残金1,842円|第42話「地権者」
翌朝七時四十五分、小田は会議室の机に一枚の航空写真を置いた。
計画地の南側だった。
県道へつながる市道。
その手前にある十字路。
物流棟から南へ延びる車路候補。
赤い線は、道路へ出る直前で、一つの畑の角を横切っていた。
「この土地が、重要動線にかかる未確定地です」
小田が言った。
「面積は」
「取得が必要なのは、約八百平方メートルです」
「全体は」
「四千六百平方メートルあります」
榊原征一は航空写真を見た。
会社が必要としている部分は、畑の北東側にある細長い一角だけだった。
そこを取得すれば、物流棟から市道まで、ほぼ直線で車路を通せる。
残りの土地には、計画線が入っていない。
「所有者は」
「杉浦文江さん。六十八歳です。登記名義も本人です」
「交渉状況は」
「売却しない、と返事を受けています」
「金額を出す前か」
「概算の提示後です」
小田は交渉記録を開いた。
最初の訪問日。
現地確認。
測量への立会い依頼。
取得希望範囲の説明。
概算価格の提示。
杉浦からの回答。
記録には、短い言葉が残されていた。
一部だけなら売らない。
「全部買えということか」
榊原が尋ねた。
「まだ、そこまでは言われていません」
「一部では売らない。だが、全部を買えとも言っていない」
「はい」
「理由は」
「今日、本人から直接聞く予定です」
小田は航空写真の上に、地積測量図を重ねた。
「この畑は、一筆ではありません。登記上は二筆です。会社が必要としている八百平方メートルは、二筆の境界をまたぎます」
「分筆すればいい」
「分筆自体は可能です。ただ、取得後に残る土地の形が悪くなります」
赤い線の外側に、細長い三角形が残る。
その先に、広い畑が続いている。
「農機具の進入は」
「今は東側の市道から入っています。会社が取得したい部分に、畑の入口があります」
「新しい入口を作る」
「西側には水路があります。南側は隣の土地です。北側は計画地へ接します」
榊原は写真を回した。
会社にとって必要なのは、畑の角だった。
杉浦にとっては、その角が畑への入口だった。
「入口を移す案は」
「二案作りました。ただ、西側へ新設するには水路へ橋を掛ける必要があります。南側へ出すには、隣接地の使用承諾が必要です」
「本人には見せたのか」
「まだです。測量前の案なので」
「今日見せる」
小田はうなずいた。
「ただ、入口だけが理由ではない可能性があります」
「ほかに何がある」
「杉浦さんは、自分では耕作していません」
榊原は顔を上げた。
「誰が使っている」
「近くの農業法人です。利用権の設定があります」
「いつまでだ」
「現在の契約期間は、あと二年です」
「売買には、その法人との調整も必要になる」
「はい。所有者が売ると言っても、すぐに明け渡せる土地ではありません」
昨日、壁に貼った図面には、所有権と使用条件が分けて表示されていた。
だが、その土地を使っている者が誰かまでは、まだ一枚の図面へ落ちていなかった。
「農業法人は、売却の話を知っているのか」
「取得希望範囲を確認するため、一度だけ話しています。正式な条件協議には入っていません」
「反応は」
「八百平方メートルだけなら、残った畑を耕作しにくくなると言っています」
「杉浦さんと同じか」
「言葉は違います。杉浦さんは、一部だけなら売らない。農業法人は、残地を今までと同じ条件では借りられない、です」
真鍋亮が、資金繰り表から目を上げた。
「全部取得した場合、いくら増える」
「価格交渉前なので確定していません」
「評価の目安はあるだろう」
「近隣の取引事例を基にした社内試算はあります。ただ、農地転用、造成、補償、仲介費用を含めれば、土地代だけでは見られません」
「概算でいい」
小田は金額を口にしなかった。
「本人へ提示していない金額を、この場で取得費として置くと、その数字が先に動きます」
真鍋が黙った。
榊原は、小田の資料を見た。
