残金1,842円|第43話「用地チーム」
赤い頭の測量杭が一本、畑の外へ抜かれていた。
午前八時五十二分。
小田は南側接続候補地の入口で足を止めた。
杭は水路脇の草の上に横たわっている。先端には湿った土が付き、昨日まで地面へ刺さっていたことが分かった。
「触らないでください」
同行した測量担当者が、杭へ伸ばしかけた手を止めた。
小田は携帯電話で、杭と周囲の地面を撮影した。
「境界杭か」
「違います。取得希望範囲を現地で確認するための仮杭です。境界を確定するものではありません」
「誰かが抜いた」
「風では抜けません」
畑には、同じ赤い頭の杭が三本残っていた。
会社が取得を希望する約八百平方メートル。その線を示すために打ったものだった。
一本が抜けたことで、取得線の角が現地から消えている。
「打ち直しますか」
「理由を聞いてからだ」
小田は杭を元へ戻さなかった。
午前九時を少し過ぎた頃、白い軽トラックが市道から入ってきた。
田島アグリの代表、田島邦彦が運転席から降りた。助手席からは、三十代半ばの男が作業着姿で出てきた。
「息子の大地です。ここの作業は、今は息子が見ています」
邦彦が紹介した。
大地は、小田たちへ挨拶をした後、草の上の杭を見た。
「それ、俺が抜きました」
測量担当者が顔を上げた。
「いつですか」
「昨日の夕方です。機械を入れる前に」
「会社が設置した杭だと分かっていましたか」
「分かっていました」
「なぜ連絡を」
「こっちには、打つ前の連絡が来ていません」
大地は畑の入口を指した。
「地主さんには話したんでしょう。でも、ここで機械を動かしているのは俺たちです。あの位置にあれば、作業機を引っかけます」
小田は反論しなかった。
「杭を打った担当へ確認します。杉浦さんの了承だけで、現地を使っている田島アグリへの連絡を省いた可能性があります」
「可能性じゃなくて、省かれています」
「そうですね」
小田は認めた。
「抜いた杭を捨てずに残してくれたのは、なぜですか」
「境界の杭だったら困るからです。赤い頭だから、境界じゃないとは思いました。でも、勝手に捨てて後で揉めるのも嫌だった」
大地は農業機械の格納庫がある方角を見た。
「会社の線は、紙の上では細いでしょう。でも、畑に打てば障害物です」
用地チームが示した取得希望線が、耕作者にとっては作業を止める物になっていた。
「打ち直しません」
小田が言った。
「今日の確認が終わるまで、このままにします」
「確認が終わったら戻すんですか」
「取得範囲が決まっていない以上、同じ場所へ戻すとは限りません」
午前九時十五分、杉浦文江が娘と一緒に到着した。
娘は由佳と名乗った。県外に住んでいるが、母から会社との話を聞き、休みを取って来たという。
「杭が抜けていたと聞きました」
文江は、草の上の杭を見た。
「田島さんの息子さんが抜きました。作業の支障になる位置へ、会社が事前連絡をせずに打っていました」
小田は経緯を省かなかった。
「私が許可したからでしょうか」
「杉浦さんには、現地確認のための仮杭を設置すると説明しています。ただ、所有者の承諾と、耕作者への作業連絡を同じものとして扱ってしまったようです」
「私がいいと言っても、田島さんには困ることがある」
「はい」
邦彦が文江へ向き直った。
「杉浦さんのせいじゃありません。こっちも杭を抜く前に電話をすればよかった」
大地は何も言わなかった。
小田は取得希望範囲図を広げた。
「今日は、売却の結論を出していただく場ではありません。会社が希望する範囲を取得した場合、残った畑をどう使えるか。それを現地で確認します」
「全部売る場合の話もできますか」
由佳が尋ねた。
「できます。ただし、会社が全部取得すると決めたわけではありません。比較する選択肢の一つとして扱います」
「母は、一部なら売らないと言っています」
「聞いています」
「全部なら売るとも、まだ言っていません」
文江が付け加えた。
「それも聞いています」
小田は図面を畳まなかった。
「決まっていないことを、決めたことにしないための確認です」
大地がトラクターを格納庫から出した。
後部には、畑を耕すための作業機が付いている。
「今は、ここから入っています」
畑の東側にある入口は、会社の取得希望範囲に含まれていた。
