残金1,842円|第35話「信用の絶頂」
融資の相談ではなかった。
「総事業費、八百億円」
藤崎が机へ置いた資料には、地方都市の地図が挟まれていた。
高速道路のインターチェンジから十二分。南側には工業団地があり、北側には使われなくなった工場用地が広がっている。地図の中央を送電線が通り、東には県道、西には農地があった。
計画されているのは、発電設備、データセンター、物流拠点を組み合わせた複合事業だった。
発電した電力をデータセンターへ供給する。
データセンターの非常用設備と通信網を整える。
隣接する物流拠点には、工場や港から届く荷物を集める。
三つの設備を同じ場所へ置くことで、道路、電力、警備、保守の一部を共有する。
藤崎は事業全体の配置図を開いた。
「発電が先に動く。物流はその次。データセンターは利用企業を確保しながら段階的に増設する」
榊原は、八百億円という数字より先に地図を見た。
「この道路は使えるのか」
「県道だ。大型車両も通れる」
「通れることと、工事車両を毎日入れられることは別だ。交差点は」
「ここにある」
「右折で入れるのか。朝の交通量は。冬はどうなる」
藤崎は答えず、別の資料を出した。
「交通量調査はこれからだ」
「土地は」
「候補地の七割について、所有者を確認している」
「取得済みか」
「まだ一筆も買っていない」
「七割というのは」
「面積だ」
「人数は」
「個人、法人、自治体を合わせて四十六の名義がある。相続登記が終わっていない土地もある」
榊原は地図の細い帯を指した。
「これは誰の土地だ」
「農道と水路だ。地元の土地改良区が管理している」
「ここを越えないと、物流棟へ大型車が入れない」
「橋を架ける案がある」
「許可は」
「これからだ」
榊原は次のページをめくった。
「系統接続は」
「高圧の送電線は近い」
「近いかどうかは聞いていない。接続できるのか」
「電力会社へ事前相談を出す予定だ」
「回答まで何か月かかる」
「早ければ半年」
「遅ければ」
「一年以上」
「発電した電気を売れなければ、発電設備は置物になる」
「だから、データセンターで使う」
「構内で使う分と、系統へ流す分を分けろ。データセンターの稼働が遅れた場合も出せ」
藤崎は椅子の背へ身体を預けた。
「相変わらず、夢のない男だな」
「八百億円の話を、近い、広い、期待できるで始めるな」
「やらないのか」
榊原は資料を閉じなかった。
常温倉庫、低温倉庫、工場への配送、電力事業。
榊原の会社が持つ既存事業は、この計画の周囲に並んでいた。
発電設備だけなら、接続時期と売電条件に収益が左右される。
データセンターだけなら、大量の電力と通信回線を確保しなければならない。
物流拠点だけなら、荷主と配送量が必要になる。
三つを組み合わせれば、共通する設備を減らせる。既存の荷主や取引先も利用者になり得る。建設を段階的に進めれば、完成した部分から収入を生むこともできる。
ただし、一つの遅れが残り二つを止める可能性もあった。
「調べる価値はある」
榊原が言った。
「調査費はいくらだ」
「基本調査で七億円。地盤、電力、通信、環境、道路まで入れれば十二億円程度」
「十二億円を使えば、八百億円を出すかどうか決められるのか」
「少なくとも、やれない理由は見える」
「なら、やれない理由から調べろ」
その日の午後、真鍋が呼ばれた。
会議室には、発電、物流、不動産、情報通信の担当者が集まった。誰の前にも同じ事業計画書が置かれている。
表紙には、総事業費八百億円と書かれていた。
「この数字を一度消してください」
真鍋が言った。
藤崎が眉を上げた。
「計画の規模が分からなくなる」
「計画の規模ではなく、まだ仮定の合計です」
真鍋は内訳を読み上げた。
土地取得費。
造成費。
発電設備。
データセンター棟。
冷却設備。
非常用発電機。
通信設備。
物流倉庫。
道路と水路の付替え。
設計費。
調査費。
予備費。
「土地取得費は、売主の希望額を確認していません。系統接続の負担金も未定です。データセンターの冷却方式も決まっていない。八百億円という数字には、決まった金額と、過去の事例から置いた金額が混ざっています」
「では、いくらなら書ける」
榊原が尋ねた。
「現時点では、七百六十億円から九百二十億円です」
「幅が広すぎる」
「分からないものを一つの数字にすれば、幅は消えます。ただし、リスクが消えるわけではありません」