金額を言えないのではない。
まだ相手の条件を聞いていない段階で、会社側の想定額を交渉の前提にしたくないのだ。
「分かった」
榊原は言った。
「今日は、いくらなら売るかを聞かない」
「何を確認しますか」
「一部では売らない理由だ。入口なのか。耕作なのか。残った土地なのか。家族なのか。それとも、別の話なのか」
「社長も行きますか」
「ああ」
「昨日に続けて社長が地権者へ会えば、用地取得が切迫していると伝わります」
「切迫していないふりをして、何が分かる」
「価格へ影響します」
「価格だけを見に行くんじゃない」
小田は返事をする前に、航空写真を閉じた。
「それなら、話す順番は私に任せてください」
「任せる」
「社長から、事業の規模や開業予定日を先に言わないでください」
「なぜだ」
「相手が聞きたいことを聞く前に、会社が話したいことを話す形になるからです」
榊原は数秒、小田を見た。
「分かった」
午前十時半、三人は杉浦文江の家を訪ねた。
榊原と小田。
それから、施工担当ではなく、用地測量を担当する技術者が同行した。
大沢は来なかった。
工事の話を先にすれば、土地を使うことが決まっているように聞こえる。
小田が、そう判断した。
杉浦の家は、計画地から車で十分ほどの集落にあった。
玄関脇には、空になった植木鉢が重ねられている。
軒下には、折り畳んだ雪囲いの材木が立てかけてあった。
座敷へ通されると、杉浦は会社が送った取得希望範囲図を持ってきた。
紙には赤い斜線が引かれている。
「ここだけ欲しいんですよね」
杉浦が言った。
「現時点の計画では、そうです」
小田が答えた。
「ここを売ったら、残った畑はどうなるんですか」
「畑へ入るための新しい入口を作る案を持ってきました」
「入口だけあれば、畑になるんですか」
小田はすぐに図面を出さなかった。
「ならないと考えている理由を、先に聞かせてください」
杉浦は、取得希望範囲図を畳まなかった。
「夫が亡くなってから、私は畑をできなくなりました。機械も処分しました。今は、田島さんのところへお願いしています」
「農業法人の田島アグリですね」
「はい。草だらけにしないで済むし、少しですけど賃料も入ります」
「契約期間は、あと二年と確認しています」
「二年で終わりじゃありません。向こうが借りてくれるなら、その先もお願いするつもりです」
「会社が必要な部分を取得した後も、耕作を続けられる形が必要ということですね」
「それだけじゃありません」
杉浦は、赤い斜線の先を指した。
「ここを切ったら、この細いところが残るでしょう」
畑の北側に残る三角形だった。
「田島さんは、大きい機械で作業します。端まで使えなくなれば、借りる面積より、回る手間の方が増えると言っています」
「三角形の部分も会社が取得する案は考えられます」
「そこだけ増やしたら、今度は畑がもっと小さくなる」
榊原は口を挟まなかった。
会社側から見れば、必要な部分を少し広げれば解決するように見える。
杉浦の側から見れば、切り取る範囲を広げるほど、貸せる畑が減る。
「全部売る考えはありますか」
小田が尋ねた。
杉浦は榊原ではなく、小田を見た。
「それを聞くと思っていました」
「売ってほしいという意味ではありません。選択肢として考えているかを確認しています」
「娘は、売ってもいいと言っています」
「杉浦さんご本人は」
「分かりません」
「迷っている理由は」
「売ったら、私の土地じゃなくなるからです」
座敷の外で、車の通る音がした。
杉浦は窓へ目を向けなかった。
「夫が元気な時は、二人でやっていました。米だけでは食べていけないから、夫は冬に別の仕事もしていました。それでも、春になれば畑へ出た。今は人に貸しているだけです。私が作っているわけじゃない」
杉浦は、そこで一度言葉を切った。
「だから、持っている意味がないと言われれば、そうかもしれません」
「誰に言われたんですか」
