残金1,842円|第40話「自治体の期待」
午前七時四十分、市役所の庁舎はまだ来庁者を受け入れる前だった。
正面玄関の自動扉は閉まっている。通用口から入った榊原は、受付横の長椅子に座り、胸元の来庁者札を見た。
市役所という場所は、工事現場より静かに見える。
だが、ここでは静かなまま、後から動かせない線が引かれる。
八時前に集まったのは、市の企業立地推進室長・片桐、財政課の課長補佐、建設部の道路担当、危機管理室の職員だった。
市長は来なかった。
代わりに、片桐が最初に言った。
「市長から、二つだけ確認しろと言われています。地域に何が残るか。それを、誰が最後まで説明できるのかです」
会議室の机には、物流棟とデータセンターの配置図が並んでいた。
真鍋が持参した図面のほかに、市側の資料がある。
通学路。
消防署からの到達経路。
除雪優先路線。
水路。
近隣の集落。
市道。
県道。
計画地の周辺にある小さな事業所。
建物の輪郭は、まだ白い紙の上にしかない。
その外側には、既に使われている道路と、既に暮らしている人がいる。
「雇用の数字から確認します」
片桐が言った。
「先日いただいた資料では、建設期間中を含めた関連雇用が千百人程度。開業後の常用雇用は、直接と間接を合わせて三百人程度とあります」
「三百人は確定していません」
榊原は言った。
「物流棟の運営方式が未確定です。床を貸すだけなら、各利用企業が人を置く。共用運営まで受けるなら、うちか運営会社が別に採用する。数字を一つにして出せない」
「市としても、その点は承知しています」
片桐は資料をめくらなかった。
「ただ、立地支援の説明をする時に、建設費だけでは意味になりません。地域の人から見れば、八百億円の建物が建つことより、自分の子どもや家族が働ける場所になるのかの方が大きい」
「採用を約束する会社は、まだ一社も契約していない」
「では、何を約束できますか」
榊原は答えなかった。
約束できる数字だけを書く。
それは、金の話では榊原が何度も使ってきた基準だった。
だが、雇用の話では、数字を小さくすれば誠実になるわけではない。
少なすぎれば、市は道路協議や地域説明に力を割く理由を失う。
大きすぎれば、雇用を待った人の生活へ、後から嘘が残る。
「建設期間中の地元発注は、分けて出します」
真鍋が言った。
「造成、警備、給食、清掃、資材運搬、除雪、保守。発注条件を満たす範囲で、地元事業者が入れる仕事はあります。ただし、地元発注率を先に約束して、価格や安全基準を後から曲げることはしません」
財政課の課長補佐が初めて口を開いた。
「市は、地元発注率を条件にはしません」
「では、何を見ますか」
「続くかどうかです」
課長補佐は、固定資産税の試算表を机へ置いた。
「設備が入れば、償却資産への課税が見込めます。建物もあります。ただ、税収は、計画書へ書かれた数字がそのまま入る話ではない。減価償却もある。優遇措置を使うなら減免もある。会社の業績が変われば、法人関係の税収も変わる」
資料には、年度ごとの数字が並んでいた。
一年目。
三年目。
五年目。
十年目。
最初の年が一番大きいわけではない。
施設が動き始める時期、設備の扱い、優遇の有無、事業の利益によって、行政に入る金も変わる。
「市長は、税収を期待しているわけではないんですか」
榊原が聞いた。
「期待はしています」
課長補佐は言った。
「でも、期待を予算にしてはいけない」
その言葉で、榊原は資料を見直した。
銀行は、返済原資を見た。
市は、まだ入っていない税収を、来年度の支出へ勝手に使えない。
どちらも、未来を数字にする仕事だった。
違うのは、失敗した時に誰の生活へ戻るかだけだった。
「市が今、困っていることは何ですか」
榊原が聞いた。
片桐は少し考えた。
「困っている、という言い方なら、人です」
「雇用が足りない」
「逆です。働く人が減っています」
片桐は周辺地図を指した。
「運送会社も、建設会社も、介護事業所も、工場も、人を探している。新しい施設ができて三百人採ると言えば、地域全体には雇用が増える話ではなく、既に働いている人を奪い合う話になる可能性もある」
