が資材搬入の主動線になる前提なら、後続工程へ影響します。北側だけでどこまで進められるかを知りたい」


「明日出す」


「最短工程だけではなく、再手配に時間がかかる場合も出してください」


「榊原社長からも同じことを言われた」


 真鍋は少し黙った。


「社長が言ったんですか」


「自分が最短だけを選べないようにしておけ、と」


「分かりました」


「意外か」


「いいえ。記録しておきたいと思っただけです」


 通話が終わった。


 午後六時十分。


 施工計画室の画面には、二つの工程表が並んだ。


 用地条件が十五日までに整理され、設計と協議が順調に進む場合。


 土地の方向が決まらず、資材と作業班の再手配が必要になる場合。


 二本の工程は、最初の数週間だけ同じだった。


 その後、線は少しずつ離れた。


 南側進入路の着工。


 大型車両の動線切替。


 資材搬入。


 造成工事。


 設備基礎。


 一つの道が使えない期間が延びるほど、離れる日数は増えていった。


 相原が画面を保存した。


 ファイル名を入力する。


 南側接続工程案。


 その後ろへ、日付と版番号を付けた。


「用地チームの取得予定図も添付しますか」


 若手担当者が聞いた。


「添付する。ただし、施工可能範囲とは書くな」


「取得希望範囲」


「それだけでも足りない」


 相原は名称を書き換えた。


 地権者および利用者との協議前の取得希望範囲。


 長い名称になった。


 だが、短くすれば、また意味が変わる。


 大沢は完成した工程案を確認した。


 日付。


 条件。


 回答者。


 未確定事項。


 資材の有効期限。


 再手配に必要な期間。


 どれも、工事そのものではなかった。


 それでも、一つでも欠ければ工事は始められない。


 午後六時四十八分。


 大沢は更新した工程表を榊原、真鍋、小田へ送った。


 送信後、机の端に置かれた古い工程表を見た。


 そこでは、南側進入路は翌月二日に始まる。


 橋は予定どおり架かる。


 砕石は決められた日に届く。


 作業班も重機も、必要な日にそこへいる。


 土地の上には、誰の名前もなかった。


 新しい工程表では、着工日の横に五つの条件が並んでいる。


 日付は一つも確定していない。


 工事が遅れたのではなかった。


 施工チームが、まだ始められない工事を、始まることにしなくなった。

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