「娘にです。娘は悪くありません。県外に住んでいます。私が死んだ後、この土地を相続しても困ると言っています」
榊原は、相続登記が終わっていない千二百平方メートルの土地を思い出した。
土地がどこにあるのか分からない。
何を相続する話なのか説明してほしい。
海外にいる相続人候補から来た最初の返事だった。
「でも、全部売ればいいとも決められない」
杉浦は続けた。
「田島さんは、借りられるうちは使いたいと言っています。近所の畑まで続けて作っているから、ここだけなくなると作業の順番が変わるそうです」
「農業法人との契約を守りたい」
「契約だから、というだけじゃありません。あの人たちが作らなくなれば、この辺の畑はもっと荒れます」
「会社の事業へ反対しているわけではない」
「何ができるか、まだ分かっていません」
杉浦の声は強くなかった。
「雇用が増えると聞きました。道路もよくなると聞きました。でも、私のところには、土地の一部を売ってくださいという紙が来ただけです」
榊原は、二週間後に開く地域説明のことを考えた。
雇用。
交通。
道路。
夜間運営。
何が決まり、何が決まっていないかを分けて出す。
だが、地権者には、その説明より先に取得希望範囲図が届いていた。
「説明会の案内は届いていますか」
小田が尋ねた。
「昨日、自治会から聞きました」
「会社からも、正式な案内を出します」
「土地を売る返事をする前に、行ってもいいんですか」
小田は答えようとして、榊原を見た。
「来てください」
榊原が言った。
「売る人だけの説明会ではありません」
「反対のことを言ってもいいんですか」
「いいです」
「説明会で反対したら、売らない人だと思われませんか」
「売るかどうかと、事業へ意見を言うことは分けます」
杉浦は取得希望範囲図へ目を落とした。
「会社は、分けられるんですか」
榊原はすぐに答えなかった。
会社は、土地を区画に分ける。
取得済み。
契約済み。
交渉中。
使用可能。
使用条件未確定。
だが、同じ人が地権者であり、住民であり、農地の貸主でもある。
会社の表では分けられても、本人の生活では一つにつながっている。
「分けて扱わなければならない」
榊原は言った。
「できているとは、まだ言えません」
小田が、入口の代替案を机へ広げた。
西側の水路へ橋を掛ける案。
南側の隣接地を通る案。
取得範囲を変更し、農機具が旋回できる場所を残す案。
杉浦は図面を見たが、どの案にもすぐ賛成しなかった。
「田島さんにも見てもらえますか」
「もちろんです」
「私だけがいいと言っても、使うのは田島さんですから」
「三者で現地確認をしましょう」
「会社の人も来るんですか」
「私と測量担当が行きます。必要になれば施工担当も入れます。ただ、最初から工事を決める場にはしません」
杉浦は、初めて取得希望範囲図を畳んだ。
「売る返事は、まだしません」
「はい」
「全部売るかどうかも決めません」
「それで構いません」
「会社は急いでいるんでしょう」
「急いでいます」
小田は隠さなかった。
「ただ、急いでいることと、杉浦さんが確認せずに決めることは別です」
帰りの車へ乗る前に、榊原は畑へ寄った。
田島アグリの作業車が、遠くの区画に止まっていた。
冬を前にした畑は、土の色が広く見えていた。
会社が欲しい八百平方メートルには、目印の杭が立っている。
杭の外側にも、同じ土が続いていた。
「全部買えば早いと思っていた」
榊原が言った。
小田は助手席の扉を開けたまま答えた。
「会社の交渉は早くなるかもしれません」
「違うのか」
「杉浦さんが決めることは増えます」
土地代。
賃貸契約。
農業法人との関係。
売却後の税金。
娘へ残すもの。
地域説明で聞きたいこと。
全部を売るという提案は、会社にとっては一つの解決だった。
杉浦にとっては、残りの人生と、死んだ後の土地まで一度に決める話になる。
「南側出口の確定を外す」
榊原が言った。