真鍋の手が止まった。
「市は、うちの雇用を歓迎していないと」
「歓迎しています」
片桐はすぐに否定した。
「ただ、地域には、すでに雇用主がいる。物流拠点が給与を上げて運転手を集めたら、地域の配送会社は便を維持できなくなるかもしれない。データセンターが電気設備の経験者を採れば、工場の保全担当が抜けるかもしれない。大型投資は、雇用を生むだけではありません」
会議室の外で、始業を知らせる庁内放送が流れた。
扉の向こうを、職員が早足で通っていく。
「では、何を望む」
榊原が言った。
「採用を抑えろとは言いません」
片桐は答えた。
「開業前から、地元の高校、専門学校、職業訓練の窓口と話してほしい。必要な資格、勤務時間、夜勤の有無、採用時期を早く出してほしい。人を採るなら、地域に準備する時間をください」
「採用人数も決まっていない」
「人数が決まっていないなら、必要な仕事の種類だけでもいいんです」
榊原は、昨夜の倉庫を思い出した。
入口で止まる車。
搬入口を待つ車。
異常品を赤い区画へ移す作業員。
夜間に誰が契約外の荷物を止めるのかという問い。
物流拠点で必要になるのは、倉庫作業員だけではない。
配車。
受付。
車両誘導。
安全管理。
検品。
設備保守。
夜間の判断。
事故が起きた時に、工程を止める人間。
求人票の人数だけでは、その仕事は見えない。
「人事と運営候補を入れて、職種別に出す」
榊原は言った。
「ただし、採用の約束にはしない。必要な能力と、勤務条件の見通しとして出す」
「それで十分です」
片桐は言った。
道路担当の職員が、東側の図面を机の中央へ動かした。
「次に、出入口です」
赤い線が、県道との接続候補から交差点へ伸びている。
「東側は、市道ではありません」
「県道だな」
「はい。道路管理者は県です。市が『使える』と言える場所ではない」
「協議の窓口にはなる」
「なります。ただし、県が大型車の出入りを認めるかは、交通量と交差点への影響、歩行者の動線、右折待ち、視距を見て判断します」
「市は何を出す」
「地域側の事情です。通学時間帯、冬季の除雪、近隣からの意見。開発の必要性も説明します」
「会社側は」
「車両の計画です」
道路担当は、榊原を見た。
「一日何台では足りません。どの方向から何台来て、どの時間帯に集中し、何分程度敷地内へ滞在するのか。待機場所からあふれた時に、どこへ出るのか。右折で入る車が何台になるのか。夜間に出る車が、どの道を使うのか」
「昨日、利用候補へ確認項目を出した」
「利用候補ですよね」
「まだ契約していない」
「そこです」
道路担当は、図面の上に定規を置いた。
「行政協議では、希望と計画と確定を混ぜられません。利用企業が決まっていないなら、想定交通量として出す。想定であることも書く。後から実際の交通量が大きく違えば、地域からは、説明と違うと言われます」
「道路は、いつ答えが出る」
「協議用資料が揃ってからです」
「資料を出せば、使えるとは限らない」
「限りません」
「使えない場合は」
「配置を見直していただくことになります」
榊原は笑わなかった。
使えるか分からない出口を、図面に書くことはできる。
だが、それを前提にして建物を建てれば、後から動かすのは建物の方になる。
「北側は」
榊原が聞いた。
「生活道路は残す、という前提でしたね」
「大型車には使わない」
「それなら、北側を物流の主動線として扱わないでください」
「土地を取れば、選択肢が増えると言われた」
「増えます」
道路担当は言った。
「ただ、所有権が増えることと、交通処理が増えることは別です。土地を取得しても、生活道路の性格は変わりません。通学路や農地への出入りがある以上、大型車の経路にするなら、別の検討が必要です」
「道路を広げればいい」
「広げた時に、誰が使う道路になるかです」
道路担当の声は静かだった。
「開発のためだけの道路なら、会社が整備し、管理の責任も整理する必要があります。市道へ移すなら、基準があります。排水、幅員、構造、用地、維持管理。完成すれば終わりではありません」
榊原は、北側の細い線を見た。