榊原は担当者たちを見た。
「八百億円を目標にするな。調べた結果、七百二十億円かもしれない。九百億円を超えるかもしれない。総額を決めるために、都合の悪い数字を後ろへ送るな」
発電事業の担当者が手を挙げた。
「系統接続の負担金が大きい場合、自営線でデータセンターへ直接供給する案もあります」
「その場合、データセンターが予定どおり動かなければ、誰が電気を買う」
「外部への売電を残します」
「接続できなければ売れないだろ」
「蓄電池を増やす方法もあります」
「方法を増やすたびに、建設費と保守費が増える。最初から全部できる前提にするな」
情報通信の担当者が口を開いた。
「利用を検討している企業が三社あります」
「契約したのか」
「意向を確認しています」
「何を伝えた」
「電力費を抑えられる可能性と、段階的に増設できる点です」
「稼働日は」
「三年後を想定しています」
「約束したか」
「想定として伝えました」
「相手の社内資料では、予定日になる。今日から、意向、協議中、基本合意、契約済みを分けて書け」
物流担当者は、既存荷主の取扱量を出していた。
「今ある荷物の二割を移せます」
「移すと決めたのか」
「新拠点が完成すれば、効率は上がります」
「今の拠点に残る荷物はどうなる」
「固定費の負担が上がります」
「新しい拠点の収益だけを見るな。既存拠点から荷物を移したことで減る利益も出せ」
計画書には、期待される収入が並んでいた。
榊原は、それを一つずつ契約の状態へ戻させた。
既存荷主への聞き取り。
利用意向。
料金の試算。
正式な申込み。
最低利用量の保証。
違約金を伴う契約。
同じ企業名が書かれていても、売上として扱える段階は違う。
「自己資金は、どこまでを想定しますか」
真鍋が尋ねた。
「三百億円」
「どの会社から出しますか」
「持株会社を中心にする。足りなければ資産を売る。共同出資も入れる」
「それは、三百億円の現金があるという意味ではありません」
「分かってる」
「銀行へ出す資料では分けます」
真鍋はホワイトボードに書いた。
持株会社の現預金。
事業会社から受け取れる配当。
売却候補資産。
共同出資者の出資金。
劣後性のある借入。
銀行団からの融資。
「子会社の口座残高を、そのまま自己資金に入れません。給与、仕入れ、返済、設備更新に必要な金を残します」
「低温物流会社からの配当は」
「営業と設備更新の状況を見て決めます。買収したばかりの会社から、計画のために無理な配当は出しません」
「不動産を売ればいい」
「売却価格から、担保借入の返済、税金、手数料を引きます。買い手が決まるまでの時間も必要です」
「担保に入れれば、早い」
「借入は自己資金ではありません」
「銀行から見れば、同じ金だ」
「返済順位が違います。損失が出た時、誰が先に負担するかも違います」
榊原はホワイトボードを見た。
「では、三百億円という数字も消すか」
「消しません。内訳を付けます」
「いつまでに出せる」
「二週間ください」
「十日だ」
「売却候補資産の担保状況まで確認するなら、十二日です」
「十二日で出せ」
翌週、榊原と真鍋は倉田を訪ねた。
倉田の前には、事業計画書と、十二日かけて作った自己資金の内訳が置かれていた。
持株会社の現預金から出せる金額。
事業会社から三年間で受け取れる配当見込み。
売却可能な不動産と株式。
共同出資を依頼する候補。
既に担保へ入っている資産。
売却に金融機関の同意が必要な資産。
すぐ使える金と、時間をかければ現金へ変えられる資産は、別の列に分けられていた。
倉田は最後まで読み終えてから口を開いた。
「事業としては興味があります」
「銀行団で五百億円を組めるか」
「検討はできます」
「できるか、できないかだ」
「現時点では決められません」
倉田は、土地の一覧を指した。
「取得できている土地がありません。系統接続も未回答です。データセンターの利用企業とは、意向確認の段階です。物流拠点にも入居契約はない」
「だから、調査を始める」
「調査開始の判断と、五百億円の融資判断は別です」
「何がそろえば、本部へ上げる」
「土地の取得見込み。系統接続の回答。主要な許認可。利用企業との契約。建設費の精査。自己資金の確定。それから、工事が遅れた場合の追加資金です」
「予備費は入れてある」
「予備費を使い切った後の話です」