「地域説明資料からですか」
「確定した動線としては出さない。候補に戻す」
「物流棟の配置にも影響します」
「分かっている」
「利用候補企業への説明は」
「南側を使える前提にした車両計画を止める。東側だけで成立する案と、南側を使える場合の案を分けろ」
「建物面積が変わります」
「待機場所を道路へ出す案には戻さない」
小田は扉を閉めずに、榊原を見た。
「用地の判断だけではありません」
「ああ」
「施工、運営、収支を全部動かします」
「だから、土地の返事を待つ間に作る」
午後二時、会議室へ戻ると、真鍋が銀行団へ送る補足資料の最終確認をしていた。
「南側出口を未確定へ戻す」
榊原が言った。
真鍋の手が止まった。
「杉浦さんが売らないと」
「まだ決めていない」
「なら、交渉継続では」
「交渉継続だ。だが、出口に使える土地ではない」
「地域説明まで二週間です」
「二案を出す」
「物流棟の収支も二案になります」
「出せ」
「銀行団には、用地取得の補足を送る直前です」
「南側出口も入れろ」
真鍋は椅子へ深く座り直した。
「昨日は北側。今日は南側です。重要動線の不確定が、二日で二つ増えたように見えます」
「二日で増えたわけじゃない」
「見えるようになった」
「ああ」
「銀行が同じ受け取り方をするとは限りません」
「だから説明する」
「使用条件を細かく出すほど、事業計画の前提が固まっていないと見られます」
「固まっていない」
真鍋は何も言わなかった。
「土地取得七割という数字は正しい」
榊原は続けた。
「だが、残り三割の中に、北と南の動線がある。そこを確定したように扱えば、配置も交通量も収支も全部が仮定の上へ乗る」
「未実行融資の条件確認が早まるかもしれません」
「遅れて出すよりいい」
「その判断で、銀行団の温度が変わる可能性があります」
「土地の状態を変えたのは、報告書じゃない」
「信用の見え方は変えます」
「分かっている」
真鍋は、補足資料の送信を止めた。
用地取得状況および使用条件。
その表に、新しい一行を加える。
南側接続候補地。
所有権未取得。
地権者協議中。
農地利用者との調整未了。
代替進入口検討中。
物流動線への影響あり。
「地権者の名前は、銀行向け資料には出しません」
「それでいい」
「農業法人との契約内容も、必要な範囲に限ります」
「守秘義務を確認しろ」
「地域説明資料では」
「個別交渉の内容は出さない。南側出口が協議中であることだけを書く」
「住民から、誰の土地か聞かれます」
「答えない」
「地権者本人が説明会に来た場合は」
「本人が自分で話すことと、会社が交渉内容を話すことは別だ」
真鍋は追加した一行を保存した。
その直後、小田から電話が入った。
田島アグリが、三日後の午後なら現地確認に応じるという連絡だった。
ただし、条件が一つあった。
農繁期ではない今のうちに確認はする。
だが、来季の作付計画を変更する可能性があるなら、年内に方向を示してほしい。
「年内か」
榊原が聞いた。
「種苗や資材の手配があります」
小田が答えた。
「会社の開業予定より、ずっと早いな」
「農業法人にとっては、来年の畑です」
会社は、数年後の開業日を見ている。
銀行は、次回の融資実行日を見ている。
建設会社は、作業班と重機を入れる日を見ている。
杉浦は、土地を手放した後を見ている。
田島アグリは、次の春を見ている。
同じ土地の上で、全員が違う日付を見ていた。
「三日後、現地で確認する」
榊原が言った。
「その前に、東側だけで物流を成立させる案を出せ。南側を取れる前提で待たない」
「南側を諦めるんですか」
「決まっていない土地を、決まったことにしないだけだ」
電話を切った後、榊原は壁の図面から、南側出口を示す青い磁石を外した。
捨てずに、図面の脇へ置いた。
その場所には、赤い磁石を置いた。
取得率は七割のままだった。
だが、会社が使える出口は、一つ減った。