工事の進入路としても、完成後の物流動線としても、便利な場所に見える。
だが、便利な線ほど、誰かの生活へ先に入っている。
「市道にしてくれとは言わない」
「それなら、開発地の中で完結させる案を考えるべきです」
「建物が小さくなる」
「それは、会社の判断です」
道路担当は、そこで初めて言い切った。
「ただし、待機場所を削って道路へ待たせる計画を、市が地域へ説明することはできません」
真鍋が、収支表を開く前に顔を上げた。
榊原も、すぐには答えなかった。
昨夜、待機場所は賃料を生まないと考えた。
だが今は、別の意味を持っていた。
待機場所は、会社の敷地の外へ問題を出さないための場所でもある。
「道路へ待たせない」
榊原は言った。
「それを、配置図と運営計画の両方へ入れる」
危機管理室の職員が、初めて資料を開いた。
「もう一点、確認があります」
画面に表示されたのは、消防署から計画地までの経路だった。
「データセンターと物流棟が同時に稼働する場合、緊急車両の進入経路をどう確保するか。停電、火災、設備障害、車両事故。どれか一つではなく、重なった場合を見ます」
「消防協議はこれからです」
施工担当者が言った。
「はい。ただ、消防協議の前に、運営の前提を知りたい」
「何を」
「夜間に、誰が施設全体の状況を把握しているかです」
会議室が静かになった。
榊原は、昨夜、西野に言われた言葉を思い出した。
門が開いているという意味ですか。
それとも、入荷受付ができるという意味ですか。
今度は、その問いが行政の側から出てきた。
「警備員は置く予定です」
真鍋が答えた。
「警備員は、契約外の荷物を受けるかどうかを決める人ではありません」
危機管理室の職員は言った。
「火災報知器が鳴った時、誰が荷主ごとの区域を確認し、車両を止め、関係先へ連絡するのか。データセンターの保守車両が入っている時に、物流側で事故が起きたら、誰が構内を閉じるのか。夜間は、日中より判断する人が少ない」
「運営会社が決まれば」
「決まる前に、必要な役割を決めてください」
「人を置けと言うのか」
「必要な時に、必要な判断ができる体制を示してほしい、ということです」
榊原は、危機管理室の職員を見た。
行政は、事業を止めたいのではない。
止まった時に、誰が責任を持つのかを、事業が始まる前に聞いている。
それを面倒だと思えば、計画は浅くなる。
だが、答えを作るには人件費がかかる。
人件費は、収支表の中では固定費になる。
固定費は、建物面積を増やして賃料で吸収したくなる。
建物面積を増やせば、待機場所が減る。
待機場所が減れば、道路へ車が出る。
道路へ車が出れば、地域説明で止まる。
ひとつの夜間受付は、図面の外にある費用ではなかった。
建物の大きさまで戻ってくる。
「この計画は、市にとってどの段階にありますか」
榊原が聞いた。
片桐が答えた。
「期待している段階です」
「承認した段階ではない」
「はい」
「支援を決めた段階でもない」
「はい」
「地域へ説明できる段階でもない」
片桐は少し間を置いた。
「説明は必要です。ただ、完成した計画を説明する段階ではないと思っています」
「では何を説明する」
「この地域で、何を作ろうとしているのか。何が決まっていて、何が決まっていないのか。住民の生活へ影響する部分を、どこまで検討しているのかです」
「反対される」
「反対される可能性はあります」
「まだ道路も決まっていない」
「だから、今です」
片桐の声は強くなった。
「道路が決まって、建物の位置が決まって、雇用の数字だけを大きく出してからでは、住民は相談されたとは思わない。決めた後で知らせたと思います」
榊原は、椅子の背にもたれなかった。
事業では、決める前に全員の意見を聞けば遅くなる。
だが、聞かずに進めて後から止められれば、もっと遅くなる。
銀行団。
道路管理者。
地権者。
建設会社。
利用企業。
地域。
誰も、事業全体の成功だけを責任にしていない。
それぞれが、自分の側へ残る損失を見ている。
だから、同じ図面を見ても、止める場所が違う。
「説明会の前に、一枚作る」
榊原は言った。
「雇用、交通、道路、夜間運営。四つを分ける」