「完成すれば収益は出る」
「完成するまで、返済原資は出ません」
「最初の元本返済を遅らせればいい」
「返済開始を遅らせても、利息は発生します。建設期間が延びれば、その利息も事業費に加わります」
「いくらまでなら組める」
「金額を先に約束すれば、その金額へ計画を合わせることになります」
榊原は、倉田を見た。
融資を断られているわけではない。
銀行は、五百億円という話を正式に検討するため、足りない条件を並べていた。
「予備検討として、本部へ上げろ」
「上げます。ただし、融資内諾とは扱わないでください」
「分かってる」
「自治体や設備会社にも、銀行団が決まったとは言わないでください」
「俺がそんな言い方をしたことがあるか」
「榊原さんが言わなくても、銀行が検討しているという一文が、外では融資予定に変わります」
倉田は真鍋の方を見た。
「資料の表現をそろえてください」
「予備検討、条件未確定、融資承認なし。すべての資料に入れます」
「お願いします」
会議を終えた後、廊下で榊原が言った。
「慎重になったな」
「誰がですか」
「倉田だ」
「五百億円です」
「昔なら、もっと早く金額を出した」
「昔は、一棟の倉庫でした」
「返しただろ」
「だから、今回も検討されます」
その言葉に、榊原は反論しなかった。
借りた金を返した実績。
買収した会社の利益。
保有不動産の評価。
事業会社の現金。
金融機関との取引履歴。
それらが積み重なり、榊原の名前は事業計画書に書かれない担保になっていた。
予備調査には、十二億円の上限を置いた。
調査費を一度に支払わない。
土地、電力、通信、環境、道路、需要調査ごとに発注を分ける。
土地を一括で買わない。
境界、通路、水路、農地転用の可能性を確認する前に、売買契約を結ばない。
発電設備は、系統接続の回答が出るまで主要機器を発注しない。
データセンターは、通信経路と電力供給を確認する前に稼働日を約束しない。
物流拠点は、既存荷主の意向を売上として扱わない。
真鍋は、調査を止める条件も作った。
系統接続が想定時期を二年以上超える場合。
土地取得費が基準額を上回る場合。
総事業費が九百二十億円を超える場合。
主要利用企業との契約が一定額へ届かない場合。
自己資金を出すために、既存事業の運転資金を減らす必要が生じた場合。
自治体の許認可が予定期間内に得られない場合。
「止める条件を、最初から書くのか」
藤崎が尋ねた。
「書く」
榊原は答えた。
「条件に触れたら、誰が止める」
「事業責任者か真鍋だ」
「お前の許可なしで?」
「調査は止められる。金を追加するか、計画を変えて再開するかは、取締役会で決める」
「担当者が怖がって、すぐ止めるかもしれない」
「止めた理由を見ればいい。理由が弱ければ再開する」
「時間を失うぞ」
「止められない事業は、始める前から失敗してる」
調査開始の取締役会では、十二億円全額を承認しなかった。
最初の三億円だけを承認した。
土地の権利関係。
交通量。
地盤。
系統接続の事前相談。
通信回線の敷設可能性。
最初の結果を見て、次の調査へ進む。
設計会社からは、基本配置図を無償で作るという提案があった。後に設計契約と建設管理契約を受注することが条件だった。
「無料なら使えばいい」
藤崎が言った。
真鍋は首を振った。
「無料で作った図面を前提にすると、設計会社を替えにくくなります」
「嫌なら替えればいい」
「図面の利用権と、調査結果の扱いを確認する必要があります」
法務担当者が契約案を読んだ。
設計会社が作成した配置案を他社へ渡す場合、事前承諾を求める条項が入っていた。調査結果の一部も、設計会社が受注できなければ利用を制限される。
「無料ではないな」
榊原が言った。
「金の代わりに、選ぶ権利を渡す契約です」
真鍋が答えた。
「通常の調査費を払え。成果物は、こちらが使える条件に直せ」
「費用は上がります」
「まだ会社を選べる方が安い」
榊原は、目の前の費用だけで判断していなかった。
調査に金を払う。
使える資料を会社側へ残す。
契約前の数字を、契約済みの収入として扱わない。
借りられる額より、返せる収入を先に置く。
その判断は、これまで榊原を成功させてきたものと同じだった。
調査開始が公表されると、話は早く広がった。
建設会社が概算工程を持ってきた。
設備会社が発電機器の納期を示した。
通信会社は二系統の回線案を作った。