大地は速度を落とさずに畑へ入り、少し先で大きく左へ回った。
機体だけなら、入口を通る。
だが、後ろの作業機は遅れて内側へ入り、取得希望線を越えて残地側へ膨らんだ。
畑の中で方向を変える時も、広い円を描いた。
「八百平方メートルを切り取ると、この旋回場所がなくなります」
邦彦が言った。
「入口を別に作っても、機械が畑の中で回れなければ意味がない」
測量担当者は、機械が通った位置を図面へ書き込んだ。
「西側へ入口を移す案があります」
小田が図面を示した。
「水路へ橋を掛ける案です」
「橋の幅は」
大地が尋ねた。
「現時点の案では六メートルです」
「機械だけなら通ります。資材を積んだ車と重なったら、待つ場所がありません」
「畑の中に待避場所を取る案は」
「そこを取れば、作付けできる面積が減ります」
「どの程度なら耕作を続けられますか」
邦彦は、すぐには答えなかった。
「面積だけでは決まりません」
「形ですか」
「形と入口と、隣の畑との順番です」
邦彦は南側の土地を指した。
「うちは、杉浦さんの畑だけを作っているわけじゃない。この先の二枚も借りています。朝、こっちから入り、作業を終えたら南へ抜ける。それで一つの作業になります」
「杉浦さんの畑だけを残せても、動線が切れれば効率が落ちる」
「そうです。燃料も時間も増える。機械を一度道路へ戻すなら、泥を落とす場所も要る。地域の車を止めるわけにもいかない」
会社が欲しい八百平方メートルだけを図面から切り取っても、田島アグリが失うものは八百平方メートルだけではなかった。
大地が車路予定線の杭を指した。
「ここに大型車が通るんですよね」
「候補です。確定していません」
「一日に何台ですか」
「利用企業と運営条件が決まっていないため、幅があります」
「朝も通るんですか」
「時間帯も協議中です」
「農繁期に、この入口でトラックと農機具が重なれば、どっちが待つんです」
小田は答えられなかった。
道路の幅員や交差点の構造は検討できる。
物流車両の想定台数も試算できる。
だが、まだ決まっていない運営条件で、農業側へ待つ順番を約束することはできない。
「その問いも、動線案へ入れます」
「答えになっていません」
「今ここで決められないという答えです」
大地は小田を見た。
「分からないなら、分からないと書いてください。説明会では、道路が便利になる話だけになるでしょうから」
「交通量と運用時間は、確定事項と協議中の事項を分けて出します」
「本当に出すんですか」
「出します」
文江が、畑の中央へ歩いた。
足元には、収穫後の茎が短く残っている。
「ここまで売れば、田島さんは使えますか」
文江が地面を指した。
会社の取得希望線より、十数メートル北側だった。
「入口と旋回場所は作れます」
邦彦が答えた。
「でも、そこまで売れば畑は小さくなる」
「小さくても借りますか」
「隣と一緒に作れるなら、すぐにやめるとは言いません。ただ、今と同じ賃料では難しいです」
「私の収入が減るということですね」
「そうなります」
邦彦は言葉を濁さなかった。
「うちも、借りた面積と作業時間が合わなければ続けられません」
由佳が母の横へ立った。
「全部売れば、こういう話をしなくて済むんじゃないの」
「田島さんは、使う畑を一つ失う」
「でも、お母さんが亡くなった後、私が管理できるとは思えない」
「今、死んだ後の話まで決めるのかい」
「決めないまま残される方も困るの」
文江は娘から目をそらした。
会社が土地の取得を申し入れたことで、母娘が先送りしていた相続の話まで表へ出ていた。
榊原は二人の間へ入らなかった。
この場で全部売るよう勧めれば、会社には都合がいい。
だが、それは道路を一本通すために、杉浦家の相続まで急がせることになる。
「三つの案を作ります」
榊原が言った。
全員の視線が集まった。
「会社が希望している約八百平方メートルを取得する案。入口と旋回場所を確保するため、取得範囲を変える案。土地全体を取得する案です」
「全部買う可能性があるんですか」
由佳が尋ねた。
「比較する可能性です。買うと約束する話ではありません」
「いつ出ますか」
「来月十五日までに出す」
小田が榊原を見た。
今日は月の初めだった。測量、設計、評価、農業法人との条件整理を行うには短い。