「会社の広報資料ですか」
片桐が尋ねた。
「違う。決まっていることと、決まっていないことを分けた資料だ」
「市と共同で出しますか」
「共同では出さない」
榊原は首を横へ振った。
「市が保証しているように見える。会社も、市が道路を作る前提で話しているように見える。それは違う」
財政課の課長補佐がうなずいた。
「その整理は必要です」
「市は、市としてできる協議と、できない約束を書く。会社は、会社として負う費用と、まだ決めていないことを書く」
「地域の方から、事業そのものへの賛否を問われたら」
「聞く」
榊原は言った。
「聞いても、全部をその場で約束しない。だが、回答できないことを、都合よく『検討します』で終わらせない」
真鍋が手帳へ書き始めた。
地域説明用資料。
市の役割。
会社の役割。
道路管理者との協議。
雇用の内訳。
夜間体制。
待機場所。
除雪時の運用。
緊急車両経路。
項目は増えた。
増えた分だけ、開業日は遠くなる。
会議を終える前に、片桐が一枚の紙を出した。
市が作成した「立地協力に関する確認事項」の案だった。
地域雇用への配慮。
地元事業者への発注機会。
周辺道路への負荷軽減。
地域説明への協力。
一見すると、穏やかな文面だった。
だが、榊原は最後の段落で手を止めた。
「本事業により、地域経済の持続的発展に寄与することを確認する」
「ここは消す」
片桐が顔を上げた。
「市としては、事業の意義を示したいんです」
「寄与するかどうかは、まだ確認できない」
「期待を表す表現です」
「行政文書に、期待を書くな」
榊原は紙を机へ戻した。
「雇用が増えるかもしれない。地元へ発注が出るかもしれない。税収が入るかもしれない。だが、道路が詰まり、既存の会社から人が抜け、夜間の負担だけが残る可能性もある」
片桐の表情が変わった。
「そこまで悲観しているわけではありません」
「悲観ではない。まだ決まっていないだけだ」
榊原は、書類の最終行を指した。
「市が期待するなら、期待として会議で言えばいい。文書には、会社が何を出し、市が何を協議し、何を保証しないかだけを書け」
片桐は、しばらく紙を見ていた。
やがて赤ペンを取り出し、最後の一文へ線を引いた。
「確認事項として、書き直します」
「その方がいい」
「市長には、説明が必要になります」
「必要なら、俺が説明する」
会議室を出ると、庁舎の中はすでに昼の動きになっていた。
窓口には人が並び、廊下には書類を抱えた職員がいる。
誰も、八百億円の事業のためだけに働いているわけではない。
市役所は、明日の期待より、今日の住民票や介護認定や道路補修を先に処理する場所だった。
駐車場へ向かう途中、真鍋が言った。
「市との確認事項を、あそこまで削る必要がありましたか」
「あのまま署名すれば、事業が地域のためになることまで先に認める」
「実際、地域のために作るつもりです」
「つもりと結果は別だ」
榊原は足を止めた。
「地域のために作ると言いながら、夜中の車を道路へ並べるなら、ただの言い訳になる」
真鍋は何も言わなかった。
榊原は、庁舎の外から計画地の方向を見た。
まだ建物はない。
雇用もない。
税収もない。
あるのは、使えるか分からない道路と、決まっていない夜間運営と、土地の上に残る生活の道だけだった。
それでも、市は期待している。
期待を利用すれば、事業は進めやすくなる。
だが、期待を借りたまま返せなければ、最後に残るのは失望だけになる。
車へ乗り込む前に、榊原は真鍋へ言った。
「地域説明の日程は、道路協議の回答待ちにしない」
「回答がないまま開くんですか」
「ないことを説明する」
「不安を増やします」
「不安があるなら、先に出す」
真鍋は手帳を開いた。
「資料の締切は」
「二週間後」
「その間に、利用候補三社の実績を取る。運営方式を二案に分ける。夜間の責任者配置も出す。道路協議用の交通量は」
「想定と実績を分ける」
「市の確認事項は」
「市が約束しないことも入れる」
真鍋は書き終えた後、最後に一行だけ空けた。
そこへ、まだ文字を書かなかった。
地域に残すもの。
その欄は、事業費より先に決めなければならなかった。