不動産会社は周辺地価の資料を持ってきた。
自治体は、雇用と税収への期待を伝えた。
「雇用は、何人を予定していますか」
自治体の担当者が尋ねた。
事業計画書には、三百人という数字が置かれていた。
「直接雇用ですか」
榊原が担当者へ聞いた。
「建設期間を含めています」
「完成後は」
「物流、設備保守、警備、データセンター運用を合わせて百二十人程度です」
「地元採用は」
「人材が確保できれば、七十人ほどを想定しています」
「三百人を出すな」
自治体の担当者が顔を上げた。
「地域への説明では、分かりやすい数字が必要です」
「工事が終わればいなくなる人まで、恒常的な雇用に見せるな」
「建設中も地域経済への効果はあります」
「それは別に書けばいい。完成後の直接雇用、委託先の雇用、建設期間の人員を分ける」
自治体との協議が始まると、周辺道路の整備や排水計画も議題になった。
自治体が負担する部分。
事業会社が負担する部分。
完成後に自治体へ引き渡す道路。
事業会社が管理し続ける道路。
誰が除雪するか。
補修費を誰が払うか。
道路を作るという一つの言葉に、複数の支払者と管理者がいた。
まだ土地は一坪も買っていない。
融資契約もない。
利用企業との本契約もない。
それでも、榊原が動くというだけで、人と資料と予定が集まり始めた。
銀行団への参加を検討したいという連絡も入った。
金利を提示する銀行。
融資額を先に出す銀行。
土地の担保を求める銀行。
発電設備だけを融資対象にしたい銀行。
物流会社との取引拡大を条件にする銀行。
それぞれが、八百億円の事業の一部へ入りたがった。
「条件を一つの表にしろ」
榊原が真鍋へ言った。
「金利だけで並べるな。融資期間、返済開始、担保、保証、途中解約、追加融資の条件まで入れろ」
「まだ借りる銀行を決めません」
「決める時に、慌てて読むな」
榊原には、銀行が金を貸したがる理由も見えていた。
融資だけではない。
預金。
振込。
外国為替。
設備代金の決済。
従業員の給与口座。
周辺企業との取引。
大きな事業には、大きな金額以外の取引も付いてくる。
銀行は榊原だけを見ているのではない。
事業から生まれる長い取引を見ていた。
調査開始から一か月後、新聞に記事が出た。
見出しには、総事業費八百億円と書かれていた。
「まだ幅がある」
榊原が言った。
「記事には出ません」
真鍋は新聞を机へ置いた。
紙面には、榊原の推定純資産四千億円という数字も載っていた。
自己資金三百億円。
銀行団融資五百億円。
二つを足せば、計画は完成して見えた。
だが、三百億円は一つの口座に置かれていない。
五百億円は審査も終わっていない。
八百億円は見積額であり、契約額ではない。
「訂正させろ」
「八百億円規模という表現です。完全な誤りとは言えません」
「三百億円も、現金を持っているように読める」
「説明資料には内訳があります。ただ、記事では一行になります」
「銀行はどう見る」
「記事ではなく資料を見ます」
「取引先は」
「記事を見る人もいます」
「なら、問い合わせが来たら説明しろ」
真鍋は新聞を折った。
「数字だけが、先に完成しています」
「後から中身を合わせる」
「合わせられない時は」
「止める条件を作っただろ」
榊原はそう答えた。
その時点では、間違っていなかった。
十二億円の調査費は、グループの資金力から見れば負担できた。最初に出したのは三億円だけだった。土地も設備も、大きな契約はまだ結んでいない。
調査結果が悪ければ止める。
系統接続が遅すぎれば縮小する。
利用企業が集まらなければ、データセンターの棟数を減らす。
土地が取得できなければ、配置を変える。
引き返す場所は、複数残っていた。
榊原も、真鍋も、それを確認していた。
ただ、計画が公表された翌月、自治体は周辺道路の調査予算を付けた。
建設会社は専任の担当者を置いた。
設備会社は、主要機器の製造枠を仮に押さえた。
銀行は、予備審査の班を作った。
利用を検討する企業は、三年後の移転候補として社内資料へ記載した。
土地所有者の一人は、売却後の移転先を探し始めた。
まだ誰にも、最終契約を結ぶ義務はなかった。
それでも、契約していない事業が、ほかの組織と人の予定へ入り始めていた。
榊原の信用は、まだ何も失っていなかった。
だから、八百億円の事業は、契約より先に動き始めた。