「売買契約を十五日までに決めるという意味ではありません」
小田が確認した。
「ああ。三案を比較できる資料にする」
「土地代も出しますか」
文江が尋ねた。
「会社の提示額は出します。ただし、土地代と、それ以外の影響を分けます」
「それ以外とは」
「田島アグリとの利用関係。残地の使い方。新しい入口。水路。税金について確認が必要なら、専門家へ相談するための資料も用意します」
「会社の税理士が、私に説明するんですか」
「会社に都合のいい説明を受けて決める必要はありません。杉浦さんが自分で相談できるよう、条件を分けて示します」
文江は、すぐには返事をしなかった。
「十五日に返事をしなくてもいいんですね」
「構いません」
「田島さんも資料を見られますか」
「売買金額は杉浦さんとの話です。耕作条件と動線案は、田島アグリにも確認してもらいます」
邦彦がうなずいた。
「来季の作付けは、年内に決めたい」
「三案を出した後、方向を決めるための協議日を設定します」
「会社の返事が年を越せば、うちはこの畑を使う前提で資材を頼みます」
「その場合、途中で来季の耕作をやめてほしいとは言えません」
「書面にできますか」
小田が答えた。
「既存の利用関係と、会社が希望する引渡し時期を確認してからです。今日ここで文言は約束できません。ただ、来季の作付け後に急な明渡しを求めないことを前提に、案を作ります」
「分かりました」
話が終わった後も、測量担当者は杭を戻さなかった。
取得線が三案へ分かれるなら、現在の線だけを畑へ残すことはできない。
「この杭は持ち帰ります」
小田が大地へ言った。
「次に打つ時は、杉浦さんだけでなく、田島アグリにも日時を連絡します」
「打つ場所も先に見せてください」
「そうします」
「俺が仕事でいない日もあります。親父だけじゃなく、現場担当の俺にも連絡してください」
「連絡先を登録します」
所有者一覧には杉浦文江の名前がある。
農地利用者として、田島アグリの代表者名も載っている。
だが、日々の作業を決める大地の名前はなかった。
契約上の権利者と、現場で困る人間は一致するとは限らない。
小田は、その場で大地の連絡先を記録した。
午後一時十分。
用地チームの机には、南側接続候補地に関する資料が三つの束に分けて置かれた。
杉浦文江へ示す資料。
田島アグリへ確認する資料。
社内で判断する資料。
同じ土地でも、必要な情報は同じではない。
売買金額を農業法人へ無断で示さない。
農業法人との条件を、所有者へ隠さない。
物流計画上の都合を、確定事項として地権者へ押しつけない。
個人情報や交渉内容を、地域説明資料へ出さない。
「三案を作る担当を分けます」
小田が言った。
「現行範囲は私。範囲変更案は測量と施工計画へ依頼。全部取得案は評価担当と法務に確認します」
若手担当者が質問した。
「三案すべてについて価格を出しますか」
「価格だけの比較にはしない。引渡し時期、残地、耕作、進入口、行政手続き、物流動線への影響を並べる」
「全部取得案なら、残地の問題は消えます」
「残地は消える。ただし、農地利用者との調整は消えない。会社側には、取得費、保有費、造成範囲、使わない土地の管理が増える」
「余った土地を将来使えるのでは」
「使途が決まっていない土地を、将来使える資産として先に評価するな」
小田は取得案件一覧を開いた。
交渉中の土地は二十八件あった。
所有者。
連絡窓口。
実際の利用者。
同居家族。
相続関係者。
抵当権者。
借地人。
耕作者。
行政手続き。
次回連絡日。
欄を増やすほど、一つの土地に関係する人間が増えていく。
「ほかの案件も確認します」
小田が言った。
「所有者へ連絡していて、利用者へ連絡していない案件。連絡先が代表者だけで、現場担当が登録されていない案件を抽出してください」
「全部ですか」
「全部です」
「今日中には終わりません」
「今日中に一覧を出す。確認は優先順位を付ける」
別の担当者が、次回連絡日の欄を見ていた。
「予定日を過ぎている案件があります」
「何件だ」
「七件です」
小田の手が止まった。
「結果待ちか」
「五件は、測量会社か行政からの回答待ちです。二件は社内の検討待ちです」
「待っている間、地権者へ連絡したか」
「回答が出てから説明する予定でした」
「いつまでに返事をすると伝えた」
担当者は記録を確認した。
「一番古いものは、先週の金曜日です」
今日は、その翌週の水曜日だった。
「結果がなくても連絡する」
「同じ説明になります」
「同じ説明でも、期限を過ぎたことは伝えられる」
小田は七件を担当者ごとに振り分けた。
「今日中に全員へ連絡。回答待ちの内容と、新しい連絡日を伝える。出なければ記録を残して、明日もう一度」
「社内検討中の二件は、結論がありません」
「結論がないことを言う。黙って期限を延ばすな」
午後二時二十六分。
担当者の一人が地権者へ電話をかけた。
「先週金曜日までにご連絡すると申し上げていましたが、境界確認について測量会社からの回答がまだ出ていません。ご連絡が遅れ、申し訳ありません」
電話の向こうの声は聞こえなかった。
担当者の表情が変わった。
「いえ、取得をやめたということではありません」
小田は顔を上げた。
「次は、今週金曜日までに進捗をご連絡します。回答が出ていない場合も、こちらから連絡します」
通話が終わった。
「何と言われた」
「連絡がないので、会社が買うのをやめたと思っていたそうです。別の人から、資材置場として借りたいという話が来ていると」
「契約したのか」
「まだです。ただ、明日会う約束をしています」
一週間に満たない遅れだった。
会社側では、回答待ちという一つの状態にすぎない。
地権者側では、その間にも別の話が進む。
「担当者だけで行くな。私も行く」
「明日の午前です」
「予定を空ける」
午後三時、田島アグリから機械の一覧が届いた。
トラクター。
作業機。
播種機。
運搬用トラック。
それぞれの幅、長さ、最小回転半径。
一覧の下には、大地が付けた短い注記があった。
実際の旋回には、積載状態、土の硬さ、降雨、畦の高さ、前後の作業車両を考慮すること。
数字だけでは決めないでください。
小田は、その文章を削らずに施工計画担当へ転送した。
午後五時四十分。
榊原は用地チームの机へ来た。
「三案は間に合うか」
「測量と評価に外注が必要です」
「費用は」
「見積依頼中です。明日午前に出ます」
「必要なら出せ」
「三案を作っても、杉浦さんがどれも選ばない可能性があります」
「ああ」
「使わない案にも費用がかかります」
「選べる状態を作る費用だ」
榊原は、机に置かれた赤い杭を見た。
「これが抜かれていなければ、どうなっていた」
「田島さんたちは、会社が自分たちへ連絡せずに線を決めたと考えたままだったと思います」
「抜かれてよかったということか」
「違います。抜かれる前に、こちらが気づくべきでした」
小田は二十八件の一覧を榊原へ渡した。
所有者だけでは足りない土地。
利用者が別にいる土地。
家族が判断に関わる土地。
約束した連絡日を過ぎている土地。
面積や価格の欄とは別に、人と日付が並んでいた。
「取得率の報告にも、これを付けるのか」
「個人名は付けません。ただ、重要地について、誰との調整が残っているかは示します」
「銀行団向けか」
「まず社内です。用地チームの中で分かっていても、施工や財務が知らなければ、工程表では使える土地になります」
榊原は一覧をめくった。
「杉浦さんの土地は、交渉が進んだのか」
「売却の返事は進んでいません」
「では、何が進んだ」
「会社が決めなければならないことが分かりました」
八百平方メートルを買う。
その一行では済まない。
残った畑を誰が使うのか。
農機具はどこから入り、どこで曲がるのか。
来季の作付けをいつ決めるのか。
全部を売った後、文江と由佳に何が残るのか。
物流車両と農作業が重なる時間をどう扱うのか。
会社が答えを持っていないものまで、土地代の中へ押し込むことはできなかった。
「十五日までに出せ」
榊原が言った。
「出せない条件があれば、出せないままにするな。何が足りないかを書け」
「分かりました」
小田は、赤い杭を用地図の脇へ置いた。
畑へ戻す日付は入れなかった。
代わりに、三案の提示期限と、田島アグリへの確認日を記入した。
その夜、土地取得率は七割から動かなかった。
南側出口も、まだ赤いままだった。
ただ、用地チームの一覧には、新しい名前が一つ加わった。
田島大地。
次に赤い杭を打つ前に、連絡しなければならない相手だった。




